あれが綺麗だから
#1
月が綺麗ですね
高校三年の夏、僕は彼女に告白しなかった。
正確には、できなかった。
八月十七日。
夏休みも残り二週間を切った夕方、僕たちはいつもの河川敷にいた。
土手には伸びきった草が風に揺れていて、遠くでは蝉が、もう夏が終わることなんて知らないみたいに鳴いていた。
「ねえ」
彼女が言った。
「今日、月見えるかな」
「まだ夕方だよ」
「知ってる」
彼女は笑った。
昔から、彼女は月が好きだった。
満月の日には写真を撮るし、三日月を見つければ「今日はちょっと得した」と言った。
理由を聞いたことがある。
「月ってさ、遠いじゃん」
「うん」
「だから好き」
「よくわからない」
「わからなくていいよ」
そう言って笑う彼女の横顔を、僕は好きだった。
たぶん、ずっと前から。
でも、その「好き」を口にするには、僕たちは少しだけ近すぎた。
幼なじみ。
それが僕たちの関係だった。
家は徒歩五分。
小学校も、中学校も、高校も同じ。
朝は駅まで一緒に歩いて、帰りはコンビニに寄って、くだらない話をして帰る。
僕が好きな音楽を彼女も聴くようになり、彼女が好きな映画を僕も観るようになった。
そういう日々が、当たり前だった。
だから怖かった。
告白して、もし断られたら。
いや。
断られることより、そのあと「幼なじみ」に戻れなくなることが怖かった。
「そういえばさ」
彼女が空を見上げた。
「卒業したら、どうするの?」
「大学」
「知ってる。どこ行くの?」
「東京」
「そっか」
少しだけ、声が小さくなった。
「私も東京」
「……え?」
「言ってなかったっけ」
「聞いてない」
「じゃあ今言った」
彼女は笑った。
けれど、その笑顔はいつもより少しだけ寂しそうだった。
「じゃあ、来年も一緒だね」
僕がそう言うと、
「ううん」
彼女は首を横に振った。
「一緒じゃないよ」
「なんで?」
「大学が同じでも、毎朝一緒に駅まで歩いたりしないでしょ」
「……まあ」
「コンビニにも寄らない」
「寄るかもしれないじゃん」
「寄らないよ」
彼女は笑った。
「今までと同じ明日なんて、たぶん来ないから」
その言葉が、胸に刺さった。
夕焼けが消えかけていた。
僕は何か言おうとした。
好きだ。
ずっと好きだった。
卒業しても、離れても、君の隣にいたい。
何度も頭の中で練習した言葉だった。
でも、口から出てきたのは、
「……そうだね」
それだけだった。
情けない。
彼女は何も言わなかった。
ただ、川の向こうを見ていた。
その横顔が、ひどく遠く見えた。
――その夜。
僕は眠れなかった。
何度もスマホを開いて、閉じた。
彼女とのトーク画面。
最後のメッセージは、さっき届いたものだった。
『今日はありがと』
僕は返信欄に、
『僕も好き』
と打ち込んだ。
そして消した。
もう一度、
『ずっと好きだった』
と打った。
消した。
結局、
『こちらこそ』
と送った。
送信した瞬間、ひどく後悔した。
窓を開ける。
夜風が部屋に入ってきた。
見上げると、月が出ていた。
満月だった。
綺麗だった。
どうして、こんな日に限って。
そう思った。
翌朝。
彼女から電話が来た。
「もしもし」
『起きてた?』
「今起きた」
『嘘。声でわかる』
「なんで電話?」
『今日、会える?』
「……うん」
『じゃあ、夕方。いつもの場所ね』
電話が切れた。
胸が妙にざわついた。
その日の夕方、僕は河川敷へ向かった。
彼女はもう来ていた。
白いワンピースを着ていた。
「遅い」
「ごめん」
「五分だけ」
「五分も待たせた?」
「うん」
彼女は笑った。
そして、
「ねえ」
と、昨日と同じように言った。
「月、見えるかな」
「今日は見えるよ」
「まだ夕方なのに?」
「今日は、見える気がする」
「何それ」
彼女は笑った。
しばらく二人で歩いた。
いつもの道を。
いつもの速度で。
でも、昨日とは違った。
今日が最後かもしれない。
そんな予感が、ずっと僕たちの間にあった。
橋の上まで来ると、彼女が足を止めた。
「私ね」
「うん」
「明日から、遠くに行くんだ」
「……え?」
「しばらく」
「いつまで?」
「わかんない」
「大学は?」
「東京」
「じゃあ――」
「その前に、言いたかったの」
彼女は僕を見た。
夕暮れの光が、彼女の目に映っていた。
「私、ずっと好きだった」
時間が止まったみたいだった。
「……え」
「だから」
彼女は少し笑った。
「昨日、待ってたんだよ」
「何を?」
「君が言ってくれるのを」
心臓が、痛いくらい鳴った。
「でも、君は『そうだね』って言った」
「……ごめん」
「うん」
「ごめん」
「だから、私も言わなかったことにしようと思った」
彼女は空を見上げた。
「でも、やっぱり無理だった」
僕は拳を握った。
どうして昨日言わなかった。
どうして今日まで待った。
どうして――。
「僕も」
声が震えた。
「僕も、ずっと好きだった」
彼女が僕を見る。
「……ほんと?」
「うん」
「いつから?」
「わからない」
「ずるい答え」
「君は?」
「私もわからない」
二人で笑った。
泣きながら。
笑うしかなかった。
もっと早く言えばよかった。
もっと早く伝えればよかった。
そう思うのに、不思議と後悔だけではなかった。
少なくとも今、僕たちは知っている。
お互いが同じ気持ちだったことを。
「ねえ」
彼女が言った。
「月」
東の空から、ゆっくりと月が昇っていた。
まだ少し青い空の中に、白い月が浮かんでいる。
「綺麗だね」
「うん」
僕は笑った。
「月が綺麗ですね」
彼女が少しだけ目を見開いた。
「……それ、知ってる?」
「何が?」
「その言葉の意味」
「知らない」
「嘘」
「本当に知らない」
彼女は泣きながら笑った。
「じゃあ、教えてあげる」
「うん」
「昔の人はね」
彼女は月を見たまま言った。
「好きって、直接言わなかったんだって」
「へえ」
「だから、『月が綺麗ですね』って」
少し間を置いて。
「そういう意味なんだよ」
僕は月を見た。
綺麗だった。
今まで見たどんな月よりも。
「じゃあ」
僕は言った。
「僕も」
「うん」
「月が綺麗ですね」
彼女は笑った。
「……うん」
その夜、僕たちは手を繋がなかった。
抱きしめもしなかった。
ただ、少し離れて並んで歩いた。
それが僕たちらしかった。
駅に着く頃には、すっかり夜になっていた。
「じゃあね」
「うん」
「またね」
「またね」
彼女が改札の向こうへ消えていく。
僕は最後まで手を振った。
姿が見えなくなっても、しばらくそこに立っていた。
それから空を見上げた。
月は、まだそこにあった。
遠くて。
静かで。
綺麗だった。
――それから十年が経った。
僕たちは、それぞれの場所で生きていた。
同じ大学ではなかった。
同じ会社でもない。
何度か会って、何度も離れた。
連絡を取らなくなった時期もあった。
それでも、不思議と縁だけは切れなかった。
そして今日。
僕たちはまた、あの河川敷にいる。
「久しぶり」
「うん」
「変わったね」
「そっちも」
「そうかな」
「うん。でも――」
「でも?」
「変わってないところもある」
彼女は少し笑った。
「たとえば?」
「月を見るところ」
「それは変わらないか」
二人で笑う。
十年前と同じように。
少しだけ違う顔で。
隣に立つ。
空には、あの日と同じような月が浮かんでいた。
「ねえ」
彼女が言う。
「月が綺麗ですね」
「……うん」
僕は笑った。
「今度は、ちゃんと言うよ」
「何を?」
「好きだよ」
彼女は少し黙ってから、
「遅い」
と言った。
「十年も待った」
「ごめん」
「でも」
彼女は月を見上げた。
「待っててよかった」
僕も空を見上げた。
月は、十年前と同じ場所にはなかった。
同じ形でもなかった。
それでも僕には、あの夏の月と同じに見えた。
たぶん、月が綺麗だったんじゃない。
あの日、隣に君がいたから。
そして今日も。
僕の隣には、君がいる。
だから僕は、もう一度だけ言う。
「月が綺麗ですね」
今度は、ちゃんと届くように。
――好きだよ、という意味で。
正確には、できなかった。
八月十七日。
夏休みも残り二週間を切った夕方、僕たちはいつもの河川敷にいた。
土手には伸びきった草が風に揺れていて、遠くでは蝉が、もう夏が終わることなんて知らないみたいに鳴いていた。
「ねえ」
彼女が言った。
「今日、月見えるかな」
「まだ夕方だよ」
「知ってる」
彼女は笑った。
昔から、彼女は月が好きだった。
満月の日には写真を撮るし、三日月を見つければ「今日はちょっと得した」と言った。
理由を聞いたことがある。
「月ってさ、遠いじゃん」
「うん」
「だから好き」
「よくわからない」
「わからなくていいよ」
そう言って笑う彼女の横顔を、僕は好きだった。
たぶん、ずっと前から。
でも、その「好き」を口にするには、僕たちは少しだけ近すぎた。
幼なじみ。
それが僕たちの関係だった。
家は徒歩五分。
小学校も、中学校も、高校も同じ。
朝は駅まで一緒に歩いて、帰りはコンビニに寄って、くだらない話をして帰る。
僕が好きな音楽を彼女も聴くようになり、彼女が好きな映画を僕も観るようになった。
そういう日々が、当たり前だった。
だから怖かった。
告白して、もし断られたら。
いや。
断られることより、そのあと「幼なじみ」に戻れなくなることが怖かった。
「そういえばさ」
彼女が空を見上げた。
「卒業したら、どうするの?」
「大学」
「知ってる。どこ行くの?」
「東京」
「そっか」
少しだけ、声が小さくなった。
「私も東京」
「……え?」
「言ってなかったっけ」
「聞いてない」
「じゃあ今言った」
彼女は笑った。
けれど、その笑顔はいつもより少しだけ寂しそうだった。
「じゃあ、来年も一緒だね」
僕がそう言うと、
「ううん」
彼女は首を横に振った。
「一緒じゃないよ」
「なんで?」
「大学が同じでも、毎朝一緒に駅まで歩いたりしないでしょ」
「……まあ」
「コンビニにも寄らない」
「寄るかもしれないじゃん」
「寄らないよ」
彼女は笑った。
「今までと同じ明日なんて、たぶん来ないから」
その言葉が、胸に刺さった。
夕焼けが消えかけていた。
僕は何か言おうとした。
好きだ。
ずっと好きだった。
卒業しても、離れても、君の隣にいたい。
何度も頭の中で練習した言葉だった。
でも、口から出てきたのは、
「……そうだね」
それだけだった。
情けない。
彼女は何も言わなかった。
ただ、川の向こうを見ていた。
その横顔が、ひどく遠く見えた。
――その夜。
僕は眠れなかった。
何度もスマホを開いて、閉じた。
彼女とのトーク画面。
最後のメッセージは、さっき届いたものだった。
『今日はありがと』
僕は返信欄に、
『僕も好き』
と打ち込んだ。
そして消した。
もう一度、
『ずっと好きだった』
と打った。
消した。
結局、
『こちらこそ』
と送った。
送信した瞬間、ひどく後悔した。
窓を開ける。
夜風が部屋に入ってきた。
見上げると、月が出ていた。
満月だった。
綺麗だった。
どうして、こんな日に限って。
そう思った。
翌朝。
彼女から電話が来た。
「もしもし」
『起きてた?』
「今起きた」
『嘘。声でわかる』
「なんで電話?」
『今日、会える?』
「……うん」
『じゃあ、夕方。いつもの場所ね』
電話が切れた。
胸が妙にざわついた。
その日の夕方、僕は河川敷へ向かった。
彼女はもう来ていた。
白いワンピースを着ていた。
「遅い」
「ごめん」
「五分だけ」
「五分も待たせた?」
「うん」
彼女は笑った。
そして、
「ねえ」
と、昨日と同じように言った。
「月、見えるかな」
「今日は見えるよ」
「まだ夕方なのに?」
「今日は、見える気がする」
「何それ」
彼女は笑った。
しばらく二人で歩いた。
いつもの道を。
いつもの速度で。
でも、昨日とは違った。
今日が最後かもしれない。
そんな予感が、ずっと僕たちの間にあった。
橋の上まで来ると、彼女が足を止めた。
「私ね」
「うん」
「明日から、遠くに行くんだ」
「……え?」
「しばらく」
「いつまで?」
「わかんない」
「大学は?」
「東京」
「じゃあ――」
「その前に、言いたかったの」
彼女は僕を見た。
夕暮れの光が、彼女の目に映っていた。
「私、ずっと好きだった」
時間が止まったみたいだった。
「……え」
「だから」
彼女は少し笑った。
「昨日、待ってたんだよ」
「何を?」
「君が言ってくれるのを」
心臓が、痛いくらい鳴った。
「でも、君は『そうだね』って言った」
「……ごめん」
「うん」
「ごめん」
「だから、私も言わなかったことにしようと思った」
彼女は空を見上げた。
「でも、やっぱり無理だった」
僕は拳を握った。
どうして昨日言わなかった。
どうして今日まで待った。
どうして――。
「僕も」
声が震えた。
「僕も、ずっと好きだった」
彼女が僕を見る。
「……ほんと?」
「うん」
「いつから?」
「わからない」
「ずるい答え」
「君は?」
「私もわからない」
二人で笑った。
泣きながら。
笑うしかなかった。
もっと早く言えばよかった。
もっと早く伝えればよかった。
そう思うのに、不思議と後悔だけではなかった。
少なくとも今、僕たちは知っている。
お互いが同じ気持ちだったことを。
「ねえ」
彼女が言った。
「月」
東の空から、ゆっくりと月が昇っていた。
まだ少し青い空の中に、白い月が浮かんでいる。
「綺麗だね」
「うん」
僕は笑った。
「月が綺麗ですね」
彼女が少しだけ目を見開いた。
「……それ、知ってる?」
「何が?」
「その言葉の意味」
「知らない」
「嘘」
「本当に知らない」
彼女は泣きながら笑った。
「じゃあ、教えてあげる」
「うん」
「昔の人はね」
彼女は月を見たまま言った。
「好きって、直接言わなかったんだって」
「へえ」
「だから、『月が綺麗ですね』って」
少し間を置いて。
「そういう意味なんだよ」
僕は月を見た。
綺麗だった。
今まで見たどんな月よりも。
「じゃあ」
僕は言った。
「僕も」
「うん」
「月が綺麗ですね」
彼女は笑った。
「……うん」
その夜、僕たちは手を繋がなかった。
抱きしめもしなかった。
ただ、少し離れて並んで歩いた。
それが僕たちらしかった。
駅に着く頃には、すっかり夜になっていた。
「じゃあね」
「うん」
「またね」
「またね」
彼女が改札の向こうへ消えていく。
僕は最後まで手を振った。
姿が見えなくなっても、しばらくそこに立っていた。
それから空を見上げた。
月は、まだそこにあった。
遠くて。
静かで。
綺麗だった。
――それから十年が経った。
僕たちは、それぞれの場所で生きていた。
同じ大学ではなかった。
同じ会社でもない。
何度か会って、何度も離れた。
連絡を取らなくなった時期もあった。
それでも、不思議と縁だけは切れなかった。
そして今日。
僕たちはまた、あの河川敷にいる。
「久しぶり」
「うん」
「変わったね」
「そっちも」
「そうかな」
「うん。でも――」
「でも?」
「変わってないところもある」
彼女は少し笑った。
「たとえば?」
「月を見るところ」
「それは変わらないか」
二人で笑う。
十年前と同じように。
少しだけ違う顔で。
隣に立つ。
空には、あの日と同じような月が浮かんでいた。
「ねえ」
彼女が言う。
「月が綺麗ですね」
「……うん」
僕は笑った。
「今度は、ちゃんと言うよ」
「何を?」
「好きだよ」
彼女は少し黙ってから、
「遅い」
と言った。
「十年も待った」
「ごめん」
「でも」
彼女は月を見上げた。
「待っててよかった」
僕も空を見上げた。
月は、十年前と同じ場所にはなかった。
同じ形でもなかった。
それでも僕には、あの夏の月と同じに見えた。
たぶん、月が綺麗だったんじゃない。
あの日、隣に君がいたから。
そして今日も。
僕の隣には、君がいる。
だから僕は、もう一度だけ言う。
「月が綺麗ですね」
今度は、ちゃんと届くように。
――好きだよ、という意味で。