『ウルフ…』
俺の両手の中が、晴馬の火の玉の色にボンヤリと光る。子供の頃に近所で捕まえた蛍を思い出す。
『僕…聞いてた…。楓が…僕たちの幸せな記憶と…辛い記憶を食べてくれてたんでしょ?』
晴馬はどうやら、俺達が医務室にやって来たときから、通路で俺達の会話を聞いていたらしい。
リオネルが容器の中の幼虫を俺達に見せながら、黒憶虫に寄生された人と頻繁に接触する者も、極微量の黒憶虫の胞子を吸うと俺達に説明していた。実際に寄生されたわけではないし、晴馬たちは火の玉で身体を持っていないから、楓と同じように心臓に巣を作られるといった危険性はないらしいが、それでも胞子に触れてしまうと記憶を食われるのだそうだ。胞子が記憶を食うと、食べたその記憶は、虫本体に移送されて虫の餌となる。餌が増えるほど、虫は元気になり真っ黒な胞子を放つ。その胞子が再び誰かに吸われる。そこで新たな記憶が虫に移送されて餌となる。その繰り返し。
この合宿所は、事故なり病気なり、虐待死なりで亡くなった子供たちの集い場。黒憶虫にとっては、ご馳走が溢れた天国だったのだろう。楓の体内に、袋とバケツが満杯になってしまうほど沢山の黒憶虫が増殖していたのも納得だ。
晴馬の火の玉の輝きが、僅かに弱くなった。
『僕も知りたい。楓が食べてくれた、僕の記憶を』
晴馬の火の玉が輝きを取り戻した。晴馬の温もりが俺の手に直接伝わってくる。
「でも…辛い記憶を思い出すことになるぞ」
俺は晴馬にそう語りかけながら、晴馬が悪夢にうなされた晩のことを思い出した。
晴馬の…あの記憶。
それでも、晴馬の中から生前のその記憶は抜けていない。
つまり、晴馬が食べられた辛い記憶は、俺達には想像もできない辛い記憶のはずだ。
「思い出さない方が良い記憶もあると思うぞ?」
高校生になった俺でさえ、そんな記憶には耐えられない。いっそのこと、黒憶虫に寄生されてその辛い記憶を食べてもらった方が幸せだと感じてしまう。こんなにちっぽけな晴馬が、その記憶に耐えられるわけない。
『教えてよ。知りたいよ』
それでも晴馬は、小さな身体で一歩も引き下がらず、食われた記憶の内容を知ろうとする。
俺の肩に誰かが手を触れた。サファイヤだ。サファイヤは俺の後ろに立って、晴馬とのやり取りをずっと聞いていたのだ。
「晴馬…。知りたい?」
「おい!」
サファイヤは、楓に寄生していた幼虫から、晴馬の食われた記憶も読み取れたらしい。
「やめろよ!晴馬を泣かせる気かよ」
俺は晴馬をサファイヤから遠ざけたが、晴馬が俺の両手の中から抜け出し、サファイヤの手の上に乗った。
『知りたい。理由は分からないけど…僕は知りたい。泣いても良いもん。その時はウルフが僕のことをよしよししてくれるもん』
サファイヤの手の上に、一人の命が眩しく光っている。サファイヤの水色の瞳から放たれた水色の眼光が、俺の身体を照らす。俺の身体が動かない。全身に見えない鎖が巻き付いているよう。まるで俺が蝋人形になってしまったよう。
『ウルフ。僕は大丈夫だから。暫く、金縛りかけるけど、我慢してて』
俺を動かなくさせたのは、他でもない晴馬だった。サファイヤが晴馬を手に乗せて、自分の顔の高さに持ち上げた。サファイヤの瞳に、晴馬の姿が映っている。
やめろ
言うな
俺はそう叫びたいのに、晴馬がそれを拒んでいる。
『サファイヤ、教えて。僕の記憶』
晴馬の声が、俺の耳の中を木霊する。サファイヤは、静かに首を縦に振り、そっと口を開いた。
[斜体]晴馬と悠馬のお母さんはね、君らを出産した時に亡くなってしまったんだよ。
君のお父さんは、君のお母さんを心から愛していたから塞ぎ込んでしまった。
だけど、君たちは、亡くなったお母さんに瓜二つに育っていった。
特に晴馬は、お母さんと瓜二つだったみたいだね。
君のお父さんは次第に、君たちのことを息子ではなく愛する女性だと思い込むようになってしまった。
それが、君たちを苦しめた。
悠馬は…晴馬と一緒に逃げようとしたんだよ。
晴馬が寝ている間に、悠馬は台所に忍び込んで包丁を手にし、寝室に戻る晴馬の胸に突き刺した。
痛かったね。
苦しかったね。
でも、それが嬉しかったんだよね。
父親からされたことに比べれば、死は寧ろ救済だったんだよね。
でも、悲しかったんだよね。
生前の晴馬が最後に見た景色は、涙を流しながら自分を突き刺す悠馬の姿だったから。
君たちにとって、黒憶虫は、心の命の恩人だったんだ。
[/斜体]
晴馬は、ただ黙ってサファイヤの話を聞いていた。晴馬の火の玉が放つ淡い光は、サファイヤの手をゆらゆらと揺れながら照らしていた。
『今の話…悠馬にはしないであげて。悠馬はそのことを覚えてない。楓に記憶を食べてもらったから』
晴馬の声が寂しく通路に響いた。晴馬はサファイヤの手から降りると、トボトボと部屋に寝に戻った。
『…おやすみなさい』
晴馬が通路の角を曲がった後も、通路は晴馬の火の玉の色に淡く染まっていた。段々と通路から晴馬の色が失われ、夜の闇に包まれる。通路が完全に闇に包まれた時、やっと俺の身体は動くようになった。
「…ごめんてば」
俺は気付いたときにはサファイヤの胸倉を掴んでいた。サファイヤの襟首は、俺に強く握りしめられて皺くちゃになっている。
カサカサ…
容器の中で黒憶虫の幼虫が動き回る音がする。
「…大丈夫でしょう」
リオネルは医務室の扉から顔を出し、晴馬を黙って見送っていた。
「晴馬くんにも黒憶虫の胞子が残っているでしょうから、晴馬くんが明日の朝起きた頃には、今の話を忘れているでしょう。今の話も、黒憶虫にとってはご馳走ですから…」
サファイヤの襟首を掴んでいた俺の手を、エメラルドが優しく離した。
「もう夜中だし…寝よう。他にも話さないといけないことは山ほどあるけど、明日にしようよ。な?」
エメラルドが立っている向こう側から、楓の寝息が聞こえた。
真っ暗な通路を、足音を立てないようにして歩き、俺は部屋に辿り着いた。
キイーッ…
部屋の扉が軋む音が、寝静まった部屋に流れ込む。
「晴馬…」
晴馬は、部屋に一番近いところに布団を敷いて寝ていた。布団の中から、一か所だけ小さな丸い形が浮かび上がり、そこから淡い光が放たれている。俺はその膨らみにそっと手を乗せた。晴馬の静かな息遣いが、柔らかい布団越しに伝わってくる。
「…ごめんな」
通路の天井に取り付けられた蛍光灯が、俺の後ろ姿を照らし、俺の影が晴馬を包む。
「ウルフ…」
サファイヤが俺の後ろに屈んで、俺と同じように布団の膨らみに手を触れた。
「怒ってるか?」
サファイヤの静かで低い声が、静けさに包まれた空間に流れ込んだ。
俺は…今、何を考えているのだろう。
言語化できない何かが俺の胸の中を駆け巡る。
でも、俺にはそれが何なのかが全く分からない。
怒り?
悲しみ?
いや、違う。
俺の知らない感情が、俺の胸をかき乱す。
「怒ってない。でも、…ありがとう」
俺の言葉に、サファイヤが大きく目を見開いて俺の方を見た。俺自身も、何故俺が感謝の言葉を口にしたのかは分からなかった。
「そう…。良かった」
サファイヤは暫く俺の横顔を見つめると、再び晴馬に視線を落とした。サファイヤの水色の瞳が、真っ暗な部屋の中、北極星のように静かに光って見えた。
『起きて起きて起きて』
お腹の上を火の玉たちが飛び跳ねる感触。
「…晴馬…?」
『なあに?』
俺が目をゆっくりと開けると、俺の目の前には晴馬の姿があった。昨晩、サファイヤから伝えられた真実のことは全く覚えていないように。でも、俺は確かめずにはいれなかった。
「晴馬…昨日、何してた?」
『え?』
晴馬は不思議そうに首を横に傾げるような仕草を見せると、俺の腕を引っ張って俺を布団から起き上がらせた。
『楓が食堂で吐いた騒動があってから、警報音が鳴ってみんなでシェルターに隠れてたでしょ?それで、しばらくしたらデッカいライオンがやってきて、楓の無事を伝えてくれたでしょ?それでー、そうじゃん!俺たちも楓のお見舞いに行こうとしたけど、火の玉たちは部屋で待ってろって言われたキリだよ!ねえねえ、楓のお見舞いに行っても良い?ねえねえねえ』
晴馬は俺の頭によじ登り、寝ぐせのついた頭をもっとぐしゃぐしゃにして遊んでいる。
…本当だ。
リオネルの言ったとおりだ。
黒憶虫が、昨晩の晴馬の記憶を食べてあげたんだ。
『もうすぐで朝ごはんだよ!』
昨日、夜遅くまで起きていた俺たちはまだ眠気でフラフラとしていた。着替えながら睡魔に誘われる俺たちを、晴馬や悠馬たちが耳元で叫んで起こす。晴馬と悠馬は、何事もなかったかのように毎朝のごとく眠気と戦う俺たちの耳元で叫ぶ役割を全うしている。
コンコン
誰かが部屋の扉を叩いた。賑やかだった部屋が静まり返る。晴馬と悠馬が俺の背中の後ろに隠れた。
「私です。リオネルです」
「入れ」
既に着替え終わって寝ぐせも直したエメラルドが、リオネルに入室の許可を出すと、部屋の引き戸がゆっくりと開いた。
『うわあ!すげえ!』
晴馬、悠馬、圭吾、そして桜大までもがリオネルの姿に大興奮して、さっきまでリオネルの声に怯えていたことなど完全に忘れてしまったかのようにリオネルに向かって飛んで行った。
「え…あ…ど、どうも」
晴馬と圭吾は、深い緑色のたてがみに潜り込む。
悠馬はリオネルの口を無理やり開けて、口の中に並ぶ大きな牙に大興奮して、リオネルの舌の上をトランポリンみたいに飛び跳ねる。
桜大はリオネルの若草色の瞳に見惚れている。
リオネルは、口の中にいる悠馬を噛まないように頑張りながら話し始めた。
「朝早くに申し訳ありません。父から伝言が御座います。朝食後、父が食堂に皆様をお迎えに上がります。ラルフ様から、皆様の身体に異変が生じていることをお聞きしました。父の友人に、身体の記憶についての博士号を持った医師がおります。父が彼をお呼びするので、皆様にも彼にお目通り願いたいのです。皆様の身体の異変がもとに戻る可能性があります」
リオネルの、「身体がもとに戻る」という言葉を聞くと一裕と蓮が急いで歯磨きを終えて洗面所からリオネルの前に飛び出した。2人揃っていきなり飛び出してきた一裕と蓮に、リオネルのたてがみが一瞬だけ逆立ったが、すぐに安心したようにたてがみをもとに戻した。
「ホントですか?!戻りますか?!」
ピンポンパンポーン…
リオネルの返事の代わりに、部屋の中には朝食のアナウンスが流れた。リオネルはアナウンスが終わるのを待ってから、一裕と蓮を宥めるように伝えた。
「ええ。しかし、あくまで可能性の範囲に留まることをご了承ください」
一裕と蓮は、リオネルの言葉に首を頻りに縦に振っていた。自分の愛する彼女…彗星と佳奈美さんの身体がもとに戻るかもしれないことに興奮しているのか、目が大きく開き、顔も僅かに赤くなっている。
「赤ベコみたいになってる」
2人の様子を見ていたバットが、俺の横でボソッと呟いた。
『今日の朝ご飯は、バイキング形式だって!』
別の部屋にいる火の玉が、通路全体に響き渡るような大声で叫ぶのが聞こえた。
『よっしゃあ!好きなやつだけ食べるもんね』
リオネルに纏わりついていた晴馬たちは、火の玉の叫ぶ声を聞くやいなや我先にと食堂に向かった。
「では、後ほどお迎えに上がります」
リオネルはそう言って、エメラルドに向き直ると深々と頭を下げて部屋を出ていった。
カチャン…
扉が静かに閉まり、扉の向こうからリオネルが立ち去っていく足音が聞こえる。リオネルの足音も聞こえなくなり、部屋は静寂に包まれた。
「…俺たちも行くか。野菜だらけの朝食を食べる羽目になる前に」
冷房のジー…という作動音が部屋に響く。俺たちは食堂から漂ってくる色々な食べ物が混ざった香りに誘わられるように部屋を出た。
カチャン…
峻兄さんが部屋の扉を閉めると、冷房の作動音は部屋に閉じ込められたような音を立てた。
「行こか」
俺達は峻兄さんを先頭に食堂に向かい始めた。冷房の音は間もなく聞こえなくなった。代わりに、火の玉たちの甲高い話し声が俺達を迎えてくれる。
『ウルフ〜!』
食堂から晴馬が顔を出し、自分の朝ご飯を自慢してきた。
スクランブルエッグ。肉団子。パスタ。ハンバーグ。プリン。チョコケーキ。
それらが皿からはみ出しそうなくらいに盛り付けられている。
晴馬が俺達に自慢するのに夢中になっている間、悠馬がこっそりと晴馬の皿から肉団子とパスタを少しずつ取っていき、晴馬の皿に野菜が少しも乗っていないことに気が付いた中村が、慣れた手つきで野菜サラダを皿の隙間に乗せた。
『あれ?野菜が。いつの間に?』
晴馬は自分の皿に勝手に野菜を乗せた犯人を探そうと、食堂をグルリと見渡すような仕草を見せた。自分のすぐ近くに犯人がいるとも知らずに。
『楓くんはご無事でしたか?私たちスタッフは、感染を防ぐために各自の部屋に戻るようにとレオさんから指示を頂きまして』
中村は思い詰めたような表情を顔に浮かべ、火の玉たちに聞こえないように俺達に近付き小声で尋ねた。楓の手術は無事に成功し、暫く安静にすれば問題ないことをエメラルドが伝えると、中村は、はああっと長い息を吐きながら胸を撫で下ろした。
『オッサーン。いただきますは?』
既に朝食を盛り付けて席に着いている火の玉たちの中から、誰かが叫んだ。中村はハッと思いついたような表情を見せると、慌ててエプロンを脱ぎ、入り口近くの机に置かれたマイクを手に持った。
『いただきます!』
火の玉たちは、各自、自分の大好物に全身で喰らいつくように食べていく。俺達は結局、野菜だらけの朝飯を食べることになったが、不思議といつものご飯よりも温かくて美味しい気がした。
『ごちそうさまでした!』
食後の挨拶を終えると、エメラルドが食堂の外の通路にチラリと視線をやった。
「来たな…ん?」
エメラルドが見ている先に視線をやると、レオとリオネルが誰かと話しながら通路の外で待っているのが見えた。レオたちと話しているのは、ホワイトボードみたいに真っ白な身体を持った男。あれが、リオネルの言っていたレオの友人の医師だろうか。
エメラルドは訝しげな表情で席を立ち、食堂の出口に向かって歩き出した。俺達もエメラルドの背中に引っ付くようにして歩いていく。
「おや?」
俺達が出口に辿り着く頃、真っ白な男がエメラルドに気が付いたようだ。真っ白な男の姿は、エメラルドの後ろ姿に隠れてよく見えなかったが、何だか聞き覚えのある声の気がした。
「君たちじゃないか」
俺は少し背伸びして、エメラルドの肩から男の顔を見ようとした。
真っ白な肌。
異様に大きくて真っ黒な目。
間違いない。
この男は、澄白国人だ。
「レオの知り合いだったんですね。フロストさん」
…フロスト?!
フロストはエメラルドの後ろにいる俺達に気が付くと、少しだけ微笑んで俺達に小さく手を振った。
「何だ…この…巡り合わせ…」
最後尾にいた蓮が、小さく呟くのが背後から聞こえた。
俺の両手の中が、晴馬の火の玉の色にボンヤリと光る。子供の頃に近所で捕まえた蛍を思い出す。
『僕…聞いてた…。楓が…僕たちの幸せな記憶と…辛い記憶を食べてくれてたんでしょ?』
晴馬はどうやら、俺達が医務室にやって来たときから、通路で俺達の会話を聞いていたらしい。
リオネルが容器の中の幼虫を俺達に見せながら、黒憶虫に寄生された人と頻繁に接触する者も、極微量の黒憶虫の胞子を吸うと俺達に説明していた。実際に寄生されたわけではないし、晴馬たちは火の玉で身体を持っていないから、楓と同じように心臓に巣を作られるといった危険性はないらしいが、それでも胞子に触れてしまうと記憶を食われるのだそうだ。胞子が記憶を食うと、食べたその記憶は、虫本体に移送されて虫の餌となる。餌が増えるほど、虫は元気になり真っ黒な胞子を放つ。その胞子が再び誰かに吸われる。そこで新たな記憶が虫に移送されて餌となる。その繰り返し。
この合宿所は、事故なり病気なり、虐待死なりで亡くなった子供たちの集い場。黒憶虫にとっては、ご馳走が溢れた天国だったのだろう。楓の体内に、袋とバケツが満杯になってしまうほど沢山の黒憶虫が増殖していたのも納得だ。
晴馬の火の玉の輝きが、僅かに弱くなった。
『僕も知りたい。楓が食べてくれた、僕の記憶を』
晴馬の火の玉が輝きを取り戻した。晴馬の温もりが俺の手に直接伝わってくる。
「でも…辛い記憶を思い出すことになるぞ」
俺は晴馬にそう語りかけながら、晴馬が悪夢にうなされた晩のことを思い出した。
晴馬の…あの記憶。
それでも、晴馬の中から生前のその記憶は抜けていない。
つまり、晴馬が食べられた辛い記憶は、俺達には想像もできない辛い記憶のはずだ。
「思い出さない方が良い記憶もあると思うぞ?」
高校生になった俺でさえ、そんな記憶には耐えられない。いっそのこと、黒憶虫に寄生されてその辛い記憶を食べてもらった方が幸せだと感じてしまう。こんなにちっぽけな晴馬が、その記憶に耐えられるわけない。
『教えてよ。知りたいよ』
それでも晴馬は、小さな身体で一歩も引き下がらず、食われた記憶の内容を知ろうとする。
俺の肩に誰かが手を触れた。サファイヤだ。サファイヤは俺の後ろに立って、晴馬とのやり取りをずっと聞いていたのだ。
「晴馬…。知りたい?」
「おい!」
サファイヤは、楓に寄生していた幼虫から、晴馬の食われた記憶も読み取れたらしい。
「やめろよ!晴馬を泣かせる気かよ」
俺は晴馬をサファイヤから遠ざけたが、晴馬が俺の両手の中から抜け出し、サファイヤの手の上に乗った。
『知りたい。理由は分からないけど…僕は知りたい。泣いても良いもん。その時はウルフが僕のことをよしよししてくれるもん』
サファイヤの手の上に、一人の命が眩しく光っている。サファイヤの水色の瞳から放たれた水色の眼光が、俺の身体を照らす。俺の身体が動かない。全身に見えない鎖が巻き付いているよう。まるで俺が蝋人形になってしまったよう。
『ウルフ。僕は大丈夫だから。暫く、金縛りかけるけど、我慢してて』
俺を動かなくさせたのは、他でもない晴馬だった。サファイヤが晴馬を手に乗せて、自分の顔の高さに持ち上げた。サファイヤの瞳に、晴馬の姿が映っている。
やめろ
言うな
俺はそう叫びたいのに、晴馬がそれを拒んでいる。
『サファイヤ、教えて。僕の記憶』
晴馬の声が、俺の耳の中を木霊する。サファイヤは、静かに首を縦に振り、そっと口を開いた。
[斜体]晴馬と悠馬のお母さんはね、君らを出産した時に亡くなってしまったんだよ。
君のお父さんは、君のお母さんを心から愛していたから塞ぎ込んでしまった。
だけど、君たちは、亡くなったお母さんに瓜二つに育っていった。
特に晴馬は、お母さんと瓜二つだったみたいだね。
君のお父さんは次第に、君たちのことを息子ではなく愛する女性だと思い込むようになってしまった。
それが、君たちを苦しめた。
悠馬は…晴馬と一緒に逃げようとしたんだよ。
晴馬が寝ている間に、悠馬は台所に忍び込んで包丁を手にし、寝室に戻る晴馬の胸に突き刺した。
痛かったね。
苦しかったね。
でも、それが嬉しかったんだよね。
父親からされたことに比べれば、死は寧ろ救済だったんだよね。
でも、悲しかったんだよね。
生前の晴馬が最後に見た景色は、涙を流しながら自分を突き刺す悠馬の姿だったから。
君たちにとって、黒憶虫は、心の命の恩人だったんだ。
[/斜体]
晴馬は、ただ黙ってサファイヤの話を聞いていた。晴馬の火の玉が放つ淡い光は、サファイヤの手をゆらゆらと揺れながら照らしていた。
『今の話…悠馬にはしないであげて。悠馬はそのことを覚えてない。楓に記憶を食べてもらったから』
晴馬の声が寂しく通路に響いた。晴馬はサファイヤの手から降りると、トボトボと部屋に寝に戻った。
『…おやすみなさい』
晴馬が通路の角を曲がった後も、通路は晴馬の火の玉の色に淡く染まっていた。段々と通路から晴馬の色が失われ、夜の闇に包まれる。通路が完全に闇に包まれた時、やっと俺の身体は動くようになった。
「…ごめんてば」
俺は気付いたときにはサファイヤの胸倉を掴んでいた。サファイヤの襟首は、俺に強く握りしめられて皺くちゃになっている。
カサカサ…
容器の中で黒憶虫の幼虫が動き回る音がする。
「…大丈夫でしょう」
リオネルは医務室の扉から顔を出し、晴馬を黙って見送っていた。
「晴馬くんにも黒憶虫の胞子が残っているでしょうから、晴馬くんが明日の朝起きた頃には、今の話を忘れているでしょう。今の話も、黒憶虫にとってはご馳走ですから…」
サファイヤの襟首を掴んでいた俺の手を、エメラルドが優しく離した。
「もう夜中だし…寝よう。他にも話さないといけないことは山ほどあるけど、明日にしようよ。な?」
エメラルドが立っている向こう側から、楓の寝息が聞こえた。
真っ暗な通路を、足音を立てないようにして歩き、俺は部屋に辿り着いた。
キイーッ…
部屋の扉が軋む音が、寝静まった部屋に流れ込む。
「晴馬…」
晴馬は、部屋に一番近いところに布団を敷いて寝ていた。布団の中から、一か所だけ小さな丸い形が浮かび上がり、そこから淡い光が放たれている。俺はその膨らみにそっと手を乗せた。晴馬の静かな息遣いが、柔らかい布団越しに伝わってくる。
「…ごめんな」
通路の天井に取り付けられた蛍光灯が、俺の後ろ姿を照らし、俺の影が晴馬を包む。
「ウルフ…」
サファイヤが俺の後ろに屈んで、俺と同じように布団の膨らみに手を触れた。
「怒ってるか?」
サファイヤの静かで低い声が、静けさに包まれた空間に流れ込んだ。
俺は…今、何を考えているのだろう。
言語化できない何かが俺の胸の中を駆け巡る。
でも、俺にはそれが何なのかが全く分からない。
怒り?
悲しみ?
いや、違う。
俺の知らない感情が、俺の胸をかき乱す。
「怒ってない。でも、…ありがとう」
俺の言葉に、サファイヤが大きく目を見開いて俺の方を見た。俺自身も、何故俺が感謝の言葉を口にしたのかは分からなかった。
「そう…。良かった」
サファイヤは暫く俺の横顔を見つめると、再び晴馬に視線を落とした。サファイヤの水色の瞳が、真っ暗な部屋の中、北極星のように静かに光って見えた。
『起きて起きて起きて』
お腹の上を火の玉たちが飛び跳ねる感触。
「…晴馬…?」
『なあに?』
俺が目をゆっくりと開けると、俺の目の前には晴馬の姿があった。昨晩、サファイヤから伝えられた真実のことは全く覚えていないように。でも、俺は確かめずにはいれなかった。
「晴馬…昨日、何してた?」
『え?』
晴馬は不思議そうに首を横に傾げるような仕草を見せると、俺の腕を引っ張って俺を布団から起き上がらせた。
『楓が食堂で吐いた騒動があってから、警報音が鳴ってみんなでシェルターに隠れてたでしょ?それで、しばらくしたらデッカいライオンがやってきて、楓の無事を伝えてくれたでしょ?それでー、そうじゃん!俺たちも楓のお見舞いに行こうとしたけど、火の玉たちは部屋で待ってろって言われたキリだよ!ねえねえ、楓のお見舞いに行っても良い?ねえねえねえ』
晴馬は俺の頭によじ登り、寝ぐせのついた頭をもっとぐしゃぐしゃにして遊んでいる。
…本当だ。
リオネルの言ったとおりだ。
黒憶虫が、昨晩の晴馬の記憶を食べてあげたんだ。
『もうすぐで朝ごはんだよ!』
昨日、夜遅くまで起きていた俺たちはまだ眠気でフラフラとしていた。着替えながら睡魔に誘われる俺たちを、晴馬や悠馬たちが耳元で叫んで起こす。晴馬と悠馬は、何事もなかったかのように毎朝のごとく眠気と戦う俺たちの耳元で叫ぶ役割を全うしている。
コンコン
誰かが部屋の扉を叩いた。賑やかだった部屋が静まり返る。晴馬と悠馬が俺の背中の後ろに隠れた。
「私です。リオネルです」
「入れ」
既に着替え終わって寝ぐせも直したエメラルドが、リオネルに入室の許可を出すと、部屋の引き戸がゆっくりと開いた。
『うわあ!すげえ!』
晴馬、悠馬、圭吾、そして桜大までもがリオネルの姿に大興奮して、さっきまでリオネルの声に怯えていたことなど完全に忘れてしまったかのようにリオネルに向かって飛んで行った。
「え…あ…ど、どうも」
晴馬と圭吾は、深い緑色のたてがみに潜り込む。
悠馬はリオネルの口を無理やり開けて、口の中に並ぶ大きな牙に大興奮して、リオネルの舌の上をトランポリンみたいに飛び跳ねる。
桜大はリオネルの若草色の瞳に見惚れている。
リオネルは、口の中にいる悠馬を噛まないように頑張りながら話し始めた。
「朝早くに申し訳ありません。父から伝言が御座います。朝食後、父が食堂に皆様をお迎えに上がります。ラルフ様から、皆様の身体に異変が生じていることをお聞きしました。父の友人に、身体の記憶についての博士号を持った医師がおります。父が彼をお呼びするので、皆様にも彼にお目通り願いたいのです。皆様の身体の異変がもとに戻る可能性があります」
リオネルの、「身体がもとに戻る」という言葉を聞くと一裕と蓮が急いで歯磨きを終えて洗面所からリオネルの前に飛び出した。2人揃っていきなり飛び出してきた一裕と蓮に、リオネルのたてがみが一瞬だけ逆立ったが、すぐに安心したようにたてがみをもとに戻した。
「ホントですか?!戻りますか?!」
ピンポンパンポーン…
リオネルの返事の代わりに、部屋の中には朝食のアナウンスが流れた。リオネルはアナウンスが終わるのを待ってから、一裕と蓮を宥めるように伝えた。
「ええ。しかし、あくまで可能性の範囲に留まることをご了承ください」
一裕と蓮は、リオネルの言葉に首を頻りに縦に振っていた。自分の愛する彼女…彗星と佳奈美さんの身体がもとに戻るかもしれないことに興奮しているのか、目が大きく開き、顔も僅かに赤くなっている。
「赤ベコみたいになってる」
2人の様子を見ていたバットが、俺の横でボソッと呟いた。
『今日の朝ご飯は、バイキング形式だって!』
別の部屋にいる火の玉が、通路全体に響き渡るような大声で叫ぶのが聞こえた。
『よっしゃあ!好きなやつだけ食べるもんね』
リオネルに纏わりついていた晴馬たちは、火の玉の叫ぶ声を聞くやいなや我先にと食堂に向かった。
「では、後ほどお迎えに上がります」
リオネルはそう言って、エメラルドに向き直ると深々と頭を下げて部屋を出ていった。
カチャン…
扉が静かに閉まり、扉の向こうからリオネルが立ち去っていく足音が聞こえる。リオネルの足音も聞こえなくなり、部屋は静寂に包まれた。
「…俺たちも行くか。野菜だらけの朝食を食べる羽目になる前に」
冷房のジー…という作動音が部屋に響く。俺たちは食堂から漂ってくる色々な食べ物が混ざった香りに誘わられるように部屋を出た。
カチャン…
峻兄さんが部屋の扉を閉めると、冷房の作動音は部屋に閉じ込められたような音を立てた。
「行こか」
俺達は峻兄さんを先頭に食堂に向かい始めた。冷房の音は間もなく聞こえなくなった。代わりに、火の玉たちの甲高い話し声が俺達を迎えてくれる。
『ウルフ〜!』
食堂から晴馬が顔を出し、自分の朝ご飯を自慢してきた。
スクランブルエッグ。肉団子。パスタ。ハンバーグ。プリン。チョコケーキ。
それらが皿からはみ出しそうなくらいに盛り付けられている。
晴馬が俺達に自慢するのに夢中になっている間、悠馬がこっそりと晴馬の皿から肉団子とパスタを少しずつ取っていき、晴馬の皿に野菜が少しも乗っていないことに気が付いた中村が、慣れた手つきで野菜サラダを皿の隙間に乗せた。
『あれ?野菜が。いつの間に?』
晴馬は自分の皿に勝手に野菜を乗せた犯人を探そうと、食堂をグルリと見渡すような仕草を見せた。自分のすぐ近くに犯人がいるとも知らずに。
『楓くんはご無事でしたか?私たちスタッフは、感染を防ぐために各自の部屋に戻るようにとレオさんから指示を頂きまして』
中村は思い詰めたような表情を顔に浮かべ、火の玉たちに聞こえないように俺達に近付き小声で尋ねた。楓の手術は無事に成功し、暫く安静にすれば問題ないことをエメラルドが伝えると、中村は、はああっと長い息を吐きながら胸を撫で下ろした。
『オッサーン。いただきますは?』
既に朝食を盛り付けて席に着いている火の玉たちの中から、誰かが叫んだ。中村はハッと思いついたような表情を見せると、慌ててエプロンを脱ぎ、入り口近くの机に置かれたマイクを手に持った。
『いただきます!』
火の玉たちは、各自、自分の大好物に全身で喰らいつくように食べていく。俺達は結局、野菜だらけの朝飯を食べることになったが、不思議といつものご飯よりも温かくて美味しい気がした。
『ごちそうさまでした!』
食後の挨拶を終えると、エメラルドが食堂の外の通路にチラリと視線をやった。
「来たな…ん?」
エメラルドが見ている先に視線をやると、レオとリオネルが誰かと話しながら通路の外で待っているのが見えた。レオたちと話しているのは、ホワイトボードみたいに真っ白な身体を持った男。あれが、リオネルの言っていたレオの友人の医師だろうか。
エメラルドは訝しげな表情で席を立ち、食堂の出口に向かって歩き出した。俺達もエメラルドの背中に引っ付くようにして歩いていく。
「おや?」
俺達が出口に辿り着く頃、真っ白な男がエメラルドに気が付いたようだ。真っ白な男の姿は、エメラルドの後ろ姿に隠れてよく見えなかったが、何だか聞き覚えのある声の気がした。
「君たちじゃないか」
俺は少し背伸びして、エメラルドの肩から男の顔を見ようとした。
真っ白な肌。
異様に大きくて真っ黒な目。
間違いない。
この男は、澄白国人だ。
「レオの知り合いだったんですね。フロストさん」
…フロスト?!
フロストはエメラルドの後ろにいる俺達に気が付くと、少しだけ微笑んで俺達に小さく手を振った。
「何だ…この…巡り合わせ…」
最後尾にいた蓮が、小さく呟くのが背後から聞こえた。
- 1.開始せよ(1)
- 2.開始せよ(2)
- 3.開始せよ(3)
- 4.扉(1)
- 5.扉(2)
- 6.灰色(1)
- 7.灰色(2)
- 8.灰色(3)
- 9.混血(1)
- 10.混血(2)
- 11.混血(3)
- 12.いのち(1)
- 13.いのち(2)
- 14.仮面(1)
- 15.仮面(2)
- 16.仮面(3)
- 17.思い出せ(1)
- 18.思い出せ(2)
- 19.楓(1)
- 20.楓(2)
- 21.兄の過去(1)
- 22.兄の過去(2)
- 23.伝えられなかった「すき」 エピソード1
- 24.海の少年(1)
- 25.海の少年(2)
- 26.伝えられなかった「すき」 エピソード 2
- 27.王国の真実(1)
- 28.王国の真実(2)
- 29.王国の真実(3)
- 30.王国の真実(4)
- 31.王国の真実(5)
- 32.桜
- 33.眠った記憶(1)
- 34.眠った記憶(2)
- 35.眠った記憶(3)
- 36.眠った記憶(4)
- 37.眠った記憶(5)
- 38.記憶よ、目覚めよ(1)
- 39.記憶よ、目覚めよ(2)
- 40.記憶よ、目覚めよ(3)
- 41.休憩タイム(1)
- 42.休憩タイム(2)
- 43.休憩タイム(3)
- 44.伝えられた「すき」
- 45.謎解きゲーム(1)
- 46.謎解きゲーム(2)
- 47.隠された宇宙(1)
- 48.隠された宇宙(2)
- 49.隠された宇宙(3)
- 50.隠された宇宙(4)
- 51.死者の想い(1)
- 52.死者の想い(2)
- 53.死者の想い(3)
- 54.死者の想い(4)
- 55.親子(1)
- 56.親子(2)
- 57.親子(3)
- 58.親子(4)
- 59.親子(5)
- 60.こどもたち(1)
- 61.こどもたち(2)
- 62.ほこり(1)
- 63.ほこり(2)
- 64.食う(1)
- 65.食う(2)
- 66.食う(3)
- 67.本当の自分(1)
- 68.本当の自分(2)
- 69.本当の自分(3)
- 70.宿題との戦いの末、2人の高校生男子「死す」
- 71.別れ(1)
- 72.別れ(2)
- 73.喧騒に紛れて
- 74.仮面を脱げ
- 75.名前は
- 76.虚構と真実
- 77.ヨミガエル
- 78.迷宮
- 79.橋を渡る、境目を越える
- 80.罪人の証
- 81.真実との対峙
- 82.扉を開ける前に
- 83.浜辺の宵
- 84.目隠し
- 85.鏡の中
- 86.夜明け
- 87.誕生日
- 88.真実の足枷
- 89.覚悟の時
- 90.逃避
- 91.罪と真実と
- 92.父の懺悔
- 93.best friend
- 94.兄弟
- 95.境界線