「役割分担をしよう」
そう若武が言って、私と黒木くんに嫌がらせの線を。
小塚くんと上杉くんには「秀明の教師か、先輩の警告」という線の調査命じた。
若武はこういう細々とした証拠集めはお好きではないようで、リーダーであることを口実に逃れようとしたけど、全員で却下。無理矢理「転売」の線の調査をやらせた。
本人はブツクサ言っていたが、自分の自転車が掛かっているんだ。本気でやるだろう。
そんなこんなで役割を決めていれば、すっかり遅くなっていた。
黒木くんとその相談をするつもりだったが、時間がないので明日、学校から帰って電話で連絡を取り合うことを決めて、今日は解散となった。
テキストを鞄に入れて、帰る準備が出来た頃。同じぐらいに準備が出来た黒木くんが、時計を見ながら言った。
「立花、遅いから送っていこうか?」
私は黒木くんの言葉に一瞬惚けながら、首を振った。
こういう、誰かを送迎するのってアメリカではよくあったけど、日本では家族以外にされた事がなかった。特に塾をやってる子なんか、自分の勉強や受験で忙しいし、早く帰らないと怒られるもの。
自分が一番だし、それが間違いだと思っていない。
だから、こうやって送っていこうか?と、自然に言われて驚いた。
周りの子も同じで、上杉くんは若武くんは唖然として、小塚くんなんか、目玉が落っこちそうなくらい目を見開いている。
黒木くんは、それでもばつが悪そうな顔は一切せず、あくまで自然に振る舞ってみせた。
「いや、いいよ。遅いのはお互い様だし」
お兄ちゃんと帰る約束もあるしね。
それに、好意はありがたいけど、そもそも知り合っても間もない人間に家の住所を教えたくない。
黒木くんは、それ以上何も言わずに、軽く肩をすくめて笑った。
「残念、振られたよ」
「もしかして今、口説かれてた?」
「いや、送る途中で口説く予定だったよ。でも、ここで振られたらしょうがない」
洋画のような動作だったけど、変な嫌味っぽさはない。
からかっているのかのか、本気かは分からないが、踏み込まれすぎると厄介なタイプなのは変わらない。私も社交辞令で笑顔を返して、手を振った。
「それ、言われたら余計に送られたくなくなるね」
黒木くんは両手を上げて降参ポーズを取る。
「余計な一言みたいだったね。……次は気をつけるよ」
「次がある前提なんだ」
「もちろん」
ばんちんと、音がしそうなウインクを一つ。
私は置いてけぼりな他3人に「お先に」とだけ声を掛けて、教室を出た。
黒木くんが追いかけてくることはない。軽口ばかりなのに、ちゃんと引き際をわかってる。……だからこそ厄介だ。
はぁ。
と、小さなため息を一つ。
そんなおりに、階段の影から「おや」と、小さく呟く声が聞こえた。
この声には聞き覚えがあった私は、またため息をつきたくなるのを持ち堪えながら、上にいるであろう声の主を見上げた。
「んんっ?その可愛らしい顔立ち。我が友、立花 祐樹の妹である綾嬢ではないかな?」
やや間を空けてから、私は答える。
「如何にも。私は立花 綾である……って、山月記じゃないんですよ」
「おお、さすが綾嬢。ノリツッコミとはやるね」
「それはよかったです。それで、こんなところで何してるんですか、七瀬さん」
にぃっと、チシャ猫のように笑うのは、兄の友人こと、七瀬 鳴海。
どっちが苗字か分かりにくい上に、人によっては鳴海が苗字だと平然と嘘をつくタイプ。……つまり、変人の部類に入る人。
「いやぁ、何も?強いて言うなら、何かしてたのは綾嬢のほうじゃないのかい?」
蛍光灯の光が、階段の影に落ちる。
その人は、細身の体にスラックスを履いて、まるで映画のワンシーンみたいに手すりにもたれていた。
声は低く、柔らかく響く。
けれど、どこか女の人のような滑らかさがあった。
「情報が早くて何よりです。ところで、お兄ちゃんは?」
「祐樹ならそろそろ自習室を出た頃じゃないかな。この階段で降りたら鉢合わせできると思うよ」
「相変わらず心配性だなぁ……」
「あははっ。確かに過保護かもしれないが、すぐにどこか行ってしまう綾嬢には丁度いいぐらいだろう」
女とも男とも、子供とも大人とも言えない曖昧な美貌に、チシャ猫みたいな笑みが浮かんだ。
どうからかってやろうか、とでも言いそうな笑顔だ。この場合、からかわれるのは私かお兄ちゃんか。あるいは二人まとめてからかわれるのか。
七瀬さんは黒いローファーで階段を降りて、うやうやしく私の手を取った。
「さて、ここで駄弁っていても仕方ないからね。さっさと祐樹のところに行こう」
階段を降りながら、七瀬は軽やかに私の手を握ったまま、口元に微笑みを浮かべる。
その目は、ただの兄の友人の好意ではなく、どこか計算されているような輝きがあった。
「黙って降りるのもつまらないし、なぁ綾嬢、せっかくだから色々話そう」
私は眉をひそめた。
「色々って、何を?」
七瀬は小首をかしげ、わざとらしく囁く。
「ふふ、もちろん君たちが調べようとしている消えた自転車についてさ」
七瀬さんは、ダンスのように、踊り場でくるっと回った。
蛍光灯の光を受けて髪の毛が軽やかに輝いた。
学校と秀明の両方でファンクラブがあるらしい七瀬さん。
今の学校を選んだ基準は偏差値でも校風でもなく、女子でもスラックスを選べるかという一点のみ。七瀬さんは本当にそこに行って、スラックスを選んだ。
すらっと長く細い足を紺色のスラックスで包んで、アイロンの効いたワイシャツにネクタイを締めれば、完璧な王子様。
胸の膨らみに気が付かなかったら、私も男の人だと思っていただろう。
「勘のいい綾嬢のことだ。犯人がどうやって自転車を持って行ったのかぐらい、もう大体の目星はついているんだろ?」
階段をゆっくりと降りていく七瀬さんの声は中世的で艶やだった。
語尾をあげて疑問系にしているというのに、声音は言い切るようなニュアンスを感じるのは気のせいだろうか。
一介の友人の妹でしかない私に、一体何を期待しているのかは知らないが、私がするのは「さぁどうでしょう」と言って流すだけ。
「嘘だね。綾嬢、君は道路にあったタイヤ跡や電柱の傷跡にも気づいていたはずだ」
「……なんで七瀬さんが知ってるんですか」
「知らないのかい?西側階段の屋上扉は他の扉と比べてピッキングしやすい鍵なんだよ。少々弄ったら絶好のサボりポイントになる」
なんでこの人は、サボって、上から私たちを眺めていたと堂々と言えるのだろうか……。
いやまぁ、昔からこういう人だと分かってるから今更文句はないけど、こんな言い笑顔で言われてもなぁ。
「君の遊びにとやかく言うつもりはないが、言わなさすぎるのも信用問題だ。適度に情報を小出しにしていかないと、人の心は掴めないよ」
「七瀬さんが言うと説得力がありますね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
階段を降りきる頃、ガラス扉の先にお兄ちゃんがいた。
自習室を出て、どこかの赤本が並べられた棚に寄りかかっている。七瀬さんは私の手を軽く握り直し、私をお兄ちゃんの方向へ導く。
「自転車が消えた路地。目立つ痕跡は何もないが、君なら気づいただろう。タイヤ跡、チェーンの残骸、周囲の物の微かな変化_____もう気づいているんだろ?」
チェーンのコーティング用のゴムは、引きちぎられたように裂けていた。
タイヤ跡は何度も通ってできたものではない。かといって、スリップ痕でもない。
すえ切りのような、ほとんど停車に近い状態でハンドルを大きく切ったような跡。
さらに、電柱には何かが引きずられたような傷が残っていた。
ここから考えるに、犯人は「自転車を盗んだ」というより、「車に巻き込んでしまった」と見るのが自然だ。
盗むのが目的なら、もう少し丁寧にやるはずだし、ぶつかれば車の損傷も避けられないと誰だって分かる。
それでも壊れた自転車が現場に残っていないということは、そのまま持ち去った、ということ。その後、自転車がどうなったかは推測の域を出ない。
だが、まともなある人なら、事故を起こしたことを報告するか、持ち主を探すはず。
それがないということは、名乗り出られない理由がある。
……あるいは、自転車を外す暇もなく、そのまま走るしかないほど、焦っていたのかもしれない。
ざっと考えつくのはこの程度だけど、それを素直に言う気にもなれない。
口を結んだまま曖昧に笑う私に、七瀬さんもまた、にぃっと笑った。
お互いに偽物の笑いを見せつけ合う酷く虚無な時間。
「カマトトぶる……とはまた違うね。君は知らないふりをしないし、言わないだけで嘘はつかない。素敵な秘密主義だ。嘘つきよりよっぽど信用できる」
「褒め言葉として受け取っておきますね」
さっきの返しを皮肉ってみたけど、まったく意にかえさずニコニコと笑っていた。
いつの間にか校舎の出口まで来ていたらしく、夜の空気がふわりと流れ込んでくる。
冷たい風に髪が揺れて、少しだけ秋の匂いがした。
ガラス扉の向こうでは、お兄ちゃんがこちらに気づいたようで、眉をひそめて立ち上がる。「またお前か」と、口パクで行っている兄を見て、七瀬さんはまた楽しげに笑った。
「君たち兄妹は見ていて飽きない。これで奈子嬢まで控えていると思うと楽しみで仕方ないよ」
「うちの妹にまで付き纏わないでくださいよ……」
「ストーカーみたいに言わないでおくれ」
やってることはほぼ変わらないんだよなぁ。っと、思ったが口には出さず、黙ってガラス戸の向こうからやってきた兄を迎えた。
「やぁ祐樹。妹さんを借りてたよ」
七瀬さんは軽く手を上げて、あの人懐っこい笑みを浮かべたまま言った。
兄は明らかに嫌そうな顔をする。
眉間に皺を寄せたまま、私をちらりと見下ろした。
「お前、また鳴海と関わってたのか」
「関わったというより、絡まれたに近いかな」
「屋上で個人的なサボタージュしてた帰り、綾嬢を見かけてね。面白そうだから話しかけに行ったのさ」
「……屋上でサボってた?」
兄の声が低く沈む。七瀬さんは肩をすくめて、悪びれた様子もなく笑った。
「ほら、僕って繊細な人間だからさ。外の空気を浴びとかないと息苦しくて」
「その口でよく言う」
兄は呆れを通り越して、ほとんどため息混じりの声音だった。
私のほうを見て、「本当に絡まれただけだな?」と確認するように言う。
「うん。階段でばったり。……それに、別に何もされてないよ」
「“別に”って言い方がもう怪しいんだよ」
七瀬さんは「ひどい言われようだ」と指を目元に当てて、大袈裟に泣くふりをした。その仕草は冗談めかしているのに、なぜか演劇のワンシーンみたいに決まっている。
「まぁまぁ、そんな怖い顔をしないでくれ。本当にただの世間話さ」
そう言い張る七瀬さんに、兄は渋々引き下がった。
その後、屋上でサボっていた七瀬さんに兄が一言二言、三言……あれ、だんだん増えていってる?まぁとにかく、小さい文句を言う。
七瀬さんはそれを聞き流して、軽く笑いながら背を向けた。
その足取りは舞台を降りる俳優のように、無駄がない。
「じゃあ、またね綾嬢。さっき強盗があったそうだから、気をつけて帰りたまえよ」
そう言って片手を軽く振り、ガラス戸を押し開けて夜風の中へ消えていった。
扉が閉まると同時に、兄は深く息を吐く。
「……本当に、あいつは昔から人を振り回す天才だ」
「でも、悪い人ではないんでしょ?」
「悪くはないが、面倒くさいんだよ。ある意味、綾の同類だ」
そう若武が言って、私と黒木くんに嫌がらせの線を。
小塚くんと上杉くんには「秀明の教師か、先輩の警告」という線の調査命じた。
若武はこういう細々とした証拠集めはお好きではないようで、リーダーであることを口実に逃れようとしたけど、全員で却下。無理矢理「転売」の線の調査をやらせた。
本人はブツクサ言っていたが、自分の自転車が掛かっているんだ。本気でやるだろう。
そんなこんなで役割を決めていれば、すっかり遅くなっていた。
黒木くんとその相談をするつもりだったが、時間がないので明日、学校から帰って電話で連絡を取り合うことを決めて、今日は解散となった。
テキストを鞄に入れて、帰る準備が出来た頃。同じぐらいに準備が出来た黒木くんが、時計を見ながら言った。
「立花、遅いから送っていこうか?」
私は黒木くんの言葉に一瞬惚けながら、首を振った。
こういう、誰かを送迎するのってアメリカではよくあったけど、日本では家族以外にされた事がなかった。特に塾をやってる子なんか、自分の勉強や受験で忙しいし、早く帰らないと怒られるもの。
自分が一番だし、それが間違いだと思っていない。
だから、こうやって送っていこうか?と、自然に言われて驚いた。
周りの子も同じで、上杉くんは若武くんは唖然として、小塚くんなんか、目玉が落っこちそうなくらい目を見開いている。
黒木くんは、それでもばつが悪そうな顔は一切せず、あくまで自然に振る舞ってみせた。
「いや、いいよ。遅いのはお互い様だし」
お兄ちゃんと帰る約束もあるしね。
それに、好意はありがたいけど、そもそも知り合っても間もない人間に家の住所を教えたくない。
黒木くんは、それ以上何も言わずに、軽く肩をすくめて笑った。
「残念、振られたよ」
「もしかして今、口説かれてた?」
「いや、送る途中で口説く予定だったよ。でも、ここで振られたらしょうがない」
洋画のような動作だったけど、変な嫌味っぽさはない。
からかっているのかのか、本気かは分からないが、踏み込まれすぎると厄介なタイプなのは変わらない。私も社交辞令で笑顔を返して、手を振った。
「それ、言われたら余計に送られたくなくなるね」
黒木くんは両手を上げて降参ポーズを取る。
「余計な一言みたいだったね。……次は気をつけるよ」
「次がある前提なんだ」
「もちろん」
ばんちんと、音がしそうなウインクを一つ。
私は置いてけぼりな他3人に「お先に」とだけ声を掛けて、教室を出た。
黒木くんが追いかけてくることはない。軽口ばかりなのに、ちゃんと引き際をわかってる。……だからこそ厄介だ。
はぁ。
と、小さなため息を一つ。
そんなおりに、階段の影から「おや」と、小さく呟く声が聞こえた。
この声には聞き覚えがあった私は、またため息をつきたくなるのを持ち堪えながら、上にいるであろう声の主を見上げた。
「んんっ?その可愛らしい顔立ち。我が友、立花 祐樹の妹である綾嬢ではないかな?」
やや間を空けてから、私は答える。
「如何にも。私は立花 綾である……って、山月記じゃないんですよ」
「おお、さすが綾嬢。ノリツッコミとはやるね」
「それはよかったです。それで、こんなところで何してるんですか、七瀬さん」
にぃっと、チシャ猫のように笑うのは、兄の友人こと、七瀬 鳴海。
どっちが苗字か分かりにくい上に、人によっては鳴海が苗字だと平然と嘘をつくタイプ。……つまり、変人の部類に入る人。
「いやぁ、何も?強いて言うなら、何かしてたのは綾嬢のほうじゃないのかい?」
蛍光灯の光が、階段の影に落ちる。
その人は、細身の体にスラックスを履いて、まるで映画のワンシーンみたいに手すりにもたれていた。
声は低く、柔らかく響く。
けれど、どこか女の人のような滑らかさがあった。
「情報が早くて何よりです。ところで、お兄ちゃんは?」
「祐樹ならそろそろ自習室を出た頃じゃないかな。この階段で降りたら鉢合わせできると思うよ」
「相変わらず心配性だなぁ……」
「あははっ。確かに過保護かもしれないが、すぐにどこか行ってしまう綾嬢には丁度いいぐらいだろう」
女とも男とも、子供とも大人とも言えない曖昧な美貌に、チシャ猫みたいな笑みが浮かんだ。
どうからかってやろうか、とでも言いそうな笑顔だ。この場合、からかわれるのは私かお兄ちゃんか。あるいは二人まとめてからかわれるのか。
七瀬さんは黒いローファーで階段を降りて、うやうやしく私の手を取った。
「さて、ここで駄弁っていても仕方ないからね。さっさと祐樹のところに行こう」
階段を降りながら、七瀬は軽やかに私の手を握ったまま、口元に微笑みを浮かべる。
その目は、ただの兄の友人の好意ではなく、どこか計算されているような輝きがあった。
「黙って降りるのもつまらないし、なぁ綾嬢、せっかくだから色々話そう」
私は眉をひそめた。
「色々って、何を?」
七瀬は小首をかしげ、わざとらしく囁く。
「ふふ、もちろん君たちが調べようとしている消えた自転車についてさ」
七瀬さんは、ダンスのように、踊り場でくるっと回った。
蛍光灯の光を受けて髪の毛が軽やかに輝いた。
学校と秀明の両方でファンクラブがあるらしい七瀬さん。
今の学校を選んだ基準は偏差値でも校風でもなく、女子でもスラックスを選べるかという一点のみ。七瀬さんは本当にそこに行って、スラックスを選んだ。
すらっと長く細い足を紺色のスラックスで包んで、アイロンの効いたワイシャツにネクタイを締めれば、完璧な王子様。
胸の膨らみに気が付かなかったら、私も男の人だと思っていただろう。
「勘のいい綾嬢のことだ。犯人がどうやって自転車を持って行ったのかぐらい、もう大体の目星はついているんだろ?」
階段をゆっくりと降りていく七瀬さんの声は中世的で艶やだった。
語尾をあげて疑問系にしているというのに、声音は言い切るようなニュアンスを感じるのは気のせいだろうか。
一介の友人の妹でしかない私に、一体何を期待しているのかは知らないが、私がするのは「さぁどうでしょう」と言って流すだけ。
「嘘だね。綾嬢、君は道路にあったタイヤ跡や電柱の傷跡にも気づいていたはずだ」
「……なんで七瀬さんが知ってるんですか」
「知らないのかい?西側階段の屋上扉は他の扉と比べてピッキングしやすい鍵なんだよ。少々弄ったら絶好のサボりポイントになる」
なんでこの人は、サボって、上から私たちを眺めていたと堂々と言えるのだろうか……。
いやまぁ、昔からこういう人だと分かってるから今更文句はないけど、こんな言い笑顔で言われてもなぁ。
「君の遊びにとやかく言うつもりはないが、言わなさすぎるのも信用問題だ。適度に情報を小出しにしていかないと、人の心は掴めないよ」
「七瀬さんが言うと説得力がありますね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
階段を降りきる頃、ガラス扉の先にお兄ちゃんがいた。
自習室を出て、どこかの赤本が並べられた棚に寄りかかっている。七瀬さんは私の手を軽く握り直し、私をお兄ちゃんの方向へ導く。
「自転車が消えた路地。目立つ痕跡は何もないが、君なら気づいただろう。タイヤ跡、チェーンの残骸、周囲の物の微かな変化_____もう気づいているんだろ?」
チェーンのコーティング用のゴムは、引きちぎられたように裂けていた。
タイヤ跡は何度も通ってできたものではない。かといって、スリップ痕でもない。
すえ切りのような、ほとんど停車に近い状態でハンドルを大きく切ったような跡。
さらに、電柱には何かが引きずられたような傷が残っていた。
ここから考えるに、犯人は「自転車を盗んだ」というより、「車に巻き込んでしまった」と見るのが自然だ。
盗むのが目的なら、もう少し丁寧にやるはずだし、ぶつかれば車の損傷も避けられないと誰だって分かる。
それでも壊れた自転車が現場に残っていないということは、そのまま持ち去った、ということ。その後、自転車がどうなったかは推測の域を出ない。
だが、まともなある人なら、事故を起こしたことを報告するか、持ち主を探すはず。
それがないということは、名乗り出られない理由がある。
……あるいは、自転車を外す暇もなく、そのまま走るしかないほど、焦っていたのかもしれない。
ざっと考えつくのはこの程度だけど、それを素直に言う気にもなれない。
口を結んだまま曖昧に笑う私に、七瀬さんもまた、にぃっと笑った。
お互いに偽物の笑いを見せつけ合う酷く虚無な時間。
「カマトトぶる……とはまた違うね。君は知らないふりをしないし、言わないだけで嘘はつかない。素敵な秘密主義だ。嘘つきよりよっぽど信用できる」
「褒め言葉として受け取っておきますね」
さっきの返しを皮肉ってみたけど、まったく意にかえさずニコニコと笑っていた。
いつの間にか校舎の出口まで来ていたらしく、夜の空気がふわりと流れ込んでくる。
冷たい風に髪が揺れて、少しだけ秋の匂いがした。
ガラス扉の向こうでは、お兄ちゃんがこちらに気づいたようで、眉をひそめて立ち上がる。「またお前か」と、口パクで行っている兄を見て、七瀬さんはまた楽しげに笑った。
「君たち兄妹は見ていて飽きない。これで奈子嬢まで控えていると思うと楽しみで仕方ないよ」
「うちの妹にまで付き纏わないでくださいよ……」
「ストーカーみたいに言わないでおくれ」
やってることはほぼ変わらないんだよなぁ。っと、思ったが口には出さず、黙ってガラス戸の向こうからやってきた兄を迎えた。
「やぁ祐樹。妹さんを借りてたよ」
七瀬さんは軽く手を上げて、あの人懐っこい笑みを浮かべたまま言った。
兄は明らかに嫌そうな顔をする。
眉間に皺を寄せたまま、私をちらりと見下ろした。
「お前、また鳴海と関わってたのか」
「関わったというより、絡まれたに近いかな」
「屋上で個人的なサボタージュしてた帰り、綾嬢を見かけてね。面白そうだから話しかけに行ったのさ」
「……屋上でサボってた?」
兄の声が低く沈む。七瀬さんは肩をすくめて、悪びれた様子もなく笑った。
「ほら、僕って繊細な人間だからさ。外の空気を浴びとかないと息苦しくて」
「その口でよく言う」
兄は呆れを通り越して、ほとんどため息混じりの声音だった。
私のほうを見て、「本当に絡まれただけだな?」と確認するように言う。
「うん。階段でばったり。……それに、別に何もされてないよ」
「“別に”って言い方がもう怪しいんだよ」
七瀬さんは「ひどい言われようだ」と指を目元に当てて、大袈裟に泣くふりをした。その仕草は冗談めかしているのに、なぜか演劇のワンシーンみたいに決まっている。
「まぁまぁ、そんな怖い顔をしないでくれ。本当にただの世間話さ」
そう言い張る七瀬さんに、兄は渋々引き下がった。
その後、屋上でサボっていた七瀬さんに兄が一言二言、三言……あれ、だんだん増えていってる?まぁとにかく、小さい文句を言う。
七瀬さんはそれを聞き流して、軽く笑いながら背を向けた。
その足取りは舞台を降りる俳優のように、無駄がない。
「じゃあ、またね綾嬢。さっき強盗があったそうだから、気をつけて帰りたまえよ」
そう言って片手を軽く振り、ガラス戸を押し開けて夜風の中へ消えていった。
扉が閉まると同時に、兄は深く息を吐く。
「……本当に、あいつは昔から人を振り回す天才だ」
「でも、悪い人ではないんでしょ?」
「悪くはないが、面倒くさいんだよ。ある意味、綾の同類だ」