七月末のことである。
静は産所に入った。愛する義経の子を産むために。
本来であれば、期待に胸を膨らませているはずであった。しかしその子はその後生きられるのかも分からないのだ。
(この子が外界に出てきた刹那に、生死が決まるのだ)
そう思えば気絶しそうなほど恐ろしかったが、体中の勇気を振り絞って、出産に望んだ。
(もうすぐ、義経様の子に会える。それだけを考えよう)
・・・
しばらくの後、静は子を産んだ。かなり疲れて弱っていたが、それでも、母の磯禅尼に恐る恐る聞いた。
「…ど、どう?女の子…?」
磯禅尼は言った。
「……男の子だよ…」
「…!!!」
男の子。そう聞くやいなや、静は考えるより先に息子をひったくっていた。
「嫌っ!!渡さないっ!!」
生まれたばかりの子供を、腕にしっかりと抱きしめて離さない。腕の中の息子は、本当に愛らしい顔だちだった。目元には義経の面影がある。それを見て、ますます涙が溢れ出た。
(この子は死なせない!!)
頼朝が良いと言うわけがないとは分かっている。でも、はいどうぞと渡せる訳がない。この子が何よりも、自分の命よりも大事なのだということが、母になった今分かったのである。
「いや、いや、いやあああああああああああっ!!」
・・・
静の泣き叫ぶ声を、幡姫も聞いた。幡姫は義時にすがりついた。
「なんとか…なんとかしてあげられないの!?」
義時はすぐに答えた。
「無理だ」
「こ、小四郎叔父上…?」
(義高様の時にはあんなに懸命に助けようとしてくれたのに)
姫の怯える視線に気づいた義時ははっと我にかえり、屈んで目線を合わせて謝る。
「あ…ごめん、怖かった?」
「ううん、大丈夫」
そっか、と言って立ち去ろうとする義時にふと、幡姫は問いかけた。
「こんなことして、父上は人の心が無いのかしら。小四郎叔父上は辛くないの?」
純粋で汚れを知らぬ丸い目に見つめられて、彼は危うく泣きそうになるところだった。なんとか、それをぐっとこらえて返答した。
「…ここだけの話、辛いよ。あのね…鎌倉殿だって辛いとは思ってらっしゃるんだ」
(父上だって辛い…?)
一瞬、幡姫は心の中の何かがぐらりと揺らぐ気がした。父を許しそうになった。が、義高の記憶が勢いよく頭になだれ込んできて、やはりそれは出来なかった。
「…嘘よ。父上は…人じゃないの!だから、だからあんなことを出来るの!!」
「幡ちゃん!!」
幡姫は自分の居室に駆け込んだ。
(気持ちが悪い…。もう疲れた。何も…考えたくない!!)
・・・
しかし、ついに御家人の一人が磯禅尼に告げた。
「さあ、子を渡せ!」
「お待ちを…今すぐ引き離すなんてむごすぎます…!」
磯禅尼は必死で訴えた。
「駄目だ!別れを惜しむ暇も与えず引き剥がしてしまえ!」
彼にしてみれば、せめてもの慈悲だったのかもしれない。
「いや、やめて、やめて…!!」
死にものぐるいで抵抗したが、赤子は腕からすり抜けていった。
「だめっ!返してっ!!返してええええ!!!!」
静は体中の力を振り絞って追いかける。それを泣きながら磯禅尼は止めた。
「静っ…!そんなに急に動いてはいけないよ…!」
「離して、母上っ!だめ、その子を…私の子を連れていかないで!!義経様の子を連れていかないでえええええっ!!」
彼女の必死の叫びも届かず、家人達は生まれて間もない小さな命を抱えて去った。
・・・
静の子は、由比ヶ浜に沈めて殺されたという。悲しき母を憐れんだ政子は彼女に沢山の宝物を持たせたが、静はすべて鶴岡八幡宮に納めてしまった。
その後、静は心の傷の癒えぬまま都に帰される。
幡姫は静のその後について色々と噂を聞いた。京で出家したとか、遊女になったとか…身を投げたという噂も立ったし、義経を探しているとも聞く。今となって幡姫に確かめるすべはないが、おそらくもう生きてはいないか、少なくとも長くはないだろう。静には巴御前ほどの折れない強さがあるわけではない。
(お二人ともそれぞれの生き方をなさった。では私は?)
義高亡き今、自分は今後どう生きるのか。一匹の蝉の声を聞きながら思いを馳せる。しかしやはり上手く想像出来なかった。まだまだ分からないことが多すぎる。
「まだ、いいよね。今はあなたの為に祈らせて、静さん」
そう言うと、数ヶ月の間確かに心を通わせあった、友人の不運を嘆いた。
つづく
静は産所に入った。愛する義経の子を産むために。
本来であれば、期待に胸を膨らませているはずであった。しかしその子はその後生きられるのかも分からないのだ。
(この子が外界に出てきた刹那に、生死が決まるのだ)
そう思えば気絶しそうなほど恐ろしかったが、体中の勇気を振り絞って、出産に望んだ。
(もうすぐ、義経様の子に会える。それだけを考えよう)
・・・
しばらくの後、静は子を産んだ。かなり疲れて弱っていたが、それでも、母の磯禅尼に恐る恐る聞いた。
「…ど、どう?女の子…?」
磯禅尼は言った。
「……男の子だよ…」
「…!!!」
男の子。そう聞くやいなや、静は考えるより先に息子をひったくっていた。
「嫌っ!!渡さないっ!!」
生まれたばかりの子供を、腕にしっかりと抱きしめて離さない。腕の中の息子は、本当に愛らしい顔だちだった。目元には義経の面影がある。それを見て、ますます涙が溢れ出た。
(この子は死なせない!!)
頼朝が良いと言うわけがないとは分かっている。でも、はいどうぞと渡せる訳がない。この子が何よりも、自分の命よりも大事なのだということが、母になった今分かったのである。
「いや、いや、いやあああああああああああっ!!」
・・・
静の泣き叫ぶ声を、幡姫も聞いた。幡姫は義時にすがりついた。
「なんとか…なんとかしてあげられないの!?」
義時はすぐに答えた。
「無理だ」
「こ、小四郎叔父上…?」
(義高様の時にはあんなに懸命に助けようとしてくれたのに)
姫の怯える視線に気づいた義時ははっと我にかえり、屈んで目線を合わせて謝る。
「あ…ごめん、怖かった?」
「ううん、大丈夫」
そっか、と言って立ち去ろうとする義時にふと、幡姫は問いかけた。
「こんなことして、父上は人の心が無いのかしら。小四郎叔父上は辛くないの?」
純粋で汚れを知らぬ丸い目に見つめられて、彼は危うく泣きそうになるところだった。なんとか、それをぐっとこらえて返答した。
「…ここだけの話、辛いよ。あのね…鎌倉殿だって辛いとは思ってらっしゃるんだ」
(父上だって辛い…?)
一瞬、幡姫は心の中の何かがぐらりと揺らぐ気がした。父を許しそうになった。が、義高の記憶が勢いよく頭になだれ込んできて、やはりそれは出来なかった。
「…嘘よ。父上は…人じゃないの!だから、だからあんなことを出来るの!!」
「幡ちゃん!!」
幡姫は自分の居室に駆け込んだ。
(気持ちが悪い…。もう疲れた。何も…考えたくない!!)
・・・
しかし、ついに御家人の一人が磯禅尼に告げた。
「さあ、子を渡せ!」
「お待ちを…今すぐ引き離すなんてむごすぎます…!」
磯禅尼は必死で訴えた。
「駄目だ!別れを惜しむ暇も与えず引き剥がしてしまえ!」
彼にしてみれば、せめてもの慈悲だったのかもしれない。
「いや、やめて、やめて…!!」
死にものぐるいで抵抗したが、赤子は腕からすり抜けていった。
「だめっ!返してっ!!返してええええ!!!!」
静は体中の力を振り絞って追いかける。それを泣きながら磯禅尼は止めた。
「静っ…!そんなに急に動いてはいけないよ…!」
「離して、母上っ!だめ、その子を…私の子を連れていかないで!!義経様の子を連れていかないでえええええっ!!」
彼女の必死の叫びも届かず、家人達は生まれて間もない小さな命を抱えて去った。
・・・
静の子は、由比ヶ浜に沈めて殺されたという。悲しき母を憐れんだ政子は彼女に沢山の宝物を持たせたが、静はすべて鶴岡八幡宮に納めてしまった。
その後、静は心の傷の癒えぬまま都に帰される。
幡姫は静のその後について色々と噂を聞いた。京で出家したとか、遊女になったとか…身を投げたという噂も立ったし、義経を探しているとも聞く。今となって幡姫に確かめるすべはないが、おそらくもう生きてはいないか、少なくとも長くはないだろう。静には巴御前ほどの折れない強さがあるわけではない。
(お二人ともそれぞれの生き方をなさった。では私は?)
義高亡き今、自分は今後どう生きるのか。一匹の蝉の声を聞きながら思いを馳せる。しかしやはり上手く想像出来なかった。まだまだ分からないことが多すぎる。
「まだ、いいよね。今はあなたの為に祈らせて、静さん」
そう言うと、数ヶ月の間確かに心を通わせあった、友人の不運を嘆いた。
つづく
- 1.序幕,伊豆国の姫君
- 2.突然の危機
- 3.伊豆山の女性たち
- 4.鎌倉入り
- 5.木曽の将軍
- 6.人質と姫君
- 7.若武者の正体
- 8.福始
- 9.義高の懐郷病(一)
- 10.義高の懐郷病(二)
- 11.躍進する義仲
- 12.小咄,鎌倉の恋人
- 13.幡姫の立ち聞き
- 14.旭日昇天
- 15.没落の始まり
- 16.決別と忠告
- 17.最悪の予感
- 18.そして日は沈む
- 19.矛盾した願い
- 20.恐ろしい計画
- 21.守りたいひと(一)
- 22.守りたいひと(二)
- 23.知らせ
- 24.それぞれの後悔
- 25.巴御前
- 26.義経の憂鬱
- 27.屋島
- 28.壇ノ浦の海
- 29.歓喜と不信
- 30.亀裂
- 31.不穏
- 32.別離の襲撃
- 33.すれ違いの果てに
- 34.囚われの白拍子
- 35.幡姫と静(一)
- 36.幡姫と静(二)
- 37.空蝉
- 38.奥羽の重鎮