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狭間に生きる僕ら

#82

扉を開ける前に

人々の静かな話し声に、お洒落なジャズの音楽が小雨のようにシンシンと降り注ぐ。俺は透明な水滴の粒が付いたプラスチックのコップを手に取った。
『おい、バット』
『はいはい』
俺は今、スタ◯で期間限定のドリンクを片手に大学のレポートを書きながら、バットに交信している。バットは今、大学の講義を終えた直後くらいのはずだ。KORJAたちはあの晩から間もなく韓国に戻り、今は確かアメリカで公演中だ。

俺達は最近になって、よく吸血鬼交信を使うようになった。それは、イ・ソクヒョンの吸血鬼化について話し合うため。他の人も沢山いる場所で、電話を使ってやり取りするのは言語道断。LINEは、どちらか一方がスマホを使ってはいけない状況だと何の役にも立たない。吸血鬼交信は、向こうさえスイッチをオンにしておけば、いつでも何処でも使えるクソ便利なスマホみたいなもの。

『俺さ、今スタ◯で飲みながら考えてたんだけどさ』
『はいはい』
『まずは本当にイ・ソクヒョンの前世が宮司龍臣で、本当にドラゴンの禁忌を犯したのかを確かめないといけないよな』
『うん』
『で、どうやって確かめる?サファイヤにイ・ソクヒョンの前世の記憶を覗いてもらうか?』
『でもそれって、イ・ソクヒョン本人がいないと駄目だろ』
『…確かに』

「う〜う…ん…」
俺はスマホとドリンクを木製の机の上に置き、腕を伸ばして首をゆっくりと回した。俺の首の骨がポキポキっと音を立てる。
サファイヤの異能は実に便利なのだが、本人が目の前にいないと使えないのがネックだ。イ・ソクヒョンだって頻繁に日本に来れるわけではないし。サファイヤが韓国に行ってあいつに会うのも非現実的。サファイヤが人間姿で会いに行ったとて、ソクヒョンに会わせろなんて言ったら、過激なファンとしか思われずに追い返される未来しか見えない。

ん…?

人間姿じゃなければ…?

サファイヤは首長竜だが、魚だとか微生物だとか、人間も含めていろんな生物に変身できる。サファイヤは遠隔地に瞬間移動する術も身に付けてある。

もし、サファイヤが水槽の中の魚としてソクヒョンに近付ければ…。
ソクヒョンさえ、何か魚を飼っていれば…。
いや、水槽を買って水を入れて準備してろ、と頼むか…?

俺はレポートを切り良いところまで仕上げて、KORJAのライブの日程等をKORJAのHPで調べた。ソクヒョンに何かしら吸血鬼交信を出来れば良いけど、向こうの仕事中に送ってしまうと迷惑がかかる。
『ウルフさん。僕です。届いてますか?』
『どした?』
まさかのソクヒョンの方から俺に交信が来た。
『吸血鬼交信とやらを試してみました。今はお手洗いにいるところです』

ナイス…!!
『貴方に頼みたいことがあるんだけど…。変なこと聞くけど、水生生物飼ってたりする?魚とか亀とか』
俺の不思議な質問に戸惑っているのか、暫く返事は返ってこなかった。が、スタ◯の店内にKORJAの曲のイントロが放送されたと同時に返事が来た。
『3年前まで金魚を飼ってましたが亡くなって、使ってた水槽が空のまま残ってる状態です』

よし…。よし…。

『実は俺の友人に、前世の記憶を覗ける友人がいる。その水槽に水を張って待っていてくれませんか。俺の友人が魚姿になって貴方に会いに行くように、近々頼んでおきますわ』
『……は?』

そうだろうな。
だが…どうしようか。
サファイヤが首長竜なのは今は伏せておくか。
どちらにせよ、水槽に首長竜が入るのは無理だ。
『友人の名前、サファイヤって言うんですけど、ある日水槽を見てみたら魚が一匹泳いでたらサファイヤだと思って下さい。ただ、そいつ、金魚姿でも人間みたいに喋りますから、他の人が来ないところに水槽を準備しておいて貰って良いですか』
『ちょっと待って下さい。ウルフさん…貴方何者なんですか…?』

ズゾゾッ…

ドリンクの味が段々と薄くなってきたと思っていたら、チャイが底を付きた。ストローには、氷の溶け水しか登ってこない。
『まあ…。そうっすね…』

俺達は吸血鬼で、普段は人間の振りをしている。公共交通機関に払うお金を節約したい時は、各々動物姿になって空を飛ぶ。イ・ソクヒョンだって、やろうと思えばやれるはず。ただ、動物姿にはならない方が良いかもしれない。もしかしたら。俺はふと、彗星やエメラルドのことを思い出して考えることがある。もしかしたら、イ・ソクヒョンの動物姿は、人間の創造の世界の存在かもしれない、と。
まあ…。俺もバットも似たようなもんか。

『あ。すみません、トイレに長く籠もりすぎてメンバーに心配されてるので、いったん失礼します』
イ・ソクヒョンはいつの間にか吸血鬼交信スイッチのオンオフも出来るようになったのか、それ以後、彼から交信が来ることは無かった。

さて。
サファイヤに韓国に行ってくれるように頼むか。
あ…。
そう言えばサファイヤ、韓国語話せるのかな。
っていうかサファイヤ、首長竜なのに何処で日本語を学んだんだ。

「おい…。おい…」
このスタ◯の店には、小さな観賞用魚が沢山泳ぐ水槽が置かれている。俺はその水槽の真横の席にいた。俺の真横をチロチロと彷徨く小さな水色の魚。その魚が俺を見ながら、訴える様に口をパクパクとさせる。
「…サファイヤ?」
俺は水槽に顔を近付けた。水槽に俺の顔が反射している。水槽の中の水を照らす青白いライトの光りが揺ら揺らと揺れる。
「何やってんの」
「今年の夏の海が異常に熱くてやってらんないよ。避難してきたんだ」
俺は今のままでは、水槽の中の魚とお喋りしている変質者。俺は、誰かから電話が来たふりをして、画面の消えたスマホを自分の右耳に当てた。40分後に大学のセミナーがある。ここから歩けば15分。信号待ちも考えると、余裕を持って20分前には店を出たい。だから、そんなにゆっくりもしていられない。
「サファイヤに頼みたい事があるんだけど」
サファイヤは、自分の体を限りなく水槽に近付けた。そして、辛うじて俺にだけ聞こえる程度の声量で、小さく叫んだ。
「俺、今、魚姿だから堂々と話すわけにはいかないんだよ」
こら。
人間に聞かれたら厄介なことを当たり前のように言うな。
俺はサファイヤの声に被せるように、辺りを注意深く見渡しながら続けた。
「韓国に行ってほしい」
「なんで」
サファイヤは限りなく小さな声で、俺の耳の高さを行ったり来たり泳ぐ。
「イ・ソクヒョンが、前に使っていた金魚の水槽に水を張って待っていてくれる。今晩を目安に韓国に移動してほしい。あいつの前世の記憶を読み取って、あいつが本当に前世でドラゴンの禁忌を犯したのか、俺達が勝手に推測してきたことが正しいのかを確かめてほしい」

あ…。ヤベ。
俺も人間に聞かれないほうが良いことを無意識に言ってしまった。俺はその事に、言ってしまってからやっと気が付いた。だが、周りにいる小さな子供たちのぐずり声や若者たちのお喋り、おばさん達の井戸端会議の騒々しさのおかげで、俺達は多少安心して話すことができた。

「でも、俺、ソクヒョン以外に誰もいないタイミングを見計らって行くのは現実的じゃない。この水槽、俺以外にも沢山魚が泳いでるだろ。だから俺が突然一匹増えたとて、それに気付く人は誰もいない。だけど、ソクヒョンが用意してくれる水槽って、俺以外には魚がいないんでしょ。万が一他の人が見てる中で、金魚が突然水槽の中に現れたらビックリするでしょ」

しまった…。盲点だった。

俺は確かにソクヒョンには、他の人が絶対に来ない場所に準備しておくように頼んだが、もしも彼の家に家族とか、彼以外の誰かが住んでいるのなら、誰も見ていないとは言い切れない。
「KORJAが所属してる事務所の建物の前に、水かさが少ない細い川がある。俺、そこで泳いで待ってるから、網とバケツを持って川に来るように頼んどいてくれる?」
「うん。うん。分かった。はあい」
俺は普通に電話を切るふりをして、元から付いていなかったスマホの電源の辺りを軽く触ってから、それをリュックにしまった。

そろそろ店を出よう。
俺は飲み干したコップとストローをゴミ箱に捨て、使い終わったトレーをカウンターに戻した。店を出る時、俺が座っていた席に視線をやると、サファイヤが小さなヒレをピロピロと一生懸命に動かして俺に手を振っていた。その小さな魚の目は、これから始まる新たな旅に心を躍らせるように、水色の光を宿していた。

吸血鬼交信には、実は留守電機能もある。あまり使わないだけで。
『ソクヒョンさん、ウルフです。悪いけど、事務所前の細い川に行って、網とバケツを持って一匹の魚を捕まえて欲しいです。そいつが俺が言った例の友人です。そいつが多分貴方に話しかけるので、喋る魚がいたら捕まえて下さい。遠慮なく』

これで良し。
店の自動扉が開く。
雲間から眩しい光が俺の目を、肌を焼く。
暑苦しい夏の空気が、俺をパクっと飲み込んだ。
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2025/09/02 13:09

花火
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