[太字][大文字]♥断罪イベント回避いたします![/大文字][/太字]
きらびやかなシャンデリアが天井で幾千もの光を放ち、最高級のシルクやドレスに身を包んだ若き貴族たちが談笑する。
ここはデルタ王立学園の卒業記念パーティー会場。本来であれば、数年間の学びを終えた若者たちの前途を祝す、祝福に満ちた場であるはずだった。
しかし、その平穏は、パリン、という硬質で無慈悲な音によって破られた。
給仕の持つトレイから床へと滑り落ちたクリスタルグラスが、粉々に砕け散る。
水を打ったように静まり返る会場の中心で、一人の男が傲慢に胸を張り、冷徹な声を響かせた。
「エルナ・フォン・アウグスト公爵令嬢! 貴様のような醜悪な悪女との婚約など、これ以上継続することはできん! 今この場を以て、貴様との婚約を破棄する!」
声の主は、カイル・フォン・デルタ。この王国の第一王子であり、私の婚約者――だった男だ。
まばゆい金髪をいかめしく揺らし、青い瞳に激しい怒りを燃やす彼の姿は、まるで正義のヒーローを気取っているかのようだった。
そしてその腕にしがみついているのは、可憐なピンクブロンドの髪を震わせ、今にも泣き出しそうな瞳で私を見上げてくる男爵令嬢、ミリア・エヴァンス。
「カイル殿下……。あ、あまりエルナ様を責めないであげてください。私は、ただ……エルナ様が私のことを認めてくださるだけで良かったのです……っ」
芝居がかった台詞と共に、ミリアはカイルの胸へと顔を埋める。
カイルはその小さな肩を抱き寄せ、さらに私へと鋭い視線を向けた。
「怯えなくていい、ミリア。僕が必ずお前を守る。……おいエルナ、何か弁明はあるか! ミリアに対する数々の陰湿な嫌がらせ、教科書を引き裂き、泥水を浴びせ、果ては階段から突き落として全治二週間の怪我を負わせた罪! これらはすべて、我が国の最高学府たるこの学園で起きた実刑に値する暴挙だ!」
周囲の貴族たちが、ざわざわと囁き声を交わし始める。
「アウグスト公爵家の令嬢がそんなことを……」
「やはり、身分の低い男爵令嬢に王子を奪われそうで嫉妬したのね」
「恐ろしい女だ」
飛び交う侮蔑の視線。向けられる悪意の数々。
普通の令嬢であれば、今すぐこの場に泣き崩れ、あるいは無実を訴えて狂ったように叫び散らかすのだろう。
しかし、私――エルナ・フォン・アウグストは、ただ静かに、手に持った扇で口元を隠し、冷ややかな笑みを深めるだけだった。
「(……やっと、この時が来ましたわね)」
私の脳裏には、十五歳の聖誕祭の日に突然蘇った『前世の記憶』があった。
ここは、前世で私が流行病のベッドの中で読み耽っていた少女漫画『光と影の聖女』の世界。
そして私は、ヒロインであるミリアの美徳を際立たせるためだけに存在する、文字通りの『悪役令嬢』。
原作の通りであれば、私はこの断罪劇で完全に失脚し、家を籍を追われ、最後は寒冷の地へと追放されて凍死する運命だった。
冗談ではありませんわ。
私は今世、アウグスト公爵家の莫大な資産と英才教育を注ぎ込まれ、十歳で国家一級魔導師の資格を史上最年少で取得した、稀代の『天才魔導令嬢』ですのよ?
お馬鹿な王子と、頭の軽い男爵令嬢の身勝手な筋書き通りに、私の人生を踏み躙らせてたまるものですか。
「カイル殿下」
私はすっと背筋を伸ばし、一歩前へ出た。夜空を溶かし込んだような深い王紺(ロイヤルブルー)の髪が、シャンデリアの光を浴びて艶やかに揺れる。私の澄んだ紫色の瞳がカイルを正面から射抜くと、彼は一瞬、その威圧感に気圧されたように身を引いた。
「突然大声を張り上げられるのはおやめくださいませ。高貴なる王族の品格を疑われますわよ。それに……嫌がらせ、教科書、階段、ですって? よくもまぁ、それほど中身の無い絵空事を並べ立てられたものですわ」
「何だと!? 往生際が悪いぞ! すべて証拠があるのだ!」
カイルが勝ち誇ったように手を叩く。すると、彼の側近である騎士団長の息子と、魔導省長官の息子が、それぞれ分厚い書類を手にして進み出てきた。
「エルナ様。これは、あなたがミリア嬢の教科書を破棄するよう命じたという、公爵家の使用人の証言書です」
「そしてこちらが、あなたがミリア嬢を階段から突き落とした現場を目撃したという、複数名の生徒の署名です。これ以上の言い逃れは不可能かと」
元婚約者のカイルだけでなく、かつて私を「天才」と崇めていたはずの側近たちまでもが、冷酷な目で私を見下ろしている。
その背後で、ミリアがほんの一瞬、勝ち誇ったような歪んだ笑みを浮かべたのを、私の目は逃さなかった。
「ふふ……あはははは!」
静寂の満ちる会場に、私の鈴を転がすような笑い声が響く。
「何が可笑しい!」 カイルが顔を真っ赤にして怒鳴る。
「可笑しいに決まっていますわ。国家の要職に就くべき殿方たちが、揃いも揃って、一人の小娘の稚拙な嘘に踊らされているのですから。……ミリア・エヴァンス。貴女、自分がどれほど大それた罪を犯しているか、理解していらっしゃいますの?」
私の冷徹な視線がミリアに突き刺さると、彼女はヒッと短い悲鳴を上げてカイルの背後に隠れた。
「エルナ様、怖い、怖いです……! カイル様、助けて……!」
「エルナ! ミリアをこれ以上脅すことは許さん! 衛兵! この悪女を今すぐ捕らえ、地下牢へ連れて行け!」
カイルの命令により、重装備の衛兵たちが一斉に私を取り囲む。
会場の貴族たちは、私を哀れむことすらなく、ただ破滅を待つ見世物を見るような目で観察していた。
「触れないでちょうだい」
私が一言、静かに放った。
ただそれだけだった。しかし、私の全身から放たれた目に見えない魔力の波動が、会場全体の空気を一瞬で氷点下へと引き下げた。
衛兵たちは、まるで全身を強固な氷の鎖で縛り付けられたかのように、その場から一歩も動けなくなった。彼らの額から、タラリと冷たい汗が流れ落ちる。
「な、何をした……!? エルナ、王命に逆らう気か!」 カイルが驚愕に目を見開く。
「王命? いいえ、これはまだ『王子の独断』に過ぎませんわ。カイル殿下、そして側近の皆様。貴方方が集めた『証拠』とやらが、いかに価値のない紙屑か……私の魔導を以て、今ここで証明して差し上げますわ」
私は右手を優雅に天へと掲げた。
「いでよ――『真実の投影魔法(レコード・レイ)』」
私の指先から、眩い純白の光が解き放たれる。その光は網の目のように広がり、パーティー会場の巨大な天井全体を、一面の光のスクリーンへと変貌させた。
古代遺物の解析や、国家の最高機密審議にしか使われない、対象の記憶と空間の残留魔力を極限まで再現する最高位の空間魔導。
「な、何だこの魔法は……! 術式が複雑すぎて読み取れない……!」
魔導省長官の息子が、眼鏡をガタガタと震わせながら天井を見上げる。
「見なさい。これが、貴方方の言う『真実』の正体ですわ」
天井のスクリーンに、鮮明な映像が映し出された。
場所は数週間前の、放課後の無人の教室。
そこに映っていたのは、周囲をキョロキョロと見回すミリア・エヴァンスの姿だった。彼女の顔には、先ほどまでの可憐な表情など微塵もない。悪辣な笑みを浮かべ、自分のカバンから教科書を取り出すと、自らの手でバラバラに引き裂き始めたのだ。
『ふふん、これでエルナの仕業にすれば、カイル様はもっと私に優しくしてくれるわ。あんな高飛車な公爵令嬢、早く消えちゃえばいいのよ』
映像からは、ミリアが呟いた声までが、はっきりと会場全体に響き渡った。
「な、何だと……!?」 カイルが愕然としてミリアを見る。
「あ、あれは違うの! 違うんです、カイル様! 誰かが私に変身して、私を陥れようとしてるのよ!」 ミリアが狂ったように叫ぶ。
「往生際が悪いですわね。では、次をご覧になって?」
映像が切り替わる。今度は、学園の時計塔へと続く階段の映像だ。
ミリアは階段の踊り場で立ち止まり、念入りに下を確認していた。下には誰もいない。そして彼女は、自分で自分の服の裾を引っ張り、わざとらしく、しかし怪我を最小限に抑えるような角度を計算して、自ら転げ落ちたのだ。
その直後、駆けつけたカイルに対し、ミリアは涙を流しながら『エルナ様に後ろから押された』と嘘を吐いた。その全貌が、一秒の狂いもなく上映されている。
「そんな……ミリア、お前、僕に嘘を吐いていたのか……?」
カイルの声が震える。
側近たちが集めた証言書や署名も、アウグスト公爵家の権力に嫉妬した別貴族からの買収や、ミリアによる脅迫であったことを示す通信魔導の履歴が、次々と画面に文字としてスクロールされていく。
会場の空気は一変した。
さっきまで私をなじっていた貴族たちが、今度は一斉にミリアへと軽蔑の視線を向ける。
「なんて悍ましい女だ」
「自分で自分を傷つけて王子を騙すなど、狂気の沙汰だわ」
「ミ、ミリア……お前、僕を騙して……!」
裏切られた衝撃に顔を青ざめさせ、ミリアの肩を掴もうとするカイル。
しかし、私の反撃は、これだけでは終わらない。
「カイル殿下。貴方、ご自分がなぜそこまでその女に狂わされていたか、本当に『ご自分の意思』だと思っていらっしゃいましたの?」
「……何だと?」
私はフッと冷笑し、今度は左手をミリアへと向けた。
「隠された歪みを暴け――『呪詛解体・聖王の波導(ディスペル・オーラ)』!」
私の手から放たれたのは、濁りのない極大の聖属性魔法。まばゆい金の光線がミリアの身体を直撃した。
「ぎゃあああああああああっ!?」
ミリアの口から、人間のものとは思えない禍々しい悲鳴が上がる。
同時に、彼女の身体から、ドロドロとした不気味なピンク色の霧が噴き出し、空間に霧散していった。
その霧が消え去った瞬間、ミリアの瞳から異常な輝きが消え、どこか生気のない、ただの凡庸な少女の姿へと戻り、床へとへたり込んだ。
それと同時に、カイル王子が激しく頭を押さえてよろめいた。
「う、あ、頭が……! 僕は、僕は今まで何を……!? なぜ、あんな、エヴァンス男爵令嬢のような無礼で教養のない女を、婚約者であるエルナより優先して……!? うわあああああ!」
カイルは床に膝をつき、激しく呼吸を乱しながら自分の両手を見つめた。
「洗脳……魅了(チャーム)の魔法か……!」
魔導省長官の息子が、腰を抜かしながら叫んだ。
「その通りですわ。ミリア・エヴァンス。貴女が使っていたのは、この国で百年前に使用が禁じられた禁忌の精神魔導『淫魔の吐息(サキュバス・ブレス)』。他者の精神を汚染し、自分への絶対的な好意を植え付ける最悪の呪いですわ」
私は倒れ伏すミリアを見下ろし、冷徹に通告した。
「貴女の後ろ盾となっている組織についても、すでに我が公爵家の情報網が掴んでおります。隣国の密偵と繋がり、このデルタ王国の第一王子を操ることで、国家の中枢を乗っ取ろうと画策しましたわね? 罪名は『国家転覆陰謀罪』および『王族暗殺未遂(精神死)』。――これを重罪と言わずして、何と言いますの?」
「嘘よ……嘘よ! 私はヒロインなのよ! この世界の男の人はみんな私を好きになって、私をいじめる悪役令嬢は破滅するはずなのに! どうして、どうしてこんなゴミみたいな魔法使いに私の計画が……!」
ミリアは髪を振り乱し、爪を噛みながら床を血が出るほど掻き毟った。
その姿に、もはやかつての『可憐なヒロイン』の面影はどこにもない。ただの哀れな犯罪者の姿だった。
「連れて行きなさい」
私の凍りつくような声に、ようやく身体の硬直が解けた衛兵たちが、今度は一切の手加減なしにミリアの細い腕を掴み上げた。
「放して! 触らないでよ! カイル様! 助けてカイル様ぁ!」
狂ったように叫ぶミリアは、そのままパーティー会場の外へと引きずられていった。彼女を待つのは、二度と光の差さない王城の最下層の監獄だろう。
会場に残されたのは、静まり返る群衆と、頭を抱えて震えるカイル王子だけだった。
「エルナ……」
カイルが、縋るような目を私に向けて、震える手を伸ばしてきた。
「すまない、僕は、僕は魅了されていたんだ! 僕の意思ではなかったんだ! 信じてくれ! 僕は本当に君を愛して――」
「お黙りなさい、見苦しい」
私は伸ばされたその手を、扇で容赦なく叩き落とした。
「魅了の魔法にかかっていたことは事実でしょう。ですが、殿下。精神が弱っていなければ、これほど容易に禁忌の魔法に侵されることはありません。何より、貴方はミリアに唆される前から、私の魔導の才能を『女のくせに生意気だ』と嫉妬し、疎んでいらっしゃいましたわね?」
「それは……」 カイルが言葉を詰まらせる。
「私の前世の言葉に『器の小さい男ほど、優秀な女を叩きたがる』というものがありますわ。まさに貴方のことです。公衆の面前で我がアウグスト公爵家を侮辱し、無実の罪を着せようとしたその器量。もはや王位を継ぐ資格など、万に一つもございません。――カイル殿下、貴方が先ほどおっしゃった『婚約破棄』、私の方から、謹んでお受けいたしますわ」
「あ、ああ……」
カイルは完全に絶望し、床へと突っ伏した。
その時、会場の最奥、重厚な玉座の間へと続く扉が静かに開いた。
現れたのは、現国王陛下……ではなく、その隣に立つ、この国の第二王子であり、カイルの腹違いの弟であるレオン・フォン・デルタ殿下だった。
彼は艶やかな漆黒の髪に、深い知性を湛えた翡翠の瞳を持つ、誰もが認める文武両道の天才。普段は表舞台を嫌い、魔導の研究に没頭しているはずの彼が、なぜここに。
レオン殿下はまっすぐに私へと歩み寄ると、私の前で優雅に一礼し、その大きな手を差し伸べた。
「実に見事な手際だったよ、エルナ。我が兄ながら、これほど愚かだとは思わなかった。国王陛下にはすでに一部始終を魔導通信で報告してある。カイルは即座に王位継承権を剥奪され、北方の鉱山国への生涯追放が決定した」
「レオン殿下……」
「エルナ。君ほどの至宝を、あんな無能な男の元に置いておくのは、この国の損失だとずっと思っていたんだ。……いや、これは建前だね。私は、ずっと前から君のその圧倒的な美しさと、誰よりも気高い魂に恋をしていた」
会場から、本日一番の歓声とどよめきが沸き起こる。
レオン殿下は私の手を取り、その甲にそっと、熱い唇を落とした。
「私と婚約してほしい。君を我が国の最高魔導師として、そして、私の生涯唯一の王妃として、私のすべてを懸けて溺愛することを誓おう。君を傷つけるものは、この世界のどこへ逃げようとも私が許さない」
彼の翡翠の瞳に宿る、嘘偽りのない、深く熱い情熱。
前世の記憶に振り回され、戦うことだけを考えていた私の胸が、初めてトクン、と小さく跳ねた。
カイルは地べたを這いずりながら彼らを見上げていたが、すぐに騎士たちによって拘束され、会場から退場させられていった。彼に視線を向ける者は、もう誰もいなかった。
私はレオン殿下の微笑みに応えるように、満面の笑みを浮かべた。
アウグスト公爵令嬢として、そして一人の女として、私は私の力で、この運命を勝ち取ったのだ。
「ええ、喜んでお受けいたしますわ、レオン殿下。――私を裏切った方々がどのような末路を辿るか、特等席で見届けさせていただきながら……私、貴方の隣で、絶対に幸せになって見せますわ!」
割れんばかりの拍手と祝福の嵐が、新しく誕生した至高の二階級のカップルを包み込む。
窓の外には、夜明けの美しい光が、エルナの輝かしい未来を祝福するように差し込み始めていた。
きらびやかなシャンデリアが天井で幾千もの光を放ち、最高級のシルクやドレスに身を包んだ若き貴族たちが談笑する。
ここはデルタ王立学園の卒業記念パーティー会場。本来であれば、数年間の学びを終えた若者たちの前途を祝す、祝福に満ちた場であるはずだった。
しかし、その平穏は、パリン、という硬質で無慈悲な音によって破られた。
給仕の持つトレイから床へと滑り落ちたクリスタルグラスが、粉々に砕け散る。
水を打ったように静まり返る会場の中心で、一人の男が傲慢に胸を張り、冷徹な声を響かせた。
「エルナ・フォン・アウグスト公爵令嬢! 貴様のような醜悪な悪女との婚約など、これ以上継続することはできん! 今この場を以て、貴様との婚約を破棄する!」
声の主は、カイル・フォン・デルタ。この王国の第一王子であり、私の婚約者――だった男だ。
まばゆい金髪をいかめしく揺らし、青い瞳に激しい怒りを燃やす彼の姿は、まるで正義のヒーローを気取っているかのようだった。
そしてその腕にしがみついているのは、可憐なピンクブロンドの髪を震わせ、今にも泣き出しそうな瞳で私を見上げてくる男爵令嬢、ミリア・エヴァンス。
「カイル殿下……。あ、あまりエルナ様を責めないであげてください。私は、ただ……エルナ様が私のことを認めてくださるだけで良かったのです……っ」
芝居がかった台詞と共に、ミリアはカイルの胸へと顔を埋める。
カイルはその小さな肩を抱き寄せ、さらに私へと鋭い視線を向けた。
「怯えなくていい、ミリア。僕が必ずお前を守る。……おいエルナ、何か弁明はあるか! ミリアに対する数々の陰湿な嫌がらせ、教科書を引き裂き、泥水を浴びせ、果ては階段から突き落として全治二週間の怪我を負わせた罪! これらはすべて、我が国の最高学府たるこの学園で起きた実刑に値する暴挙だ!」
周囲の貴族たちが、ざわざわと囁き声を交わし始める。
「アウグスト公爵家の令嬢がそんなことを……」
「やはり、身分の低い男爵令嬢に王子を奪われそうで嫉妬したのね」
「恐ろしい女だ」
飛び交う侮蔑の視線。向けられる悪意の数々。
普通の令嬢であれば、今すぐこの場に泣き崩れ、あるいは無実を訴えて狂ったように叫び散らかすのだろう。
しかし、私――エルナ・フォン・アウグストは、ただ静かに、手に持った扇で口元を隠し、冷ややかな笑みを深めるだけだった。
「(……やっと、この時が来ましたわね)」
私の脳裏には、十五歳の聖誕祭の日に突然蘇った『前世の記憶』があった。
ここは、前世で私が流行病のベッドの中で読み耽っていた少女漫画『光と影の聖女』の世界。
そして私は、ヒロインであるミリアの美徳を際立たせるためだけに存在する、文字通りの『悪役令嬢』。
原作の通りであれば、私はこの断罪劇で完全に失脚し、家を籍を追われ、最後は寒冷の地へと追放されて凍死する運命だった。
冗談ではありませんわ。
私は今世、アウグスト公爵家の莫大な資産と英才教育を注ぎ込まれ、十歳で国家一級魔導師の資格を史上最年少で取得した、稀代の『天才魔導令嬢』ですのよ?
お馬鹿な王子と、頭の軽い男爵令嬢の身勝手な筋書き通りに、私の人生を踏み躙らせてたまるものですか。
「カイル殿下」
私はすっと背筋を伸ばし、一歩前へ出た。夜空を溶かし込んだような深い王紺(ロイヤルブルー)の髪が、シャンデリアの光を浴びて艶やかに揺れる。私の澄んだ紫色の瞳がカイルを正面から射抜くと、彼は一瞬、その威圧感に気圧されたように身を引いた。
「突然大声を張り上げられるのはおやめくださいませ。高貴なる王族の品格を疑われますわよ。それに……嫌がらせ、教科書、階段、ですって? よくもまぁ、それほど中身の無い絵空事を並べ立てられたものですわ」
「何だと!? 往生際が悪いぞ! すべて証拠があるのだ!」
カイルが勝ち誇ったように手を叩く。すると、彼の側近である騎士団長の息子と、魔導省長官の息子が、それぞれ分厚い書類を手にして進み出てきた。
「エルナ様。これは、あなたがミリア嬢の教科書を破棄するよう命じたという、公爵家の使用人の証言書です」
「そしてこちらが、あなたがミリア嬢を階段から突き落とした現場を目撃したという、複数名の生徒の署名です。これ以上の言い逃れは不可能かと」
元婚約者のカイルだけでなく、かつて私を「天才」と崇めていたはずの側近たちまでもが、冷酷な目で私を見下ろしている。
その背後で、ミリアがほんの一瞬、勝ち誇ったような歪んだ笑みを浮かべたのを、私の目は逃さなかった。
「ふふ……あはははは!」
静寂の満ちる会場に、私の鈴を転がすような笑い声が響く。
「何が可笑しい!」 カイルが顔を真っ赤にして怒鳴る。
「可笑しいに決まっていますわ。国家の要職に就くべき殿方たちが、揃いも揃って、一人の小娘の稚拙な嘘に踊らされているのですから。……ミリア・エヴァンス。貴女、自分がどれほど大それた罪を犯しているか、理解していらっしゃいますの?」
私の冷徹な視線がミリアに突き刺さると、彼女はヒッと短い悲鳴を上げてカイルの背後に隠れた。
「エルナ様、怖い、怖いです……! カイル様、助けて……!」
「エルナ! ミリアをこれ以上脅すことは許さん! 衛兵! この悪女を今すぐ捕らえ、地下牢へ連れて行け!」
カイルの命令により、重装備の衛兵たちが一斉に私を取り囲む。
会場の貴族たちは、私を哀れむことすらなく、ただ破滅を待つ見世物を見るような目で観察していた。
「触れないでちょうだい」
私が一言、静かに放った。
ただそれだけだった。しかし、私の全身から放たれた目に見えない魔力の波動が、会場全体の空気を一瞬で氷点下へと引き下げた。
衛兵たちは、まるで全身を強固な氷の鎖で縛り付けられたかのように、その場から一歩も動けなくなった。彼らの額から、タラリと冷たい汗が流れ落ちる。
「な、何をした……!? エルナ、王命に逆らう気か!」 カイルが驚愕に目を見開く。
「王命? いいえ、これはまだ『王子の独断』に過ぎませんわ。カイル殿下、そして側近の皆様。貴方方が集めた『証拠』とやらが、いかに価値のない紙屑か……私の魔導を以て、今ここで証明して差し上げますわ」
私は右手を優雅に天へと掲げた。
「いでよ――『真実の投影魔法(レコード・レイ)』」
私の指先から、眩い純白の光が解き放たれる。その光は網の目のように広がり、パーティー会場の巨大な天井全体を、一面の光のスクリーンへと変貌させた。
古代遺物の解析や、国家の最高機密審議にしか使われない、対象の記憶と空間の残留魔力を極限まで再現する最高位の空間魔導。
「な、何だこの魔法は……! 術式が複雑すぎて読み取れない……!」
魔導省長官の息子が、眼鏡をガタガタと震わせながら天井を見上げる。
「見なさい。これが、貴方方の言う『真実』の正体ですわ」
天井のスクリーンに、鮮明な映像が映し出された。
場所は数週間前の、放課後の無人の教室。
そこに映っていたのは、周囲をキョロキョロと見回すミリア・エヴァンスの姿だった。彼女の顔には、先ほどまでの可憐な表情など微塵もない。悪辣な笑みを浮かべ、自分のカバンから教科書を取り出すと、自らの手でバラバラに引き裂き始めたのだ。
『ふふん、これでエルナの仕業にすれば、カイル様はもっと私に優しくしてくれるわ。あんな高飛車な公爵令嬢、早く消えちゃえばいいのよ』
映像からは、ミリアが呟いた声までが、はっきりと会場全体に響き渡った。
「な、何だと……!?」 カイルが愕然としてミリアを見る。
「あ、あれは違うの! 違うんです、カイル様! 誰かが私に変身して、私を陥れようとしてるのよ!」 ミリアが狂ったように叫ぶ。
「往生際が悪いですわね。では、次をご覧になって?」
映像が切り替わる。今度は、学園の時計塔へと続く階段の映像だ。
ミリアは階段の踊り場で立ち止まり、念入りに下を確認していた。下には誰もいない。そして彼女は、自分で自分の服の裾を引っ張り、わざとらしく、しかし怪我を最小限に抑えるような角度を計算して、自ら転げ落ちたのだ。
その直後、駆けつけたカイルに対し、ミリアは涙を流しながら『エルナ様に後ろから押された』と嘘を吐いた。その全貌が、一秒の狂いもなく上映されている。
「そんな……ミリア、お前、僕に嘘を吐いていたのか……?」
カイルの声が震える。
側近たちが集めた証言書や署名も、アウグスト公爵家の権力に嫉妬した別貴族からの買収や、ミリアによる脅迫であったことを示す通信魔導の履歴が、次々と画面に文字としてスクロールされていく。
会場の空気は一変した。
さっきまで私をなじっていた貴族たちが、今度は一斉にミリアへと軽蔑の視線を向ける。
「なんて悍ましい女だ」
「自分で自分を傷つけて王子を騙すなど、狂気の沙汰だわ」
「ミ、ミリア……お前、僕を騙して……!」
裏切られた衝撃に顔を青ざめさせ、ミリアの肩を掴もうとするカイル。
しかし、私の反撃は、これだけでは終わらない。
「カイル殿下。貴方、ご自分がなぜそこまでその女に狂わされていたか、本当に『ご自分の意思』だと思っていらっしゃいましたの?」
「……何だと?」
私はフッと冷笑し、今度は左手をミリアへと向けた。
「隠された歪みを暴け――『呪詛解体・聖王の波導(ディスペル・オーラ)』!」
私の手から放たれたのは、濁りのない極大の聖属性魔法。まばゆい金の光線がミリアの身体を直撃した。
「ぎゃあああああああああっ!?」
ミリアの口から、人間のものとは思えない禍々しい悲鳴が上がる。
同時に、彼女の身体から、ドロドロとした不気味なピンク色の霧が噴き出し、空間に霧散していった。
その霧が消え去った瞬間、ミリアの瞳から異常な輝きが消え、どこか生気のない、ただの凡庸な少女の姿へと戻り、床へとへたり込んだ。
それと同時に、カイル王子が激しく頭を押さえてよろめいた。
「う、あ、頭が……! 僕は、僕は今まで何を……!? なぜ、あんな、エヴァンス男爵令嬢のような無礼で教養のない女を、婚約者であるエルナより優先して……!? うわあああああ!」
カイルは床に膝をつき、激しく呼吸を乱しながら自分の両手を見つめた。
「洗脳……魅了(チャーム)の魔法か……!」
魔導省長官の息子が、腰を抜かしながら叫んだ。
「その通りですわ。ミリア・エヴァンス。貴女が使っていたのは、この国で百年前に使用が禁じられた禁忌の精神魔導『淫魔の吐息(サキュバス・ブレス)』。他者の精神を汚染し、自分への絶対的な好意を植え付ける最悪の呪いですわ」
私は倒れ伏すミリアを見下ろし、冷徹に通告した。
「貴女の後ろ盾となっている組織についても、すでに我が公爵家の情報網が掴んでおります。隣国の密偵と繋がり、このデルタ王国の第一王子を操ることで、国家の中枢を乗っ取ろうと画策しましたわね? 罪名は『国家転覆陰謀罪』および『王族暗殺未遂(精神死)』。――これを重罪と言わずして、何と言いますの?」
「嘘よ……嘘よ! 私はヒロインなのよ! この世界の男の人はみんな私を好きになって、私をいじめる悪役令嬢は破滅するはずなのに! どうして、どうしてこんなゴミみたいな魔法使いに私の計画が……!」
ミリアは髪を振り乱し、爪を噛みながら床を血が出るほど掻き毟った。
その姿に、もはやかつての『可憐なヒロイン』の面影はどこにもない。ただの哀れな犯罪者の姿だった。
「連れて行きなさい」
私の凍りつくような声に、ようやく身体の硬直が解けた衛兵たちが、今度は一切の手加減なしにミリアの細い腕を掴み上げた。
「放して! 触らないでよ! カイル様! 助けてカイル様ぁ!」
狂ったように叫ぶミリアは、そのままパーティー会場の外へと引きずられていった。彼女を待つのは、二度と光の差さない王城の最下層の監獄だろう。
会場に残されたのは、静まり返る群衆と、頭を抱えて震えるカイル王子だけだった。
「エルナ……」
カイルが、縋るような目を私に向けて、震える手を伸ばしてきた。
「すまない、僕は、僕は魅了されていたんだ! 僕の意思ではなかったんだ! 信じてくれ! 僕は本当に君を愛して――」
「お黙りなさい、見苦しい」
私は伸ばされたその手を、扇で容赦なく叩き落とした。
「魅了の魔法にかかっていたことは事実でしょう。ですが、殿下。精神が弱っていなければ、これほど容易に禁忌の魔法に侵されることはありません。何より、貴方はミリアに唆される前から、私の魔導の才能を『女のくせに生意気だ』と嫉妬し、疎んでいらっしゃいましたわね?」
「それは……」 カイルが言葉を詰まらせる。
「私の前世の言葉に『器の小さい男ほど、優秀な女を叩きたがる』というものがありますわ。まさに貴方のことです。公衆の面前で我がアウグスト公爵家を侮辱し、無実の罪を着せようとしたその器量。もはや王位を継ぐ資格など、万に一つもございません。――カイル殿下、貴方が先ほどおっしゃった『婚約破棄』、私の方から、謹んでお受けいたしますわ」
「あ、ああ……」
カイルは完全に絶望し、床へと突っ伏した。
その時、会場の最奥、重厚な玉座の間へと続く扉が静かに開いた。
現れたのは、現国王陛下……ではなく、その隣に立つ、この国の第二王子であり、カイルの腹違いの弟であるレオン・フォン・デルタ殿下だった。
彼は艶やかな漆黒の髪に、深い知性を湛えた翡翠の瞳を持つ、誰もが認める文武両道の天才。普段は表舞台を嫌い、魔導の研究に没頭しているはずの彼が、なぜここに。
レオン殿下はまっすぐに私へと歩み寄ると、私の前で優雅に一礼し、その大きな手を差し伸べた。
「実に見事な手際だったよ、エルナ。我が兄ながら、これほど愚かだとは思わなかった。国王陛下にはすでに一部始終を魔導通信で報告してある。カイルは即座に王位継承権を剥奪され、北方の鉱山国への生涯追放が決定した」
「レオン殿下……」
「エルナ。君ほどの至宝を、あんな無能な男の元に置いておくのは、この国の損失だとずっと思っていたんだ。……いや、これは建前だね。私は、ずっと前から君のその圧倒的な美しさと、誰よりも気高い魂に恋をしていた」
会場から、本日一番の歓声とどよめきが沸き起こる。
レオン殿下は私の手を取り、その甲にそっと、熱い唇を落とした。
「私と婚約してほしい。君を我が国の最高魔導師として、そして、私の生涯唯一の王妃として、私のすべてを懸けて溺愛することを誓おう。君を傷つけるものは、この世界のどこへ逃げようとも私が許さない」
彼の翡翠の瞳に宿る、嘘偽りのない、深く熱い情熱。
前世の記憶に振り回され、戦うことだけを考えていた私の胸が、初めてトクン、と小さく跳ねた。
カイルは地べたを這いずりながら彼らを見上げていたが、すぐに騎士たちによって拘束され、会場から退場させられていった。彼に視線を向ける者は、もう誰もいなかった。
私はレオン殿下の微笑みに応えるように、満面の笑みを浮かべた。
アウグスト公爵令嬢として、そして一人の女として、私は私の力で、この運命を勝ち取ったのだ。
「ええ、喜んでお受けいたしますわ、レオン殿下。――私を裏切った方々がどのような末路を辿るか、特等席で見届けさせていただきながら……私、貴方の隣で、絶対に幸せになって見せますわ!」
割れんばかりの拍手と祝福の嵐が、新しく誕生した至高の二階級のカップルを包み込む。
窓の外には、夜明けの美しい光が、エルナの輝かしい未来を祝福するように差し込み始めていた。