『ウルフ、一緒に宿題やってよ〜』
生まれることの奇跡を説かれたその日の放課後、俺たちは合宿所に戻ってきた。晴馬は部屋の机にA4サイズの紙を置いて、俺の誇りとは何なのかを教えろと頼んでくる。
俺は一緒に授業を聞いていた一裕の意見も聞いてみたかったが、一裕は今、彗星と一緒に楓のところにいる。
中村が、そうさせたのだ。
楓は今日、珍しく一度も情緒不安定にならずに済んだ。将来の自分の親に会えたからだろうか。
蓮は佳奈美さんのところに行っていて峻兄さんはその監視をするために蓮について出ていった。
いくらラブラブな蓮×佳奈美さんだって、もう高校生なんだからそんなに心配は要らないだろうにと思う反面、俺の両親の過去を考えると、俺は黙って峻兄さんを2人の元に送り出すしか無かった。
サファイヤとエメラルドは、桜大と圭吾の算数と国語の宿題を俺たちの隣で手伝っている。円の面積の公式、諺の穴埋め問題を圭吾たちが声に出して読んでいるのが隣から聞こえてくる。バットは他の部屋の火の玉たちに無理やり連れて行かれる形で、かくれんぼをしに合宿所近くの公園に遊びに行った。
『教えて教えて〜』
晴馬が俺の頭の上に乗ってきて、前髪を一本だけ引っ張ってくる。
『桜大、お前はなんて書いたのさ』
桜大は、誇りについて思ったことを自由に記述するプリントを机に出しすらせず、黙々と鶴亀算の宿題に取り組んでいる。晴馬が桜大の筆箱の上にひょいと飛び乗った。筆箱の中で、鉛筆同士がカラカラとぶつかる音がした。
『分からないから、分からないってだけ書いた』
桜大は、鶴亀算のプリントを終えて、立体の体積・表面積のプリントに取り掛かり始めた。晴馬は桜大から思ったようなアイデアを貰えず、何か思い付けないかと俺の周りををグルグルと円を描くように飛び始めた。
「取り敢えず、正解は無いんだから、思ったことを少しずつ書き出していけばどうだ?」
誇りについて考えるなんて難しい宿題、今回ばかりは晴馬の宿題を手伝えそうにない。
「俺も一緒になって考えるからさ」
俺が水を掬うように両手を丸めて床の上に両手を置くと、晴馬がそれに気付いて掌の上に乗ってきた。マシュマロ程度の重さと大きさしかない火の玉が、俺の腕の中で確かに燃えていた。手の平が僅かに暖かい。これが晴馬の息遣いだろうか。
俺が晴馬を机の上に乗せると、晴馬はプリントのところまでチョコチョコと移動した。晴馬の筆箱のジッパーがひとりでに開いたと思えば、中から所々剥げた鉛筆が浮いた。一瞬、ここは宇宙だったっけと勘違いしてしまった。
「そもそも、俺、何で先生がほこりを大事にしろって言うのか分かんないんだ」
晴馬は何を書こうか迷っているようだ。鉛筆がプリントの上の宙に浮いたまま、ピクリとも動かない。
『俺、ほこりは要らないと思う』
「…どうして?」
俺は自分自身が何の誇りを持っているのかも分からないまま、何となく誇りは持っているべきだなどという表面的な理由で、どうして晴馬が誇りを不要だと考えるのかを尋ねた。
鉛筆が動いた。
真っ白な白紙の上の方に、小さくて薄めの文字で、晴馬が「ごみ」と書きつけた。
「…何で誇りをゴミだと思ったんだ?」
子どもの考えることはよく分からない。晴馬が鉛筆を机の上に置くと、机の隣に置かれた本棚と壁の隙間の中に入っていった。暗い隙間が、晴馬の火の玉の色に光っている。
「おーい、何してんだよ」
俺が隙間に口を近づけて晴馬を呼んだ時、本棚と壁の間の掃除が出来ていなかったのか、何かが喉に引っかかった感じがして俺は何度かむせた。
「ほこりってこれのことでしょ」
薄暗い隙間から晴馬の声だけが聞こえてくる。晴馬の火の玉の光が、隙間を明るく照らしている。
「ぎゃあああ!」
隙間から戻ってきた晴馬の姿を見て悲鳴を上げた俺の声にびっくりしたのか、机に向かって宿題に取り組んでいた圭吾の身体がフワッと上に上がった。
「ウルフ、どうした」
俺はエメラルドの呼びかけにも応じず、晴馬を掴んで部屋を飛び出し、通路にある共通トイレに駆け込んだ。白を基調にしたタイルが壁を覆っていて、水色や濃い青色のタイルがまばらに散りばめられている。俺は手洗い場のシンクの中に晴馬を入れ、蛇口を捻った。透明な水がサアーっと勢いよく飛び出し、晴馬の火の玉に当たった水がシンクの中に飛び散る。
「そっちのほこりじゃねえよ!」
晴馬はわざわざ本棚と壁の隙間に行って、全身に埃を付けて平気な顔をして俺のところに戻ってきたのだ。晴馬はキャハハと無邪気に笑いながら、水遊びでもしているつもりなのか、俺に蛇口の冷たい水を掛けてくる。へその辺りに大きなシミを付けられた。夏に水浴びをするのは好きな方だが、中途半端に一部分だけ濡れるのは、いくら夏であっても気持ちの悪いものだ。俺は晴馬から埃が十分に取れたのを確認すると蛇口の水道を捻って止めた。キュッと錆びた金属音がトイレに響く。
『ほこりって他にもあるの?』
トイレにいるのは、俺と晴馬の二人だけのようだ。蛇口から水が一滴二滴とシンク内に落ちる音がする。昨日皆でお風呂に入った時に既に気が付いていたが、火の玉たちは水に濡れることがないようだ。俺は晴馬を左手に乗せて、埃が何処にも付いていないかを入念に調べた。
「誇りっていうのは、簡単に言えば自慢に思っているってことだ」
俺は晴馬を肩の上に乗せて、部屋に向かった。後ろの方から、蛇口から水の垂れる音がぴちょりぴちょりと聞こえてくる。俺は再びトイレに戻って蛇口をきつく締め、そしてもう一度部屋に向かって歩き出した。
「お前、さっきはどうしたんだ。叫びながら駆けだしていって」
「いや、ちょっと。晴馬の身体に埃が大量に付いてたから」
部屋に戻ると、サファイヤとエメラルドが暇そうに畳の上に寝転がっていた。圭吾と桜大は宿題を終わらせたから、合宿所近くの公園にバットたちと一緒にかくれんぼをしに出掛けていったそうだ。
俺は晴馬をテーブルの上に置かれたプリントに乗せ、晴馬の火の玉が浮かんでいるすぐ近くに、「誇り」と「埃」のふたつの文字を書いた。
「旭先生が言ってたのはこっち。お前が勘違いしてたのはこっち」
俺は晴馬の鉛筆を借りて、2つの文字を鉛筆で順番に指し示し、それらの言葉の意味の違いを簡単に説明した。
『そっかあ…。自慢に思うこと?先生は、なんか、命の大きな物語の一部分でいられたことを誇りに思えって言ってたけど…俺、そんな難しいこと考えたことないよ』
俺だって今日、彼の授業を聞くまでは晴馬と同じだった。極普通の日常を送る日々で、自分が奇跡の存在だなんて一度も思ったことがない。
『ウルフは誇りを持ってる?』
晴馬が鉛筆を机の上に置いた。鉛筆がコロコロと転がって机から落ちそうになったのを、机の横の畳に横たわっていたエメラルドが間一髪でキャッチし、筆箱に戻した。
俺は誇りを持っているだろうか。
そもそも、誇りって何だ?
俺は、性能の悪いコンピューターみたいなバカな頭を無理やり働かせた。
俺は今まで、誇りなど全く意識せずに高校生になるまでの人生を過ごしてきた。
それを考えれば、別に誇りなど無くても良いのではないかという気もしてくる。
さっき、晴馬が「誇り」を「埃」と勘違いしてくれたために、俺の頭の中に、誇りはもしかしたら本当にゴミみたいなものなのかもしれないとの考えが一瞬だけ浮かんだが、俺の潜在意識に眠っているもう一人の俺がそれをかき消した。
でも…
「やるか…」
『え?なんて?』
俺は誇りが必要なものかを考えてみようと思った。誇りが仮に、埃みたいに捨てるべきものだとしたら。
俺が晴馬に、何か裏紙に仕えるような紙を持ってくるように頼むと、晴馬は勉強机の引き出しの中から100点満点中78点の算数のテストを取り出し、それを持ってやってきた。
「俺が今からここに書くことは、そのプリントには書くな。ただのメモ書きだから」
俺は晴馬の筆箱から鉛筆を一本手に取って、薄っすらと赤ペンの跡が透けて見えるその白い紙に、誇りが必要なものであることを前提に証明しようとしてみた。
[斜体]誇り:持っている方が良いとされる[/斜体]
鉛筆が紙の上を滑らかに走る。
「おい、邪魔。ちょっ…」
晴馬が何度も俺の持っている鉛筆によじ登ったり体当たりしてくる。俺は晴馬をひょいと持ち上げて、自分の頭の上に乗せた。頭の上から、晴馬の「何書いてんの?」という幼い少年の声が降ってくる。
[斜体]埃:捨てるべきもの[/斜体]
エメラルドとサファイヤは、晴馬があまりにも大人しいのが気になって、畳から起き上がると、俺の両隣に腰を下ろして、俺が書きつけていく文字面を目で追い始めた。
[斜体]誇り=自慢に思うこと→達成感、優越感[/斜体]
「あれ…?」
俺は急に何を書けば良いのかが分からなくなって、鉛筆を手に持ったままプリントを前に固まってしまった。俺は「誇り」と響きが似ている言葉を突然思い出したのだ。
「驕り」
俺はその言葉を声には出さすに口の中で何度か唱えてみた。「誇り」と言う時と、全く同じ口の動きだ。
驕りは持つべきではない。自分を何事においても頂点に据え、自分がすべて正しいと思い込み、他人を嘲笑うことなのだから。
驕れる者も久しからず。
驕りを持つ者は、何を根拠に優越感に浸っているのか。
俺が思うに、それは、財産、地位、名声など。どれも、自分自身の表面的な価値を示すものでしかない。
では、誇りはどういう場面で持つだろうか。
「誇りってさ…」
俺の左で俺の殴り書きを眺めていたエメラルドが口を開いた。エメラルドの頭から狼男の耳が立っている。晴馬がそれに気が付くと、エメラルドの頭の上に飛び移り、緑色の毛が生えた耳をソファ代わりにして全身を委ねた。エメラルドの右耳がへにゃりと曲がっているのが視界の端の方で見えた。
「誇りって、自覚出来るか?自覚してしまった時点で、誇っていると思い込んでいるだけで驕っていることの方が多いんじゃないか?」
『じゃあ俺、何を書けばいいの』
晴馬がピョンとエメラルドの頭から飛び降り、机に置かれたプリントの周りをグルグルと歩き始めた。数分前に、晴馬が書いた「ごみ」が、真っ白なプリントを背景に目立って見える。
俺も桜大と同じように、潔く分からないと言った方が良いだろうか。
「でも、驕るのは動物の中でも人間くらいだよね」
サファイヤは俺の心の中を読み取ったようだ。俺は頭の中で考えていただけで、一言も驕りという言葉は発さなかったが、俺の代わりにサファイヤがその言葉を口にした。
「俺も首長竜だったころは普通に弱肉強食の海の中にいた。そんな中で、人間みたいに財産だとか名誉だとかを気に掛ける余裕なんて全くないさ」
サファイヤは一度自分の後ろを振り返って、柱や壁のような固いものが何もないことを確認すると、腕を広げて畳の上に大の字で横たわった。
「人間ってさ、自分以外の物にしか価値を見出そうとしない癖がある。宇宙が誕生した瞬間から宇宙が滅びるまでの果てしない時間の流れで、自分っていうのは、たった一つだけなのにさ」
晴馬にも何か思うことがあるのだろうか。晴馬の筆箱から、短くなった鉛筆が浮かび上がった。
[斜体]自分を誇れるのは自分しかいない[/斜体]
晴馬の、少し丸みを帯びた下手な文字がプリントに書きつけられていく。
サファイヤは、晴馬がプリントを書き始めたのを知ってか知らずか、自分が思っていることをつらつらと話し続ける。
「人間はさ、ダイヤモンドとか見ると大騒ぎするだろ。俺、お前らと出会う前に一度だけ、カップルが夜の海にやってきて、男性が女性にダイヤモンドの指輪を渡してプロポーズするところを偶然見たんだよ。もちろん、ネッシーだって騒がれると厄介だから、海の中から息を潜めて見守っていたけどさ…その女性、何て言ったと思う?」
サファイヤは何を思い出したのか、目を瞑って心底呆れたような表情を見せて話し続けた。
「嬉しい!ダイヤモンドの指輪なのね、だってよ。…ダイヤモンドに価値があるのかって話だ」
サファイヤは起き上がって、今度は俯せになると、ふうっと長い溜息をついた。
「ごめん、ちょっと話が脱線したけど…宝石は頑張ったら取れるんだよ。でも、自分自身は頑張ったから得られるものじゃない」
俺はサファイヤの話も聞いてみて、誇りが何なのかを自分でもう一度考えてみた。
誇りは時に、驕りに姿を変える。
驕りは捨てるべきもの。
晴馬が誇りを埃と勘違いしたが、ある意味ではそうとも言えるのかもしれない。
埃は溜まっていくと、衛生状態も悪くなるし、ハウスダストで喘息を起こすこともある。
驕りもそうだ。
驕りは目先の心地よさを満たすには効率的だろうが、果たして驕りは彼ら自身にとって良いものか。いや、違う。
世界中の歴史に共通して言えることがある。それは、栄華を極めた存在は、いつの日か悲惨な姿になって消滅すること。
このことは個人にも十分当てはまるだろう。
小学校時代に優秀だったはずの生徒が、中学校や高校に上がってから成績不振になるという話は俺の母からよく聞かされた。確かに勉強内容は難しくなるが、それなら馬鹿な俺はどうなる。
馬鹿な俺でも、成績は決して良い方ではないが、定期考査の順位は半分より下を彷徨う程度だ。
おそらく、優秀だったはずの彼らは、小学校時代にチヤホヤされた余韻から抜け出せないまま中高生になってしまっているのではないだろうか。
誇りは持つべきか。
サファイヤが言ったように、誇りは自覚できるものではないのだろう。
潜在意識の中にいる俺の心に誇りは隠れているかもしれない。
だが、顕在意識の俺はそれに全く気が付かない。
それは、まるで、本棚と壁の隙間に息を潜めていた埃のように。
誇りって、もしかしたら本当に埃かもしれない。
『何かさ、ウルフに埃と誇りの違いを教えてもらった時に思ったんだけどさ』
晴馬が鉛筆を筆箱に戻し、プリントを学校用の手提げかばんに雑にしまうと、俺の前髪にぶら下がって遊び始めた。
『悪いものと良さそうなものを同じ音で表すのって、変なの~』
晴馬が目の前でプラプラと揺れる。
晴馬が揺れるたび、僅かな痛みが俺の前頭部の皮膚を突き刺した。
「おう、お帰り」
夕食のアナウンスがなる30分くらい前に、汗だくになったバットが桜大と圭吾に連れられて部屋に戻ってきた。
「こいつらさ…火の玉だからさ…瞬間移動…しやがって…」
バットは肩を激しく上下させながら、自分の胸に手を当てて呼吸を落ち着かせようとしている。
「蓮と…佳奈美さんは?」
バットが2人を探して、狭い部屋をグルリと一周見回した。
「ラブラブタイムだ」
畳にサファイヤと並んで横たわっているエメラルドがそう答えると、バットはニヤリと笑って頷いた。
『ウルフ、そう言えばさ』
洗面所で圭吾たちと他愛ないお喋りをしていた晴馬が、俺のところに飛んでやって来て肩の上に乗った。
『今日先生がさ、子供の作り方はノツワヌ米青って黒板に書いてたじゃん』
ん…?
俺は日本語のような日本語でないような言葉が聞こえた気がして、晴馬にもう一度ゆっくりと言うように言ったが、晴馬は相変わらず「ノツワヌ米青」とわけの分からぬ暗号のようなものを自信ありげに言った。
「ああ、もしかして」
俺の前で戸惑ったような表情を見せていたバットが突然、何かに気付いたような表情を見せた。
「これのこと言ってる?」
バットは俺と晴馬が見えやすいように俺の隣に立ち、空に文字を指で書き始めた。俺はバットの指を目で追った。
受 精
なーるほど。
受という文字は、縦にバラバラにすると、片仮名の「ノ」「ツ」「ワ」「ヌ」になる。
精という文字は、米という文字と青という文字が横に並んでいる。
晴馬の声から判断するに、晴馬はまだ小学校の1年生か2年生、或いはそれ以下だ。受という文字を知らなくても仕方がない。
あ…。待て。嫌な予感がする。
『じゅせいってやつ、どうやってするの?』
晴馬が俺にそう尋ねた途端、バットが飲んでいたお茶を吹き出しそうになるのを我慢して、無理やり飲み込んだ後、何度か激しく咳き込んだ。
「ええっとな…体外受精っていう方法があるんだ」
まだ大丈夫。
受精の方法は、今のところ技術上可能なのは2つ。俺が今から言うこの方法なら、別に子供に言ったところで問題はないだろう。
晴馬は、俺の説明をクソ真面目に聞いていたが、真面目に聞きすぎたゆえに、鋭い質問を俺にぶつけてくる。
『あのさ、顕微鏡って大昔にはなかったでしょ?先祖はどうやって子供を作ってきたのさ』
『体の外でやる方法があるなら、体の中でやる方法もあるんじゃないの?』
…クソ。
晴馬はバカなように見えて、思ったよりも賢いやつだ。
「ああ、ある」
俺は5、6年前に学校の保健体育の教科書で教えられた内容をそっくりそのまま答えた。
晴馬。頼む。これで納得してくれないか。
しかし、俺の期待はあっさりと裏切られた。
『ウルフが言うせいしってやつ、男の身体で作られるんでしょ?何で女の身体の中にあるのさ』
もう…やめてくれ!!
『飲むの?』
飲むな!!
俺は晴馬に受精までのプロセスを一部分だけでも教えてしまったことを後悔した。
俺たちのやり取りを見かねたようにエメラルドは軽く溜息をつくと、起き上がって、俺の肩の上に乗っていた晴馬を手に取り、プニプニとスライムみたいに弄り始めた。
『えへへへ、へへ』
晴馬はエメラルドに身体を弄られてくすぐったいのか、エメラルドの大きい両手の中をコロコロと転がりながら笑っている。
「いつの日か晴馬も生まれ変われば分かるさ。」
エメラルドは上手いこと晴馬の興味を受精から逸らそうとしたが、晴馬はそれでも納得がいっていないようだ。晴馬はブウブウと子豚みたいな声を出して、なぜ俺達が隠そうとするのかをなじる。
『俺達、いったん生者の世界の様子を見に行くことも出来るんだよ。ウルフ、何処に行けば子供作ってるところ見れる?』
晴馬の問いに、畳に寝転がっていたサファイヤも含めて、俺達全員が慌てて「見るな見るな」と音速を超えたのではないかと思う程の速さで言いながら、手を顔の前で大きく振った。
『夕食の時間です』
絶妙なタイミングで夕食のアナウンスが鳴ってくれた。蓮たちはまだ部屋に戻ってきていないが、食堂に行けば会えるだろう。
『…はっ!ハンバーグの匂いがする!』
ありがたいことに、ハンバーグの香ばしい香りが晴馬を食堂に誘ってくれた。晴馬は筆箱から鉛筆が中途半端にはみ出しているのを気にすることもなく、俺達を放って真っ先に食堂に向かった。
俺は晴馬の後ろ姿を見送りながら、ふと、晴馬と悠馬が昨晩見た悪夢のことを思い出した。
俺の想像したことが、事実だったなら…。
ああ、神よ。
なぜ晴馬と悠馬に、残酷な現実を突きつけようとしたのですか。
晴馬と悠馬にとっての悪夢が、まさに命を紡ぐ物語のキーワードなのだとは、俺は到底2人に伝えることなど出来ないのに…。
「俺達も行くか」
俺の隣で畳に寝そべっていたサファイヤが起き上がり、半開きの扉を開けて通路に出た。遠くの方から、食堂で火の玉たちがはしゃぐ声が聞こえてくる。
俺がいつの日か、愛する人との間に子供を作るとき、晴馬と悠馬はその時の俺を受け入れてくれるだろうか。
「ウルフ、行くぞ」
通路からバットが俺を呼んだ。サファイヤとエメラルドの2人は既に、食堂に向かって歩き始めていた。
俺は重たい足取りで部屋を出て、通路に出た。
俺が一歩また一歩と歩く度に、赤茶色の絨毯の感触が、靴下越しに足の裏にチクチクと伝わってきた。
生まれることの奇跡を説かれたその日の放課後、俺たちは合宿所に戻ってきた。晴馬は部屋の机にA4サイズの紙を置いて、俺の誇りとは何なのかを教えろと頼んでくる。
俺は一緒に授業を聞いていた一裕の意見も聞いてみたかったが、一裕は今、彗星と一緒に楓のところにいる。
中村が、そうさせたのだ。
楓は今日、珍しく一度も情緒不安定にならずに済んだ。将来の自分の親に会えたからだろうか。
蓮は佳奈美さんのところに行っていて峻兄さんはその監視をするために蓮について出ていった。
いくらラブラブな蓮×佳奈美さんだって、もう高校生なんだからそんなに心配は要らないだろうにと思う反面、俺の両親の過去を考えると、俺は黙って峻兄さんを2人の元に送り出すしか無かった。
サファイヤとエメラルドは、桜大と圭吾の算数と国語の宿題を俺たちの隣で手伝っている。円の面積の公式、諺の穴埋め問題を圭吾たちが声に出して読んでいるのが隣から聞こえてくる。バットは他の部屋の火の玉たちに無理やり連れて行かれる形で、かくれんぼをしに合宿所近くの公園に遊びに行った。
『教えて教えて〜』
晴馬が俺の頭の上に乗ってきて、前髪を一本だけ引っ張ってくる。
『桜大、お前はなんて書いたのさ』
桜大は、誇りについて思ったことを自由に記述するプリントを机に出しすらせず、黙々と鶴亀算の宿題に取り組んでいる。晴馬が桜大の筆箱の上にひょいと飛び乗った。筆箱の中で、鉛筆同士がカラカラとぶつかる音がした。
『分からないから、分からないってだけ書いた』
桜大は、鶴亀算のプリントを終えて、立体の体積・表面積のプリントに取り掛かり始めた。晴馬は桜大から思ったようなアイデアを貰えず、何か思い付けないかと俺の周りををグルグルと円を描くように飛び始めた。
「取り敢えず、正解は無いんだから、思ったことを少しずつ書き出していけばどうだ?」
誇りについて考えるなんて難しい宿題、今回ばかりは晴馬の宿題を手伝えそうにない。
「俺も一緒になって考えるからさ」
俺が水を掬うように両手を丸めて床の上に両手を置くと、晴馬がそれに気付いて掌の上に乗ってきた。マシュマロ程度の重さと大きさしかない火の玉が、俺の腕の中で確かに燃えていた。手の平が僅かに暖かい。これが晴馬の息遣いだろうか。
俺が晴馬を机の上に乗せると、晴馬はプリントのところまでチョコチョコと移動した。晴馬の筆箱のジッパーがひとりでに開いたと思えば、中から所々剥げた鉛筆が浮いた。一瞬、ここは宇宙だったっけと勘違いしてしまった。
「そもそも、俺、何で先生がほこりを大事にしろって言うのか分かんないんだ」
晴馬は何を書こうか迷っているようだ。鉛筆がプリントの上の宙に浮いたまま、ピクリとも動かない。
『俺、ほこりは要らないと思う』
「…どうして?」
俺は自分自身が何の誇りを持っているのかも分からないまま、何となく誇りは持っているべきだなどという表面的な理由で、どうして晴馬が誇りを不要だと考えるのかを尋ねた。
鉛筆が動いた。
真っ白な白紙の上の方に、小さくて薄めの文字で、晴馬が「ごみ」と書きつけた。
「…何で誇りをゴミだと思ったんだ?」
子どもの考えることはよく分からない。晴馬が鉛筆を机の上に置くと、机の隣に置かれた本棚と壁の隙間の中に入っていった。暗い隙間が、晴馬の火の玉の色に光っている。
「おーい、何してんだよ」
俺が隙間に口を近づけて晴馬を呼んだ時、本棚と壁の間の掃除が出来ていなかったのか、何かが喉に引っかかった感じがして俺は何度かむせた。
「ほこりってこれのことでしょ」
薄暗い隙間から晴馬の声だけが聞こえてくる。晴馬の火の玉の光が、隙間を明るく照らしている。
「ぎゃあああ!」
隙間から戻ってきた晴馬の姿を見て悲鳴を上げた俺の声にびっくりしたのか、机に向かって宿題に取り組んでいた圭吾の身体がフワッと上に上がった。
「ウルフ、どうした」
俺はエメラルドの呼びかけにも応じず、晴馬を掴んで部屋を飛び出し、通路にある共通トイレに駆け込んだ。白を基調にしたタイルが壁を覆っていて、水色や濃い青色のタイルがまばらに散りばめられている。俺は手洗い場のシンクの中に晴馬を入れ、蛇口を捻った。透明な水がサアーっと勢いよく飛び出し、晴馬の火の玉に当たった水がシンクの中に飛び散る。
「そっちのほこりじゃねえよ!」
晴馬はわざわざ本棚と壁の隙間に行って、全身に埃を付けて平気な顔をして俺のところに戻ってきたのだ。晴馬はキャハハと無邪気に笑いながら、水遊びでもしているつもりなのか、俺に蛇口の冷たい水を掛けてくる。へその辺りに大きなシミを付けられた。夏に水浴びをするのは好きな方だが、中途半端に一部分だけ濡れるのは、いくら夏であっても気持ちの悪いものだ。俺は晴馬から埃が十分に取れたのを確認すると蛇口の水道を捻って止めた。キュッと錆びた金属音がトイレに響く。
『ほこりって他にもあるの?』
トイレにいるのは、俺と晴馬の二人だけのようだ。蛇口から水が一滴二滴とシンク内に落ちる音がする。昨日皆でお風呂に入った時に既に気が付いていたが、火の玉たちは水に濡れることがないようだ。俺は晴馬を左手に乗せて、埃が何処にも付いていないかを入念に調べた。
「誇りっていうのは、簡単に言えば自慢に思っているってことだ」
俺は晴馬を肩の上に乗せて、部屋に向かった。後ろの方から、蛇口から水の垂れる音がぴちょりぴちょりと聞こえてくる。俺は再びトイレに戻って蛇口をきつく締め、そしてもう一度部屋に向かって歩き出した。
「お前、さっきはどうしたんだ。叫びながら駆けだしていって」
「いや、ちょっと。晴馬の身体に埃が大量に付いてたから」
部屋に戻ると、サファイヤとエメラルドが暇そうに畳の上に寝転がっていた。圭吾と桜大は宿題を終わらせたから、合宿所近くの公園にバットたちと一緒にかくれんぼをしに出掛けていったそうだ。
俺は晴馬をテーブルの上に置かれたプリントに乗せ、晴馬の火の玉が浮かんでいるすぐ近くに、「誇り」と「埃」のふたつの文字を書いた。
「旭先生が言ってたのはこっち。お前が勘違いしてたのはこっち」
俺は晴馬の鉛筆を借りて、2つの文字を鉛筆で順番に指し示し、それらの言葉の意味の違いを簡単に説明した。
『そっかあ…。自慢に思うこと?先生は、なんか、命の大きな物語の一部分でいられたことを誇りに思えって言ってたけど…俺、そんな難しいこと考えたことないよ』
俺だって今日、彼の授業を聞くまでは晴馬と同じだった。極普通の日常を送る日々で、自分が奇跡の存在だなんて一度も思ったことがない。
『ウルフは誇りを持ってる?』
晴馬が鉛筆を机の上に置いた。鉛筆がコロコロと転がって机から落ちそうになったのを、机の横の畳に横たわっていたエメラルドが間一髪でキャッチし、筆箱に戻した。
俺は誇りを持っているだろうか。
そもそも、誇りって何だ?
俺は、性能の悪いコンピューターみたいなバカな頭を無理やり働かせた。
俺は今まで、誇りなど全く意識せずに高校生になるまでの人生を過ごしてきた。
それを考えれば、別に誇りなど無くても良いのではないかという気もしてくる。
さっき、晴馬が「誇り」を「埃」と勘違いしてくれたために、俺の頭の中に、誇りはもしかしたら本当にゴミみたいなものなのかもしれないとの考えが一瞬だけ浮かんだが、俺の潜在意識に眠っているもう一人の俺がそれをかき消した。
でも…
「やるか…」
『え?なんて?』
俺は誇りが必要なものかを考えてみようと思った。誇りが仮に、埃みたいに捨てるべきものだとしたら。
俺が晴馬に、何か裏紙に仕えるような紙を持ってくるように頼むと、晴馬は勉強机の引き出しの中から100点満点中78点の算数のテストを取り出し、それを持ってやってきた。
「俺が今からここに書くことは、そのプリントには書くな。ただのメモ書きだから」
俺は晴馬の筆箱から鉛筆を一本手に取って、薄っすらと赤ペンの跡が透けて見えるその白い紙に、誇りが必要なものであることを前提に証明しようとしてみた。
[斜体]誇り:持っている方が良いとされる[/斜体]
鉛筆が紙の上を滑らかに走る。
「おい、邪魔。ちょっ…」
晴馬が何度も俺の持っている鉛筆によじ登ったり体当たりしてくる。俺は晴馬をひょいと持ち上げて、自分の頭の上に乗せた。頭の上から、晴馬の「何書いてんの?」という幼い少年の声が降ってくる。
[斜体]埃:捨てるべきもの[/斜体]
エメラルドとサファイヤは、晴馬があまりにも大人しいのが気になって、畳から起き上がると、俺の両隣に腰を下ろして、俺が書きつけていく文字面を目で追い始めた。
[斜体]誇り=自慢に思うこと→達成感、優越感[/斜体]
「あれ…?」
俺は急に何を書けば良いのかが分からなくなって、鉛筆を手に持ったままプリントを前に固まってしまった。俺は「誇り」と響きが似ている言葉を突然思い出したのだ。
「驕り」
俺はその言葉を声には出さすに口の中で何度か唱えてみた。「誇り」と言う時と、全く同じ口の動きだ。
驕りは持つべきではない。自分を何事においても頂点に据え、自分がすべて正しいと思い込み、他人を嘲笑うことなのだから。
驕れる者も久しからず。
驕りを持つ者は、何を根拠に優越感に浸っているのか。
俺が思うに、それは、財産、地位、名声など。どれも、自分自身の表面的な価値を示すものでしかない。
では、誇りはどういう場面で持つだろうか。
「誇りってさ…」
俺の左で俺の殴り書きを眺めていたエメラルドが口を開いた。エメラルドの頭から狼男の耳が立っている。晴馬がそれに気が付くと、エメラルドの頭の上に飛び移り、緑色の毛が生えた耳をソファ代わりにして全身を委ねた。エメラルドの右耳がへにゃりと曲がっているのが視界の端の方で見えた。
「誇りって、自覚出来るか?自覚してしまった時点で、誇っていると思い込んでいるだけで驕っていることの方が多いんじゃないか?」
『じゃあ俺、何を書けばいいの』
晴馬がピョンとエメラルドの頭から飛び降り、机に置かれたプリントの周りをグルグルと歩き始めた。数分前に、晴馬が書いた「ごみ」が、真っ白なプリントを背景に目立って見える。
俺も桜大と同じように、潔く分からないと言った方が良いだろうか。
「でも、驕るのは動物の中でも人間くらいだよね」
サファイヤは俺の心の中を読み取ったようだ。俺は頭の中で考えていただけで、一言も驕りという言葉は発さなかったが、俺の代わりにサファイヤがその言葉を口にした。
「俺も首長竜だったころは普通に弱肉強食の海の中にいた。そんな中で、人間みたいに財産だとか名誉だとかを気に掛ける余裕なんて全くないさ」
サファイヤは一度自分の後ろを振り返って、柱や壁のような固いものが何もないことを確認すると、腕を広げて畳の上に大の字で横たわった。
「人間ってさ、自分以外の物にしか価値を見出そうとしない癖がある。宇宙が誕生した瞬間から宇宙が滅びるまでの果てしない時間の流れで、自分っていうのは、たった一つだけなのにさ」
晴馬にも何か思うことがあるのだろうか。晴馬の筆箱から、短くなった鉛筆が浮かび上がった。
[斜体]自分を誇れるのは自分しかいない[/斜体]
晴馬の、少し丸みを帯びた下手な文字がプリントに書きつけられていく。
サファイヤは、晴馬がプリントを書き始めたのを知ってか知らずか、自分が思っていることをつらつらと話し続ける。
「人間はさ、ダイヤモンドとか見ると大騒ぎするだろ。俺、お前らと出会う前に一度だけ、カップルが夜の海にやってきて、男性が女性にダイヤモンドの指輪を渡してプロポーズするところを偶然見たんだよ。もちろん、ネッシーだって騒がれると厄介だから、海の中から息を潜めて見守っていたけどさ…その女性、何て言ったと思う?」
サファイヤは何を思い出したのか、目を瞑って心底呆れたような表情を見せて話し続けた。
「嬉しい!ダイヤモンドの指輪なのね、だってよ。…ダイヤモンドに価値があるのかって話だ」
サファイヤは起き上がって、今度は俯せになると、ふうっと長い溜息をついた。
「ごめん、ちょっと話が脱線したけど…宝石は頑張ったら取れるんだよ。でも、自分自身は頑張ったから得られるものじゃない」
俺はサファイヤの話も聞いてみて、誇りが何なのかを自分でもう一度考えてみた。
誇りは時に、驕りに姿を変える。
驕りは捨てるべきもの。
晴馬が誇りを埃と勘違いしたが、ある意味ではそうとも言えるのかもしれない。
埃は溜まっていくと、衛生状態も悪くなるし、ハウスダストで喘息を起こすこともある。
驕りもそうだ。
驕りは目先の心地よさを満たすには効率的だろうが、果たして驕りは彼ら自身にとって良いものか。いや、違う。
世界中の歴史に共通して言えることがある。それは、栄華を極めた存在は、いつの日か悲惨な姿になって消滅すること。
このことは個人にも十分当てはまるだろう。
小学校時代に優秀だったはずの生徒が、中学校や高校に上がってから成績不振になるという話は俺の母からよく聞かされた。確かに勉強内容は難しくなるが、それなら馬鹿な俺はどうなる。
馬鹿な俺でも、成績は決して良い方ではないが、定期考査の順位は半分より下を彷徨う程度だ。
おそらく、優秀だったはずの彼らは、小学校時代にチヤホヤされた余韻から抜け出せないまま中高生になってしまっているのではないだろうか。
誇りは持つべきか。
サファイヤが言ったように、誇りは自覚できるものではないのだろう。
潜在意識の中にいる俺の心に誇りは隠れているかもしれない。
だが、顕在意識の俺はそれに全く気が付かない。
それは、まるで、本棚と壁の隙間に息を潜めていた埃のように。
誇りって、もしかしたら本当に埃かもしれない。
『何かさ、ウルフに埃と誇りの違いを教えてもらった時に思ったんだけどさ』
晴馬が鉛筆を筆箱に戻し、プリントを学校用の手提げかばんに雑にしまうと、俺の前髪にぶら下がって遊び始めた。
『悪いものと良さそうなものを同じ音で表すのって、変なの~』
晴馬が目の前でプラプラと揺れる。
晴馬が揺れるたび、僅かな痛みが俺の前頭部の皮膚を突き刺した。
「おう、お帰り」
夕食のアナウンスがなる30分くらい前に、汗だくになったバットが桜大と圭吾に連れられて部屋に戻ってきた。
「こいつらさ…火の玉だからさ…瞬間移動…しやがって…」
バットは肩を激しく上下させながら、自分の胸に手を当てて呼吸を落ち着かせようとしている。
「蓮と…佳奈美さんは?」
バットが2人を探して、狭い部屋をグルリと一周見回した。
「ラブラブタイムだ」
畳にサファイヤと並んで横たわっているエメラルドがそう答えると、バットはニヤリと笑って頷いた。
『ウルフ、そう言えばさ』
洗面所で圭吾たちと他愛ないお喋りをしていた晴馬が、俺のところに飛んでやって来て肩の上に乗った。
『今日先生がさ、子供の作り方はノツワヌ米青って黒板に書いてたじゃん』
ん…?
俺は日本語のような日本語でないような言葉が聞こえた気がして、晴馬にもう一度ゆっくりと言うように言ったが、晴馬は相変わらず「ノツワヌ米青」とわけの分からぬ暗号のようなものを自信ありげに言った。
「ああ、もしかして」
俺の前で戸惑ったような表情を見せていたバットが突然、何かに気付いたような表情を見せた。
「これのこと言ってる?」
バットは俺と晴馬が見えやすいように俺の隣に立ち、空に文字を指で書き始めた。俺はバットの指を目で追った。
受 精
なーるほど。
受という文字は、縦にバラバラにすると、片仮名の「ノ」「ツ」「ワ」「ヌ」になる。
精という文字は、米という文字と青という文字が横に並んでいる。
晴馬の声から判断するに、晴馬はまだ小学校の1年生か2年生、或いはそれ以下だ。受という文字を知らなくても仕方がない。
あ…。待て。嫌な予感がする。
『じゅせいってやつ、どうやってするの?』
晴馬が俺にそう尋ねた途端、バットが飲んでいたお茶を吹き出しそうになるのを我慢して、無理やり飲み込んだ後、何度か激しく咳き込んだ。
「ええっとな…体外受精っていう方法があるんだ」
まだ大丈夫。
受精の方法は、今のところ技術上可能なのは2つ。俺が今から言うこの方法なら、別に子供に言ったところで問題はないだろう。
晴馬は、俺の説明をクソ真面目に聞いていたが、真面目に聞きすぎたゆえに、鋭い質問を俺にぶつけてくる。
『あのさ、顕微鏡って大昔にはなかったでしょ?先祖はどうやって子供を作ってきたのさ』
『体の外でやる方法があるなら、体の中でやる方法もあるんじゃないの?』
…クソ。
晴馬はバカなように見えて、思ったよりも賢いやつだ。
「ああ、ある」
俺は5、6年前に学校の保健体育の教科書で教えられた内容をそっくりそのまま答えた。
晴馬。頼む。これで納得してくれないか。
しかし、俺の期待はあっさりと裏切られた。
『ウルフが言うせいしってやつ、男の身体で作られるんでしょ?何で女の身体の中にあるのさ』
もう…やめてくれ!!
『飲むの?』
飲むな!!
俺は晴馬に受精までのプロセスを一部分だけでも教えてしまったことを後悔した。
俺たちのやり取りを見かねたようにエメラルドは軽く溜息をつくと、起き上がって、俺の肩の上に乗っていた晴馬を手に取り、プニプニとスライムみたいに弄り始めた。
『えへへへ、へへ』
晴馬はエメラルドに身体を弄られてくすぐったいのか、エメラルドの大きい両手の中をコロコロと転がりながら笑っている。
「いつの日か晴馬も生まれ変われば分かるさ。」
エメラルドは上手いこと晴馬の興味を受精から逸らそうとしたが、晴馬はそれでも納得がいっていないようだ。晴馬はブウブウと子豚みたいな声を出して、なぜ俺達が隠そうとするのかをなじる。
『俺達、いったん生者の世界の様子を見に行くことも出来るんだよ。ウルフ、何処に行けば子供作ってるところ見れる?』
晴馬の問いに、畳に寝転がっていたサファイヤも含めて、俺達全員が慌てて「見るな見るな」と音速を超えたのではないかと思う程の速さで言いながら、手を顔の前で大きく振った。
『夕食の時間です』
絶妙なタイミングで夕食のアナウンスが鳴ってくれた。蓮たちはまだ部屋に戻ってきていないが、食堂に行けば会えるだろう。
『…はっ!ハンバーグの匂いがする!』
ありがたいことに、ハンバーグの香ばしい香りが晴馬を食堂に誘ってくれた。晴馬は筆箱から鉛筆が中途半端にはみ出しているのを気にすることもなく、俺達を放って真っ先に食堂に向かった。
俺は晴馬の後ろ姿を見送りながら、ふと、晴馬と悠馬が昨晩見た悪夢のことを思い出した。
俺の想像したことが、事実だったなら…。
ああ、神よ。
なぜ晴馬と悠馬に、残酷な現実を突きつけようとしたのですか。
晴馬と悠馬にとっての悪夢が、まさに命を紡ぐ物語のキーワードなのだとは、俺は到底2人に伝えることなど出来ないのに…。
「俺達も行くか」
俺の隣で畳に寝そべっていたサファイヤが起き上がり、半開きの扉を開けて通路に出た。遠くの方から、食堂で火の玉たちがはしゃぐ声が聞こえてくる。
俺がいつの日か、愛する人との間に子供を作るとき、晴馬と悠馬はその時の俺を受け入れてくれるだろうか。
「ウルフ、行くぞ」
通路からバットが俺を呼んだ。サファイヤとエメラルドの2人は既に、食堂に向かって歩き始めていた。
俺は重たい足取りで部屋を出て、通路に出た。
俺が一歩また一歩と歩く度に、赤茶色の絨毯の感触が、靴下越しに足の裏にチクチクと伝わってきた。
- 1.開始せよ(1)
- 2.開始せよ(2)
- 3.開始せよ(3)
- 4.扉(1)
- 5.扉(2)
- 6.灰色(1)
- 7.灰色(2)
- 8.灰色(3)
- 9.混血(1)
- 10.混血(2)
- 11.混血(3)
- 12.いのち(1)
- 13.いのち(2)
- 14.仮面(1)
- 15.仮面(2)
- 16.仮面(3)
- 17.思い出せ(1)
- 18.思い出せ(2)
- 19.楓(1)
- 20.楓(2)
- 21.兄の過去(1)
- 22.兄の過去(2)
- 23.伝えられなかった「すき」 エピソード1
- 24.海の少年(1)
- 25.海の少年(2)
- 26.伝えられなかった「すき」 エピソード 2
- 27.王国の真実(1)
- 28.王国の真実(2)
- 29.王国の真実(3)
- 30.王国の真実(4)
- 31.王国の真実(5)
- 32.桜
- 33.眠った記憶(1)
- 34.眠った記憶(2)
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- 37.眠った記憶(5)
- 38.記憶よ、目覚めよ(1)
- 39.記憶よ、目覚めよ(2)
- 40.記憶よ、目覚めよ(3)
- 41.休憩タイム(1)
- 42.休憩タイム(2)
- 43.休憩タイム(3)
- 44.伝えられた「すき」
- 45.謎解きゲーム(1)
- 46.謎解きゲーム(2)
- 47.隠された宇宙(1)
- 48.隠された宇宙(2)
- 49.隠された宇宙(3)
- 50.隠された宇宙(4)
- 51.死者の想い(1)
- 52.死者の想い(2)
- 53.死者の想い(3)
- 54.死者の想い(4)
- 55.親子(1)
- 56.親子(2)
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- 60.こどもたち(1)
- 61.こどもたち(2)
- 62.ほこり(1)
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- 64.食う(1)
- 65.食う(2)
- 66.食う(3)
- 67.本当の自分(1)
- 68.本当の自分(2)
- 69.本当の自分(3)
- 70.宿題との戦いの末、2人の高校生男子「死す」
- 71.別れ(1)
- 72.別れ(2)
- 73.喧騒に紛れて
- 74.仮面を脱げ
- 75.名前は
- 76.虚構と真実
- 77.ヨミガエル
- 78.迷宮
- 79.橋を渡る、境目を越える
- 80.罪人の証
- 81.真実との対峙
- 82.扉を開ける前に
- 83.浜辺の宵
- 84.目隠し
- 85.鏡の中
- 86.夜明け
- 87.誕生日
- 88.真実の足枷
- 89.覚悟の時
- 90.逃避
- 91.罪と真実と
- 92.父の懺悔
- 93.best friend
- 94.兄弟
- 95.境界線