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横浜の街を包む夕刻の群青は、今の私には少し重すぎる。
駅へ向かう人波に肩をぶつけられ、小さく謝る声さえ、乾いた喉に張り付いて出てこない。仕事で重なったミス、上司の冷ややかな視線、自分への失望。それらが泥のように足元に絡みついて、一歩踏み出すのさえ億劫だった。
……どこか、遠くへ行きたいな
そんな子供じみた逃避行を空想しながら、力なく俯いて歩いていた、その時。
中島「――っ、あの! ……あ、やっぱり」
聞き覚えのある、少し高めで、それでいて落ち着く声が鼓膜を震わせた。
視線を上げると、そこには見覚えのある白い髪と、アンバランスに長いベルトを揺らした少年――中島敦くんが立っていた。
●●「敦、くん……」
中島「やっぱり、そうですか。遠くから見て、なんだかすごく……消えてしまいそうな背中が見えたから、つい」
彼は私を呼び止めてしまったことに少し戸惑うように、眉を八の字に下げて立ち尽くしている。
いつもの彼なら、ここで「お疲れ様です!」と元気に挨拶をしてくれるはずだ。けれど、今の彼は言葉を選んでいるようで、その紫金色の瞳は、隠しきれない私の疲弊を真っ向から見つめていた。
中島「……何か、ありましたか?」
その問いかけは、あまりに優しすぎて。
大丈夫だよ、と笑おうとした私の唇が、情けなく震えたのを彼は見逃してくれなかった。
中島「……あの、もし良ければなんですけど」
敦くんがおずおずと差し出した手は、私の冷え切った指先に触れるか触れないかの距離で止まる。
中島「少しだけ、寄り道していきませんか? 美味しい珈琲……じゃなくて、すごく甘いココアとか。そういうのが必要な気がするんです、今の貴女には」
カラン、と乾いたドアベルの音が店内に響く。
夕食どきを控えた『喫茶うずまき』は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。窓際の席に座ると、敦くんは「ここ、落ち着くんです」とはにかんで、私のために温かいココアを注文してくれた。
運ばれてきたカップからは、濃厚なチョコの香りと、ぷかぷかと浮いたマシュマロの甘い匂いが立ち上る。
それを一口啜ると、こわばっていた喉の奥が、熱を帯びてゆっくりと解けていくのが分かった。
●●「……あの、敦くん」
中島「はい」
●●「私、今日……本当にダメだったの。何をやっても空回りで、周りにも迷惑をかけて。……自分なんて、ここに居ない方がいいんじゃないかって、本気で思っちゃって」
一度口にすると、堰を切ったように言葉が溢れた。情けなくて、視界がじわりと滲む。
敦くんは、遮ることなく最後まで聞いてくれた。その大きな掌を、テーブルの上でぎゅっと握りしめながら。
中島「……僕も、同じでした」
ぽつり、と彼が零した。
顔を上げると、彼は窓の外、暮れなずむ横浜の街並みを見つめていた。
中島「孤児院にいた頃、僕は毎日そう思っていました。食べる価値も、息をする価値もない人間だって。誰からも必要とされず、ただ追い出される日を待っているだけの……暗い、暗い穴の底にいるような毎日でした」
彼の声は静かだったけれど、そこには無視できないほどの重みがあった。
中島「でも、太宰さんに拾われて、探偵社のみんなに出会って。……初めて気づいたんです。誰かに『そこにいていい』と言ってもらえることが、どれほど救いになるか」
敦くんは視線を戻すと、滲んだ私の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳は、夜を駆ける虎のように強く、それでいて壊れ物を扱うように優しい。
中島「貴女は、ダメなんかじゃありません。今日一日、そんなに苦しい思いをしながらも、こうして僕の前にいてくれる。それだけで、貴女は今日という日に勝ったんです」
●●「……敦くん」
中島「僕が、貴女の居場所になります。もし世界中の誰もが貴女を否定しても、僕だけは『ここにいてください』って言い続けます。……だから、自分を嫌いにならないでください」
差し出された彼の手が、私の震える手に重なった。
驚くほど熱いその体温は、冷え切っていた私の心に、確かな「生」の灯を灯してくれるようだった。
中島「……すみません、僕ばっかり喋っちゃって。少し、落ち着きましたか?」
敦くんがふっと表情を和らげ、重なっていた手をそっと引く。けれど、その指先が離れる瞬間の寂しさに、私は無意識に彼の袖口を掴んでしまっていた。
彼は一瞬驚いたように目を見開いたけれど、すぐにすべてを察したように、困ったような、でも愛おしそうな笑みを浮かべる。
中島「……帰りましょうか。家まで、送らせてください」
会計を済ませて店の外へ出ると、横浜の街はすっかり夜の帳に包まれていた。海から吹き抜ける風は昼間よりも鋭く、私は思わず身を縮める。
すると、隣を歩いていた敦くんが「あの」と言いかけて、迷うように右手を彷徨わせた。
中島「……冷えますから。……いい、ですか?」
彼が差し出した掌に、今度は私からそっと指を絡める。
その瞬間、ぎゅっと力強く握り返された。
●●「わっ、……敦くん、手、すごく温かい」
中島「あはは、やっぱり分かりますか? 虎の力っていうか……代謝がいいみたいで。冬場はよく、探偵社のみんなにカイロ代わりにされるんですよ」
照れ隠しにそう笑う彼だったけれど、繋いだ手から伝わってくるのは、単なる体温だけじゃない。私の存在を肯定し、守ろうとしてくれる彼の強い意志そのものだった。
街灯の下、二人の影が長く伸びて重なる。
さっきまであんなに重かった足取りが、今は彼のリズムに合わせて軽くなっていくのが不思議だった。
●●「……敦くん、ありがとう。少しだけ、明日も頑張れる気がする」
中島「……はい。もし明日、また挫けそうになったら、今日のこの温度を思い出してください。僕はいつでも、貴女の味方ですから」
家の前まで着いても、彼は名残惜しそうに、けれど優しく私の手を離した。
中島「おやすみなさい。……また明日、元気な貴女に会えるのを楽しみにしてます」
暗闇の中でも鮮やかに輝く紫金色の瞳に見送られながら、私は初めて、心からの溜息ではない、深い安らぎの呼吸をつくことができた。
駅へ向かう人波に肩をぶつけられ、小さく謝る声さえ、乾いた喉に張り付いて出てこない。仕事で重なったミス、上司の冷ややかな視線、自分への失望。それらが泥のように足元に絡みついて、一歩踏み出すのさえ億劫だった。
……どこか、遠くへ行きたいな
そんな子供じみた逃避行を空想しながら、力なく俯いて歩いていた、その時。
中島「――っ、あの! ……あ、やっぱり」
聞き覚えのある、少し高めで、それでいて落ち着く声が鼓膜を震わせた。
視線を上げると、そこには見覚えのある白い髪と、アンバランスに長いベルトを揺らした少年――中島敦くんが立っていた。
●●「敦、くん……」
中島「やっぱり、そうですか。遠くから見て、なんだかすごく……消えてしまいそうな背中が見えたから、つい」
彼は私を呼び止めてしまったことに少し戸惑うように、眉を八の字に下げて立ち尽くしている。
いつもの彼なら、ここで「お疲れ様です!」と元気に挨拶をしてくれるはずだ。けれど、今の彼は言葉を選んでいるようで、その紫金色の瞳は、隠しきれない私の疲弊を真っ向から見つめていた。
中島「……何か、ありましたか?」
その問いかけは、あまりに優しすぎて。
大丈夫だよ、と笑おうとした私の唇が、情けなく震えたのを彼は見逃してくれなかった。
中島「……あの、もし良ければなんですけど」
敦くんがおずおずと差し出した手は、私の冷え切った指先に触れるか触れないかの距離で止まる。
中島「少しだけ、寄り道していきませんか? 美味しい珈琲……じゃなくて、すごく甘いココアとか。そういうのが必要な気がするんです、今の貴女には」
カラン、と乾いたドアベルの音が店内に響く。
夕食どきを控えた『喫茶うずまき』は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。窓際の席に座ると、敦くんは「ここ、落ち着くんです」とはにかんで、私のために温かいココアを注文してくれた。
運ばれてきたカップからは、濃厚なチョコの香りと、ぷかぷかと浮いたマシュマロの甘い匂いが立ち上る。
それを一口啜ると、こわばっていた喉の奥が、熱を帯びてゆっくりと解けていくのが分かった。
●●「……あの、敦くん」
中島「はい」
●●「私、今日……本当にダメだったの。何をやっても空回りで、周りにも迷惑をかけて。……自分なんて、ここに居ない方がいいんじゃないかって、本気で思っちゃって」
一度口にすると、堰を切ったように言葉が溢れた。情けなくて、視界がじわりと滲む。
敦くんは、遮ることなく最後まで聞いてくれた。その大きな掌を、テーブルの上でぎゅっと握りしめながら。
中島「……僕も、同じでした」
ぽつり、と彼が零した。
顔を上げると、彼は窓の外、暮れなずむ横浜の街並みを見つめていた。
中島「孤児院にいた頃、僕は毎日そう思っていました。食べる価値も、息をする価値もない人間だって。誰からも必要とされず、ただ追い出される日を待っているだけの……暗い、暗い穴の底にいるような毎日でした」
彼の声は静かだったけれど、そこには無視できないほどの重みがあった。
中島「でも、太宰さんに拾われて、探偵社のみんなに出会って。……初めて気づいたんです。誰かに『そこにいていい』と言ってもらえることが、どれほど救いになるか」
敦くんは視線を戻すと、滲んだ私の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳は、夜を駆ける虎のように強く、それでいて壊れ物を扱うように優しい。
中島「貴女は、ダメなんかじゃありません。今日一日、そんなに苦しい思いをしながらも、こうして僕の前にいてくれる。それだけで、貴女は今日という日に勝ったんです」
●●「……敦くん」
中島「僕が、貴女の居場所になります。もし世界中の誰もが貴女を否定しても、僕だけは『ここにいてください』って言い続けます。……だから、自分を嫌いにならないでください」
差し出された彼の手が、私の震える手に重なった。
驚くほど熱いその体温は、冷え切っていた私の心に、確かな「生」の灯を灯してくれるようだった。
中島「……すみません、僕ばっかり喋っちゃって。少し、落ち着きましたか?」
敦くんがふっと表情を和らげ、重なっていた手をそっと引く。けれど、その指先が離れる瞬間の寂しさに、私は無意識に彼の袖口を掴んでしまっていた。
彼は一瞬驚いたように目を見開いたけれど、すぐにすべてを察したように、困ったような、でも愛おしそうな笑みを浮かべる。
中島「……帰りましょうか。家まで、送らせてください」
会計を済ませて店の外へ出ると、横浜の街はすっかり夜の帳に包まれていた。海から吹き抜ける風は昼間よりも鋭く、私は思わず身を縮める。
すると、隣を歩いていた敦くんが「あの」と言いかけて、迷うように右手を彷徨わせた。
中島「……冷えますから。……いい、ですか?」
彼が差し出した掌に、今度は私からそっと指を絡める。
その瞬間、ぎゅっと力強く握り返された。
●●「わっ、……敦くん、手、すごく温かい」
中島「あはは、やっぱり分かりますか? 虎の力っていうか……代謝がいいみたいで。冬場はよく、探偵社のみんなにカイロ代わりにされるんですよ」
照れ隠しにそう笑う彼だったけれど、繋いだ手から伝わってくるのは、単なる体温だけじゃない。私の存在を肯定し、守ろうとしてくれる彼の強い意志そのものだった。
街灯の下、二人の影が長く伸びて重なる。
さっきまであんなに重かった足取りが、今は彼のリズムに合わせて軽くなっていくのが不思議だった。
●●「……敦くん、ありがとう。少しだけ、明日も頑張れる気がする」
中島「……はい。もし明日、また挫けそうになったら、今日のこの温度を思い出してください。僕はいつでも、貴女の味方ですから」
家の前まで着いても、彼は名残惜しそうに、けれど優しく私の手を離した。
中島「おやすみなさい。……また明日、元気な貴女に会えるのを楽しみにしてます」
暗闇の中でも鮮やかに輝く紫金色の瞳に見送られながら、私は初めて、心からの溜息ではない、深い安らぎの呼吸をつくことができた。
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