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狭間に生きる僕ら

#86

夜明け

「え……」
俺がそう呟いた時、池の中のドラゴンの口もまた、ブルブルと慄くように震えていた。
「この青い龍が、俺の前世だって言うんですk…うわ!!」
突然、池の水が自我を持ったように激しく泡を吹き始めた。そして、凍てつくように冷たい水が、わざとなのかと思うほど正確に俺の両目を狙って飛んできた。雪解け水のような冷たさが目の奥に染みる。何度か瞬きをするうちに、世界がほんの少しだけ明るく見えた。目元の水を拭い、ふと空を見上げれば、そこには清々しいほどの真っ青な空が広がっていた。煙臭かった筈の風は、僅かに甘い花の香りを運んでいる。
「何で…」
池の水は、何事も無かったかのようにシンと静まり返っている。水面は鏡のように見えていた筈が、今は透明な水が底深くまで積み重なっているのが見える。
「ちょっと後ろを見てみ」
「サファイy…」
俺の隣にいたサファイヤは、確かに人間姿だったはず。それなのに、今、俺の目の前にいるのは、紛れもなく池に映っていた首長竜だった。俺は恐る恐る、サファイヤの身体に手を伸ばそうとした。暫く水に浸かっていないためか、多少は乾燥しているが、傷一つない滑らかな胴体の触り心地が気持ち良さそうだったから。
「あれ」
サファイヤの身体に手を伸ばしたのは、俺の手では無かった。真っ白の大きな鉤爪のある、ティラノサウルスのような手。「俺」の手は、不気味なくらいに真っ青だった。
「真実の樹池の水が目に入ったから、世界の真実が見えるようになったみたいだね」
サファイヤはそう言って、俺に後ろを向くように促した。俺はサファイヤの指示に従って、恐る恐る、サファイヤが首で指し示す方に視線を向けた。そして、俺の視界の隅から、「悪夢だったはずの」世界が徐々に姿を現した。

俺が振り向いた先に広がっていたのは、何処までも広がる花畑だった。色鮮やかな地平線は、俺が見渡す限り何処までも永遠に広がっている。右手には赤や紫の、左手には緑や黄色の、遥か遠くには白やピンクの花々が、暖かい風に静かに揺られていた。
「もう一度聞くけど、君の顕在意識には前世の記憶が全然無いんだっけ」
サファイヤは、大きなヒレで自分の腹を人間みたいにポリポリと掻きながら、花畑を呆然と眺める俺に尋ねた。
「今思えば……記憶の片鱗はあったんじゃないかって……」
俺は幼少期から、特に何の理由もなくドラゴンが好きだった。中でも、青い龍は何故か俺の一番のお気に入りだった。
「今思えば、自分が前世に人間とドラゴンが共生した世界に生きていたし、自分自身がドラゴンだったから、無意識に恋しく思っていたのかなって……」

だけど……。
サファイヤはさっき、池の中の水が俺の眼に入ったから、俺が世界の真実を見ることが出来るようになったかもしれないと言った。サファイヤの本来の姿は首長竜であって、人間姿は嘘。俺の眼は、俺が意識しなくても、自ずとサファイヤの本来の姿を見るようになったのだ。

だとしたら、俺は…?
俺は今、自分の前世にいる。俺は前世でも自分が人間だったと勝手に思い込んでいた。でも、それはこの世界では嘘だった。池の水が俺の眼に入るまで、俺はその嘘に気付けなかった。この世界では、俺の本当の姿は、青い龍……サファイヤやウルフさん達の言う宮司龍臣なのだ。

それなら……悪夢は?
悪夢の世界は、池の水によって突如として、まるで天国のような世界に姿を変えた。この極楽浄土のような世界が真実ならば、俺はいったい何故悪夢という虚構に長年苛まされてきたのか。

「サファイヤさん、今、貴方は人間姿ですか」
「うん。あ、言い忘れてたわ。ウルフとバットに教えてもらったんだけど、龍獅国王族に仕えたドラゴンの眼は、嘘を見破り真実を見る能力に長けてたんだって。だから君も、流石、俺が今人間姿でいても、ちゃんと首長竜に認識するわけだ」
「はい?」

俺が、王族に仕えていた?



その途端、俺の脳裏を不気味なノイズが喧しく流れた。

『メイプル様』
『生きてくれ!!』
『殺すしかないのか……?』
『あの2人、孤児です』
『禁忌を犯した』
『ごめんなさい……!!』

「うわあぁ!!」
俺は頭を抱えて座り込みたかったが、ドラゴンの体型ではそれが出来なかった。俺は地面に平伏し、鉤爪で地面を固く握った。

ドクン…ドクン…ドクン…ドクン…

俺の心臓が胸の中で藻掻き苦しむ。全身が燃えるように熱い。鉤爪はますます鋭く伸び、地面に深く突き刺さる。震える俺の両手から両腕、足から脚へと、青かった皮膚が朱色に染まっていく。
「あらららら…」
サファイヤは、少し上品なおばさまのように口元にヒレを付けて、呆気に取られたように俺を見下ろしていた。そして、途方に暮れたように、雲一つない眩しい空を仰いだ。
「ドラゴン姿で吸血鬼化しちゃったか……。あれ……?ソクヒョンの吸血鬼化って、ウルフとバットにしか見えないんじゃなかったっけ」
サファイヤはゆっくりと首を回し、真実の樹池に視線を向けた。暫くして、納得したように首を静かに縦に振った。
「池の水が蒸発して俺の眼にも入ったってことね」
「サファイヤさん!!そんな事より……」
俺の鼓動は、ますます早く胸を叩く。脳裏に流れた俺の声が耳の中に木霊している。俺が知らなかったはずの前世の記憶が、今にも俺の目の前に現れようとする音がする。
「サファイヤさん、メイプル様って誰ですか。孤児って何の話ですか。禁忌って何の話ですか。俺は誰を……殺し………たんですか」
俺は全てを吐ききって、ゼエゼエと汚い息を吐きながらサファイヤを見上げた。
「前世を思い出してきたみたいだね」
サファイヤの透き通るような声が、穏やかな花畑に静かに響いた。サファイヤの瞳は、俺の心とは全く違って、嫌なくらいに爽やかな光を宿していた。
「前世を見に行く時、前世の自分が今の自分だとは思わないようにね。リアリティのある映画を観るくらいの気持ちでいれば良いよ。あ、夜が明けそう。今日はここまで」
「サファイヤさん!」
サファイヤの姿が、徐々に透明になっていく。サファイヤの向こうに、金色の大きな岩があることに初めて気が付いた。
「待って下さい!」
俺はサファイヤに手を伸ばしたが、サファイヤの身体は幽霊のように形を持っていなかった。
「夢を見て疲れるなんてこともあるでしょ。君がアイドルなら睡眠は何より大事。夢の続きは明日に見ようよ。じゃあね」
「サファイヤさん、待って!!」

[水平線]

[水平線]

「はあ…はあ…はあ…」
気がつけば俺は、両腕を天井に突き出す形でベットに仰向けになっていた。俺の身体は元通り人間に戻っていた。掛け布団は雑に蹴落とされている。
「サファイヤさん?」
ベットサイドに置いておいた水槽に、金魚も何もいなかった。でも、確かに直前まで何かが泳いでいたようだ。夜明けの淡い紫色の空を背景に、水槽の中の水は揺ら揺らと静かに揺れている。
「俺の…前世…」
俺は自分の左胸に右手を当てた。心臓のゆったりとした落ち着いた鼓動が、手の平に僅かに伝わってくる。俺の脳裏を流れたノイズは、今もまだ耳の奥で何度も何度も繰り返される。

夜明けを迎える空は、あまりにも美しくて何処か儚げで、寝起きの眼に染みた。

俺はほんの一瞬だけ、真実を恨み、嘘に溺れていれば良かったと後悔した。
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2025/09/04 20:50

花火
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