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狭間に生きる僕ら

#70

宿題との戦いの末、2人の高校生男子「死す」

チク…タク…チク…タク…

時計の針が、静かに時を刻んでいく。フロストが、ふと思い出したように、医務室の壁に掛けられた大きな時計に視線をやった。
「しまった。あと5分で会議だ」
フロストは慌てつつも丁寧に身嗜みを整えると、彗星に深々とお辞儀をした。
『おお…』
フロストの身体が、緑の淡い光に包まれていく。両足、両ふくらはぎ、腰…。
異世界への移動スポットだ。
中村は、一歩遠ざかって、フロストを包みながらゆらゆらと踊るように揺れるその緑色の光を、好奇心と微量の恐怖を含んだような表情を顔に浮かべて眺めている。
「レオ。お前もだろ。新種細胞の研究成果を発表するんだろ?」
フロストは緑の光に包まれたまま、レオの手を引っ張って立たせた。
「あ…ああ、そうだった。行かないと」

ブワン…

フロストを包んでいた緑色の光は、レオの大きな身体も包んだ。レオは最後に忘れ物が無いかを確認するように、医務室の中をグルリと見渡した。
「師匠。楓くんは僕が見てます」
リオネルが、緑の光に包まれるレオに向かって、大きめの声で言った。

俺も前にエメラルドたちと一緒に異世界への移動スポットを通じて獣神国に行ったが、スポットの中は外からの音が聞こえにくいのだ。プールに潜っている時に、プールサイドでお喋りを楽しんでいる人たちの会話が、ボワボワと曇って聞こえるのと同じような感覚。

「楓くんを頼んだ」
光の中のレオは、何処か誇らしげな笑みを口元に浮かべて、リオネルの顔を見ながら小さく頷いた。
「では、皆さん。失礼致します」
緑色の光が、一瞬だけ明るく光った。緑の光が見えなくなった時には、2人の姿は既に見えなくなっていた。
中村は、跡形もなく消えた2人の名残を探すように、2人が立っていた場所を静かに見つめている。中村の口元が、ヒクヒクと痙攣するように小さく震えている。人間ではない存在がいた。その事を、中村はやっと実感しているようだった。彗星と一裕は、フロストから渡された指輪を、それぞれの手に強く握っている。
「中村さん。急で申し訳ありませんが、医務室横の部屋をお借りしても宜しいでしょうか…」
リオネルは当然のことながら、2人が目の前から姿を消しても動揺を見せることなく、今後の楓の様子を見守るために自分が泊まれる部屋を貸してほしい旨を、中村に相談し始めた。
「あの…私達も楓の近くにいたい…ケド…」
彗星がリオネルの背中に向かって声を掛けたが、高校生という年齢で一裕と同じ部屋で寝泊まりするわけにはいかないと自ら気付いたのか、最後の方の言葉は、すぐ隣に立っている俺でさえ聞き取りにくいほど小さくて曖昧だった。
「大丈夫です」
リオネルが、毛先が緑色の黒いたてがみを揺らして振り向いた。中村は、リオネルのたてがみが自分の顔に当たりそうになるのを、ギリギリのところで仰け反って避けた。リオネル張本人は、避けた拍子にバランスを崩して中村が後ろに尻もちを付いたことには全く気付かなかった。
「楓くんは、私が責任を持って見守りますから」

楓は、相変わらずベットの中で縮こまるようにして背中を丸めて眠っている。レオが、フロストが帰ったことも知らずに。

俺の服がモゾモゾと動いた。
『お腹空いた』
晴馬が起きたのだ。晴馬はモゾモゾと身体を動かして、俺の服の中から袖を通って出てきて、俺の肩の上にチョコンと乗った。
『あれ?消しゴムさん、何処いった?』
「帰ったよ。お仕事だって」
俺は晴馬の火の玉を見ているうちに、どうしようもなく晴馬を触りまくりたいという衝動に駆られた。ヒヨコやハムスターのような温もりと柔らかさ…。俺は試しに晴馬の背中と思われる場所をつついてみた。マシュマロのような柔らかさと弾力性…。
「晴馬。可愛いよ、お前」
俺は肩の上に乗っている晴馬を両手で包み、晴馬の身体を親指で優しく揉んだ。プニプニとした可愛い触感が指先から伝わって、全身を駆け巡るような感覚。
『えへへ。くすぐったい』

何故だ。
何故だ。
どうして、晴馬の全てがこんなにも愛おしく感じるのだ。
晴馬がいれば、どんな疲れも吹き飛んでしまいそうな感覚。
生まれて初めての感覚。
『ねえねえ、ウルフ。僕…お願いがある』
晴馬が俺の両手の中から、器用に抜け出すと服をよじ登って再び肩の上に腰を降ろした。
『将来さ、僕のパパになってほしい』

晴馬の温もりが、肩に優しく伝わる。
晴馬は恥ずかしそうに身体をモジモジと動かし、鎖骨の窪みのところにバランスを崩してポテッと落ちた。

俺が…晴馬の…パパ…?
俺が…パパ…?

「良いよ。良いのか?」
晴馬が俺の言葉に返事をするように、肩の上で明るく輝き始めた。
『ウルフなら…僕のこと、今後こそは息子として扱ってくれる?』
晴馬の声が、小さく震える。思い出したくない過去を、忘れようとするほど思い出してしまう苦しみに耐えているよう。

こういう時こそ、黒憶虫が活躍すれば良いのに。
晴馬から、あの忌まわしい記憶が消えてしまえば良いのに。

俺は晴馬の火の玉を、両手で優しく包んだ。俺の両手の内側が、晴馬の淡い光に明るく照らされる。俺の両手の中で、晴馬の火の玉の光が、ゆらゆらと揺れる。

晴馬は、生きている。

晴馬は、俺と一緒に生きていくんだ。

やがて俺が死んだあと、晴馬が他の誰かとの間に子供を成し、命を繋いでいくんだ。

「俺はまだ高校生だから、あと5年は待っていてくれるか?」
晴馬が俺の両手の中で、柔らかい光を放って輝く。

もし…。
晴馬が本当に将来、俺の息子として…いや、娘になるかもしれないが、生まれてきたときは…なんて名前を付けようかな。

まあ…。まずは彼女探しだな。

『ウルフ…』
晴馬が両手の隙間から、小さな顔を覗かせた。
『手伝ってほしい宿題がある…』
「提出期限はいつだ」
『…1時間後』
「早よ言わんかい!」
俺は晴馬を両手に包んだまま、リオネルに軽く会釈すると部屋に向かって勢い良く走り出した。
『わぁー』
俺が走っている間、俺の身体が揺れる度に晴馬はアトラクションでも乗っているつもりなのか、呑気に喜んでいる。
「晴馬、宿題は早めに済ませるもんだぞ!」

なんか、子供の宿題を手伝わさせられる自分の将来の姿が見えてくる…気がする。

俺が通路を走る音。
通路に敷かれた絨毯が、俺の身体を押し上げる感覚。
絨毯なのか何なのかよく分からないが、色んな匂いが混ざったような不思議な香りが、鼻の穴から入って全身を巡る感覚。
涼しい風が、俺の横を吹き抜けていく感覚。

部屋の扉が見えてきた。

ガチャ!

俺は部屋の前まで来て、部屋の扉を開けようとしたが扉の鍵が閉まっていた。
「そっか…あいつだ…。」
部屋の鍵はバットが持ってる。
『バット。部屋の鍵を持って至急部屋に来い』
俺はバットにそう交信し、晴馬を両手に包んだまま通路の壁にもたれた。俺は久しぶりに、100m近くを曲りくねりしながら走った。誰もいない静かな通路を俺の息切れだけが妙に煩く響いている。
「お待たせ」
バットの声が、通路の向こうから聞こえてきた。バットの声がした方を向くと、1羽のワシが部屋の鍵を咥えて俺たちの方へ飛んでいた。
「バット、お前、ワシになれるようになったか」
『え?!バットってあのバット?!』
俺のズボンについている毛玉を使って何やら遊んでいた晴馬は、俺がワシを見てバットだと言ったことに気が付くと、毛玉を何処かに放って俺のズボンをいそいそと登ってきた。
「そうそう」
バットは宙でワシから人間姿になると、足音も立てずに着地し、スタスタと扉の前まで歩くと何事もなかったように鍵を開けて中に入っていった。

鍵が閉まっていることに気が付いた時に薄々分かってはいたが、部屋の中には誰もいなかった。圭吾も桜大も、何処かに遊びに行ったのだろう。
『凄いね!凄いね!す…』
晴馬はバットの変身術に大興奮しているが、今はそれどころではない。俺はバットの周りを蝶のように回りながら飛んでいる晴馬を掴み、もう片方の手で部屋の電気を付け、晴馬を机に乗せた。
「晴馬。宿題はどれだ」
晴馬は暫くの間、机の上で硬直していたが、トボトボとした様子で部屋の隅に置かれた学校用の手提げカバンに向かっていった。
『…これ』
晴馬は不安げな小さな声で呟きながら、鞄の中から1枚のプリントを取り出した。
いや、1枚じゃない。
晴馬はその後も、何枚も何枚もプリントを取り出していく。


『漢字〜空欄補充〜100問』
『読解問題〜物語文〜』
『読解問題〜現代文〜』
『算数〜計算の工夫〜』
………

「晴馬…この宿題、いつ出された?」
机の上がまっさらなプリントで埋め尽くされていく。
『…2週間前』
「はあ?!時間の余裕はあっただろ」
『お願い〜!この宿題を提出しないと、1週間もハンバーグ食べられなくなるの〜!』
時計の針が、晴馬の焦りも知らずに淡々と時を進めていく。
「あと…50分」
俺は机に置かれたプリントにざっと目を通した。
国語と算数、理科、社会…。
他のメンバーはまだ部屋に戻ってきていない。バットは俺の真横に立って、机の上に広げられた白紙のプリントをボンヤリと見つめている。
俺が顔を上げると、バットと目があった。
「…え?」
バットは何か嫌な予感がするとでも言うように露骨にギクリとした表情を浮かべ、顔を反らし何処かに出掛けようとした。
「お前も手伝え」
俺は、尿意もないくせにトイレに籠ろうとするバットの手を引っ張って無理やり座らせ、バットの前には国語のプリント類をドサッと置いた。
「お前の得意科目にしてやったよ。感謝したまえ」
俺はそう言って晴馬の方を向いた。晴馬の姿がない。俺は部屋をグルリと見渡した。
『ああぁぁ〜…』
晴馬は扇風機の前で、声が変わるのを楽しんでいた。
「おーまーえーのー、宿題でしょうが!」
俺は晴馬を指で摘んで、プリントの前に置いた。
晴馬は、プリントの文字を見るだけで嫌なのか、何処かに逃げていこうとする。俺は晴馬が逃げられないように、両手で晴馬を囲んだ。
『だって僕、勉強嫌なんだも〜ん…』
晴馬は渋々鉛筆を手に取り、算数の計算問題を解いていったが…

遅い!

あまりにも。

カタツムリのほうが先に宿題を済ませられそうだ。

「47。2/5。…」
痺れを切らした俺は、1問ずつ答えを言っていくことにした。
「晴馬。先に言っておく。宿題は出されたらすぐに取り掛かれ。溜めるな。良いな」
俺は、父親に散々言われた言葉と全く同じ文言を晴馬の小さな後ろ姿に向かって言った。
「おい、あかんやんけ」
俺の隣でバットは、簡単な読解問題に取り組んでいたが、プリントには何も書かずに晴馬に渡した。
「筆跡でバレるで。晴馬、自分で書き」
『もう嫌だ〜!』
晴馬の、ビブラートの効いた死にそうな声が部屋に響き渡った。

ブウゥン…

扇風機は素知らぬ顔で、無表情に部屋の中を右、左と見渡していた。


「ただいま…え?」
部屋の扉が開き、通路の光が部屋の中に差し込む。蓮たちが帰ってきたのだ。
「おか…えり…」
蓮たちは不思議そうな顔で、畳に死んだように倒れている俺とバットを見下ろしている。
「何してんの?」
バットは俯せになっている。バットの顔が畳に押し付けられている。バットの両腕は、力なく畳に横たえられている。傍から見れば死んでいるようにしか見えない。蓮が、まるで生存確認をするように、倒れているバットの後頭部に向かってバットの名前を叫び始めた。
『ウルフとバットが僕の宿題を手伝ってくれたの』
晴馬はウキウキとした様子で、枠外から乱雑で下手な文字がはみ出している宿題プリントを鞄の中にしまい、バットの尻の上をトランポリンのようにして跳ねて遊び始めた。
「晴馬の…文字を…書くスピードが…遅すぎて…」
俺たちは1時間弱の間、ひたすら晴馬の宿題に付き合わされていた。問題のレベルが高かったわけではない。
だが…。
子供に勉強を教えるって難しい。
何度も何度も俺達に投げ掛けられる「なんでなんで」攻撃。
そして残り少ない時間との戦い。
亀よりもナマケモノよりもハシビロコウよりも遅い、晴馬の文字を書くスピードへのストレスとの戦い。

「つか…れた…」
バットは「遺言」を残して、そのまま眠りに落ちてしまった。
「晴馬。バットのおならを浴びても知らねえぞ」
死んだように眠るバットの尻の上でくつろぐ晴馬に俺がそう言うと、晴馬は慌ててバットの尻を降りてコロコロと例のおむすびみたいに畳の上に転がった。

ピンポンパンポーン

昼食のアナウンスがなった。楓のこともあってか、アナウンスは通常よりも5分遅れで放送された。
「俺…昼飯…パ…ス…」

段々と視界がぼやけていく。
蓮たちが俺の顔を覗き込んでいるのが、輪郭で何となく分かる。
瞼が重い。
曖昧な世界に、輪郭を失いかけたバットの「亡骸」が薄っすらと見える。

『ウルフ、眠い?』
晴馬は俺の腹の上によじ登ってきて無邪気に服に皺を付けて遊び始めた。
「誰の…せい…だと…」
俺はそう「遺言」を残して、眠りについた。

永遠ではない眠りに。
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2025/08/06 20:19

花火
ID:≫ 6.vyqE1zzWDXY
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