中村尊が男の子の手を引いて、子供用の低い机に座らせた。一緒に何かのお絵描きを楽しみつつ、男の子の様子を伺いながら生前のことと死因を確認している。
『パパがね、車に乗ってえ、ママと僕が車の後ろの所に乗っててえ、山に行ったの』
男の子は背中の肉がゴッソリと削ぎ落とされて、ポタポタとダラダラと滝のように血を流しているが、本人は全く気付かない様子で、中村尊の前で恐竜の絵を描いて楽しんでいる。
『車がね、ビューンって!それでね、ガシャーンって!』
男の子は、自分が亡くなっていることにさえ気付いていないのだろうか。
中村尊は、男の子の描く絵を眺めながら、何度も頷いて話を聞いている。
コンコン
中村尊を部屋に呼びに来た、女性スタッフが扉をノックした。
『失礼します』
女性は一礼して部屋に入ると、中村尊が座っていた席の隣に腰を下ろした。
『中村が子供の対応をしている間、皆様の応対をさせて頂きます、平池と申します。よろしくお願い致します』
女性は首から下げた名前カードを俺達に見せながら、もう一度ペコリと頭を下げた。
俺よりも年下くらいか。
暗い青色に染めた、肩まである長い髪。
スッと横に長く走った一重の目。黒い瞳がチラリと顔を覗かせている。
『…私の死因、気になってますか?』
しまった。平池のことをジロジロと見過ぎてしまった。平池は俺の顔を見て、ニコッと優しい笑顔を向けた。
『10年前に、当時付き合っていた彼氏に別れを告げたら、腹部をナイフで刺されまして。享年15歳ですわ、嫌んなっちゃう』
平池はそう言って、嫌な過去を忘れるようにブンブンと頭を何度か横に振った。
『中村から話は伺っております。楓くんとの面会要請と、皆様の身体に生じた異変についてのご相談でよろしかったですか?』
平池は、机に置かれた、中村が持ってきたファイルを自分の前に持ってきて、俺達に尋ねた。
「あ、あと…」
平池の向かいに座っている蓮が小さく手を挙げた。
『灰色の世界って、何か分かりますかね。俺達が初めて、りこや圭吾や楓にあった世界なんですけど…』
平池はそれを聞くと、ピクリと眉を動かした。
『灰色の世界、ですか…?』
ガチャ
扉が開いて、中村が一礼して入ってきた。
『皆様、席を外してしまい申し訳ありませんでした。これ以後は、別のスタッフに交代することになりましたので』
中村はそう言って、俺の向かいの席に腰を下ろした。
『先輩、応対ありがとうございました。』
『あらやだ、年齢的には君の方が先輩なんだから先輩だなんて呼ばないで』
平池は笑いながら、中村の肩をペチンと叩いた。
中村は6年前に16歳で亡くなった。
平池は10年前に15歳で亡くなった。
2人とも、本当は峻兄さんよりも年上になるはずだったんだなあ。
『ゔ、ゔんっ』
中村が咳払いをして、平池が持っていたファイルを自分の前に置いて開いた。
『そう言えば中村くん、灰色の世界って何か分かる?』
中村がファイルの表紙を何枚か捲った時に、平池が中村の顔を覗き込みながら尋ねた。
『圭吾くん達がいたところみたいなんだけど…何か知ってる?』
『…灰色?』
中村はウンウンと唸り始めた。眉間に皺がよっている。
『そこへは、確か、お二方が行ったことのある…』
中村は蓮と佳奈美さんの顔を交互に見て、2人はそれに黙って首を縦に振った。
「僕達は、灰色の世界っていうのは、何かしらの理由で心を失った魂が行く世界だと推測しました」
蓮は再び、灰色の世界がどのような様子だったのかを説明した。そして、桜大の弟として生まれるはずだった圭悟は、心を失ったことで圭吾となって灰色の世界にいたのではないか、ということも。
『う〜ん…漢字、ですか…すみません、確認させて頂いてもよろしいですか』
中村はそう言うと、胸ポケットからメモ帳を取り出した。中村はそれをペラペラとめくり始めた。峻兄さんが前に中村に説明したことが、事細かにメモされている。
『圭吾くんは、流産後に龍獅国に転生したんでしたね?その段階で、名前が圭悟から圭吾になっていたということは、この世界で流産して龍獅国に転生するまでの間に、心を失った…そうお考えでよろしいですか?』
蓮と佳奈美さんは、中村の言葉を何度か口に出して反復した後、ゆっくりと首を縦に振った。
『う〜ん…?』
中村は頭を抱えて、また唸り始めた。
『皆様、私はまだまだ修行中の身でして、灰色の世界や身体に生じた異変については、私共では手に負いかねます…我々も、もとは皆様と同じ一般人でしたので…』
峻兄さんの横にプカプカと浮いていた桜大の火の玉が中村の頭の上に飛んでいった。
『オッサ〜ン、俺たち三人兄弟の転生手続きの受理内容を早く確認してよ、勝手に変わったりしたら物凄く困るもん』
中村は桜大に強請られると、ファイルの後ろの方を開いた。
『ええっと…桜大くんと、圭悟くんと、莉香ちゃんは…』
中村が開いたページは、上から下まで小さな文字がズラリと並んだ行で埋め尽くされている。そのページの題名のところに、「児童:2010年〜2030年」と印字されている。
「こんなにも沢山の子供が、事故や病気で…」
彗星の目から、透明な涙が一筋流れた。
『うん、大丈夫。ちゃんと受理されてる。ついでに他の子の受理内容も確認したけど、全部大丈夫だったよ』
中村は数分かけてページの文字列を指で追って丁寧に見ていくと、ふうっと一息ついて桜大の火の玉を撫でた。
『皆様、身体の異変や灰色の世界については、先輩方に相談して報告いたします。その際、皆様の経験を細部まで伝えることになりますが、よろしいでしょうか』
俺達は中村の言葉に、意図していたわけではないが、全員が同時に頷いた。
「あの…」
一裕が彗星の手を片手で固く握りながら、もう片方の手をしっかりと高く挙げた。
「息子には…楓には、会えますか」
一裕に尋ねられると、中村と平池が顔を見合わせた。2人の顔が少しだけ曇っている。
『楓くんは…』
『中村のオッサン!』
5つくらいの火の玉が、突然部屋の扉を開けて慌ただしく入ってきた。さっきとは違って、ふざけている雰囲気は全くない。
『楓くんが!』
楓に何かあった…?!
部屋を飛び出ていこうとする一裕と彗星を平池が必死に説得して落ち着かせ始めた。
『親として息子さんに会いたい気持ちはお察ししますが、息子さんのお気持ちを刺激するのは危険ですので、どうかここは我々にお任せを!!』
他の火の玉たちもオロオロと通路の先にある扉から出てきた。中村は真っ先にその扉の中に駆け込んでいく。手が空いているスタッフらしき人たちも、バタバタと扉の中に駆け込む。転生受付をしている最中のスタッフも、チラリと何度も扉に視線を向けている。
『楓くんは…』
平池は何とか一裕と彗星を宥めて机に座らせると、何故さっきのような騒動が起きたのかを丁寧に説明した。
『我々は、子供の魂を一時お預かりしている、言わば幼稚園か保育園のようなものです。最初は不安そうにしていた子供たちも、段々と打ち解け合っていくんですが…』
平池はそこまで言うと、言いにくそうに目を伏せた。
『楓くんはですね…お父さんのことを大好きだと言ったり、大嫌いだと言ったり…情緒が不安定でして…。本人は生前にどのような経験をしたかは語ってはくれませんでしたが、皆様から楓くんの過去をお聞きできて良かったです』
楓は…一裕を覚えている。
一裕を嫌う楓。
一裕を慕う楓。
「私のことは、何か…」
彗星の顔に、一筋流れた涙の跡が残っている。彗星の問いに、平池は黙って首を横に振った。
「そんな…楓…お母さんはどうすれば」
楓は、彗星のことを覚えてすらいない。事実、彗星は楓を産んで間もなく亡くなったのだから仕方はないのだが、子供の記憶にすらいれないという事実を、一人の母親が簡単に受け入れられるわけがない。
「…楓の気持ちが落ち着くまでの間、平池さんたちの先輩に会わせてもらって良いですか」
サファイヤは、むやみに楓と接点を作ろうとするのは逆効果だと考えたようだ。時間も有限。楓の気持ちが落ち着くまで、少しでも俺達の身体に生じた異変を解明できれば。
『ええ、勿論でございます。あ、中村が戻って参りましたね』
グッタリとした様子の中村が部屋に戻って来た。
『お騒がせして申し訳ありませんでした。楓くんは、疲れて眠ってしまいましたので…』
中村の左手に、さっきまで無かった引っ掻き傷が3本走っている。
『中村くん』
平池がファイルを閉じて中村を見上げながら尋ねた。
『先輩方に身体の異変について相談出来るかな』
コンコン
部屋の扉を誰かがノックした。
『平池さん、すみません。自殺者の方が。18歳男性です』
平池はファイルを中村に渡すと、部屋を出ていく前に俺達に向き直った。
『私は自殺された方々の転生受付をしております。…貴方がたの受付をしなければならない日が来ないことを切に願っています』
平池はそう言うと、深々と頭を下げて部屋を出て行った。
「楓…おいで?…嫌なの…?」
彗星は顔を両手で覆って床にヘナヘナと座り込んでいて、一裕が彗星の背中を擦ってあげていた。
『お母様。お気持ちは分かりますが、まず先にお身体を男性から女性に戻さないと、物理的に楓を産むことは困難となりますから』
中村が彗星に手を差し伸べて、ゆっくりと立ち上がらせた。
中村が俺達の顔を順番に見ていく。
『今のところ、異変は進んでいないようですね』
俺は近くに立っていた佳奈美さんの爪と瞳の色を確認したが、特に変化は無かった。佳奈美さん自身も、初めこそ異変に動揺していたが、今は一裕と彗星を気にかけることが出来る余裕はある。
『皆様、ではこちらへお越し頂けますか?』
中村はファイルを脇に抱えて扉を開けると、俺達を部屋の外に出した。
『お姉さ〜ん!』
さっき中村が慌ただしく入っていった扉から、圭吾とりこがやって来た。
『どこ行くの?』
2つの火の玉が蓮と佳奈美さんの間を行ったり来たりしている。
『あれ?お姉さん、何か変…』
圭吾が佳奈美さんの異変に気が付いた。圭吾が佳奈美さんの顔の辺りをグルグルと何周もしている。佳奈美さんが圭吾の火の玉を両手で優しく包んだ。
「うん、そうなんだ。色んなことが起こってて。それを解決しに来たんだ」
中村は通路を曲がった先の階段を上がっていく。
『ねえねえ、りこたちもついて行って良い?』
りこが中村の背中に引っ付いた。
『良いけど、皆に迷惑かけないでね』
『やった』
りこと圭吾は、それぞれ佳奈美さんと蓮のズボンのポケットの中にスッポリと収まった。
俺達は階段を上ったは良いものの、踊り場の先が行き止まりになっていた。中村が目の前の壁に、カードのようなものを押し当てると、ブワンと言う濁った音とともにモニターが現れた。
『許可証を提示して下さい』
モニターがおばさんの声でそう喋ると、中村は胸ポケットから取り出した別のカードをモニターにかざした。
『中村くんじゃないか。何の用だい?』
モニターに付いているスピーカーから、おじさんとお兄さんの間みたいな声がした。
『藤原先輩、ご無沙汰してます。今回、身体に不自然な異変が現れたのことで相談に来て下さった生者の方が大勢いらっしゃるんですが、私では解決出来ず…力を貸して頂きたいのです』
中村は、モニターに取り付けられたマイクに口を近付けて俺等のことを話した。すると、モニターが壁から消えて、行き止まりだったはずの場所に、白い眩しい光とともに幅の広い通路が徐々に現れ始めた。通路の先に、体の引き締まった30代後半くらいの男性が、薄い黄色の和服を身にまとって俺達を待っていた。
『本日はお越し頂きありがとうございます』
男性は中村に、俺達の命の灯火をちゃんと預かったかを確認してから、俺達の顔を順番に見ていった。
『私は主に、老衰で亡くなった方々の転生受付をしております、田村と申します』
軍人だったのだろうか。田村はビリビリと空気を揺らすような大きな声で自己紹介をし、ビシッと敬礼した。
田村は俺達に一礼すると、通路の奥の方にある会議室のような場所へ俺達を案内しはじめた。さっきまでいたところは、まさに児童園のような賑やかさだったが、ここは寧ろ老人ホームのような静けさだった。杖を付いたお婆さんや、腰の曲がったお爺さん。あちこちに貸し出し用の車椅子や杖が準備されている。認知症の高齢者用の受付が、少し離れたところにある。
田村は会議室の中に俺達を案内して、中央にある円形テーブルに俺達を座らせた。田村と中村は、ホワイトボードの前にある長椅子に腰を下ろした。
『まずは、お身体の異変についてお伺いしたいのですが…』
中村が田村に、俺たちに起きた異変の詳細をまとめた書類を渡し、佳奈美さんや彗星の方を2人で何度かチラチラと視線を向けながら話し始めた。
『なるほど…何か、異変の前兆はございましたか?』
田村は俺達の顔を順番に見ていく。
前兆か…。
バットに聞かれるまで、自分が吸血鬼でなくなったことに気が付かなかった。
佳奈美さんが吸血鬼になり始めたのも、突然のことだった。
強いて言えば…
『子供が泣き喚いている声が夢の中で頻繁に聞こえるようになりました』
俺も含めて、身体に異変が生じた6人の声が綺麗に重なった。
「お前もかよ」
みんな、俺と同じ夢を?
田村と中村は、ウンウンと頷きながら俺たちの話を書類に書き込んだ。
「子供が泣き喚く…?!」
サファイヤの両目が何かに気付いたようにハッと見開いた。
「もしかして…」
サファイヤがエメラルドや一裕の瞳の中を観察し始めた。
「あの、僕、記憶を読み取る能力があるんです。今からこの人たちの夢の記憶をお二人にお見せしたいんですけど」
サファイヤが熱を測るときと同じように、俺の額に右手をかざした。
『へえ、珍しい能力をお持ちで。是非、お見せ願います』
田村が興味深そうにサファイヤの背中を見つめている。
「読めました。音声だけですが。聞いてください」
俺達はいつも通り、目を瞑った。サファイヤが田村と中村に目を瞑るように伝えた。
ああ、これだこれだ。
真っ暗な世界に子供の泣き声だけが響き渡る。姿も見えない。先週くらいから、3日に一度くらいの頻度でこの夢を見るようになった。
『すみません!ちょっと…』
俺は中村の叫ぶ声に目を開いた。中村は一裕と彗星を見ている。一裕も彗星も、俺やバットたちとは違って、ハアハアと息切れしている。中村はそれを確認すると、何処か納得したように頷いた。
『お二人は、いずれ楓くんのご両親になる方でしたね?』
一裕と彗星は、息を落ち着かせながら頷いた。
『これ…楓くんの泣き声ですね。私は楓くんのカウンセラーもしておりますので、間違いありません』
楓が…?
でもそれが、俺達の異変とどう関係するんだ。
「お二人もお分かりのように、楓は実は澄白国という宇宙人の血が混ざっています」
サファイヤがエメラルドと彗星を両手でそれぞれ指差した。
「宇宙人には、記憶を奪ったり改竄したりする能力があるんですよ」
エメラルドがサファイヤに反抗するように上半身を向けて睨んだ。
「俺は何もやってないって」
「お前が、とは言ってないだろ」
エメラルドとサファイヤの間で、一瞬だけ本当に火花が散った。
「楓も宇宙人の血を引いてるんだから、楓にも同じ能力があるかもってことさ」
楓が…俺達を操っているということか…?
「はっ?!まさか、サファイヤ!!」
サファイヤが俺の目を見てしっかりと頷いた。
「楓はまだ子供なんだし、ましてや情緒不安定となれば、記憶奪取・改竄能力を上手く扱えなくて当然だと思う。例えば、佳奈美さんなら…」
サファイヤは佳奈美さんの席に近づいて、佳奈美さんの方に手を添えた。
「佳奈美さんは人間だ。もし仮に、佳奈美さんの身体にも記憶があるとする。そこで楓が、佳奈美さんの身体が持っている記憶を変えてしまったとする。この身体は、人間ではなく吸血鬼だってね」
身体が記憶を持つ…?
脳以外の臓器にそんなことがあるのか…?
意外にも峻兄さんは、サファイヤの言葉に何度も頷いていた。
「実はそれは、臓器提供と密接に関わってる」
峻兄さん曰く、臓器提供を受ける前後で、提供された人の好みや趣味に変化が生じることはよくあるのだそう。驚くことに、変化した後の好みや趣味は、臓器提供者のそれと面白いくらいに一致するのだそうだ。
「あの…」
え、誰?
声の主は確かに彗星なのに、俺の知らない男子の声を発した。彗星もそれに気付いて、口を両手で抑えている。
「私の…声が…」
男の声。
彗星の首に喉仏がある。
異変が進んだ。
『中村のオッサン!!楓がまた…』
火の玉たちが会議室の中に大量になだれ込んできた。
『先輩、失礼します!』
中村はそう言って、慌ただしく部屋を出ていった。彗星も中村の後についていこうとしたが、一裕が彗星の腕を掴んで止めた。
「今は…楓を刺激しないほうが良いと思う…」
彗星は暫くの間、中村の背中をじっと見送っていたが、小さく頷いて一裕に手を引かれて席に付いた。
楓が情緒不安定になるたびに
俺達の身体の記憶が塗り替えられていく。
「あの…灰色の世界って何かわかりますか?」
中村が出ていってから、一裕と彗星は席に項垂れているし、田村はその2人に気を遣っているしで、ぎこちない雰囲気が会議室に広がった。それに耐えきれなくなったのか、蓮が田村に尋ねた。
『そちらですね、中村からも伺いまして。私が推測するに、亡くなったことに気が付いていない魂の集い場ではないかと』
亡くなったことに気が付いていない。
りこも圭吾もそうだった。
桜大は、自分が亡くなったことを知っていたから、あの世界にはいなかった。
でも、そうすると…楓も亡くなっていたことになる。
『皆様、灰色の世界について詳しいことを知っているかもしれない者が同じ部署におりますので、お呼びしますね』
田村はそう言って会議室の電話で誰かを呼んだ。
『あ、かんさん。どうも〜。ちょっとだけ来てくれますかね』
5分くらいして、かんさんと思われるグレーのスーツ姿の男性がやって来た。髪の毛に白髪が混ざっているから、50代くらいだろうか。
『あ、どうも、はじめまして。棺と申します』
彼はそう言って首から下げた名前カードを俺達に順番に見せていった。平仮名で「ひつぎ」と印字されている。
棺?
それが名前?
『私はですね、棺桶の物の怪会の会長を務めております。皆さんがね、棺と呼ぶのは何か嫌だからといって、かんさんと呼ばれるようになったんですよ』
棺桶の物の怪…。
「70年後か80年後にお世話になります…」
俺もいつの日かこの人にあの世に連れて行ってもらうんだろうか。
『いえいえ、そんな。焦らずにどうか』
棺は自分の胸の前で両手をヒラヒラさせた。
『かんさん』
田村が棺を自分の横に座らせると、灰色の世界について尋ね始めた。
『ああ…亡くなったことに気付いていない魂なら沢山いらっしゃるしね』
棺曰く、特に子供は亡くなったことを知らない場合が多いそうだ。だが、あの世から見守っていたご先祖が迎えに行ってその子たちをあの世に連れてくることが珍しくないのだそう。恐らく、ご先祖に気付いてもらえない魂が、灰色の世界にいるのではないかと棺は推測した。
『俺さ、連れてこようか?』
峻兄さんのポケットから桜大がぴょこんと顔を出した。
『俺の友達に、死んだことに暫く気付いていなかったって奴がいるからさ』
『あ、僕も連れてくる』
『りこも、りこも!』
3人の火の玉がアヒルの親子みたいに列に並んでチョコチョコと会議室から出ていった。
3人とすれ違いで中村が会議室に戻って来た。
『お父さん、お母さん』
中村がゲッソリと痩せ細って見える。中村は2人を、自分のもとに手招きした。
『楓くんの状態はひとまず落ち着きましたが、急ぐのは危険です。明日か明後日くらいに一度、可能であれば面会日を設けようと思いますが』
明後日?
正直、そんなに時間の余裕はない。だけど、楓の気持ちを刺激して、俺たちの異変を加速させるのはもっと駄目だ。
『お時間でしたらご心配は不要かと』
中村が言うには、死後の世界と生者の世界では時間の進む速さが全く違うのだそうだ。
『こちらで仮に1日過ごしても、生者の世界では1時間も経っておりませんので』
ということは…生者の世界では、俺達がここにやって来てから10分も経っていないということか。
「ゆっくりで良いですから…」
彗星が低い声を振り絞って、項垂れていた顔をしっかりと中村に向けて伝えた。
「楓の気持ちを何よりも優先してやって下さい。…お父さんもお母さんも、皆待ってるから、心配しないでおいで、とだけ…伝えておいてもらって良いですか」
『ヤッホ〜』
『どうも〜』
『こんにちは』
『呼んだ〜?』
桜大たち3人が大量の火の玉を連れて戻って来た。色とりどりの火の玉が、アリの行列みたいに隊を組んで会議室に入ってくる。
「こんなこと聞いて、ごめんね。君達は…亡くなったことに気が付いてなかったって本当?」
佳奈美さんのズボンや上着のポケットに、4つの火の玉が潜り込んでいった。
『そうだよ』
そのうちの1つが、ポケットから顔を出して答えた。
「…君達は、ここに来る前、どんな所にいた?」
蓮は、自分の足元をピョンピョン飛び跳ねている5つくらいの火の玉に尋ねた。
『何かね、こんな色の空間にいた』
1つの火の玉が、棺のスーツに引っ付いた。
グレー…灰色だ。
灰色の世界は…死者の世界だったんだ。
『パパがね、車に乗ってえ、ママと僕が車の後ろの所に乗っててえ、山に行ったの』
男の子は背中の肉がゴッソリと削ぎ落とされて、ポタポタとダラダラと滝のように血を流しているが、本人は全く気付かない様子で、中村尊の前で恐竜の絵を描いて楽しんでいる。
『車がね、ビューンって!それでね、ガシャーンって!』
男の子は、自分が亡くなっていることにさえ気付いていないのだろうか。
中村尊は、男の子の描く絵を眺めながら、何度も頷いて話を聞いている。
コンコン
中村尊を部屋に呼びに来た、女性スタッフが扉をノックした。
『失礼します』
女性は一礼して部屋に入ると、中村尊が座っていた席の隣に腰を下ろした。
『中村が子供の対応をしている間、皆様の応対をさせて頂きます、平池と申します。よろしくお願い致します』
女性は首から下げた名前カードを俺達に見せながら、もう一度ペコリと頭を下げた。
俺よりも年下くらいか。
暗い青色に染めた、肩まである長い髪。
スッと横に長く走った一重の目。黒い瞳がチラリと顔を覗かせている。
『…私の死因、気になってますか?』
しまった。平池のことをジロジロと見過ぎてしまった。平池は俺の顔を見て、ニコッと優しい笑顔を向けた。
『10年前に、当時付き合っていた彼氏に別れを告げたら、腹部をナイフで刺されまして。享年15歳ですわ、嫌んなっちゃう』
平池はそう言って、嫌な過去を忘れるようにブンブンと頭を何度か横に振った。
『中村から話は伺っております。楓くんとの面会要請と、皆様の身体に生じた異変についてのご相談でよろしかったですか?』
平池は、机に置かれた、中村が持ってきたファイルを自分の前に持ってきて、俺達に尋ねた。
「あ、あと…」
平池の向かいに座っている蓮が小さく手を挙げた。
『灰色の世界って、何か分かりますかね。俺達が初めて、りこや圭吾や楓にあった世界なんですけど…』
平池はそれを聞くと、ピクリと眉を動かした。
『灰色の世界、ですか…?』
ガチャ
扉が開いて、中村が一礼して入ってきた。
『皆様、席を外してしまい申し訳ありませんでした。これ以後は、別のスタッフに交代することになりましたので』
中村はそう言って、俺の向かいの席に腰を下ろした。
『先輩、応対ありがとうございました。』
『あらやだ、年齢的には君の方が先輩なんだから先輩だなんて呼ばないで』
平池は笑いながら、中村の肩をペチンと叩いた。
中村は6年前に16歳で亡くなった。
平池は10年前に15歳で亡くなった。
2人とも、本当は峻兄さんよりも年上になるはずだったんだなあ。
『ゔ、ゔんっ』
中村が咳払いをして、平池が持っていたファイルを自分の前に置いて開いた。
『そう言えば中村くん、灰色の世界って何か分かる?』
中村がファイルの表紙を何枚か捲った時に、平池が中村の顔を覗き込みながら尋ねた。
『圭吾くん達がいたところみたいなんだけど…何か知ってる?』
『…灰色?』
中村はウンウンと唸り始めた。眉間に皺がよっている。
『そこへは、確か、お二方が行ったことのある…』
中村は蓮と佳奈美さんの顔を交互に見て、2人はそれに黙って首を縦に振った。
「僕達は、灰色の世界っていうのは、何かしらの理由で心を失った魂が行く世界だと推測しました」
蓮は再び、灰色の世界がどのような様子だったのかを説明した。そして、桜大の弟として生まれるはずだった圭悟は、心を失ったことで圭吾となって灰色の世界にいたのではないか、ということも。
『う〜ん…漢字、ですか…すみません、確認させて頂いてもよろしいですか』
中村はそう言うと、胸ポケットからメモ帳を取り出した。中村はそれをペラペラとめくり始めた。峻兄さんが前に中村に説明したことが、事細かにメモされている。
『圭吾くんは、流産後に龍獅国に転生したんでしたね?その段階で、名前が圭悟から圭吾になっていたということは、この世界で流産して龍獅国に転生するまでの間に、心を失った…そうお考えでよろしいですか?』
蓮と佳奈美さんは、中村の言葉を何度か口に出して反復した後、ゆっくりと首を縦に振った。
『う〜ん…?』
中村は頭を抱えて、また唸り始めた。
『皆様、私はまだまだ修行中の身でして、灰色の世界や身体に生じた異変については、私共では手に負いかねます…我々も、もとは皆様と同じ一般人でしたので…』
峻兄さんの横にプカプカと浮いていた桜大の火の玉が中村の頭の上に飛んでいった。
『オッサ〜ン、俺たち三人兄弟の転生手続きの受理内容を早く確認してよ、勝手に変わったりしたら物凄く困るもん』
中村は桜大に強請られると、ファイルの後ろの方を開いた。
『ええっと…桜大くんと、圭悟くんと、莉香ちゃんは…』
中村が開いたページは、上から下まで小さな文字がズラリと並んだ行で埋め尽くされている。そのページの題名のところに、「児童:2010年〜2030年」と印字されている。
「こんなにも沢山の子供が、事故や病気で…」
彗星の目から、透明な涙が一筋流れた。
『うん、大丈夫。ちゃんと受理されてる。ついでに他の子の受理内容も確認したけど、全部大丈夫だったよ』
中村は数分かけてページの文字列を指で追って丁寧に見ていくと、ふうっと一息ついて桜大の火の玉を撫でた。
『皆様、身体の異変や灰色の世界については、先輩方に相談して報告いたします。その際、皆様の経験を細部まで伝えることになりますが、よろしいでしょうか』
俺達は中村の言葉に、意図していたわけではないが、全員が同時に頷いた。
「あの…」
一裕が彗星の手を片手で固く握りながら、もう片方の手をしっかりと高く挙げた。
「息子には…楓には、会えますか」
一裕に尋ねられると、中村と平池が顔を見合わせた。2人の顔が少しだけ曇っている。
『楓くんは…』
『中村のオッサン!』
5つくらいの火の玉が、突然部屋の扉を開けて慌ただしく入ってきた。さっきとは違って、ふざけている雰囲気は全くない。
『楓くんが!』
楓に何かあった…?!
部屋を飛び出ていこうとする一裕と彗星を平池が必死に説得して落ち着かせ始めた。
『親として息子さんに会いたい気持ちはお察ししますが、息子さんのお気持ちを刺激するのは危険ですので、どうかここは我々にお任せを!!』
他の火の玉たちもオロオロと通路の先にある扉から出てきた。中村は真っ先にその扉の中に駆け込んでいく。手が空いているスタッフらしき人たちも、バタバタと扉の中に駆け込む。転生受付をしている最中のスタッフも、チラリと何度も扉に視線を向けている。
『楓くんは…』
平池は何とか一裕と彗星を宥めて机に座らせると、何故さっきのような騒動が起きたのかを丁寧に説明した。
『我々は、子供の魂を一時お預かりしている、言わば幼稚園か保育園のようなものです。最初は不安そうにしていた子供たちも、段々と打ち解け合っていくんですが…』
平池はそこまで言うと、言いにくそうに目を伏せた。
『楓くんはですね…お父さんのことを大好きだと言ったり、大嫌いだと言ったり…情緒が不安定でして…。本人は生前にどのような経験をしたかは語ってはくれませんでしたが、皆様から楓くんの過去をお聞きできて良かったです』
楓は…一裕を覚えている。
一裕を嫌う楓。
一裕を慕う楓。
「私のことは、何か…」
彗星の顔に、一筋流れた涙の跡が残っている。彗星の問いに、平池は黙って首を横に振った。
「そんな…楓…お母さんはどうすれば」
楓は、彗星のことを覚えてすらいない。事実、彗星は楓を産んで間もなく亡くなったのだから仕方はないのだが、子供の記憶にすらいれないという事実を、一人の母親が簡単に受け入れられるわけがない。
「…楓の気持ちが落ち着くまでの間、平池さんたちの先輩に会わせてもらって良いですか」
サファイヤは、むやみに楓と接点を作ろうとするのは逆効果だと考えたようだ。時間も有限。楓の気持ちが落ち着くまで、少しでも俺達の身体に生じた異変を解明できれば。
『ええ、勿論でございます。あ、中村が戻って参りましたね』
グッタリとした様子の中村が部屋に戻って来た。
『お騒がせして申し訳ありませんでした。楓くんは、疲れて眠ってしまいましたので…』
中村の左手に、さっきまで無かった引っ掻き傷が3本走っている。
『中村くん』
平池がファイルを閉じて中村を見上げながら尋ねた。
『先輩方に身体の異変について相談出来るかな』
コンコン
部屋の扉を誰かがノックした。
『平池さん、すみません。自殺者の方が。18歳男性です』
平池はファイルを中村に渡すと、部屋を出ていく前に俺達に向き直った。
『私は自殺された方々の転生受付をしております。…貴方がたの受付をしなければならない日が来ないことを切に願っています』
平池はそう言うと、深々と頭を下げて部屋を出て行った。
「楓…おいで?…嫌なの…?」
彗星は顔を両手で覆って床にヘナヘナと座り込んでいて、一裕が彗星の背中を擦ってあげていた。
『お母様。お気持ちは分かりますが、まず先にお身体を男性から女性に戻さないと、物理的に楓を産むことは困難となりますから』
中村が彗星に手を差し伸べて、ゆっくりと立ち上がらせた。
中村が俺達の顔を順番に見ていく。
『今のところ、異変は進んでいないようですね』
俺は近くに立っていた佳奈美さんの爪と瞳の色を確認したが、特に変化は無かった。佳奈美さん自身も、初めこそ異変に動揺していたが、今は一裕と彗星を気にかけることが出来る余裕はある。
『皆様、ではこちらへお越し頂けますか?』
中村はファイルを脇に抱えて扉を開けると、俺達を部屋の外に出した。
『お姉さ〜ん!』
さっき中村が慌ただしく入っていった扉から、圭吾とりこがやって来た。
『どこ行くの?』
2つの火の玉が蓮と佳奈美さんの間を行ったり来たりしている。
『あれ?お姉さん、何か変…』
圭吾が佳奈美さんの異変に気が付いた。圭吾が佳奈美さんの顔の辺りをグルグルと何周もしている。佳奈美さんが圭吾の火の玉を両手で優しく包んだ。
「うん、そうなんだ。色んなことが起こってて。それを解決しに来たんだ」
中村は通路を曲がった先の階段を上がっていく。
『ねえねえ、りこたちもついて行って良い?』
りこが中村の背中に引っ付いた。
『良いけど、皆に迷惑かけないでね』
『やった』
りこと圭吾は、それぞれ佳奈美さんと蓮のズボンのポケットの中にスッポリと収まった。
俺達は階段を上ったは良いものの、踊り場の先が行き止まりになっていた。中村が目の前の壁に、カードのようなものを押し当てると、ブワンと言う濁った音とともにモニターが現れた。
『許可証を提示して下さい』
モニターがおばさんの声でそう喋ると、中村は胸ポケットから取り出した別のカードをモニターにかざした。
『中村くんじゃないか。何の用だい?』
モニターに付いているスピーカーから、おじさんとお兄さんの間みたいな声がした。
『藤原先輩、ご無沙汰してます。今回、身体に不自然な異変が現れたのことで相談に来て下さった生者の方が大勢いらっしゃるんですが、私では解決出来ず…力を貸して頂きたいのです』
中村は、モニターに取り付けられたマイクに口を近付けて俺等のことを話した。すると、モニターが壁から消えて、行き止まりだったはずの場所に、白い眩しい光とともに幅の広い通路が徐々に現れ始めた。通路の先に、体の引き締まった30代後半くらいの男性が、薄い黄色の和服を身にまとって俺達を待っていた。
『本日はお越し頂きありがとうございます』
男性は中村に、俺達の命の灯火をちゃんと預かったかを確認してから、俺達の顔を順番に見ていった。
『私は主に、老衰で亡くなった方々の転生受付をしております、田村と申します』
軍人だったのだろうか。田村はビリビリと空気を揺らすような大きな声で自己紹介をし、ビシッと敬礼した。
田村は俺達に一礼すると、通路の奥の方にある会議室のような場所へ俺達を案内しはじめた。さっきまでいたところは、まさに児童園のような賑やかさだったが、ここは寧ろ老人ホームのような静けさだった。杖を付いたお婆さんや、腰の曲がったお爺さん。あちこちに貸し出し用の車椅子や杖が準備されている。認知症の高齢者用の受付が、少し離れたところにある。
田村は会議室の中に俺達を案内して、中央にある円形テーブルに俺達を座らせた。田村と中村は、ホワイトボードの前にある長椅子に腰を下ろした。
『まずは、お身体の異変についてお伺いしたいのですが…』
中村が田村に、俺たちに起きた異変の詳細をまとめた書類を渡し、佳奈美さんや彗星の方を2人で何度かチラチラと視線を向けながら話し始めた。
『なるほど…何か、異変の前兆はございましたか?』
田村は俺達の顔を順番に見ていく。
前兆か…。
バットに聞かれるまで、自分が吸血鬼でなくなったことに気が付かなかった。
佳奈美さんが吸血鬼になり始めたのも、突然のことだった。
強いて言えば…
『子供が泣き喚いている声が夢の中で頻繁に聞こえるようになりました』
俺も含めて、身体に異変が生じた6人の声が綺麗に重なった。
「お前もかよ」
みんな、俺と同じ夢を?
田村と中村は、ウンウンと頷きながら俺たちの話を書類に書き込んだ。
「子供が泣き喚く…?!」
サファイヤの両目が何かに気付いたようにハッと見開いた。
「もしかして…」
サファイヤがエメラルドや一裕の瞳の中を観察し始めた。
「あの、僕、記憶を読み取る能力があるんです。今からこの人たちの夢の記憶をお二人にお見せしたいんですけど」
サファイヤが熱を測るときと同じように、俺の額に右手をかざした。
『へえ、珍しい能力をお持ちで。是非、お見せ願います』
田村が興味深そうにサファイヤの背中を見つめている。
「読めました。音声だけですが。聞いてください」
俺達はいつも通り、目を瞑った。サファイヤが田村と中村に目を瞑るように伝えた。
ああ、これだこれだ。
真っ暗な世界に子供の泣き声だけが響き渡る。姿も見えない。先週くらいから、3日に一度くらいの頻度でこの夢を見るようになった。
『すみません!ちょっと…』
俺は中村の叫ぶ声に目を開いた。中村は一裕と彗星を見ている。一裕も彗星も、俺やバットたちとは違って、ハアハアと息切れしている。中村はそれを確認すると、何処か納得したように頷いた。
『お二人は、いずれ楓くんのご両親になる方でしたね?』
一裕と彗星は、息を落ち着かせながら頷いた。
『これ…楓くんの泣き声ですね。私は楓くんのカウンセラーもしておりますので、間違いありません』
楓が…?
でもそれが、俺達の異変とどう関係するんだ。
「お二人もお分かりのように、楓は実は澄白国という宇宙人の血が混ざっています」
サファイヤがエメラルドと彗星を両手でそれぞれ指差した。
「宇宙人には、記憶を奪ったり改竄したりする能力があるんですよ」
エメラルドがサファイヤに反抗するように上半身を向けて睨んだ。
「俺は何もやってないって」
「お前が、とは言ってないだろ」
エメラルドとサファイヤの間で、一瞬だけ本当に火花が散った。
「楓も宇宙人の血を引いてるんだから、楓にも同じ能力があるかもってことさ」
楓が…俺達を操っているということか…?
「はっ?!まさか、サファイヤ!!」
サファイヤが俺の目を見てしっかりと頷いた。
「楓はまだ子供なんだし、ましてや情緒不安定となれば、記憶奪取・改竄能力を上手く扱えなくて当然だと思う。例えば、佳奈美さんなら…」
サファイヤは佳奈美さんの席に近づいて、佳奈美さんの方に手を添えた。
「佳奈美さんは人間だ。もし仮に、佳奈美さんの身体にも記憶があるとする。そこで楓が、佳奈美さんの身体が持っている記憶を変えてしまったとする。この身体は、人間ではなく吸血鬼だってね」
身体が記憶を持つ…?
脳以外の臓器にそんなことがあるのか…?
意外にも峻兄さんは、サファイヤの言葉に何度も頷いていた。
「実はそれは、臓器提供と密接に関わってる」
峻兄さん曰く、臓器提供を受ける前後で、提供された人の好みや趣味に変化が生じることはよくあるのだそう。驚くことに、変化した後の好みや趣味は、臓器提供者のそれと面白いくらいに一致するのだそうだ。
「あの…」
え、誰?
声の主は確かに彗星なのに、俺の知らない男子の声を発した。彗星もそれに気付いて、口を両手で抑えている。
「私の…声が…」
男の声。
彗星の首に喉仏がある。
異変が進んだ。
『中村のオッサン!!楓がまた…』
火の玉たちが会議室の中に大量になだれ込んできた。
『先輩、失礼します!』
中村はそう言って、慌ただしく部屋を出ていった。彗星も中村の後についていこうとしたが、一裕が彗星の腕を掴んで止めた。
「今は…楓を刺激しないほうが良いと思う…」
彗星は暫くの間、中村の背中をじっと見送っていたが、小さく頷いて一裕に手を引かれて席に付いた。
楓が情緒不安定になるたびに
俺達の身体の記憶が塗り替えられていく。
「あの…灰色の世界って何かわかりますか?」
中村が出ていってから、一裕と彗星は席に項垂れているし、田村はその2人に気を遣っているしで、ぎこちない雰囲気が会議室に広がった。それに耐えきれなくなったのか、蓮が田村に尋ねた。
『そちらですね、中村からも伺いまして。私が推測するに、亡くなったことに気が付いていない魂の集い場ではないかと』
亡くなったことに気が付いていない。
りこも圭吾もそうだった。
桜大は、自分が亡くなったことを知っていたから、あの世界にはいなかった。
でも、そうすると…楓も亡くなっていたことになる。
『皆様、灰色の世界について詳しいことを知っているかもしれない者が同じ部署におりますので、お呼びしますね』
田村はそう言って会議室の電話で誰かを呼んだ。
『あ、かんさん。どうも〜。ちょっとだけ来てくれますかね』
5分くらいして、かんさんと思われるグレーのスーツ姿の男性がやって来た。髪の毛に白髪が混ざっているから、50代くらいだろうか。
『あ、どうも、はじめまして。棺と申します』
彼はそう言って首から下げた名前カードを俺達に順番に見せていった。平仮名で「ひつぎ」と印字されている。
棺?
それが名前?
『私はですね、棺桶の物の怪会の会長を務めております。皆さんがね、棺と呼ぶのは何か嫌だからといって、かんさんと呼ばれるようになったんですよ』
棺桶の物の怪…。
「70年後か80年後にお世話になります…」
俺もいつの日かこの人にあの世に連れて行ってもらうんだろうか。
『いえいえ、そんな。焦らずにどうか』
棺は自分の胸の前で両手をヒラヒラさせた。
『かんさん』
田村が棺を自分の横に座らせると、灰色の世界について尋ね始めた。
『ああ…亡くなったことに気付いていない魂なら沢山いらっしゃるしね』
棺曰く、特に子供は亡くなったことを知らない場合が多いそうだ。だが、あの世から見守っていたご先祖が迎えに行ってその子たちをあの世に連れてくることが珍しくないのだそう。恐らく、ご先祖に気付いてもらえない魂が、灰色の世界にいるのではないかと棺は推測した。
『俺さ、連れてこようか?』
峻兄さんのポケットから桜大がぴょこんと顔を出した。
『俺の友達に、死んだことに暫く気付いていなかったって奴がいるからさ』
『あ、僕も連れてくる』
『りこも、りこも!』
3人の火の玉がアヒルの親子みたいに列に並んでチョコチョコと会議室から出ていった。
3人とすれ違いで中村が会議室に戻って来た。
『お父さん、お母さん』
中村がゲッソリと痩せ細って見える。中村は2人を、自分のもとに手招きした。
『楓くんの状態はひとまず落ち着きましたが、急ぐのは危険です。明日か明後日くらいに一度、可能であれば面会日を設けようと思いますが』
明後日?
正直、そんなに時間の余裕はない。だけど、楓の気持ちを刺激して、俺たちの異変を加速させるのはもっと駄目だ。
『お時間でしたらご心配は不要かと』
中村が言うには、死後の世界と生者の世界では時間の進む速さが全く違うのだそうだ。
『こちらで仮に1日過ごしても、生者の世界では1時間も経っておりませんので』
ということは…生者の世界では、俺達がここにやって来てから10分も経っていないということか。
「ゆっくりで良いですから…」
彗星が低い声を振り絞って、項垂れていた顔をしっかりと中村に向けて伝えた。
「楓の気持ちを何よりも優先してやって下さい。…お父さんもお母さんも、皆待ってるから、心配しないでおいで、とだけ…伝えておいてもらって良いですか」
『ヤッホ〜』
『どうも〜』
『こんにちは』
『呼んだ〜?』
桜大たち3人が大量の火の玉を連れて戻って来た。色とりどりの火の玉が、アリの行列みたいに隊を組んで会議室に入ってくる。
「こんなこと聞いて、ごめんね。君達は…亡くなったことに気が付いてなかったって本当?」
佳奈美さんのズボンや上着のポケットに、4つの火の玉が潜り込んでいった。
『そうだよ』
そのうちの1つが、ポケットから顔を出して答えた。
「…君達は、ここに来る前、どんな所にいた?」
蓮は、自分の足元をピョンピョン飛び跳ねている5つくらいの火の玉に尋ねた。
『何かね、こんな色の空間にいた』
1つの火の玉が、棺のスーツに引っ付いた。
グレー…灰色だ。
灰色の世界は…死者の世界だったんだ。
- 1.開始せよ(1)
- 2.開始せよ(2)
- 3.開始せよ(3)
- 4.扉(1)
- 5.扉(2)
- 6.灰色(1)
- 7.灰色(2)
- 8.灰色(3)
- 9.混血(1)
- 10.混血(2)
- 11.混血(3)
- 12.いのち(1)
- 13.いのち(2)
- 14.仮面(1)
- 15.仮面(2)
- 16.仮面(3)
- 17.思い出せ(1)
- 18.思い出せ(2)
- 19.楓(1)
- 20.楓(2)
- 21.兄の過去(1)
- 22.兄の過去(2)
- 23.伝えられなかった「すき」 エピソード1
- 24.海の少年(1)
- 25.海の少年(2)
- 26.伝えられなかった「すき」 エピソード 2
- 27.王国の真実(1)
- 28.王国の真実(2)
- 29.王国の真実(3)
- 30.王国の真実(4)
- 31.王国の真実(5)
- 32.桜
- 33.眠った記憶(1)
- 34.眠った記憶(2)
- 35.眠った記憶(3)
- 36.眠った記憶(4)
- 37.眠った記憶(5)
- 38.記憶よ、目覚めよ(1)
- 39.記憶よ、目覚めよ(2)
- 40.記憶よ、目覚めよ(3)
- 41.休憩タイム(1)
- 42.休憩タイム(2)
- 43.休憩タイム(3)
- 44.伝えられた「すき」
- 45.謎解きゲーム(1)
- 46.謎解きゲーム(2)
- 47.隠された宇宙(1)
- 48.隠された宇宙(2)
- 49.隠された宇宙(3)
- 50.隠された宇宙(4)
- 51.死者の想い(1)
- 52.死者の想い(2)
- 53.死者の想い(3)
- 54.死者の想い(4)
- 55.親子(1)
- 56.親子(2)
- 57.親子(3)
- 58.親子(4)
- 59.親子(5)
- 60.こどもたち(1)
- 61.こどもたち(2)
- 62.ほこり(1)
- 63.ほこり(2)
- 64.食う(1)
- 65.食う(2)
- 66.食う(3)
- 67.本当の自分(1)
- 68.本当の自分(2)
- 69.本当の自分(3)
- 70.宿題との戦いの末、2人の高校生男子「死す」
- 71.別れ(1)
- 72.別れ(2)
- 73.喧騒に紛れて
- 74.仮面を脱げ
- 75.名前は
- 76.虚構と真実
- 77.ヨミガエル
- 78.迷宮
- 79.橋を渡る、境目を越える
- 80.罪人の証
- 81.真実との対峙
- 82.扉を開ける前に
- 83.浜辺の宵
- 84.目隠し
- 85.鏡の中
- 86.夜明け
- 87.誕生日
- 88.真実の足枷
- 89.覚悟の時
- 90.逃避
- 91.罪と真実と
- 92.父の懺悔
- 93.best friend
- 94.兄弟
- 95.境界線