リオンドールは再び胸に抱いた少年の顔に視線を落とした。少年の瞳は、何も訴えることなく、ただ虚空を見つめている。リオンドールは少年を伝令らしき男に預けると、他の子供達へのもとへ駆け寄っていった。自分の手を食べようとしたのだろうか、赤かったはずの血が茶色になって、一人の少女の顔の下に池のように溜まっている。少女の口の中に、親指らしきものが見える。最後に水だけでも飲みたかったのだろうか、川に顔を突っ込んだままの少年。王族が羨ましいのだろうか、いや、憎いのだろうか。橋の下から見える豪華な王城の姿を、色を失ってもなお見続けている圭吾くんくらいの少年。
『弟よ、これがそなたの過去。許せ…いや、許さない。そなたが愛した人は、私が愛したかった人。彼らの死に向き合おうとすらしなかった兄を…思う存分罵ってくれ』
リオンドールが駆け付けた頃には、子供達はもう、天国への入り口を見つけてしまっていた。
『陛下。お急ぎくださいませ。このままでは、あの民までもが命を奪われてしまいます』
伝令の男は硬直しかけた少年の遺骸を抱いたまま、市場の方を見ている。花で作った冠を乗せて、追いかけっこをしている少女たち。木の棒を振り回しながら、じゃれ合っている少年たち。リオンドールは、はだけた毛布を再びしっかりと顔に巻くと、橋の下から王城を目指して走り出した。
『陛下、この子らはどういたしますか』
伝令がリオンドールの背中に声をかけた。
『…弔ってやれ、丁寧に。まずは、王城にて緊急、作戦会議を開く。至急、王国の兵を集め援軍を要請しろ。…名もなき無実なる子よ。今しばらく、そなたを置いていってしまう私を許してくれ…伝令!参れ!』
橋の下でのただ事ならぬ様子に市場の人達が気付き始めて、顔を覆った「謎の男」を訝しそうに見ている。リオンドールは構わず、王城へ走っていく。伝令はリオンドールの身を守るように、常に背後にいた。王国の人々は、リオンドールが守りたい人。彼らを守るために、リオンドールが守りたかった命たちを置いていく。そしてきっと、王国から集められる兵士には、少なからず王国の若い男たちも含まれるはず。じゃあ、クランシーも…?リオンドールが愛したい人が、リオンドール自身の決定次第で命を失うかもしれない…。人間は、すべてのものを守ることは出来ないの?
数日後。王国の民に召集がかかった。召集される若い男の中には、クランシーも含まれている。剣や弓矢一式を背負った若い男たちが、恋人に、妻に、姉に、妹に、母に、娘に別れを告げている。
『死なないってばよ、何回言ったら分かるんだ』
同じような言葉があちらこちらから聞こえてくる。でも、どの声も震えている。恐怖に怯える自分自身を必死に奮い立たせようとしているのだ。
『アンバー、行ってくる』
クランシーは一度アンバーを強く抱きしめると、王城へ歩き出した。振り返ることなく。振り返ってしまえば、守りたいものを守りに行く勇気が出なくなってしまうから。アンバーは王城へ向かうクランシーの後ろ姿を見送っていた。涙を流すことなく。涙を流してしまえば、愛する男が死んでしまう気がしたから。アンバーのお腹は、まだ膨らんでいない。クランシーとアンバーは、まだ、命よりも大切な存在に気付いていない。男たちが王城に向かう途中の橋に差し掛かった。橋の下には、小さな石碑が寂しく置かれていて、新しい花が添えられていた。
王城から馬に乗ったリオンドールが姿を現わした。馬の毛色は深い茶色で、たてがみは本当の金で出来ているかと思わせるほどの金色。リオンドールは焦げ茶色の軍服に、ライオンの勲章を胸に付けている。数千人、数万人の兵士を前に、リオンドールが馬に乗ったまま演説をし始めた。リオンドールの瞳は、確かに兵士たちの姿を映しているはずだった。でも、庶民から徴兵されたクランシーたちは、リオンドールから最も離れたところに並ばされていた。
『私の名は、リオンドール。獅子王様の御遺志を受け継ぐものだ』
クランシーの瞳に憎しみが宿った。
『なんで、あいつのために死にに行かないといけないんだ…』
リオンドールはクランシーがいることに気付いていなかった。
『諸君は、獅子王様の子。獅子王様が愛される者たちだ。諸君には、愛する人がいる、守りたいものがある。私にも、愛し守りたいものがいる!それは諸君、皆のものだ!王国の未来は、そなたたちがあってこそ。私の命は、そなたたちがあってこそ!』
リオンドールが腰に差した剣を抜いて、空に高くかざした。
『戦いは今、我々の目前に迫っている。諸君、愛する者の笑顔を思い浮かべ給え。死は、愛する者を守ることが出来たという証…諸君!諸君の命は、私の命だ!たとえ我が命が滅ぼされようとも、私は諸君を、諸君が愛する者から奪いはしない!愛する者がいることを誇れ!愛してくれる者がいることを誇れ!生きていられることを誇れ!皆の者、私の後に続け!』
馬のいななき。兵士の雄叫び。クランシーの瞳には、もはや憎しみも恐怖も宿ってはいない。クランシーの瞳には、リオンドールの姿が映っている。クランシーがリオンドールを兄として受け入れたかは分からないけれど、間違いなく、この瞬間、クランシーは一人の王族を受け入れたのだ。
…これは?戦場…?
どんよりとした灰色の空。人間だったかもしれないものが、至る所に横たわっている。カラスがそれらを啄んでいる。リオンドールの姿はない。クランシーも。戦っているような気配はしない。カラスの鳴き声とハエのは音だけが聞こえる。戦いが、終わった後…?
『子供だけは!』
若い女の人の悲痛な叫び声が静寂を破った。血で汚れた煉瓦。家の面影は残っていない。母親と思われる若い女性が、赤ちゃんを男に渡さないように抵抗している。殴り、蹴とばし、叫び、罵る声。男は朱色の瞳を持っている。クランシーだ。
『私を殺して!子供は殺さないで!』
クランシーが持っている剣が赤ちゃんの首に当てられている。剣の先が震えている。クランシーは怖れているのだ。自分が、人でなくなってしまうことを。
『でもよ、そのガキ…』
赤ちゃんの下半身がない。だけど、確かに母親の腕の中で息をしている。母親に抱かれて、血まみれなのに、安らかに眠ることが出来ないでいるのだ。我が子を守りたい母親の心が、我が子を苦しめている。クランシーが剣を振りかざした。
『やめて!』
母親は赤ん坊を自分の腕で守った。腕に食い込むクランシーの剣。赤ん坊の痩せこけた顔に母親の血が一滴垂れた。
『いい加減にしてやれよ!楽にしてあげろよ。我が子を死なせる罪なら、俺が代わりに背負ってやる。天国で思う存分遊んでやれよ!もう、このガキに、俺の醜い姿なんて…見せないでくれ!』
あれ?王国に戻っている…?
王国の人々が熱烈に還ってきた兵士を迎えている。王国の人々は、皆、涙を流している。でもそれは、愛する者を失った悲しみからではなかった。王国で初めて、兵士が全員生還した戦いだったのだ。
『リオンドール陛下!万歳!』
赤ちゃんを抱えた女の人と抱き合っている男の人が叫ぶと、他の人々もそれに続いた。
『万歳!万歳!』
ピンクや黄色の花々が兵士の上を舞っている。緑や紫の鳥たちが歌っている。王国に生きる全ての魂が、リオンドールを讃えている。クランシーが、アンバーと別れた家の前で誰かを探している。
『アンバー…?』
アンバーの姿がない。女は皆、男を迎えに行ったのに。
『どちらさまですかね』
家の中から、エプロンを付けた50歳くらいのおばさんが出てきた。クランシーは彼女を見て、家を間違えていないか確認した。でも、間違いなくここは、クランシーがアンバーを抱きしめた場所。
『あの、ここに住んでいた女性って…』
『ああ、』
おばさんは何かを知っているようで、パンっと手を叩いた。
『前に住んでいた人ね、赤ちゃんが生まれた直後に亡くなってしまったらしいのよ。噂では赤ちゃんも亡くなってしまったってねー、私にも子供がいるから気の毒で気の毒で』
クランシーは橋の下で地面にうなだれて腰を下ろしていた。そこは、クランシーが初めてアンバーに出会った場所だった。
『俺たちの子…アンバーが…死んだ?…おい、これはお前らの俺に対する報復か。お前らを殺した俺が…憎いだろうな。でも、俺にも、愛した人がいたんだ…』
クランシーが空を仰いだ。朱色の瞳は、絶望と後悔と懺悔を宿していた。
『アンバー…アンバー!!』
クランシーの悲痛な叫び声が橋の下をこだました。リオンドールは間違いなく、王国の民を、クランシーを守ろうとした。だが、自然の定めには抗うことが出来なかったのだ。赤ちゃんや幼児の笑い声が市場から聞こえてくる。
『…いいな…』
王国が歓喜に満ちる中、ただ一人の男だけが悲嘆に暮れていた。
同じころ。リオンドールもまた、愛する者の死を目の当たりにした。
『王妃は間違いなく、ご懐妊…なさっておいででした』
金色の瞳が絶望に揺れる。
『懐妊、していたとはどういうことだ』
『…流産なさいました。王妃は…お子と一緒にいらっしゃいます』
リオンドールが胸の中から、王妃の肖像画のキーホルダーのようなものを取り出した。王妃の瞳は、朱色。リオンドールが愛した色だった。
『朱色の瞳は、私を拒絶するのか…?我が弟、我が王妃よ…龍王様、獅子王様、あんまりです。私から愛を奪わないでくださいませ。罪ならば貴方様の元へ参った時にいくらでも背負いましょう。人生、わずか100年。どうか、せめてその間だけは、私に愛をくださいませ…』
金色の瞳が、一筋の涙を流した。今日、双子は、自分の愛を奪われた。自分に愛という感情を教えてくれた人を、守ることが出来なかった。愛のために戦いに行った男を迎え入れたのは、ただの空虚だった。
『陛下、至急こちらへお越しくださいませ』
あの伝令の少年がリオンドールのところへやってきた。リオンドールはしばらく王妃の肖像画を眺めると、大切なアルバムをそっと棚の奥にしまい込むように、胸の内ポケットにしまった。
『何の用だ、伝令。』
リオンドールは月光石が散りばめられた大理石の王座に腰を下ろした。リオンドールは背もたれに背中を預けて天井を仰いでいる。涙はもう流していない。一つの国を治める人間として、私情に支配されるわけにはいかなかったのだ。だが、金色の瞳は輝きを失っている。伝令が何かを胸に抱いている。焦げ茶色の毛布が何かを優しく包んでいる。リオンドールはその毛布に気が付くと、王座に腰を下ろしたまま、目を丸くして毛布を指さした。
『何故それをそなたが持っているのだ』
それは、まごうことなき、リオンドールとクランシーを包んでいたあの毛布だった。
『王城と城下町の間に川が流れておりますのを陛下もご存じのこととお見受けします。市場の視察からの帰途に赤子の泣き声が川から致しましたので、拾い申し上げた次第でございます』
リオンドールは腕を下ろした。
『孤児は孤児院に預けるしきたりではなかったか』
『ご無礼をお許しください』
伝令はそう言うと、毛布にくるまれた赤子を抱いてリオンドールの前に立った。
『陛下に一度ご覧いただきたく』
伝令が毛布を取り除くと、眠った赤ちゃんが姿を現わした。淡いオレンジ色の柔らかい髪。伝令が赤ちゃんの柔らかい頬を指でそっと突くと、赤ちゃんが目を開けた。
『この瞳は…!』
朱色と琥珀色が混ざった瞳。それは、そう、楓色。この赤ちゃん、もしかして…?
『赤子のすぐ隣に母親と思しき女性が息絶えておりました。出産直後なのか、股から血が流れておりました。おそらく、赤子の父親は先の戦いで徴兵されていて、赤子の面倒を見ることが出来るのは母親だけだったと思われます。しかし、最期を悟った母親が、誰かに拾われることを祈って赤子を捨てたのでございましょう』
伝令が淡々と見たことをリオンドールに報告している間、リオンドールの瞳は絶えず揺れ動いていた。困惑と喜びと感謝と安堵。
『ああ、そなたは我を愛してくれるか…?そなた、私を父にしてはくれまいか…私が大切な者たちを愛せなかった分、人生を懸けてそなたを愛し続けると誓おう』
次の日。リオンドールは第一王女の誕生を王国の民に知らせた。王妃が流産し、子どもの後を追った事実を封印して。王妃はもともと病弱だったようで、リオンドールが王妃の死を「出産に伴う感染症による病死」と報告しても、誰もリオンドールを疑う者はいなかった。赤子を連れてきた伝令を除いては。
王国中に祝福の鐘が鳴る。
『へえー、あいつ、子供が生まれたのか』
クランシーが祝いの旗を高々と掲げる王城を見ている。
『帰る家、無くなっちまったな…』
クランシーが帰る当てもなく、フラフラと街へ戻っていった。龍王と獅子王の装飾が施された巨大な旗が、王城の頂上でたなびいていた。
『弟よ、これがそなたの過去。許せ…いや、許さない。そなたが愛した人は、私が愛したかった人。彼らの死に向き合おうとすらしなかった兄を…思う存分罵ってくれ』
リオンドールが駆け付けた頃には、子供達はもう、天国への入り口を見つけてしまっていた。
『陛下。お急ぎくださいませ。このままでは、あの民までもが命を奪われてしまいます』
伝令の男は硬直しかけた少年の遺骸を抱いたまま、市場の方を見ている。花で作った冠を乗せて、追いかけっこをしている少女たち。木の棒を振り回しながら、じゃれ合っている少年たち。リオンドールは、はだけた毛布を再びしっかりと顔に巻くと、橋の下から王城を目指して走り出した。
『陛下、この子らはどういたしますか』
伝令がリオンドールの背中に声をかけた。
『…弔ってやれ、丁寧に。まずは、王城にて緊急、作戦会議を開く。至急、王国の兵を集め援軍を要請しろ。…名もなき無実なる子よ。今しばらく、そなたを置いていってしまう私を許してくれ…伝令!参れ!』
橋の下でのただ事ならぬ様子に市場の人達が気付き始めて、顔を覆った「謎の男」を訝しそうに見ている。リオンドールは構わず、王城へ走っていく。伝令はリオンドールの身を守るように、常に背後にいた。王国の人々は、リオンドールが守りたい人。彼らを守るために、リオンドールが守りたかった命たちを置いていく。そしてきっと、王国から集められる兵士には、少なからず王国の若い男たちも含まれるはず。じゃあ、クランシーも…?リオンドールが愛したい人が、リオンドール自身の決定次第で命を失うかもしれない…。人間は、すべてのものを守ることは出来ないの?
数日後。王国の民に召集がかかった。召集される若い男の中には、クランシーも含まれている。剣や弓矢一式を背負った若い男たちが、恋人に、妻に、姉に、妹に、母に、娘に別れを告げている。
『死なないってばよ、何回言ったら分かるんだ』
同じような言葉があちらこちらから聞こえてくる。でも、どの声も震えている。恐怖に怯える自分自身を必死に奮い立たせようとしているのだ。
『アンバー、行ってくる』
クランシーは一度アンバーを強く抱きしめると、王城へ歩き出した。振り返ることなく。振り返ってしまえば、守りたいものを守りに行く勇気が出なくなってしまうから。アンバーは王城へ向かうクランシーの後ろ姿を見送っていた。涙を流すことなく。涙を流してしまえば、愛する男が死んでしまう気がしたから。アンバーのお腹は、まだ膨らんでいない。クランシーとアンバーは、まだ、命よりも大切な存在に気付いていない。男たちが王城に向かう途中の橋に差し掛かった。橋の下には、小さな石碑が寂しく置かれていて、新しい花が添えられていた。
王城から馬に乗ったリオンドールが姿を現わした。馬の毛色は深い茶色で、たてがみは本当の金で出来ているかと思わせるほどの金色。リオンドールは焦げ茶色の軍服に、ライオンの勲章を胸に付けている。数千人、数万人の兵士を前に、リオンドールが馬に乗ったまま演説をし始めた。リオンドールの瞳は、確かに兵士たちの姿を映しているはずだった。でも、庶民から徴兵されたクランシーたちは、リオンドールから最も離れたところに並ばされていた。
『私の名は、リオンドール。獅子王様の御遺志を受け継ぐものだ』
クランシーの瞳に憎しみが宿った。
『なんで、あいつのために死にに行かないといけないんだ…』
リオンドールはクランシーがいることに気付いていなかった。
『諸君は、獅子王様の子。獅子王様が愛される者たちだ。諸君には、愛する人がいる、守りたいものがある。私にも、愛し守りたいものがいる!それは諸君、皆のものだ!王国の未来は、そなたたちがあってこそ。私の命は、そなたたちがあってこそ!』
リオンドールが腰に差した剣を抜いて、空に高くかざした。
『戦いは今、我々の目前に迫っている。諸君、愛する者の笑顔を思い浮かべ給え。死は、愛する者を守ることが出来たという証…諸君!諸君の命は、私の命だ!たとえ我が命が滅ぼされようとも、私は諸君を、諸君が愛する者から奪いはしない!愛する者がいることを誇れ!愛してくれる者がいることを誇れ!生きていられることを誇れ!皆の者、私の後に続け!』
馬のいななき。兵士の雄叫び。クランシーの瞳には、もはや憎しみも恐怖も宿ってはいない。クランシーの瞳には、リオンドールの姿が映っている。クランシーがリオンドールを兄として受け入れたかは分からないけれど、間違いなく、この瞬間、クランシーは一人の王族を受け入れたのだ。
…これは?戦場…?
どんよりとした灰色の空。人間だったかもしれないものが、至る所に横たわっている。カラスがそれらを啄んでいる。リオンドールの姿はない。クランシーも。戦っているような気配はしない。カラスの鳴き声とハエのは音だけが聞こえる。戦いが、終わった後…?
『子供だけは!』
若い女の人の悲痛な叫び声が静寂を破った。血で汚れた煉瓦。家の面影は残っていない。母親と思われる若い女性が、赤ちゃんを男に渡さないように抵抗している。殴り、蹴とばし、叫び、罵る声。男は朱色の瞳を持っている。クランシーだ。
『私を殺して!子供は殺さないで!』
クランシーが持っている剣が赤ちゃんの首に当てられている。剣の先が震えている。クランシーは怖れているのだ。自分が、人でなくなってしまうことを。
『でもよ、そのガキ…』
赤ちゃんの下半身がない。だけど、確かに母親の腕の中で息をしている。母親に抱かれて、血まみれなのに、安らかに眠ることが出来ないでいるのだ。我が子を守りたい母親の心が、我が子を苦しめている。クランシーが剣を振りかざした。
『やめて!』
母親は赤ん坊を自分の腕で守った。腕に食い込むクランシーの剣。赤ん坊の痩せこけた顔に母親の血が一滴垂れた。
『いい加減にしてやれよ!楽にしてあげろよ。我が子を死なせる罪なら、俺が代わりに背負ってやる。天国で思う存分遊んでやれよ!もう、このガキに、俺の醜い姿なんて…見せないでくれ!』
あれ?王国に戻っている…?
王国の人々が熱烈に還ってきた兵士を迎えている。王国の人々は、皆、涙を流している。でもそれは、愛する者を失った悲しみからではなかった。王国で初めて、兵士が全員生還した戦いだったのだ。
『リオンドール陛下!万歳!』
赤ちゃんを抱えた女の人と抱き合っている男の人が叫ぶと、他の人々もそれに続いた。
『万歳!万歳!』
ピンクや黄色の花々が兵士の上を舞っている。緑や紫の鳥たちが歌っている。王国に生きる全ての魂が、リオンドールを讃えている。クランシーが、アンバーと別れた家の前で誰かを探している。
『アンバー…?』
アンバーの姿がない。女は皆、男を迎えに行ったのに。
『どちらさまですかね』
家の中から、エプロンを付けた50歳くらいのおばさんが出てきた。クランシーは彼女を見て、家を間違えていないか確認した。でも、間違いなくここは、クランシーがアンバーを抱きしめた場所。
『あの、ここに住んでいた女性って…』
『ああ、』
おばさんは何かを知っているようで、パンっと手を叩いた。
『前に住んでいた人ね、赤ちゃんが生まれた直後に亡くなってしまったらしいのよ。噂では赤ちゃんも亡くなってしまったってねー、私にも子供がいるから気の毒で気の毒で』
クランシーは橋の下で地面にうなだれて腰を下ろしていた。そこは、クランシーが初めてアンバーに出会った場所だった。
『俺たちの子…アンバーが…死んだ?…おい、これはお前らの俺に対する報復か。お前らを殺した俺が…憎いだろうな。でも、俺にも、愛した人がいたんだ…』
クランシーが空を仰いだ。朱色の瞳は、絶望と後悔と懺悔を宿していた。
『アンバー…アンバー!!』
クランシーの悲痛な叫び声が橋の下をこだました。リオンドールは間違いなく、王国の民を、クランシーを守ろうとした。だが、自然の定めには抗うことが出来なかったのだ。赤ちゃんや幼児の笑い声が市場から聞こえてくる。
『…いいな…』
王国が歓喜に満ちる中、ただ一人の男だけが悲嘆に暮れていた。
同じころ。リオンドールもまた、愛する者の死を目の当たりにした。
『王妃は間違いなく、ご懐妊…なさっておいででした』
金色の瞳が絶望に揺れる。
『懐妊、していたとはどういうことだ』
『…流産なさいました。王妃は…お子と一緒にいらっしゃいます』
リオンドールが胸の中から、王妃の肖像画のキーホルダーのようなものを取り出した。王妃の瞳は、朱色。リオンドールが愛した色だった。
『朱色の瞳は、私を拒絶するのか…?我が弟、我が王妃よ…龍王様、獅子王様、あんまりです。私から愛を奪わないでくださいませ。罪ならば貴方様の元へ参った時にいくらでも背負いましょう。人生、わずか100年。どうか、せめてその間だけは、私に愛をくださいませ…』
金色の瞳が、一筋の涙を流した。今日、双子は、自分の愛を奪われた。自分に愛という感情を教えてくれた人を、守ることが出来なかった。愛のために戦いに行った男を迎え入れたのは、ただの空虚だった。
『陛下、至急こちらへお越しくださいませ』
あの伝令の少年がリオンドールのところへやってきた。リオンドールはしばらく王妃の肖像画を眺めると、大切なアルバムをそっと棚の奥にしまい込むように、胸の内ポケットにしまった。
『何の用だ、伝令。』
リオンドールは月光石が散りばめられた大理石の王座に腰を下ろした。リオンドールは背もたれに背中を預けて天井を仰いでいる。涙はもう流していない。一つの国を治める人間として、私情に支配されるわけにはいかなかったのだ。だが、金色の瞳は輝きを失っている。伝令が何かを胸に抱いている。焦げ茶色の毛布が何かを優しく包んでいる。リオンドールはその毛布に気が付くと、王座に腰を下ろしたまま、目を丸くして毛布を指さした。
『何故それをそなたが持っているのだ』
それは、まごうことなき、リオンドールとクランシーを包んでいたあの毛布だった。
『王城と城下町の間に川が流れておりますのを陛下もご存じのこととお見受けします。市場の視察からの帰途に赤子の泣き声が川から致しましたので、拾い申し上げた次第でございます』
リオンドールは腕を下ろした。
『孤児は孤児院に預けるしきたりではなかったか』
『ご無礼をお許しください』
伝令はそう言うと、毛布にくるまれた赤子を抱いてリオンドールの前に立った。
『陛下に一度ご覧いただきたく』
伝令が毛布を取り除くと、眠った赤ちゃんが姿を現わした。淡いオレンジ色の柔らかい髪。伝令が赤ちゃんの柔らかい頬を指でそっと突くと、赤ちゃんが目を開けた。
『この瞳は…!』
朱色と琥珀色が混ざった瞳。それは、そう、楓色。この赤ちゃん、もしかして…?
『赤子のすぐ隣に母親と思しき女性が息絶えておりました。出産直後なのか、股から血が流れておりました。おそらく、赤子の父親は先の戦いで徴兵されていて、赤子の面倒を見ることが出来るのは母親だけだったと思われます。しかし、最期を悟った母親が、誰かに拾われることを祈って赤子を捨てたのでございましょう』
伝令が淡々と見たことをリオンドールに報告している間、リオンドールの瞳は絶えず揺れ動いていた。困惑と喜びと感謝と安堵。
『ああ、そなたは我を愛してくれるか…?そなた、私を父にしてはくれまいか…私が大切な者たちを愛せなかった分、人生を懸けてそなたを愛し続けると誓おう』
次の日。リオンドールは第一王女の誕生を王国の民に知らせた。王妃が流産し、子どもの後を追った事実を封印して。王妃はもともと病弱だったようで、リオンドールが王妃の死を「出産に伴う感染症による病死」と報告しても、誰もリオンドールを疑う者はいなかった。赤子を連れてきた伝令を除いては。
王国中に祝福の鐘が鳴る。
『へえー、あいつ、子供が生まれたのか』
クランシーが祝いの旗を高々と掲げる王城を見ている。
『帰る家、無くなっちまったな…』
クランシーが帰る当てもなく、フラフラと街へ戻っていった。龍王と獅子王の装飾が施された巨大な旗が、王城の頂上でたなびいていた。
- 1.開始せよ(1)
- 2.開始せよ(2)
- 3.開始せよ(3)
- 4.扉(1)
- 5.扉(2)
- 6.灰色(1)
- 7.灰色(2)
- 8.灰色(3)
- 9.混血(1)
- 10.混血(2)
- 11.混血(3)
- 12.いのち(1)
- 13.いのち(2)
- 14.仮面(1)
- 15.仮面(2)
- 16.仮面(3)
- 17.思い出せ(1)
- 18.思い出せ(2)
- 19.楓(1)
- 20.楓(2)
- 21.兄の過去(1)
- 22.兄の過去(2)
- 23.伝えられなかった「すき」 エピソード1
- 24.海の少年(1)
- 25.海の少年(2)
- 26.伝えられなかった「すき」 エピソード 2
- 27.王国の真実(1)
- 28.王国の真実(2)
- 29.王国の真実(3)
- 30.王国の真実(4)
- 31.王国の真実(5)
- 32.桜
- 33.眠った記憶(1)
- 34.眠った記憶(2)
- 35.眠った記憶(3)
- 36.眠った記憶(4)
- 37.眠った記憶(5)
- 38.記憶よ、目覚めよ(1)
- 39.記憶よ、目覚めよ(2)
- 40.記憶よ、目覚めよ(3)
- 41.休憩タイム(1)
- 42.休憩タイム(2)
- 43.休憩タイム(3)
- 44.伝えられた「すき」
- 45.謎解きゲーム(1)
- 46.謎解きゲーム(2)
- 47.隠された宇宙(1)
- 48.隠された宇宙(2)
- 49.隠された宇宙(3)
- 50.隠された宇宙(4)
- 51.死者の想い(1)
- 52.死者の想い(2)
- 53.死者の想い(3)
- 54.死者の想い(4)
- 55.親子(1)
- 56.親子(2)
- 57.親子(3)
- 58.親子(4)
- 59.親子(5)
- 60.こどもたち(1)
- 61.こどもたち(2)
- 62.ほこり(1)
- 63.ほこり(2)
- 64.食う(1)
- 65.食う(2)
- 66.食う(3)
- 67.本当の自分(1)
- 68.本当の自分(2)
- 69.本当の自分(3)
- 70.宿題との戦いの末、2人の高校生男子「死す」
- 71.別れ(1)
- 72.別れ(2)
- 73.喧騒に紛れて
- 74.仮面を脱げ
- 75.名前は
- 76.虚構と真実
- 77.ヨミガエル
- 78.迷宮
- 79.橋を渡る、境目を越える
- 80.罪人の証
- 81.真実との対峙
- 82.扉を開ける前に
- 83.浜辺の宵
- 84.目隠し
- 85.鏡の中
- 86.夜明け
- 87.誕生日
- 88.真実の足枷
- 89.覚悟の時
- 90.逃避
- 91.罪と真実と
- 92.父の懺悔
- 93.best friend
- 94.兄弟
- 95.境界線