空を知らない君へ
病院の廊下は、いつも同じ匂いがする。
消毒液と、どこか乾いた空気の匂い。
[漢字]坂田 百華[/漢字][ふりがな]さかだ ももか[/ふりがな]は、その匂いがあまり好きではなかった。
それでも足は自然と、いつもの病室へ向かう。
百華「[太字]幽[/太字]、来たよ」
カーテンを開けると、白いベッドの上で[漢字]花星 幽[/漢字][ふりがな]はなぼし ゆう[/ふりがな]がゆっくりと目を開けた。
幽「……百華」
[斜体]かすれた声。[/斜体]
それでも、彼は微笑む。
初めて会ったときから、幽はこんなふうに笑っていた。
弱々しいのに、なぜか安心させる笑顔。
百華「今日はどう?」
幽「昨日より、ちょっとだけいい気がする」
それが本当かどうかなんて、百華にはわからない。
でも彼女は、毎回うなずく。
百華「そっか、よかった」
二人の間には、静かな時間が流れる。
機械の規則的な音だけが、命の残り時間を刻むみたいに響いていた。
医者から聞かされたのは、一週間前のことだった。
[太字][太字][斜体][下線][中央寄せ]——花星幽の余命は、一ヶ月弱。[/中央寄せ][/下線][/斜体][/太字][/太字]
その言葉は、あまりにもあっさりしていて、現実感がなかった。
けれど、こうして彼の細くなった腕を見るたびに、嫌でも理解してしまう。
幽「ねえ、百華」
幽がぽつりとつぶやく。
百華「なに?」
幽「空って、どんな感じ?」
百華は一瞬、言葉に詰まった。
百華「……空?」
幽「うん。見たことないんだ」
幽は、窓の外ではなく、天井を見上げた。
「ずっと病院だったし、小さい頃も手術ばっかりで……[下線]外に出た記憶、ないんだよね[/下線]」
百華の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「だから、想像するしかないんだ。青いっていうけど、本当に青いのかとか」
その言い方は軽かったけれど、どこか遠くを見るようだった。
百華「……見たい?」
気づけば、百華はそう聞いていた。
幽は少し驚いた顔をして、それから静かに笑う。
幽「見てみたいな。でも無理だよ」
百華「なんで?」
幽「歩けないし、外に出る体力もないし……それに」
少し間を置いて、彼は言った。
優「…もう時間も、そんなにないから」
その言葉は、静かに落ちて、重く残った。
百華は何も言えなかった。ただ、拳を強く握りしめる。
その日から、彼女の中に一つの想いが芽生えた。
[下線][斜体][明朝体]——幽に、空を見せたい。[/明朝体][/斜体][/下線]
それは無謀で、無茶で、きっと許されないことだった。
けれど、それでも。
日が経つにつれて、幽の体はさらに弱っていった。
会話も途切れがちになり、目を開けている時間も減る。
そして、残り一日だと告げられた日。
百華は決めた。
その夜、病院は静まり返っていた。
看護師の足音も、遠くに聞こえるだけ。
百華はそっと病室のドアを開ける。
百華「幽、起きて」
幽はゆっくりと目を開けた。
幽「……百華?」
百華「行こう」
幽「どこに?」
百華は、まっすぐ彼を見つめる。
百華「空、見に」
一瞬の沈黙。
幽「……無理だよ」
百華「無理じゃない」
百華はベッドの横に立ち、そっと彼の手を取る。
百華「私が連れてく」
幽は苦しそうに息を吐く。
幽「百華……」
百華「お願い。最後に、見よう」
その声は、震えていた。
でも強かった。
幽はしばらく目を閉じて、それから小さくうなずいた。
幽「……うん」
それだけで十分だった。
百華はゆっくりと彼を起こし、肩を貸す。
驚くほど軽かった。
一歩、一歩。
病室を出て、廊下を進む。
誰かに見つかれば止められる。
でも、足は止まらなかった。
非常口のドアを押し開けると、冷たい夜の空気が流れ込んできた。
屋上への階段は長かった。
幽の呼吸は荒くなり、何度も立ち止まる。
百華「大丈夫?」
幽「……うん」
嘘だとわかっていても、百華は支え続けた。
そして、最後の扉を開ける。
夜空が、そこにあった。
幽「……っ」
幽の目が、大きく見開かれる。
[斜体][太字][明朝体]空は深い紺色で、無数の星が瞬いていた。[/明朝体][/太字][/斜体]
幽「これが……空……」
その声は、震えていた。
百華は何も言わず、ただ隣に立つ。
幽「すごい……」
幽はゆっくりと空を見上げる。
幽「こんなに……広いんだ」
風が二人の間を通り抜ける。
幽「青じゃないね」
幽は少し笑う。
百華「夜だからね」
幽「そっか」
しばらくの間、二人は黙って空を見ていた。
それだけで、十分だった。
やがて幽の体が少しずつ崩れるように傾く。
百華「幽?」
百華は慌てて支える。
幽「……ありがとう、百華」
彼は穏やかな顔で言った。
幽「最後に……見れて、よかった」
百華の目から涙がこぼれる。
百華「もっと早く……連れてくればよかった」
幽「ううん」
幽は首を横に振る。
「今でよかったよ」
彼の視線は、まだ空に向けられていた。
「だって……一番、きれいに見える」
星が、静かに瞬く。
幽「百華」
百華「なに?」
幽「[太字][太字]好きだよ[/太字][/太字]」
その言葉は、とても自然で、優しかった。
百華は泣きながら笑う。
「……私も」
幽は満足そうに微笑んだ。
そして、そのまま——静かに息を引き取った。
風が止んだように、世界が静まる。
百華はしばらく、動けなかった。
ただ、彼の体を抱きしめながら、空を見上げる。
夜空は変わらず、広く、どこまでも続いていた。
百華「……見えたよね」
返事はない。
それでも、きっと。
幽は最後に、ちゃんと空を見たのだ。
百華は涙を拭い、もう一度だけ空を見上げた。
星が、一つだけ強く輝いた気がした。
まるで——
「ありがとう」
そう言っているみたいに。
消毒液と、どこか乾いた空気の匂い。
[漢字]坂田 百華[/漢字][ふりがな]さかだ ももか[/ふりがな]は、その匂いがあまり好きではなかった。
それでも足は自然と、いつもの病室へ向かう。
百華「[太字]幽[/太字]、来たよ」
カーテンを開けると、白いベッドの上で[漢字]花星 幽[/漢字][ふりがな]はなぼし ゆう[/ふりがな]がゆっくりと目を開けた。
幽「……百華」
[斜体]かすれた声。[/斜体]
それでも、彼は微笑む。
初めて会ったときから、幽はこんなふうに笑っていた。
弱々しいのに、なぜか安心させる笑顔。
百華「今日はどう?」
幽「昨日より、ちょっとだけいい気がする」
それが本当かどうかなんて、百華にはわからない。
でも彼女は、毎回うなずく。
百華「そっか、よかった」
二人の間には、静かな時間が流れる。
機械の規則的な音だけが、命の残り時間を刻むみたいに響いていた。
医者から聞かされたのは、一週間前のことだった。
[太字][太字][斜体][下線][中央寄せ]——花星幽の余命は、一ヶ月弱。[/中央寄せ][/下線][/斜体][/太字][/太字]
その言葉は、あまりにもあっさりしていて、現実感がなかった。
けれど、こうして彼の細くなった腕を見るたびに、嫌でも理解してしまう。
幽「ねえ、百華」
幽がぽつりとつぶやく。
百華「なに?」
幽「空って、どんな感じ?」
百華は一瞬、言葉に詰まった。
百華「……空?」
幽「うん。見たことないんだ」
幽は、窓の外ではなく、天井を見上げた。
「ずっと病院だったし、小さい頃も手術ばっかりで……[下線]外に出た記憶、ないんだよね[/下線]」
百華の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「だから、想像するしかないんだ。青いっていうけど、本当に青いのかとか」
その言い方は軽かったけれど、どこか遠くを見るようだった。
百華「……見たい?」
気づけば、百華はそう聞いていた。
幽は少し驚いた顔をして、それから静かに笑う。
幽「見てみたいな。でも無理だよ」
百華「なんで?」
幽「歩けないし、外に出る体力もないし……それに」
少し間を置いて、彼は言った。
優「…もう時間も、そんなにないから」
その言葉は、静かに落ちて、重く残った。
百華は何も言えなかった。ただ、拳を強く握りしめる。
その日から、彼女の中に一つの想いが芽生えた。
[下線][斜体][明朝体]——幽に、空を見せたい。[/明朝体][/斜体][/下線]
それは無謀で、無茶で、きっと許されないことだった。
けれど、それでも。
日が経つにつれて、幽の体はさらに弱っていった。
会話も途切れがちになり、目を開けている時間も減る。
そして、残り一日だと告げられた日。
百華は決めた。
その夜、病院は静まり返っていた。
看護師の足音も、遠くに聞こえるだけ。
百華はそっと病室のドアを開ける。
百華「幽、起きて」
幽はゆっくりと目を開けた。
幽「……百華?」
百華「行こう」
幽「どこに?」
百華は、まっすぐ彼を見つめる。
百華「空、見に」
一瞬の沈黙。
幽「……無理だよ」
百華「無理じゃない」
百華はベッドの横に立ち、そっと彼の手を取る。
百華「私が連れてく」
幽は苦しそうに息を吐く。
幽「百華……」
百華「お願い。最後に、見よう」
その声は、震えていた。
でも強かった。
幽はしばらく目を閉じて、それから小さくうなずいた。
幽「……うん」
それだけで十分だった。
百華はゆっくりと彼を起こし、肩を貸す。
驚くほど軽かった。
一歩、一歩。
病室を出て、廊下を進む。
誰かに見つかれば止められる。
でも、足は止まらなかった。
非常口のドアを押し開けると、冷たい夜の空気が流れ込んできた。
屋上への階段は長かった。
幽の呼吸は荒くなり、何度も立ち止まる。
百華「大丈夫?」
幽「……うん」
嘘だとわかっていても、百華は支え続けた。
そして、最後の扉を開ける。
夜空が、そこにあった。
幽「……っ」
幽の目が、大きく見開かれる。
[斜体][太字][明朝体]空は深い紺色で、無数の星が瞬いていた。[/明朝体][/太字][/斜体]
幽「これが……空……」
その声は、震えていた。
百華は何も言わず、ただ隣に立つ。
幽「すごい……」
幽はゆっくりと空を見上げる。
幽「こんなに……広いんだ」
風が二人の間を通り抜ける。
幽「青じゃないね」
幽は少し笑う。
百華「夜だからね」
幽「そっか」
しばらくの間、二人は黙って空を見ていた。
それだけで、十分だった。
やがて幽の体が少しずつ崩れるように傾く。
百華「幽?」
百華は慌てて支える。
幽「……ありがとう、百華」
彼は穏やかな顔で言った。
幽「最後に……見れて、よかった」
百華の目から涙がこぼれる。
百華「もっと早く……連れてくればよかった」
幽「ううん」
幽は首を横に振る。
「今でよかったよ」
彼の視線は、まだ空に向けられていた。
「だって……一番、きれいに見える」
星が、静かに瞬く。
幽「百華」
百華「なに?」
幽「[太字][太字]好きだよ[/太字][/太字]」
その言葉は、とても自然で、優しかった。
百華は泣きながら笑う。
「……私も」
幽は満足そうに微笑んだ。
そして、そのまま——静かに息を引き取った。
風が止んだように、世界が静まる。
百華はしばらく、動けなかった。
ただ、彼の体を抱きしめながら、空を見上げる。
夜空は変わらず、広く、どこまでも続いていた。
百華「……見えたよね」
返事はない。
それでも、きっと。
幽は最後に、ちゃんと空を見たのだ。
百華は涙を拭い、もう一度だけ空を見上げた。
星が、一つだけ強く輝いた気がした。
まるで——
「ありがとう」
そう言っているみたいに。
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