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病みあり
茜色の境界線
放課後の教室は、夕暮れの斜光に染められて、まるで血の海のようだった。
「ねえ、早くしてよ。私、これから塾なんだから〜」
クラスの中心にいる、[漢字][太字]相澤 真珠[/太字][/漢字][ふりがな][太字]あいざわ まじゅ[/太字][/ふりがな]の声が、無機質に響く。机の上に散らばったプリントの束。
それを拾い集めているのは、私――[漢字][太字]小鳥遊 瑠奈[/太字][/漢字][ふりがな][太字]たかなし るな[/太字][/ふりがな]だ。いつからこうなったのだろう。理由は覚えていない。挨拶をしなかったから、とか、誰かの機嫌を損ねるような目をしていたから、とか、そんな些細なきっかけだったはずだ。今となっては、理由なんてどうでもよかった。ただ、私が彼女たちの「ストレス発散の道具」として選ばれた、という事実だけがそこにあった。
「動きが遅いなぁ。だからトロいって言われるんだよ?」
取り巻きの女子がクスクスと笑う。私は何も言わず、ただ機械的に指を動かした。何か言葉を発すれば、それがさらに彼女たちを逆撫でする燃料になることを知っていたから。感情を殺す。心を真空にする。そうすれば、何を言われても、何をされても、傷つかずに済む。そう信じていた。
「じゃあね、明日までにそれ、綺麗にまとめておいて。よろしく、瑠奈ちゃん」
わざとらしい笑顔を残して、彼女たちは教室を出て行った。静寂が戻った教室で、私はぽつんと一人、床に膝をついたまま立ち上がれずにいた。
ガタガタと震える手を見る。爪が皮膚に食い込むほど、強く拳を握りしめていた。
手のひらには、赤い三日月型の傷跡がいくつも刻まれている。
痛みが、自分がまだ生きていることを教えてくれる唯一の感覚だった。
[中央寄せ][明朝体]ーー消えてしまいたい。[/明朝体][/中央寄せ]
その感情は、濁った泥水のように毎日、私の心の底に溜まっていく。
家に帰っても、救いはなかった。両親はいつも仕事で忙しく、私の変化に気づく余裕すらない
。「今日も学校楽しかった?」という形だけの質問に、私はいつもの作り笑顔で「うん、普通だよ」と答える。
それが一番、誰も傷つけない方法だったから。
夜、自分の部屋のベッドに横たわると、天井の闇がじわじわと迫ってくるような錯覚に陥る。胸が苦しくて、息がうまく吸えない。スマートフォンの画面が、SNSの通知で明るくなった。見たくないのに、吸い寄せられるように指が動く。
『今日もアイツ、マジで空気読めてなかったよね』
『存在自体が不快なんだけど笑』
鍵付きの匿名アカウントで呟かれた、私への悪意の言葉たち。直接名前は書かれていなくても、それが誰に向けられたものかは痛いほど分かった。
[明朝体]言葉は刃物だ。[/明朝体]
目に見えない傷口から、私の心の中の「生きたい」というエネルギーが、ポタポタと流れ落ちていくようだった。
私は机の引き出しの奥から、小さなカッターナイフを取り出した。冷たい金属の感触が、肌に触れる。手首に刃を当てて、少しだけ力を込める。チクリとした痛みの後、一筋の赤い線が浮かび上がった。ぷつぷつと溢れ出る赤い滴を見つめていると、不思議と頭の中の雑音が消えていく。
この血と一緒に、私を苦しめるすべての嫌な記憶が流れ出てしまえばいいのに。
「……あはは」
乾いた笑いが口から漏れた。自分がどんどん壊れていくのが分かった。
でも、壊れてしまえば、もう何も感じなくて済む。
翌朝、私はいつも通り学校へ向かった。長袖の制服の袖を、手首が隠れるまで深く引っ張る。誰にも見られてはいけない、私だけの秘密の傷。教室のドアを開けると、一瞬だけ空気が張り詰めた。真珠たちの視線が私に突き刺さる。昨日仕上げたプリントを、私は無言で真珠の机に置いた。
「あ、ありがと。ちゃんと言った通りやったんだ」
真珠はプリントをパラパラとめくり、つまらなそうに机の端へ追いやった。その時、私の袖口がほんの少しだけ捲れ上がった。
「……っ…!」
私は慌てて袖を引き下げたが、真珠の目が一瞬、大きく見開かれたのを私は見逃さなかった。彼女の顔から、いつもの余裕そうな笑みが消える。ほんの一瞬、怯えのような、気まずさのような表情が浮かんだ。
その日の放課後、私は再び屋上へと続く階段の踊り場にいた。ここは人が来ない。手首の傷が、じくじくと 痛む。私はポケットからカッターナイフを取り出し、じっと見つめた。
「何、それ」
突然、背後から声をかけられて、私は飛び上がるほど驚いた。振り返ると、そこにいたのは真珠だった。取り巻きの姿はなく、彼女は一人だった。
「……何でもない」
私はカッターを後ろに隠そうとしたが、真珠は一歩、私に近づいてきた。
「見せて」
「嫌。関係ないでしょ」
「関係なくないよ……!」
真珠の声が、初めて震えていた。いつも私を見下していたあの冷徹な瞳が、今は激しく揺れている。
「私のせいで、それ、やったの……?」
真珠の言葉に、私は思わず自嘲気味な笑みを浮かべた。
「いまさら、何言ってるの? あなたたちが毎日、私に何をしてるか分かってて言ってるんだよね?」
「私は……ただ、ちょっとしたノリで……みんなもやってるし、あなたが何も言い返してこないから……」
「ノリ、か」
私は一歩、真珠に歩み寄った。
「あなたたちの『ノリ』で、私は毎日死にたいって思ってる。息をするのも苦しい。夜も眠れない。この傷が増えるたびにね、やっと自分が生きているって安心できるの。それって、普通だと思う?」
真珠は言葉を失い、後ずさりした。彼女の顔はみるみるうちに青ざめていく。加害者はいつも、自分の与えている痛みの大きさに気づかない。被害者が限界を迎えて、初めてその罪の重さに恐怖するのだ。
「私を壊したのは、あなたたちだよ」
私はカッターを強く握りしめ、真珠の目の前で、自分の腕の袖を思い切り捲り上げた。そこにある無数の赤い線。沙織は悲鳴を上げるように息を呑み、両手で口を覆った。
「もう、終わりにしたい」
私はそう呟き、真珠に背を向けて走り出した。背後で「瑠奈ちゃん!」と私を呼ぶ真珠の声が聞こえたが、もうその声すら私の耳には届かなかった。胸の痛みが、頭の痛みが、すべてを支配していく。私は屋上のフェンスへと向かって、ただひたすらに走った。茜色の夕日が、私の視界を真っ赤に染め上げていく。この境界線を越えてしまえば、きっとすべてから解放される。
[明朝体]痛みのない、静かな世界へ。[/明朝体]
「ねえ、早くしてよ。私、これから塾なんだから〜」
クラスの中心にいる、[漢字][太字]相澤 真珠[/太字][/漢字][ふりがな][太字]あいざわ まじゅ[/太字][/ふりがな]の声が、無機質に響く。机の上に散らばったプリントの束。
それを拾い集めているのは、私――[漢字][太字]小鳥遊 瑠奈[/太字][/漢字][ふりがな][太字]たかなし るな[/太字][/ふりがな]だ。いつからこうなったのだろう。理由は覚えていない。挨拶をしなかったから、とか、誰かの機嫌を損ねるような目をしていたから、とか、そんな些細なきっかけだったはずだ。今となっては、理由なんてどうでもよかった。ただ、私が彼女たちの「ストレス発散の道具」として選ばれた、という事実だけがそこにあった。
「動きが遅いなぁ。だからトロいって言われるんだよ?」
取り巻きの女子がクスクスと笑う。私は何も言わず、ただ機械的に指を動かした。何か言葉を発すれば、それがさらに彼女たちを逆撫でする燃料になることを知っていたから。感情を殺す。心を真空にする。そうすれば、何を言われても、何をされても、傷つかずに済む。そう信じていた。
「じゃあね、明日までにそれ、綺麗にまとめておいて。よろしく、瑠奈ちゃん」
わざとらしい笑顔を残して、彼女たちは教室を出て行った。静寂が戻った教室で、私はぽつんと一人、床に膝をついたまま立ち上がれずにいた。
ガタガタと震える手を見る。爪が皮膚に食い込むほど、強く拳を握りしめていた。
手のひらには、赤い三日月型の傷跡がいくつも刻まれている。
痛みが、自分がまだ生きていることを教えてくれる唯一の感覚だった。
[中央寄せ][明朝体]ーー消えてしまいたい。[/明朝体][/中央寄せ]
その感情は、濁った泥水のように毎日、私の心の底に溜まっていく。
家に帰っても、救いはなかった。両親はいつも仕事で忙しく、私の変化に気づく余裕すらない
。「今日も学校楽しかった?」という形だけの質問に、私はいつもの作り笑顔で「うん、普通だよ」と答える。
それが一番、誰も傷つけない方法だったから。
夜、自分の部屋のベッドに横たわると、天井の闇がじわじわと迫ってくるような錯覚に陥る。胸が苦しくて、息がうまく吸えない。スマートフォンの画面が、SNSの通知で明るくなった。見たくないのに、吸い寄せられるように指が動く。
『今日もアイツ、マジで空気読めてなかったよね』
『存在自体が不快なんだけど笑』
鍵付きの匿名アカウントで呟かれた、私への悪意の言葉たち。直接名前は書かれていなくても、それが誰に向けられたものかは痛いほど分かった。
[明朝体]言葉は刃物だ。[/明朝体]
目に見えない傷口から、私の心の中の「生きたい」というエネルギーが、ポタポタと流れ落ちていくようだった。
私は机の引き出しの奥から、小さなカッターナイフを取り出した。冷たい金属の感触が、肌に触れる。手首に刃を当てて、少しだけ力を込める。チクリとした痛みの後、一筋の赤い線が浮かび上がった。ぷつぷつと溢れ出る赤い滴を見つめていると、不思議と頭の中の雑音が消えていく。
この血と一緒に、私を苦しめるすべての嫌な記憶が流れ出てしまえばいいのに。
「……あはは」
乾いた笑いが口から漏れた。自分がどんどん壊れていくのが分かった。
でも、壊れてしまえば、もう何も感じなくて済む。
翌朝、私はいつも通り学校へ向かった。長袖の制服の袖を、手首が隠れるまで深く引っ張る。誰にも見られてはいけない、私だけの秘密の傷。教室のドアを開けると、一瞬だけ空気が張り詰めた。真珠たちの視線が私に突き刺さる。昨日仕上げたプリントを、私は無言で真珠の机に置いた。
「あ、ありがと。ちゃんと言った通りやったんだ」
真珠はプリントをパラパラとめくり、つまらなそうに机の端へ追いやった。その時、私の袖口がほんの少しだけ捲れ上がった。
「……っ…!」
私は慌てて袖を引き下げたが、真珠の目が一瞬、大きく見開かれたのを私は見逃さなかった。彼女の顔から、いつもの余裕そうな笑みが消える。ほんの一瞬、怯えのような、気まずさのような表情が浮かんだ。
その日の放課後、私は再び屋上へと続く階段の踊り場にいた。ここは人が来ない。手首の傷が、じくじくと 痛む。私はポケットからカッターナイフを取り出し、じっと見つめた。
「何、それ」
突然、背後から声をかけられて、私は飛び上がるほど驚いた。振り返ると、そこにいたのは真珠だった。取り巻きの姿はなく、彼女は一人だった。
「……何でもない」
私はカッターを後ろに隠そうとしたが、真珠は一歩、私に近づいてきた。
「見せて」
「嫌。関係ないでしょ」
「関係なくないよ……!」
真珠の声が、初めて震えていた。いつも私を見下していたあの冷徹な瞳が、今は激しく揺れている。
「私のせいで、それ、やったの……?」
真珠の言葉に、私は思わず自嘲気味な笑みを浮かべた。
「いまさら、何言ってるの? あなたたちが毎日、私に何をしてるか分かってて言ってるんだよね?」
「私は……ただ、ちょっとしたノリで……みんなもやってるし、あなたが何も言い返してこないから……」
「ノリ、か」
私は一歩、真珠に歩み寄った。
「あなたたちの『ノリ』で、私は毎日死にたいって思ってる。息をするのも苦しい。夜も眠れない。この傷が増えるたびにね、やっと自分が生きているって安心できるの。それって、普通だと思う?」
真珠は言葉を失い、後ずさりした。彼女の顔はみるみるうちに青ざめていく。加害者はいつも、自分の与えている痛みの大きさに気づかない。被害者が限界を迎えて、初めてその罪の重さに恐怖するのだ。
「私を壊したのは、あなたたちだよ」
私はカッターを強く握りしめ、真珠の目の前で、自分の腕の袖を思い切り捲り上げた。そこにある無数の赤い線。沙織は悲鳴を上げるように息を呑み、両手で口を覆った。
「もう、終わりにしたい」
私はそう呟き、真珠に背を向けて走り出した。背後で「瑠奈ちゃん!」と私を呼ぶ真珠の声が聞こえたが、もうその声すら私の耳には届かなかった。胸の痛みが、頭の痛みが、すべてを支配していく。私は屋上のフェンスへと向かって、ただひたすらに走った。茜色の夕日が、私の視界を真っ赤に染め上げていく。この境界線を越えてしまえば、きっとすべてから解放される。
[明朝体]痛みのない、静かな世界へ。[/明朝体]
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