4月の喧騒が少し落ち着き始めた、ある放課後のこと。
図書室の窓際で、蔵持杏は一人、ノートを広げていました。
「……あ、あった」
探していた数式の解法を見つけ、杏が小さく息を吐いたとき。
「あん!……あ、ごめん、図書室だったな」
ガラリと扉を開けて入ってきたのは、佐藤匠人でした。彼は親しみを込めて杏の名前を呼びかけてから、慌てて声を潜め、彼女の向かいの席に座り込みました。
「匠人くん、部活は?」
「今日は雨で外が使えないんだ。体育館も交代制だしさ。……それより、杏。今の呼び方、変だったか?」
「ううん、全然。……匠人くんに呼ばれるの、嫌いじゃないよ」
杏が少し俯きながら答えると、匠人は嬉しそうに頭を掻きました。二人の間に、4月の少し湿った、でも甘い空気が流れます。
そんな二人を、書架の陰から見つめる視線がありました。
「……やっぱり、あそこには入り込めないかな」
森田詩織は、抱えていた返却本を強く胸に抱きしめました。
詩織は中2になり、去年よりも少しだけ積極的に匠人に近づこうと決めていました。けれど、匠人が杏に向ける特別に優しい呼び方に、胸がチリリと痛みます。
「詩織、何してるの」
背後から声をかけたのは、姉の森田千春でした。彼女の手には、受験対策の分厚い参考書が握られています。
「お姉ちゃん……。あの中に、入っていける?」
詩織の問いに、千春は匠人と杏の背中を静かに見つめました。
「……私たちは、私たちのペースで進むしかないよ、詩織」
千春の言葉は、妹へ、そして自分自身への言い聞かせのようでした。千春は、匠人への想いを心の奥底に鍵をかけて閉じ込めています。それが、親友である杏を傷つけないための、彼女なりの誠実さでした。
「おーい! みんなして図書室に集まって、勉強会? 私も混ぜてよ!」
静寂を豪快に破って現れたのは、荒川心春です。彼女の明るい声に、図書室の重苦しい空気が一瞬で霧散しました。
「心春、うるさいわよ」
千春が呆れたように言いますが、心春は気にせず匠人と杏の席に陣取ります。
「ほら詩織も! ぼーっとしてないで、中3の勉強風景を見学していきなよ。来年は自分の番なんだから」
心春が強引に椅子を引いたことで、5人は一つのテーブルを囲む形になりました。
匠人と杏。
それを見つめる千春と詩織。
そして、すべてを知ってか知らずか、太陽のように笑う心春。
「ねえ、杏。この問題、教えてくれないか?」
匠人が杏のノートを覗き込む。
「……うん。ここはね、こうするんだよ」
杏の優しい声が響く中、詩織は自分の赤いリボンを指先でなぞりました。いつか、あの紺色のリボンをつける頃には、今よりももっと匠人の近くに行けるだろうか……。
2025年の春。5人の視線は、それぞれの想いを乗せて、窓の外に降り始めた雨を見つめていました。
図書室の窓際で、蔵持杏は一人、ノートを広げていました。
「……あ、あった」
探していた数式の解法を見つけ、杏が小さく息を吐いたとき。
「あん!……あ、ごめん、図書室だったな」
ガラリと扉を開けて入ってきたのは、佐藤匠人でした。彼は親しみを込めて杏の名前を呼びかけてから、慌てて声を潜め、彼女の向かいの席に座り込みました。
「匠人くん、部活は?」
「今日は雨で外が使えないんだ。体育館も交代制だしさ。……それより、杏。今の呼び方、変だったか?」
「ううん、全然。……匠人くんに呼ばれるの、嫌いじゃないよ」
杏が少し俯きながら答えると、匠人は嬉しそうに頭を掻きました。二人の間に、4月の少し湿った、でも甘い空気が流れます。
そんな二人を、書架の陰から見つめる視線がありました。
「……やっぱり、あそこには入り込めないかな」
森田詩織は、抱えていた返却本を強く胸に抱きしめました。
詩織は中2になり、去年よりも少しだけ積極的に匠人に近づこうと決めていました。けれど、匠人が杏に向ける特別に優しい呼び方に、胸がチリリと痛みます。
「詩織、何してるの」
背後から声をかけたのは、姉の森田千春でした。彼女の手には、受験対策の分厚い参考書が握られています。
「お姉ちゃん……。あの中に、入っていける?」
詩織の問いに、千春は匠人と杏の背中を静かに見つめました。
「……私たちは、私たちのペースで進むしかないよ、詩織」
千春の言葉は、妹へ、そして自分自身への言い聞かせのようでした。千春は、匠人への想いを心の奥底に鍵をかけて閉じ込めています。それが、親友である杏を傷つけないための、彼女なりの誠実さでした。
「おーい! みんなして図書室に集まって、勉強会? 私も混ぜてよ!」
静寂を豪快に破って現れたのは、荒川心春です。彼女の明るい声に、図書室の重苦しい空気が一瞬で霧散しました。
「心春、うるさいわよ」
千春が呆れたように言いますが、心春は気にせず匠人と杏の席に陣取ります。
「ほら詩織も! ぼーっとしてないで、中3の勉強風景を見学していきなよ。来年は自分の番なんだから」
心春が強引に椅子を引いたことで、5人は一つのテーブルを囲む形になりました。
匠人と杏。
それを見つめる千春と詩織。
そして、すべてを知ってか知らずか、太陽のように笑う心春。
「ねえ、杏。この問題、教えてくれないか?」
匠人が杏のノートを覗き込む。
「……うん。ここはね、こうするんだよ」
杏の優しい声が響く中、詩織は自分の赤いリボンを指先でなぞりました。いつか、あの紺色のリボンをつける頃には、今よりももっと匠人の近くに行けるだろうか……。
2025年の春。5人の視線は、それぞれの想いを乗せて、窓の外に降り始めた雨を見つめていました。
- 1.第1話サクラ・グラデーション
- 2.第2話:『放課後の図書室、揺れるカーテン』
- 3.第3話:『五月の雨と、重なる影』
- 4.第4話:『紫陽花の誓いと、渡せなかったお守り』
- 5.第5話:『渡月橋の約束と、夕暮れに溶ける恋心』
- 6.第6話:『五重塔の鐘と、忘れ物の恋わずらい』
- 7.第7話:『それぞれの景色』
- 8.第8話:『雨音のシンコペーションと、紫陽花の告白』
- 9.第9話:『放課後のサイダーと、透明な独白』
- 10.第10話:『向日葵の予感と、止まらない砂時計』
- 11.第11話:『陽炎のラプソディと、秘密の約束』
- 12.第12話:『星空の境界線と、五色の火花』
- 13.第13話:『九月のチャイムと、図書室の領分』
- 14.第14話:『十月の風と、夕暮れの帰り道』
- 15.第15話:『十一月の雨と、温かな缶コーヒー』