青々と茂った高い木が、真っ青な雲一つない青空を突き刺すように映えている。
涼しい風が足元の草を穏やかに揺らす。
蝉の鳴き声がシャワーみたいに降り注いでくる。
土の湿った香りがする。
俺の後ろから、1枚のピンク色の花びらが風に乗って飛んできた。
「桜…?」
エメラルドとサファイヤの2人が先に振り向いた。
『久しぶり』
桜大の声が俺の後ろから聞こえた。ピンク色の火の玉が俺の目の前に浮かんでいる。
『少し相談したいことがあるんだけど』
俺の頬を湿った生ぬるい風が撫でていった。
「桜大…圭吾とりこは?…楓は…?」
桜大は、圭吾とりこを死後の世界に連れて行く時、いつの日か楓も連れて戻ってくると言って約束した。でも、周りに他の3人の姿は見えない。
『圭吾とりこなら連れて帰ってくるよ。母さんと父さんには俺達の死を何とか受け入れて貰えたから、俺達は生まれ変われる。あえていつかは言わないけど。ただ…楓が生まれ変わりたがらないんだ』
一裕の眉がピクリと動いた。桜大は、楓の過去のことももう一人の一裕や彗星の過去のことも知らない。桜大は、自分がした約束を守る為に、一度一人で生者の世界に戻ってきたのだ。
『なんか、楓くんさ…生まれるのを怖がってるみたいで…一裕、君さ。楓くんの父親でしょ?何したの』
桜大は、まるで一裕が楓を虐待したのではないかと疑うような発言をした。火の玉だから表情は分からないが、桜大が一裕を睨んでいる気がした。
「俺は…!」
衝動的に火の玉を握り潰そうとした一裕をサファイヤが止めた。
「楓が生まれるのを怖がっているとすれば、それは一裕でもなく彗星でもなく、産み落とされる先の社会だよ」
チリン…チリリン…
遠くの方を自転車がベルを鳴らしながら通っていった。
「俺、楓に会いたい!」
一裕が、自分の目の前をフヨフヨと漂う火の玉に向かって叫んだ。
「あの星で、傍にいてやれなくてごめんって伝えたい。俺も翠ちゃんも、皆も楓に会える日を楽しみにしているから、安心して生まれてきてほしいって直接伝えたいんだ」
『直接…?どうやって。楓を無理やりここに連れてくるわけにはいかないし、君を死後の世界に連れて行くには君を殺さないといけない…』
そうだ。俺達は生きている。偶に亡くなった人が幽霊として生者の世界に姿を現すことはある。桜大のように。だが、俺達が死者の世界に行ける方法はただ1つ。それは死ぬこと。それには代償が伴う。それは、生きて生者の世界に戻れないこと。
『一裕、ここで話し合っても楓くんも君の奥さんになる人もいないのでは話にならない』
ピンク色の火の玉が俺の方に近付いてきた。微かに桜の甘い香りがする。
『突然で悪いけど、峻のアパートにお邪魔しても良い?皆いるでしょ』
タイミングよく俺のスマホに蓮からLINEが来た。今日のお昼ご飯に使う豚肉を買ってきてほしいとのことだった。
桜大の火の玉が俺達の前に現れてから、蝉の声が遠慮がちになった気がする。枯れかけた草が風に揺られてカサカサと音を立てる。
「桜大、俺達にも楓に会わせたい人がいる」
エメラルドが火の玉を両手でそっと覆った。エメラルドの手の平の中でピンク色の光がユラユラと揺れる。
『悪い!挽肉も頼む』
今度はバットからLINEが来た。
俺が腕時計を見たと同時に、時計の針が9時44分を指した。
「じゃあ、まずはスーパーだね」
サファイヤが額の汗を拭うと、スーパーのある方角に向かって歩き出した。
「桜大、あんたはここにいて」
スーパーに火の玉が現れたら、忽ち大騒ぎになる。俺達4人の中で、純粋な人間なのは一裕だけ。後は皆、人間のふりをしているだけの「架空」の生き物。騒ぎが起こるのは出来れば避けたい。俺は桜大を、財布を入れてあるズボンのポケットとは反対のポケットに突っ込んだ。その火の玉は全く熱くなかった。寧ろ、ズボンが水に濡れているかと思うような冷たさだった。
『窮屈なんだけど』
「我慢しろ」
俺達は雑木林を抜けて、スーパーに向かった。俺達が雑木林を抜けた時、蝉がまた喧しく鳴き始めた。俺達の前を一匹のトンボが行ったり来たりして、近くを流れる川の方角に向かって頼りなく飛んでいった。
「ただいまー」
俺達がアパートに戻ったのは10時を少し過ぎたくらいだった。バットのサンダルが玄関の隅の方に丁寧に並べられている。もう自宅から鉄分補給サプリを補充して戻ってきたようだ。
「おかえり。買い物ありがとうね」
中から蓮と佳奈美さんが出迎えてくれて、俺達の買い物袋を預かるとそれを持って台所に行った。
『君、ウルフって名前だったっけ。暑いよ〜』
俺は桜大をポケットに入れっぱなしにしていた。最初は冷たかった火の玉も、のぼせたのか少し温かくなっている。サファイヤは余程暑さが答えたのか、いそいそと水槽に涼しさを求めて飛び込んだ。
俺が桜大をポケットから出すと、桜大はリビングの方にゆっくりと飛んでいった。火の玉は、初めから何も無かったようにリビングの扉を通り抜けてリビングの中に入っていった。
「ちょっと待った」
リビングでは峻兄さんがレポートに取り組んでいるはず。本人はあまり意識していないようだが、大学の課題に取り組んでいる時の峻兄さんは若干不機嫌なのだ。
「…桜大?」
中から峻兄さんのため息混じりの声が聞こえた。
「お邪魔しま〜す…」
俺はそっと扉を開いた。峻兄さんは扉に背を向けてテーブルに座っていた。峻兄さんの前にはノートパソコンがおいてあって、画面の左端の方に亀裂が薄く走っているのが電気に反射して見える。火の玉は峻兄さんとパソコンの間に浮かんでいた。
『峻、調子はどう?圭吾とりこなら元気にしてるからね』
桜大がそう言うと、ノートパソコンが一人でに閉じた。まるで、今は大学のレポートどころではない、と峻兄さんに伝えるように。
『楓について相談したいことがある』
俺はリビングの中には入らずに、扉から顔だけ突っ込んで桜大と峻兄さんのやり取りを黙って見守っていた。
「お前、何してんの」
鉄分補給ドリンクを片手に持ったバットが俺の頭を無理やり押し退けて、リビングの中を覗いた。バットの瞳に、ピンク色の火の玉の姿が確かに映った。
「なあ、あれって。もしかして」
「桜大が来たんだ」
いつの間にシャワーを浴びたのか、エメラルドが濡れた髪をタオルで乾かしながらバットの耳に囁いた。
「桜大兄ちゃん?」
俺達は一斉に台所の方を見た。佳奈美さんは、昼食に使うだろう豆乳を両手に持ったまま、俺たちの方を見て立っている。全身が硬直しているようだが、目だけは何度も瞬きをしていた。
「桜大兄ちゃんが戻ってきたの?圭吾くんも?りこちゃんも?!」
リビングの方で桜大と峻兄さんは、数分間くらい何やらボソボソと話していた。
「桜大さんが?!」
蓮までもが冷蔵庫の中に挽肉を中途半端に突っ込んだまま、俺たちの方を見ている。
『やあ2人とも』
火の玉がまたもやリビングの壁を通り抜けた。火の玉はそのまま、佳奈美さんと蓮に向かって飛んでいった。
『圭吾とりこなら、後で連れてくるから。ただ、楓くんのことで困ったことがあって…将来楓くんのお母さんになる人もアパートにいるって峻から聞いたんだけど』
火の玉は佳奈美さんの腰の辺りを通り過ぎて台所、畳の部屋とアパート中を探すように一周飛んだ。その間、蓮と佳奈美さんは、線香花火を見守るような面持ちで火の玉を目で追っていた。火の玉が、再び俺たちの前に姿を現した。
『楓くんのお母さんは?』
火の玉は天井付近を飛んでいる。火の玉が俺達を見下ろしている。
「彗星なら塾にテストを受けに行ったよ。17時頃まで帰れないって」
バットが天井にいる桜大を見上げながら、楓の母親は一裕の彼女でもある翠という人物で、元は宇宙人で澄白国では彗星という名前の王女だったが、地球人を愛した罪で地球人に降格された旨を伝えた。
『そっか…塾か。どうしようかな、りこと圭吾を待たせたままだし…翠さんがいないとな〜』
火の玉が天井付近を彷徨うように行ったり来たりした。
ガチャ
リビングの扉が開いた。大学のレポートを大半仕上げた峻兄さんが、ゲッソリとしてリビングから現れた。
「一裕、お前、楓に直接話がしたいそうだな」
峻兄さんは桜大から話を聞いたらしい。
「普通、生きている人間があの世とあの世を行ったり来たり出来ると思うか」
答えはNOに決まっている。一裕は峻兄さんの前で目を伏せた。
「出来るわけがないだろ」
一裕は峻兄さんに改めてそう言われると、下唇を噛んで俯いた。
「だからこそ、昔から語り継がれる」
峻兄さんは一裕の肩に手を乗せた。
「今晩からでも出掛けてみるか?」
「峻兄ちゃん、何処に行くの」
峻兄さんが、自分の真後ろに立っていた佳奈美さんに振り向いた。レポート作りに疲れて曇っているはずの瞳に、一点の光が差し込んでいる。
「あるんだ。あの世とこの世をつなぐ場所が。いくつもな」
峻兄さんのその言葉に、一裕は目を見開いて顔を上げた。
『峻、そうなの?俺、知らないよ?』
火の玉は峻兄さんの頭上をフヨフヨと浮かんでいる。
「俺だって本当かどうか知らない。でも、インターネットが無かった時代に、そういう類いの似た話が全国各地で理由もなく生まれると思うか」
峻兄さんは、小学校6年生の時の修学旅行で、あの世とこの世の繋ぎ目が全国各地にあることを調べ学習で知ったらしい。元々その系統の話が大好きな峻兄さんはそれに興奮してしまって、修学旅行先の宿で眠れずに、夜中まで同じ部屋のメンバーに興奮して話していたら、見回りに来た先生に怒鳴られたそうだ。
『良いなあ、修学旅行。俺も事故にさえ遭わなければな』
「だから桜大も連れて行く。生まれ変わってからでも良いけど、折角なら俺達と一緒に修学旅行に行こう。俺もお前といきたかったから」
「俺もお前といきたかったから」
峻兄さんは、どっちの意味で言ったのだろうか。
「行きたかった」か、或いは「生きたかった」か。
時計の針が11時を指している。佳奈美さんと蓮は、俺たちの話を気にしつつも昼食を作り始めた。
「ごめん、ウルフ、バット。先に挽肉を炒めておいてくれない?全部は使わないで。今晩はハンバーグにするから」
今日の昼ご飯は、胡麻ダレ冷やし中華と、俺の大好きなピーマンの肉詰めだ。
「彗星は夕食、どうするって言ってた?」
彗星がアパートで夕食を食べるのかどうかで予定が変わる。皆でこうやってアパートにいられるのも、あと1週間。他にも解き明かさないといけない謎はある。まあ、蓮たちの学校が始まった後でも、休日に皆で集まることは出来るだろうが。出来ることなら残り1週間の時間を無駄にしたくないから、出来れば彗星にはコンビニかなんかで夕食を済ませてくれるとありがたいんだが。
「彗星なら塾でお弁当を買って食べるってさ」
…ナイス。
この後お昼ご飯を食べて、彗星が帰ってくるまでは5時間くらいだろう。出来ればその時間も有効活用したい。…そうだ。彗星がいないということは、俺達が見てきた一裕と彗星の死の真相を遠慮なく話せる。楓は、俺達が見てきた死の真相に深く関わる。桜大にも、もう一人の一裕と彗星がどんな運命を辿ったのかを共有しておきたい。それが鍵になるかは正直分からない。でも、鍵を作ろうともしないのに鍵は作れない。
「みんな!」
俺はヘラで挽肉を炒めながら叫んだ。皆が一斉に俺の方を見たのが分かった。
「俺達が獣神国と澄白国で見てきた記憶を共有したい」
挽肉が香ばしい色になってきた。俺はコンソメの粉と少量のミリン、醤油を加えて味を調えた。
「楓を育てた人に会ってきたんだ。な?みんな」
俺の後ろで一裕とエメラルドが、サファイヤは水槽の中から声を張り上げて「うん」と言った。
挽肉から美味そうな香りが立ち上り始めた頃、バットが縦に半分に切ったピーマンからスプーンで種を取り出すと、内側に薄力粉を塗った。
「ウルフ、彗星さんと一裕の死因ならもう聞いたよ?彗星は楓を出産したときの失血死で、一裕はショック死じゃなかったっけ?」
俺の隣で麺を茹でていた佳奈美さんは、俺が言ったことを信じ込んでいる。
「ごめん。あれは嘘だ。本当の事を彗星に伝えてしまうと…彗星の傷を抉ってしまう。だから嘘を付いた。あと5時間くらいは彗星は帰ってこない。その間に、本当の死の真相を、今度こそ皆に隠さず伝えたい」
俺はピーマンに挽肉を詰めて、形が崩れないように気を付けながら、肉の面を下にして焼いた。ピーマンの少し苦い香りが俺の顔を包む。
『佳奈美ちゃん、蓮くん。さては君達付き合い始めたな』
蓮と佳奈美さんがほぼ同時に振り向いて、顔を真っ赤にして火の玉を見上げた。
『そのまま付き合い続けてね。あわよくば…そうじゃないと、俺達困るんだ』
あわよくば…結婚しろと?まさか…
『ウルフ!』
「はい!言いません!」
桜大の叫び声が台所にビンビンと響いた。
「…なに?どうしたの」
ピーマンに良い感じの焦げが付いた。俺は佳奈美さんが聞こえないふりをして食器棚から大皿を出してきて、それに出来上がったピーマンの肉詰めを菜箸で慎重につまんで丁寧に並べていった。
「よいっっしょっと」
蓮がシンクの中に用意しておいたザルの中に、麺が沢山入った鍋の熱湯を注ぎ込んだ。真っ白な湯気が立ち昇る。ボトボトっと麺がザルの中に落ちる音がする。蓮は湯気の立ち昇る麺を水道水で洗って冷やすと、全員分のお皿に均等になるように麺を分けて入れた。その上から佳奈美さんが、茹でた一口サイズの薄い豚肉を乗せていく。一裕の要望で半熟卵も添えた。最後にバットが、付属の胡麻ダレをかけ回した。
『いただきます』
俺達の頭の上で火の玉が暇そうに飛び回っている。そう言えば、死者の食事は何なのだろう。俺の祖母の家に仏壇があって、毎回そこにお菓子が添えられていたのだ。食べられないのに、どうしてわざわざお菓子を供えるのかが不思議でならなかった。
『食事は身体を満たすもの。でも、心は食事だけでは満たされない。心を満たせるのは心だけ。特別愛してくれなくたって良い。忘れられたくないんだ…人間は誰からも忘れられた瞬間、何もかもを失うんだ』
桜大は、俺の心を見透かしたような発言をした。「忘れられたくない」。桜大の言葉と、一裕の身代わりになった澄白国人の言葉の意味は正反対なのに、何故か同じもののような気がした。
「記憶を伝えるんでしょ?俺も混ぜて」
サファイヤが水槽から飛び出して台所に来ると、俺と一裕の間に割り込むようにして座った。
「ウルフ、エメラルド、サファイヤ、一裕。記憶を教えてくれ。どうやって死んだんだ…一裕と彗星は」
蓮が、少しだけ焦げ目の多いピーマンの肉詰めを頬張りながら俺に尋ねてきた。
『あれ?一裕も彗星も死んでるって、どういうこと』
火の玉が天井から降りてきて、一裕の周りを何度も何度も回った。
『生きてるよね、少なくとも一裕は』
「いや、違うんだ。真実はもっと複雑で…」
俺は皆に、2人の死の真相を伝えなければならない。
俺は桜大に、一裕と彗星は、誰よりもお互いに愛し合い、我が子を胸に抱きたかったことを伝えなければならない。
俺は真実を語らなければならない。
たとえそれが、残酷であろうとも。
涼しい風が足元の草を穏やかに揺らす。
蝉の鳴き声がシャワーみたいに降り注いでくる。
土の湿った香りがする。
俺の後ろから、1枚のピンク色の花びらが風に乗って飛んできた。
「桜…?」
エメラルドとサファイヤの2人が先に振り向いた。
『久しぶり』
桜大の声が俺の後ろから聞こえた。ピンク色の火の玉が俺の目の前に浮かんでいる。
『少し相談したいことがあるんだけど』
俺の頬を湿った生ぬるい風が撫でていった。
「桜大…圭吾とりこは?…楓は…?」
桜大は、圭吾とりこを死後の世界に連れて行く時、いつの日か楓も連れて戻ってくると言って約束した。でも、周りに他の3人の姿は見えない。
『圭吾とりこなら連れて帰ってくるよ。母さんと父さんには俺達の死を何とか受け入れて貰えたから、俺達は生まれ変われる。あえていつかは言わないけど。ただ…楓が生まれ変わりたがらないんだ』
一裕の眉がピクリと動いた。桜大は、楓の過去のことももう一人の一裕や彗星の過去のことも知らない。桜大は、自分がした約束を守る為に、一度一人で生者の世界に戻ってきたのだ。
『なんか、楓くんさ…生まれるのを怖がってるみたいで…一裕、君さ。楓くんの父親でしょ?何したの』
桜大は、まるで一裕が楓を虐待したのではないかと疑うような発言をした。火の玉だから表情は分からないが、桜大が一裕を睨んでいる気がした。
「俺は…!」
衝動的に火の玉を握り潰そうとした一裕をサファイヤが止めた。
「楓が生まれるのを怖がっているとすれば、それは一裕でもなく彗星でもなく、産み落とされる先の社会だよ」
チリン…チリリン…
遠くの方を自転車がベルを鳴らしながら通っていった。
「俺、楓に会いたい!」
一裕が、自分の目の前をフヨフヨと漂う火の玉に向かって叫んだ。
「あの星で、傍にいてやれなくてごめんって伝えたい。俺も翠ちゃんも、皆も楓に会える日を楽しみにしているから、安心して生まれてきてほしいって直接伝えたいんだ」
『直接…?どうやって。楓を無理やりここに連れてくるわけにはいかないし、君を死後の世界に連れて行くには君を殺さないといけない…』
そうだ。俺達は生きている。偶に亡くなった人が幽霊として生者の世界に姿を現すことはある。桜大のように。だが、俺達が死者の世界に行ける方法はただ1つ。それは死ぬこと。それには代償が伴う。それは、生きて生者の世界に戻れないこと。
『一裕、ここで話し合っても楓くんも君の奥さんになる人もいないのでは話にならない』
ピンク色の火の玉が俺の方に近付いてきた。微かに桜の甘い香りがする。
『突然で悪いけど、峻のアパートにお邪魔しても良い?皆いるでしょ』
タイミングよく俺のスマホに蓮からLINEが来た。今日のお昼ご飯に使う豚肉を買ってきてほしいとのことだった。
桜大の火の玉が俺達の前に現れてから、蝉の声が遠慮がちになった気がする。枯れかけた草が風に揺られてカサカサと音を立てる。
「桜大、俺達にも楓に会わせたい人がいる」
エメラルドが火の玉を両手でそっと覆った。エメラルドの手の平の中でピンク色の光がユラユラと揺れる。
『悪い!挽肉も頼む』
今度はバットからLINEが来た。
俺が腕時計を見たと同時に、時計の針が9時44分を指した。
「じゃあ、まずはスーパーだね」
サファイヤが額の汗を拭うと、スーパーのある方角に向かって歩き出した。
「桜大、あんたはここにいて」
スーパーに火の玉が現れたら、忽ち大騒ぎになる。俺達4人の中で、純粋な人間なのは一裕だけ。後は皆、人間のふりをしているだけの「架空」の生き物。騒ぎが起こるのは出来れば避けたい。俺は桜大を、財布を入れてあるズボンのポケットとは反対のポケットに突っ込んだ。その火の玉は全く熱くなかった。寧ろ、ズボンが水に濡れているかと思うような冷たさだった。
『窮屈なんだけど』
「我慢しろ」
俺達は雑木林を抜けて、スーパーに向かった。俺達が雑木林を抜けた時、蝉がまた喧しく鳴き始めた。俺達の前を一匹のトンボが行ったり来たりして、近くを流れる川の方角に向かって頼りなく飛んでいった。
「ただいまー」
俺達がアパートに戻ったのは10時を少し過ぎたくらいだった。バットのサンダルが玄関の隅の方に丁寧に並べられている。もう自宅から鉄分補給サプリを補充して戻ってきたようだ。
「おかえり。買い物ありがとうね」
中から蓮と佳奈美さんが出迎えてくれて、俺達の買い物袋を預かるとそれを持って台所に行った。
『君、ウルフって名前だったっけ。暑いよ〜』
俺は桜大をポケットに入れっぱなしにしていた。最初は冷たかった火の玉も、のぼせたのか少し温かくなっている。サファイヤは余程暑さが答えたのか、いそいそと水槽に涼しさを求めて飛び込んだ。
俺が桜大をポケットから出すと、桜大はリビングの方にゆっくりと飛んでいった。火の玉は、初めから何も無かったようにリビングの扉を通り抜けてリビングの中に入っていった。
「ちょっと待った」
リビングでは峻兄さんがレポートに取り組んでいるはず。本人はあまり意識していないようだが、大学の課題に取り組んでいる時の峻兄さんは若干不機嫌なのだ。
「…桜大?」
中から峻兄さんのため息混じりの声が聞こえた。
「お邪魔しま〜す…」
俺はそっと扉を開いた。峻兄さんは扉に背を向けてテーブルに座っていた。峻兄さんの前にはノートパソコンがおいてあって、画面の左端の方に亀裂が薄く走っているのが電気に反射して見える。火の玉は峻兄さんとパソコンの間に浮かんでいた。
『峻、調子はどう?圭吾とりこなら元気にしてるからね』
桜大がそう言うと、ノートパソコンが一人でに閉じた。まるで、今は大学のレポートどころではない、と峻兄さんに伝えるように。
『楓について相談したいことがある』
俺はリビングの中には入らずに、扉から顔だけ突っ込んで桜大と峻兄さんのやり取りを黙って見守っていた。
「お前、何してんの」
鉄分補給ドリンクを片手に持ったバットが俺の頭を無理やり押し退けて、リビングの中を覗いた。バットの瞳に、ピンク色の火の玉の姿が確かに映った。
「なあ、あれって。もしかして」
「桜大が来たんだ」
いつの間にシャワーを浴びたのか、エメラルドが濡れた髪をタオルで乾かしながらバットの耳に囁いた。
「桜大兄ちゃん?」
俺達は一斉に台所の方を見た。佳奈美さんは、昼食に使うだろう豆乳を両手に持ったまま、俺たちの方を見て立っている。全身が硬直しているようだが、目だけは何度も瞬きをしていた。
「桜大兄ちゃんが戻ってきたの?圭吾くんも?りこちゃんも?!」
リビングの方で桜大と峻兄さんは、数分間くらい何やらボソボソと話していた。
「桜大さんが?!」
蓮までもが冷蔵庫の中に挽肉を中途半端に突っ込んだまま、俺たちの方を見ている。
『やあ2人とも』
火の玉がまたもやリビングの壁を通り抜けた。火の玉はそのまま、佳奈美さんと蓮に向かって飛んでいった。
『圭吾とりこなら、後で連れてくるから。ただ、楓くんのことで困ったことがあって…将来楓くんのお母さんになる人もアパートにいるって峻から聞いたんだけど』
火の玉は佳奈美さんの腰の辺りを通り過ぎて台所、畳の部屋とアパート中を探すように一周飛んだ。その間、蓮と佳奈美さんは、線香花火を見守るような面持ちで火の玉を目で追っていた。火の玉が、再び俺たちの前に姿を現した。
『楓くんのお母さんは?』
火の玉は天井付近を飛んでいる。火の玉が俺達を見下ろしている。
「彗星なら塾にテストを受けに行ったよ。17時頃まで帰れないって」
バットが天井にいる桜大を見上げながら、楓の母親は一裕の彼女でもある翠という人物で、元は宇宙人で澄白国では彗星という名前の王女だったが、地球人を愛した罪で地球人に降格された旨を伝えた。
『そっか…塾か。どうしようかな、りこと圭吾を待たせたままだし…翠さんがいないとな〜』
火の玉が天井付近を彷徨うように行ったり来たりした。
ガチャ
リビングの扉が開いた。大学のレポートを大半仕上げた峻兄さんが、ゲッソリとしてリビングから現れた。
「一裕、お前、楓に直接話がしたいそうだな」
峻兄さんは桜大から話を聞いたらしい。
「普通、生きている人間があの世とあの世を行ったり来たり出来ると思うか」
答えはNOに決まっている。一裕は峻兄さんの前で目を伏せた。
「出来るわけがないだろ」
一裕は峻兄さんに改めてそう言われると、下唇を噛んで俯いた。
「だからこそ、昔から語り継がれる」
峻兄さんは一裕の肩に手を乗せた。
「今晩からでも出掛けてみるか?」
「峻兄ちゃん、何処に行くの」
峻兄さんが、自分の真後ろに立っていた佳奈美さんに振り向いた。レポート作りに疲れて曇っているはずの瞳に、一点の光が差し込んでいる。
「あるんだ。あの世とこの世をつなぐ場所が。いくつもな」
峻兄さんのその言葉に、一裕は目を見開いて顔を上げた。
『峻、そうなの?俺、知らないよ?』
火の玉は峻兄さんの頭上をフヨフヨと浮かんでいる。
「俺だって本当かどうか知らない。でも、インターネットが無かった時代に、そういう類いの似た話が全国各地で理由もなく生まれると思うか」
峻兄さんは、小学校6年生の時の修学旅行で、あの世とこの世の繋ぎ目が全国各地にあることを調べ学習で知ったらしい。元々その系統の話が大好きな峻兄さんはそれに興奮してしまって、修学旅行先の宿で眠れずに、夜中まで同じ部屋のメンバーに興奮して話していたら、見回りに来た先生に怒鳴られたそうだ。
『良いなあ、修学旅行。俺も事故にさえ遭わなければな』
「だから桜大も連れて行く。生まれ変わってからでも良いけど、折角なら俺達と一緒に修学旅行に行こう。俺もお前といきたかったから」
「俺もお前といきたかったから」
峻兄さんは、どっちの意味で言ったのだろうか。
「行きたかった」か、或いは「生きたかった」か。
時計の針が11時を指している。佳奈美さんと蓮は、俺たちの話を気にしつつも昼食を作り始めた。
「ごめん、ウルフ、バット。先に挽肉を炒めておいてくれない?全部は使わないで。今晩はハンバーグにするから」
今日の昼ご飯は、胡麻ダレ冷やし中華と、俺の大好きなピーマンの肉詰めだ。
「彗星は夕食、どうするって言ってた?」
彗星がアパートで夕食を食べるのかどうかで予定が変わる。皆でこうやってアパートにいられるのも、あと1週間。他にも解き明かさないといけない謎はある。まあ、蓮たちの学校が始まった後でも、休日に皆で集まることは出来るだろうが。出来ることなら残り1週間の時間を無駄にしたくないから、出来れば彗星にはコンビニかなんかで夕食を済ませてくれるとありがたいんだが。
「彗星なら塾でお弁当を買って食べるってさ」
…ナイス。
この後お昼ご飯を食べて、彗星が帰ってくるまでは5時間くらいだろう。出来ればその時間も有効活用したい。…そうだ。彗星がいないということは、俺達が見てきた一裕と彗星の死の真相を遠慮なく話せる。楓は、俺達が見てきた死の真相に深く関わる。桜大にも、もう一人の一裕と彗星がどんな運命を辿ったのかを共有しておきたい。それが鍵になるかは正直分からない。でも、鍵を作ろうともしないのに鍵は作れない。
「みんな!」
俺はヘラで挽肉を炒めながら叫んだ。皆が一斉に俺の方を見たのが分かった。
「俺達が獣神国と澄白国で見てきた記憶を共有したい」
挽肉が香ばしい色になってきた。俺はコンソメの粉と少量のミリン、醤油を加えて味を調えた。
「楓を育てた人に会ってきたんだ。な?みんな」
俺の後ろで一裕とエメラルドが、サファイヤは水槽の中から声を張り上げて「うん」と言った。
挽肉から美味そうな香りが立ち上り始めた頃、バットが縦に半分に切ったピーマンからスプーンで種を取り出すと、内側に薄力粉を塗った。
「ウルフ、彗星さんと一裕の死因ならもう聞いたよ?彗星は楓を出産したときの失血死で、一裕はショック死じゃなかったっけ?」
俺の隣で麺を茹でていた佳奈美さんは、俺が言ったことを信じ込んでいる。
「ごめん。あれは嘘だ。本当の事を彗星に伝えてしまうと…彗星の傷を抉ってしまう。だから嘘を付いた。あと5時間くらいは彗星は帰ってこない。その間に、本当の死の真相を、今度こそ皆に隠さず伝えたい」
俺はピーマンに挽肉を詰めて、形が崩れないように気を付けながら、肉の面を下にして焼いた。ピーマンの少し苦い香りが俺の顔を包む。
『佳奈美ちゃん、蓮くん。さては君達付き合い始めたな』
蓮と佳奈美さんがほぼ同時に振り向いて、顔を真っ赤にして火の玉を見上げた。
『そのまま付き合い続けてね。あわよくば…そうじゃないと、俺達困るんだ』
あわよくば…結婚しろと?まさか…
『ウルフ!』
「はい!言いません!」
桜大の叫び声が台所にビンビンと響いた。
「…なに?どうしたの」
ピーマンに良い感じの焦げが付いた。俺は佳奈美さんが聞こえないふりをして食器棚から大皿を出してきて、それに出来上がったピーマンの肉詰めを菜箸で慎重につまんで丁寧に並べていった。
「よいっっしょっと」
蓮がシンクの中に用意しておいたザルの中に、麺が沢山入った鍋の熱湯を注ぎ込んだ。真っ白な湯気が立ち昇る。ボトボトっと麺がザルの中に落ちる音がする。蓮は湯気の立ち昇る麺を水道水で洗って冷やすと、全員分のお皿に均等になるように麺を分けて入れた。その上から佳奈美さんが、茹でた一口サイズの薄い豚肉を乗せていく。一裕の要望で半熟卵も添えた。最後にバットが、付属の胡麻ダレをかけ回した。
『いただきます』
俺達の頭の上で火の玉が暇そうに飛び回っている。そう言えば、死者の食事は何なのだろう。俺の祖母の家に仏壇があって、毎回そこにお菓子が添えられていたのだ。食べられないのに、どうしてわざわざお菓子を供えるのかが不思議でならなかった。
『食事は身体を満たすもの。でも、心は食事だけでは満たされない。心を満たせるのは心だけ。特別愛してくれなくたって良い。忘れられたくないんだ…人間は誰からも忘れられた瞬間、何もかもを失うんだ』
桜大は、俺の心を見透かしたような発言をした。「忘れられたくない」。桜大の言葉と、一裕の身代わりになった澄白国人の言葉の意味は正反対なのに、何故か同じもののような気がした。
「記憶を伝えるんでしょ?俺も混ぜて」
サファイヤが水槽から飛び出して台所に来ると、俺と一裕の間に割り込むようにして座った。
「ウルフ、エメラルド、サファイヤ、一裕。記憶を教えてくれ。どうやって死んだんだ…一裕と彗星は」
蓮が、少しだけ焦げ目の多いピーマンの肉詰めを頬張りながら俺に尋ねてきた。
『あれ?一裕も彗星も死んでるって、どういうこと』
火の玉が天井から降りてきて、一裕の周りを何度も何度も回った。
『生きてるよね、少なくとも一裕は』
「いや、違うんだ。真実はもっと複雑で…」
俺は皆に、2人の死の真相を伝えなければならない。
俺は桜大に、一裕と彗星は、誰よりもお互いに愛し合い、我が子を胸に抱きたかったことを伝えなければならない。
俺は真実を語らなければならない。
たとえそれが、残酷であろうとも。
- 1.開始せよ(1)
- 2.開始せよ(2)
- 3.開始せよ(3)
- 4.扉(1)
- 5.扉(2)
- 6.灰色(1)
- 7.灰色(2)
- 8.灰色(3)
- 9.混血(1)
- 10.混血(2)
- 11.混血(3)
- 12.いのち(1)
- 13.いのち(2)
- 14.仮面(1)
- 15.仮面(2)
- 16.仮面(3)
- 17.思い出せ(1)
- 18.思い出せ(2)
- 19.楓(1)
- 20.楓(2)
- 21.兄の過去(1)
- 22.兄の過去(2)
- 23.伝えられなかった「すき」 エピソード1
- 24.海の少年(1)
- 25.海の少年(2)
- 26.伝えられなかった「すき」 エピソード 2
- 27.王国の真実(1)
- 28.王国の真実(2)
- 29.王国の真実(3)
- 30.王国の真実(4)
- 31.王国の真実(5)
- 32.桜
- 33.眠った記憶(1)
- 34.眠った記憶(2)
- 35.眠った記憶(3)
- 36.眠った記憶(4)
- 37.眠った記憶(5)
- 38.記憶よ、目覚めよ(1)
- 39.記憶よ、目覚めよ(2)
- 40.記憶よ、目覚めよ(3)
- 41.休憩タイム(1)
- 42.休憩タイム(2)
- 43.休憩タイム(3)
- 44.伝えられた「すき」
- 45.謎解きゲーム(1)
- 46.謎解きゲーム(2)
- 47.隠された宇宙(1)
- 48.隠された宇宙(2)
- 49.隠された宇宙(3)
- 50.隠された宇宙(4)
- 51.死者の想い(1)
- 52.死者の想い(2)
- 53.死者の想い(3)
- 54.死者の想い(4)
- 55.親子(1)
- 56.親子(2)
- 57.親子(3)
- 58.親子(4)
- 59.親子(5)
- 60.こどもたち(1)
- 61.こどもたち(2)
- 62.ほこり(1)
- 63.ほこり(2)
- 64.食う(1)
- 65.食う(2)
- 66.食う(3)
- 67.本当の自分(1)
- 68.本当の自分(2)
- 69.本当の自分(3)
- 70.宿題との戦いの末、2人の高校生男子「死す」
- 71.別れ(1)
- 72.別れ(2)
- 73.喧騒に紛れて
- 74.仮面を脱げ
- 75.名前は
- 76.虚構と真実
- 77.ヨミガエル
- 78.迷宮
- 79.橋を渡る、境目を越える
- 80.罪人の証
- 81.真実との対峙
- 82.扉を開ける前に
- 83.浜辺の宵
- 84.目隠し
- 85.鏡の中
- 86.夜明け
- 87.誕生日
- 88.真実の足枷
- 89.覚悟の時
- 90.逃避
- 91.罪と真実と
- 92.父の懺悔
- 93.best friend
- 94.兄弟
- 95.境界線