天 -地球の運動について-
どこか既視感のある単元名が書かれたページから約4ページいっぱいに書かれたノートを閉じる。
理科の森山先生の授業は分かり易いのだけど、黒板いっぱいにチョークを大量に使って授業をする。
お兄ちゃんを待たせるわけにはいかない私はさっさと帰りたいので、耳だけで聞きながらノートを写すって技で書く時間を短縮しているけど、周りの子は書き終わらない子が大半だ。
一人帰り支度をする私を周りの子は羨ましそうにする。
君たちもこの技を覚えたらいいよ。
しかし、この理科のタイトルは見るたびに脳内で「なんどでも♪」と某地動説アニメのOPがながれてくるのはどうにかならないのか。
たぶん天は天文ってことで、自転も公転も大雑把に言えば地球の運動なんだけどさぁー。
森山先生、もっと他の単元名無かったですか。
なんてだいぶ理不尽なお願いを心の中で言いながら教室のドアノブに手をかけようとしたその時である。
ドアノブはガチャリと音を立てて回った。
もちろん私は回してないから言うまでもなく外から回された。先生はまだいるし、この教室を出るのも私が最初だから、忘れ物を取りにきたなんてありえない。
若干不信感を抱きながらも向こうから来る人の為にすっと横に避ける。
そして、目の前の扉は開いて、特別クラスで同じになった若武くんがいた。
「立花、いるかっ!?」
扉を勢いよく開けた途端、私の名前を叫ばれた。
鼓膜が破れそうとまでは行かないけど、彼はよく声が通るので耳にはまあまあの衝撃が来る。ぱっと、耳を塞ぐ為に手を掴まれる。
前髪の奥から光る、綺麗な目と目があった。
「よし、居るな。ちょうど良かった」
何が何だかわからぬまま若武くんに連れてこられたのは戸口。
全員唖然として私たちの方を見た。見ているだけなら是非とも助けて欲しいしけど、まぁこの世って所詮弱肉強食である。
必要最低限は自分の身は自分で守るものなので、若武くんに対抗しようとドアに手をかけて踏ん張る。
流石に無理矢理連行するには重かったのか、足は止まった。
「なんだよ」
「なんだよ、じゃないよ。テキスト貰って帰りたいんだけど」
眉を上げて、怒っていますという顔をしたけど若武くんは引かなかった。
むしろ真剣さを増した顔をしていた。
「おまえ、国語得意なんだろ。そんで英語もできる」
あー、なるほど。だから私『エイコクの立花』って呼ばれているわけだ。
私の英語がイギリス風だから英国とかけたのか。それがわかってははーんっと、なる。
私の英語は前世今行ってた英会話教室の先生がイギリス人だった影響だけど、今世もこれじゃ怪しまれるので海外に居たときの名残、という体にしている。
まぁ実際、幼少期に居たのは海外は海外でもアメリカなんだけど。
国語に関しては別に得意ってわけじゃないけど、乱読家だったので気になるのを片っ端から読み漁っていた結果だ。だから、別に得意なわけではい。
「結果的にそうなっただけ。それより、用があるなら早く言ってもらえる?私も都合があるの」
お兄ちゃんを外で待たせるわけにはいかないんだ。早く行きたい。
私の急ぐ気持ちとは反対に、若武くんはわざわざ溜めて真正面から要件を言った。
「声明文作って欲しい」
声明文、せいめいぶん…………?
それぐらい自分でかけよと思ったけど、それも飲み込んでかわりに「なんの声明文?」と聞いた。
「バイクが、盗まれたんだ」
「………免許は?」
「そっちのじゃねぇって、俺のマウンテン・バイクが盗まれたんだよ」
「わぁ」
マウンテンバイクといえば、ゼノが誕プレで貰ったって言ってたやつだ。
でもゼノくん、基本活動範囲は徒歩圏内だからあんまり乗ってないらしくて、結局溶かされて鉄屑になっていた気がする。
写真越しで、端っこに写っていたのを見た程度だけど、フラッシュで黒光りしたあの自電車は確かに綺麗な色をしていた。
思い出す限りの記憶はそんなのだけど、若武くんはゼノくんと違ってマウンテンバイクを大切にしている。
じゃないとここまで私に頼み込まない。
「かわいそうだね」
同情するように、手を口元に持ってきてきゅっと眉を寄せた。
「じゃあ、私はこれで」
そして、くるっと方向転換して口元の手で手を振ったら、若武くんは慌てて私の手を掴んだ。
今日は手を掴まれる回数が多い。
後で消毒しよう。
そういや、消毒で思い出したけど、アルコールジェル次の在庫ないんだった。明日買い足さないと。
「はぁ!?完全に協力してくれる流れだっただろ」
「逆に聞くけど、どうして私が君に協力しないといけないの?」
秀明は商店街と揉めてからは、大人の事情で自転車使用は禁止だ。
盗まれたのは可哀想に思うけど、ルールを破って乗ってきた時点で自業自得。可哀想だけど、声明文を書くどころか助ける義理もない。
「私と君の自転車。なんの関係があるの?」
こてん。
と、首を傾けるその仕草が、刺さるほど冷たく感じられたのかもしれない。
若武くんの表情が、ほんのわずかに曇ったように見えた。その後すぐに、若武くんは少しムッとしたような表情をして声を張り上げた。
「だってお前は俺の仲間……」
そこまでいうと、言葉を飲んだ。
じっと、私の心の底まで読んできそうな綺麗な目でこっちを見つめてきた。私もそれに応じるように、若武くんをじっと見つめて品定めをする。
数秒の静寂の後、若武くんはさっきまでとは打って変わって静かな態度になった。
「ごめん、帰っていいよ。……悪かったな」
そう言うと若武くんは黙ってポケットに手を突っ込んで、一人静かに階段を登っていった。
哀愁感の漂う背中は人に罪悪感を抱かせるけど、踏みしめるようにゆっくり登る足音がちょっぴり態とらしい。
何はともあれ帰っていいとお達しが出たので私も遠慮なく帰らせてもらおう。
若武くんと鉢合わせするのは避けたいので、私は若武くんが登った階段とは別の階段で1階まで降りた。
[中央寄せ]⌘[/中央寄せ]
テキストを受け取るために職員室まで来た。
私は特に質問しに行く機会がなかったので、入るのがほとんど初めて。少し、緊張している。
ドアの前でカーディガンを脱いでから気を付けの姿勢。
そして、ノックを3回する。ちょっとめんどくさいような気もするけど、2回のノックはトイレノックだからね。
どうぞという声が聞こえてから扉を開いて用件を言う。
「失礼します、小学部B組の立花綾です。江川先生はいらっしゃいますでしょうか」
「ああ、立花か。どうした?」
「こんにちは、テキストを受け取りにきました」
偶然にも扉の前に居た江川先生に簡単な挨拶をして、用件を手早く行く。
江川先生は一瞬ほおけた後、すごく「しまった」という顔をした。なんだろう?と思って首を傾げると、先生は申し訳なさそうに謝罪してきた。
「お前のテキスト、特別教室の机の方に置いてあるんだ」
「ああ、なるほど。じゃあ、特別教室の方に取りに行きます」
「これから高等部の授業だから、一緒に行ってやれないし……。色々と悪いが、自分でやって欲しい」
「分かりました」
今から特別教室に行ったら、若武くんあたりに変に絡まれそうだけど先生も用事があるなら仕方ない。
しかし、このままテキスト受け取りに行って絡まれたら絶対時間が遅くなって、お兄ちゃんが小等部の教室まで乗り込んできそうだ。前にも一回あった。
なのでこのまま入り口の向こうで待っているであろう兄に一声掛けてからテキストを取りに行くことにした。
一応、小等部の授業が終わっても特別教室自体は10時頃までは開けているらしいから、時間自体には余裕がある。
職員室を出た後、私は早歩きで秀明の出入り口に向かう。
やっぱりお兄ちゃんは出入り口の前で待っていてくれた。
長い足を黒いデニムに包んで、ポケットに手を入れて折り畳みの携帯をいじっている。
なんともない日常的な動作なのに、お兄ちゃんがやるとモデルさんみたいで、周りの子たちに視線を一点に集めていた。
この状況で話しかけるのは少し躊躇ってしまうけど、本人はどうでも良さそうだ。
「綾」
「お兄ちゃん」
変に誤解されなようにわざと声を大きくして返事した。
私はお兄ちゃんのそばにパタパタと駆け寄ったら、お兄ちゃんは「あんまり急がなくていいから」と言った。
心配してくれるのは嬉しいけど、こういう対応をされると、もしかしてお兄ちゃんの中では病弱でよく病院のベッドの中に居る私のままなんじゃないのかと………ついつい考えが広がってしまう。
まぁ聞いても人の意識なんてすぐに変えられるものじゃないし、今言うべき事じゃない。
私はすぐに思考を切り替えて、お兄ちゃんに特別教室に行く事になって、それでテキストを取りにいかないといけない事を伝えた。
お兄ちゃんは特別教室については「なるほど」という態度で納得を示した。
私が選ばれたのは意外だったようだけど、元から特別教室ができることについてはある程度知っていたらしい。
多分、お兄ちゃんの友達で、情報通信の七瀬さんだろう。
あの人はこの街に耳や目を置いてるのではないか?と疑いたくなるほど、近くの人や出来事に詳しいからな………。ほんとに、お兄ちゃんがそう簡単には外部に漏らさないであろう私と奈子の誕生日をいつ知ったのだろうか。
「詳しくは帰り聞くからな。まぁ、テキスト取りに行ってる間は待っといてやるから、早く行ってこい」
「うん、ありがとう。あー、あともう一個」
「なんだ?」
「言い忘れてたんだけど、同じ特別クラスの子に絡まれちゃってさ。出会したらちょっと時間かかるかも……」
「はぁー……お前はなんでそうも変に絡まれるんだよ……」
大きなため息を吐きつつ、お兄ちゃんは小さい声で「10時までにはここ来いよ。俺はそれまで自習室に居るから、終わったら声かけろ」と続けた。
お兄ちゃん自身も見た目や自分の成績から絡まれた経験があるんだろう。
そういうのは当人同士で解決するのが一番だと知っているので、私にすれば珍しく長いタイムリミットが設けられた。私はそれにお兄ちゃんの優しさと、私と、私の周囲への配慮を感じた。
それに思わず笑顔を浮かべてしまう。
「わかった。10時までには戻ってくるよ。じゃあ、行ってきます」
私はお兄ちゃんに手を振ってから、もう一度秀明の中に入って3階の特別教室まで急ぐ。
10時まで待ってくれると言ったけど、早いことに越したことはないので、先生に見つかっても怒られない程度の速度で廊下を走り、珍しく2段飛ばしで階段を駆け上がる。
数時間前にしてもらった先生の案内を思い出しながら3階フロアを進むと、ようやく特別教室までたどり着けた。
でも、入るまでには少し問題が。
なぜかって、ついさっきめんどくさい絡み方をしてきた若武くんが、ドア近くの壁に寄りかかりながらたっていたのだ。
なんで居るんだろう?と、疑問に思う暇もなく若武くんは、私の顔を見るなり小さく舌打ちした。
「……来るの遅ぇよ」
「君が帰っていいって言ったじゃん」
確かに彼は私に背を向けながら「帰っていい」と言った。それを私が言うと、若武くんは「そりゃ言ったけどよ……」と目を逸らして、妙に悔しそうに前髪を掻き上げた。
その仕草を見て、私はやはりかと納得する。
あの、わざとらしくゆっくりした足取り。溜めに溜めた沈黙。そして、哀愁漂わせるような背中。
薄々わかっていたけど…………あれ、計算だったな?
もちろん、全部が全部嘘なわけじゃないのは分かってる。
でも、あの場を後味悪くせずに私に“罪悪感”を植え付けて、「やっぱり助けてあげなきゃ」って流れにしたかったんでしょう。
でもなぁ、私、結構慣れてるんだよね。
これも私の性格っていうか、半分はゼノくんともう一人の幼馴染のせいなんだけど……。まぁ、これは今言うべき事じゃないし、今日初めて会った若武くんに言っても仕方ない事だ。
「そっか、じゃあ“帰っていい”って言ったのは、私が後で『やっぱり可哀想だったな』って思うようにするための、演技だったわけだ」
からかうように、軽く笑ってみせる。
若武くんは、一瞬ギクリとしたように私を見て、すぐに不機嫌そうに視線を逸らした。
全く、分かりやすくて助かるよ。
壮くんは自分一人でなんとかできなくなるまで私を頼らないし、ゼノくんは私が日本に居てもいつの間にか私が協力しざるおえない状況に持ってくるし。
でも、全員素直に言わないのは同じだね。
男の子ってそう言うもの?うーん、ダメだなぁ……交流範囲が限定的すぎて結論が出ないや。
「まぁ、演出としては悪くなかったよ。泣きそうな背中とか、ちょっと感動系ドラマみたいだったし。私じゃなくて、普通の子だったら騙せたかもよ」
わざとらしく褒めると、若武くんは「ちげーし!」と声を上げてから、ひと呼吸置いて、ぼそっと付け加えた。
「……ああいうの、やんねーと……なんか、自分の方がすげー悪者っぽくなるから……」
ふぅん、と私は息を吐く。
あの時、教室を出ていくときの背中に乗せていた“雰囲気”は、罪悪感をこっちに投げてくるための装備だったんだ。
つまり、「断ったお前が悪い」っていう構図を、あえてつくったわけだ。
でも、その構図を崩されて、今こうしてばつの悪そうにしてる若武くんの表情は演技じゃない。
そっちはたぶん、素。
「……ほんと、めんどくさい性格してるよね、君」
あのアホ達とトントン勝負だよ。
ため息まじりに言ってやると、若武くんは「うるせーよ」といつも通りの調子で返してきたけど、どこかトーンが低い。
このまま帰らせたら、たぶんあとでまたこじらせるな。
そう思って私は、もう一歩、踏み込むことにした。
「で? 今度はちゃんと頼む気になったの?」
真正面から見つめて問いかけると、若武くんは小さく舌打ちして、私の視線から逃げるように顔を逸らす。
「……頼むよ。綾」
名前を呼ばれたのは初めてだった気がする。
苗字じゃなくて、綾。
それは少しだけ、対等な呼びかけだった。
「……やっと素直になったじゃん。最初からそうしてれば、ここまで長引かなかったのに」
笑って見せると、若武くんはぶっきらぼうに「チッ」と舌打ちして、ドアの取っ手に手をかけた。
「テキスト、教室の中にあるって先生に聞いたんだろ。取りに行くついでに、ちょっとだけ付き合ってくれよ」
「“ちょっとだけ”って、どのくらい?」
「……30分くらい」
「3分にしといて欲しいな。私もこの後用事があるんだ」
「ムリだろ、さすがに!」
じゃあ、出来るだけ早くしてね。10時までには帰るから。……なんて、やり取りをして、私は若武くんの後ろについて教室の中へ入る。
このあと、何が待っているかは分からないけど少なくとも、つまらない夜にはならなさそうだ。
どこか既視感のある単元名が書かれたページから約4ページいっぱいに書かれたノートを閉じる。
理科の森山先生の授業は分かり易いのだけど、黒板いっぱいにチョークを大量に使って授業をする。
お兄ちゃんを待たせるわけにはいかない私はさっさと帰りたいので、耳だけで聞きながらノートを写すって技で書く時間を短縮しているけど、周りの子は書き終わらない子が大半だ。
一人帰り支度をする私を周りの子は羨ましそうにする。
君たちもこの技を覚えたらいいよ。
しかし、この理科のタイトルは見るたびに脳内で「なんどでも♪」と某地動説アニメのOPがながれてくるのはどうにかならないのか。
たぶん天は天文ってことで、自転も公転も大雑把に言えば地球の運動なんだけどさぁー。
森山先生、もっと他の単元名無かったですか。
なんてだいぶ理不尽なお願いを心の中で言いながら教室のドアノブに手をかけようとしたその時である。
ドアノブはガチャリと音を立てて回った。
もちろん私は回してないから言うまでもなく外から回された。先生はまだいるし、この教室を出るのも私が最初だから、忘れ物を取りにきたなんてありえない。
若干不信感を抱きながらも向こうから来る人の為にすっと横に避ける。
そして、目の前の扉は開いて、特別クラスで同じになった若武くんがいた。
「立花、いるかっ!?」
扉を勢いよく開けた途端、私の名前を叫ばれた。
鼓膜が破れそうとまでは行かないけど、彼はよく声が通るので耳にはまあまあの衝撃が来る。ぱっと、耳を塞ぐ為に手を掴まれる。
前髪の奥から光る、綺麗な目と目があった。
「よし、居るな。ちょうど良かった」
何が何だかわからぬまま若武くんに連れてこられたのは戸口。
全員唖然として私たちの方を見た。見ているだけなら是非とも助けて欲しいしけど、まぁこの世って所詮弱肉強食である。
必要最低限は自分の身は自分で守るものなので、若武くんに対抗しようとドアに手をかけて踏ん張る。
流石に無理矢理連行するには重かったのか、足は止まった。
「なんだよ」
「なんだよ、じゃないよ。テキスト貰って帰りたいんだけど」
眉を上げて、怒っていますという顔をしたけど若武くんは引かなかった。
むしろ真剣さを増した顔をしていた。
「おまえ、国語得意なんだろ。そんで英語もできる」
あー、なるほど。だから私『エイコクの立花』って呼ばれているわけだ。
私の英語がイギリス風だから英国とかけたのか。それがわかってははーんっと、なる。
私の英語は前世今行ってた英会話教室の先生がイギリス人だった影響だけど、今世もこれじゃ怪しまれるので海外に居たときの名残、という体にしている。
まぁ実際、幼少期に居たのは海外は海外でもアメリカなんだけど。
国語に関しては別に得意ってわけじゃないけど、乱読家だったので気になるのを片っ端から読み漁っていた結果だ。だから、別に得意なわけではい。
「結果的にそうなっただけ。それより、用があるなら早く言ってもらえる?私も都合があるの」
お兄ちゃんを外で待たせるわけにはいかないんだ。早く行きたい。
私の急ぐ気持ちとは反対に、若武くんはわざわざ溜めて真正面から要件を言った。
「声明文作って欲しい」
声明文、せいめいぶん…………?
それぐらい自分でかけよと思ったけど、それも飲み込んでかわりに「なんの声明文?」と聞いた。
「バイクが、盗まれたんだ」
「………免許は?」
「そっちのじゃねぇって、俺のマウンテン・バイクが盗まれたんだよ」
「わぁ」
マウンテンバイクといえば、ゼノが誕プレで貰ったって言ってたやつだ。
でもゼノくん、基本活動範囲は徒歩圏内だからあんまり乗ってないらしくて、結局溶かされて鉄屑になっていた気がする。
写真越しで、端っこに写っていたのを見た程度だけど、フラッシュで黒光りしたあの自電車は確かに綺麗な色をしていた。
思い出す限りの記憶はそんなのだけど、若武くんはゼノくんと違ってマウンテンバイクを大切にしている。
じゃないとここまで私に頼み込まない。
「かわいそうだね」
同情するように、手を口元に持ってきてきゅっと眉を寄せた。
「じゃあ、私はこれで」
そして、くるっと方向転換して口元の手で手を振ったら、若武くんは慌てて私の手を掴んだ。
今日は手を掴まれる回数が多い。
後で消毒しよう。
そういや、消毒で思い出したけど、アルコールジェル次の在庫ないんだった。明日買い足さないと。
「はぁ!?完全に協力してくれる流れだっただろ」
「逆に聞くけど、どうして私が君に協力しないといけないの?」
秀明は商店街と揉めてからは、大人の事情で自転車使用は禁止だ。
盗まれたのは可哀想に思うけど、ルールを破って乗ってきた時点で自業自得。可哀想だけど、声明文を書くどころか助ける義理もない。
「私と君の自転車。なんの関係があるの?」
こてん。
と、首を傾けるその仕草が、刺さるほど冷たく感じられたのかもしれない。
若武くんの表情が、ほんのわずかに曇ったように見えた。その後すぐに、若武くんは少しムッとしたような表情をして声を張り上げた。
「だってお前は俺の仲間……」
そこまでいうと、言葉を飲んだ。
じっと、私の心の底まで読んできそうな綺麗な目でこっちを見つめてきた。私もそれに応じるように、若武くんをじっと見つめて品定めをする。
数秒の静寂の後、若武くんはさっきまでとは打って変わって静かな態度になった。
「ごめん、帰っていいよ。……悪かったな」
そう言うと若武くんは黙ってポケットに手を突っ込んで、一人静かに階段を登っていった。
哀愁感の漂う背中は人に罪悪感を抱かせるけど、踏みしめるようにゆっくり登る足音がちょっぴり態とらしい。
何はともあれ帰っていいとお達しが出たので私も遠慮なく帰らせてもらおう。
若武くんと鉢合わせするのは避けたいので、私は若武くんが登った階段とは別の階段で1階まで降りた。
[中央寄せ]⌘[/中央寄せ]
テキストを受け取るために職員室まで来た。
私は特に質問しに行く機会がなかったので、入るのがほとんど初めて。少し、緊張している。
ドアの前でカーディガンを脱いでから気を付けの姿勢。
そして、ノックを3回する。ちょっとめんどくさいような気もするけど、2回のノックはトイレノックだからね。
どうぞという声が聞こえてから扉を開いて用件を言う。
「失礼します、小学部B組の立花綾です。江川先生はいらっしゃいますでしょうか」
「ああ、立花か。どうした?」
「こんにちは、テキストを受け取りにきました」
偶然にも扉の前に居た江川先生に簡単な挨拶をして、用件を手早く行く。
江川先生は一瞬ほおけた後、すごく「しまった」という顔をした。なんだろう?と思って首を傾げると、先生は申し訳なさそうに謝罪してきた。
「お前のテキスト、特別教室の机の方に置いてあるんだ」
「ああ、なるほど。じゃあ、特別教室の方に取りに行きます」
「これから高等部の授業だから、一緒に行ってやれないし……。色々と悪いが、自分でやって欲しい」
「分かりました」
今から特別教室に行ったら、若武くんあたりに変に絡まれそうだけど先生も用事があるなら仕方ない。
しかし、このままテキスト受け取りに行って絡まれたら絶対時間が遅くなって、お兄ちゃんが小等部の教室まで乗り込んできそうだ。前にも一回あった。
なのでこのまま入り口の向こうで待っているであろう兄に一声掛けてからテキストを取りに行くことにした。
一応、小等部の授業が終わっても特別教室自体は10時頃までは開けているらしいから、時間自体には余裕がある。
職員室を出た後、私は早歩きで秀明の出入り口に向かう。
やっぱりお兄ちゃんは出入り口の前で待っていてくれた。
長い足を黒いデニムに包んで、ポケットに手を入れて折り畳みの携帯をいじっている。
なんともない日常的な動作なのに、お兄ちゃんがやるとモデルさんみたいで、周りの子たちに視線を一点に集めていた。
この状況で話しかけるのは少し躊躇ってしまうけど、本人はどうでも良さそうだ。
「綾」
「お兄ちゃん」
変に誤解されなようにわざと声を大きくして返事した。
私はお兄ちゃんのそばにパタパタと駆け寄ったら、お兄ちゃんは「あんまり急がなくていいから」と言った。
心配してくれるのは嬉しいけど、こういう対応をされると、もしかしてお兄ちゃんの中では病弱でよく病院のベッドの中に居る私のままなんじゃないのかと………ついつい考えが広がってしまう。
まぁ聞いても人の意識なんてすぐに変えられるものじゃないし、今言うべき事じゃない。
私はすぐに思考を切り替えて、お兄ちゃんに特別教室に行く事になって、それでテキストを取りにいかないといけない事を伝えた。
お兄ちゃんは特別教室については「なるほど」という態度で納得を示した。
私が選ばれたのは意外だったようだけど、元から特別教室ができることについてはある程度知っていたらしい。
多分、お兄ちゃんの友達で、情報通信の七瀬さんだろう。
あの人はこの街に耳や目を置いてるのではないか?と疑いたくなるほど、近くの人や出来事に詳しいからな………。ほんとに、お兄ちゃんがそう簡単には外部に漏らさないであろう私と奈子の誕生日をいつ知ったのだろうか。
「詳しくは帰り聞くからな。まぁ、テキスト取りに行ってる間は待っといてやるから、早く行ってこい」
「うん、ありがとう。あー、あともう一個」
「なんだ?」
「言い忘れてたんだけど、同じ特別クラスの子に絡まれちゃってさ。出会したらちょっと時間かかるかも……」
「はぁー……お前はなんでそうも変に絡まれるんだよ……」
大きなため息を吐きつつ、お兄ちゃんは小さい声で「10時までにはここ来いよ。俺はそれまで自習室に居るから、終わったら声かけろ」と続けた。
お兄ちゃん自身も見た目や自分の成績から絡まれた経験があるんだろう。
そういうのは当人同士で解決するのが一番だと知っているので、私にすれば珍しく長いタイムリミットが設けられた。私はそれにお兄ちゃんの優しさと、私と、私の周囲への配慮を感じた。
それに思わず笑顔を浮かべてしまう。
「わかった。10時までには戻ってくるよ。じゃあ、行ってきます」
私はお兄ちゃんに手を振ってから、もう一度秀明の中に入って3階の特別教室まで急ぐ。
10時まで待ってくれると言ったけど、早いことに越したことはないので、先生に見つかっても怒られない程度の速度で廊下を走り、珍しく2段飛ばしで階段を駆け上がる。
数時間前にしてもらった先生の案内を思い出しながら3階フロアを進むと、ようやく特別教室までたどり着けた。
でも、入るまでには少し問題が。
なぜかって、ついさっきめんどくさい絡み方をしてきた若武くんが、ドア近くの壁に寄りかかりながらたっていたのだ。
なんで居るんだろう?と、疑問に思う暇もなく若武くんは、私の顔を見るなり小さく舌打ちした。
「……来るの遅ぇよ」
「君が帰っていいって言ったじゃん」
確かに彼は私に背を向けながら「帰っていい」と言った。それを私が言うと、若武くんは「そりゃ言ったけどよ……」と目を逸らして、妙に悔しそうに前髪を掻き上げた。
その仕草を見て、私はやはりかと納得する。
あの、わざとらしくゆっくりした足取り。溜めに溜めた沈黙。そして、哀愁漂わせるような背中。
薄々わかっていたけど…………あれ、計算だったな?
もちろん、全部が全部嘘なわけじゃないのは分かってる。
でも、あの場を後味悪くせずに私に“罪悪感”を植え付けて、「やっぱり助けてあげなきゃ」って流れにしたかったんでしょう。
でもなぁ、私、結構慣れてるんだよね。
これも私の性格っていうか、半分はゼノくんともう一人の幼馴染のせいなんだけど……。まぁ、これは今言うべき事じゃないし、今日初めて会った若武くんに言っても仕方ない事だ。
「そっか、じゃあ“帰っていい”って言ったのは、私が後で『やっぱり可哀想だったな』って思うようにするための、演技だったわけだ」
からかうように、軽く笑ってみせる。
若武くんは、一瞬ギクリとしたように私を見て、すぐに不機嫌そうに視線を逸らした。
全く、分かりやすくて助かるよ。
壮くんは自分一人でなんとかできなくなるまで私を頼らないし、ゼノくんは私が日本に居てもいつの間にか私が協力しざるおえない状況に持ってくるし。
でも、全員素直に言わないのは同じだね。
男の子ってそう言うもの?うーん、ダメだなぁ……交流範囲が限定的すぎて結論が出ないや。
「まぁ、演出としては悪くなかったよ。泣きそうな背中とか、ちょっと感動系ドラマみたいだったし。私じゃなくて、普通の子だったら騙せたかもよ」
わざとらしく褒めると、若武くんは「ちげーし!」と声を上げてから、ひと呼吸置いて、ぼそっと付け加えた。
「……ああいうの、やんねーと……なんか、自分の方がすげー悪者っぽくなるから……」
ふぅん、と私は息を吐く。
あの時、教室を出ていくときの背中に乗せていた“雰囲気”は、罪悪感をこっちに投げてくるための装備だったんだ。
つまり、「断ったお前が悪い」っていう構図を、あえてつくったわけだ。
でも、その構図を崩されて、今こうしてばつの悪そうにしてる若武くんの表情は演技じゃない。
そっちはたぶん、素。
「……ほんと、めんどくさい性格してるよね、君」
あのアホ達とトントン勝負だよ。
ため息まじりに言ってやると、若武くんは「うるせーよ」といつも通りの調子で返してきたけど、どこかトーンが低い。
このまま帰らせたら、たぶんあとでまたこじらせるな。
そう思って私は、もう一歩、踏み込むことにした。
「で? 今度はちゃんと頼む気になったの?」
真正面から見つめて問いかけると、若武くんは小さく舌打ちして、私の視線から逃げるように顔を逸らす。
「……頼むよ。綾」
名前を呼ばれたのは初めてだった気がする。
苗字じゃなくて、綾。
それは少しだけ、対等な呼びかけだった。
「……やっと素直になったじゃん。最初からそうしてれば、ここまで長引かなかったのに」
笑って見せると、若武くんはぶっきらぼうに「チッ」と舌打ちして、ドアの取っ手に手をかけた。
「テキスト、教室の中にあるって先生に聞いたんだろ。取りに行くついでに、ちょっとだけ付き合ってくれよ」
「“ちょっとだけ”って、どのくらい?」
「……30分くらい」
「3分にしといて欲しいな。私もこの後用事があるんだ」
「ムリだろ、さすがに!」
じゃあ、出来るだけ早くしてね。10時までには帰るから。……なんて、やり取りをして、私は若武くんの後ろについて教室の中へ入る。
このあと、何が待っているかは分からないけど少なくとも、つまらない夜にはならなさそうだ。