神隠し
[明朝体]
大きなシャボン玉に包まれているような気分。
昼間は喧しかった蝉も今は眠りに就いた。冷たい月明かりが項垂れた向日葵に降る。足元の雑草とサンダルの底が擦れ合う音で、遠くから聞こえる花火大会のざわめきを踏みしめていく。
特に美しいものでもなく、真っ暗な漆黒に灰色の染みが疎らに散ったような夜空。少年の頃に思い描いた星降る夜などはどこにもない。
ズボンのポケットにはスマホだけ。
湿気を含んだ生温い空気に肩を組まれて、自分が何を考えているか分からないけれど何かを思っていることは確かなのだという曖昧な気持ちを込めた息を吐く。
ここは誰もいない展望台。怪しげに茂る木々を背後に、冷たい木造のベンチに腰を下ろした自分は、少し眩しい海を眺めている。子供たちの間では心霊スポットだと噂される展望台。大人たちも本気で子供たちの話を信じないとしても、「展望台に登る階段には手すりがないし足元が整備されていないから」と理由を付けて避ける世界に、自分はただ一人。
自分だけがこの世界を知っているんだ。
自分だけの何か。それに対する憧れに導かれるように、子供と大人の境目に立たされているような気分の自分は、自分が主人公になれるような世界が欲しくて、花火大会のある夜は毎年ここに来て浸っていた。
今宵だけは、自分だけの夜。
そう思っていたんだ。
君が現れるまでは。
「海に花火、見に行かないの?」
何処からともなく不意に現れて、僕の隣に腰を下ろした君。妙にリアルな狐のお面を被り、君は海を眺めていた。黄土色と焦げ茶色の麻の葉文様の浴衣を着た君は、どこか大人びていた。
「人混みは苦手なんだ」
僕がそう言ったとき、暗い海の上に大きな花火が一つ咲いた。その花火が君の姿を照らした。君は寂しそうな目で自分の爪先を見ていた。木々の葉がざわめく。少し強まった風が僕たちの髪を揺らす。
少し風が止んだ頃、小さな花火が何連発か夜空に散った。赤や黄色の火花が、君の瞳に映っていた。
「ずっと見てた」
「何を?」
僕からの問いに君は答えない。僕自身がコミュ障だからなのか、君の隣は何だか温かくて心地よかった。
「お願い。帰って」
君は前触れもなく、僕から目を逸らしたまま苦しそうにそう呟いた。
「花火が全部打ち上げられたら帰るよ」
僕がそう答えても、君は首を横に振るばかり。花火に合わせて流れる流行歌が、少し下の方から微かに聞こえてくる。歌詞が聞き取れない程度のメロディーが、ここにも届いていた。
「あなたを欲してしまう前に。だから、お願い」
君の叫び声が夜空を貫いた。突如として朦朧とする意識。睡魔のような何かに襲われてグワングワンと世界が揺れる。
「ごめんなさい」
嗚咽の混じった君の懺悔の言葉を聞いたのを最後に、「僕」の意識は途切れた。
[水平線]
あぁ、そうか。思い出した。僕は、交番前の掲示板に貼られた行方不明者の捜索願のポスターを見上げていた。馴染みのある顔が、そこにあった。
以前に比べれば、随分と人間に見下ろされるようになった。学校帰りでランドセルを背負ったヤンチャな男子たちに追い掛けられるようなこともしばしば。
だが、僕は元に戻りたいとは思わない。お金の問題もルッキズムも関係ない生活は快適だ。
僕は3匹の鼠を口に咥えて、「家」に帰った。そこには君がいた。滑らかな毛並みの君。僕が嘗て恋した君の姿が、目の前にある。
「おかえり」「ただいま」
大きく膨らんだ君のお腹。大切な子供たちを宿した君の姿が何よりも大切なんだ。そしていつか、家族みんなで見に行くんだ。
前よりもずっとずっと大きな花火を、あの展望台の上で。
[/明朝体]
大きなシャボン玉に包まれているような気分。
昼間は喧しかった蝉も今は眠りに就いた。冷たい月明かりが項垂れた向日葵に降る。足元の雑草とサンダルの底が擦れ合う音で、遠くから聞こえる花火大会のざわめきを踏みしめていく。
特に美しいものでもなく、真っ暗な漆黒に灰色の染みが疎らに散ったような夜空。少年の頃に思い描いた星降る夜などはどこにもない。
ズボンのポケットにはスマホだけ。
湿気を含んだ生温い空気に肩を組まれて、自分が何を考えているか分からないけれど何かを思っていることは確かなのだという曖昧な気持ちを込めた息を吐く。
ここは誰もいない展望台。怪しげに茂る木々を背後に、冷たい木造のベンチに腰を下ろした自分は、少し眩しい海を眺めている。子供たちの間では心霊スポットだと噂される展望台。大人たちも本気で子供たちの話を信じないとしても、「展望台に登る階段には手すりがないし足元が整備されていないから」と理由を付けて避ける世界に、自分はただ一人。
自分だけがこの世界を知っているんだ。
自分だけの何か。それに対する憧れに導かれるように、子供と大人の境目に立たされているような気分の自分は、自分が主人公になれるような世界が欲しくて、花火大会のある夜は毎年ここに来て浸っていた。
今宵だけは、自分だけの夜。
そう思っていたんだ。
君が現れるまでは。
「海に花火、見に行かないの?」
何処からともなく不意に現れて、僕の隣に腰を下ろした君。妙にリアルな狐のお面を被り、君は海を眺めていた。黄土色と焦げ茶色の麻の葉文様の浴衣を着た君は、どこか大人びていた。
「人混みは苦手なんだ」
僕がそう言ったとき、暗い海の上に大きな花火が一つ咲いた。その花火が君の姿を照らした。君は寂しそうな目で自分の爪先を見ていた。木々の葉がざわめく。少し強まった風が僕たちの髪を揺らす。
少し風が止んだ頃、小さな花火が何連発か夜空に散った。赤や黄色の火花が、君の瞳に映っていた。
「ずっと見てた」
「何を?」
僕からの問いに君は答えない。僕自身がコミュ障だからなのか、君の隣は何だか温かくて心地よかった。
「お願い。帰って」
君は前触れもなく、僕から目を逸らしたまま苦しそうにそう呟いた。
「花火が全部打ち上げられたら帰るよ」
僕がそう答えても、君は首を横に振るばかり。花火に合わせて流れる流行歌が、少し下の方から微かに聞こえてくる。歌詞が聞き取れない程度のメロディーが、ここにも届いていた。
「あなたを欲してしまう前に。だから、お願い」
君の叫び声が夜空を貫いた。突如として朦朧とする意識。睡魔のような何かに襲われてグワングワンと世界が揺れる。
「ごめんなさい」
嗚咽の混じった君の懺悔の言葉を聞いたのを最後に、「僕」の意識は途切れた。
[水平線]
あぁ、そうか。思い出した。僕は、交番前の掲示板に貼られた行方不明者の捜索願のポスターを見上げていた。馴染みのある顔が、そこにあった。
以前に比べれば、随分と人間に見下ろされるようになった。学校帰りでランドセルを背負ったヤンチャな男子たちに追い掛けられるようなこともしばしば。
だが、僕は元に戻りたいとは思わない。お金の問題もルッキズムも関係ない生活は快適だ。
僕は3匹の鼠を口に咥えて、「家」に帰った。そこには君がいた。滑らかな毛並みの君。僕が嘗て恋した君の姿が、目の前にある。
「おかえり」「ただいま」
大きく膨らんだ君のお腹。大切な子供たちを宿した君の姿が何よりも大切なんだ。そしていつか、家族みんなで見に行くんだ。
前よりもずっとずっと大きな花火を、あの展望台の上で。
[/明朝体]
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