(そういえばあれ以来、何も食べていないな)
暗闇の中でふと気付いた。幡姫はあれから数日近く床に[漢字]臥[/漢字][ふりがな]ふ[/ふりがな]せっていて、水もろくに飲んでいない。
何も喉を通りそうにないのだ。悲涙はとうに枯れ、何もする気になれなかった。
あとからあとから虚しさや喪失感が押し寄せた。幡姫は暗い暗い部屋で、父を恨み、自分を恨んでいる。
そんな幡姫の元に来訪者があった。
「幡姫様。お初にお目にかかります。巴にございます」
「巴…?」
義高がよく話してくれた、あの巴御前だった。彼女は義仲と別れた後、捕らえられて鎌倉に連れて行かれた。そこで死罪になるはずだったのを御家人の和田義盛に救われ、妻となったという。
義高の許婚だった幡姫が塞ぎ込んでいると聞き、見舞いにやってきたのである。
「義高様のことは聞きました。心が痛みます…私も義高様を実の子のように[漢字]慈[/漢字][ふりがな]いつく[/ふりがな]しんでいましたから」
「…」
「私も愛した殿方を失った身…幡姫様のお気持ちが分かります」
幡姫は巴に背を向けたままだ。
「後悔もございましょう。私も、今なお最期までついて行って一緒に死ぬべきだったと悔やんでいますもの」
返事はなかった。すっかり弱りきっている娘を見て、巴は胸が突き刺されるようだった。
自分は女ながらも男に混ざり、死と隣り合わせに生きてきた。でもこの少女は違う。戦など見せるべきではない、幼い娘だ。それがこの血なまぐさい謀略に巻き込まれて、この後どう生きれば良いのか、分からないのだろう。
「でも、私は今、御家人の和田殿の妻として二つ目の人生を生きています。新しい幸せを見つけたのです。姫にも私と同じように、別の生き方を見つけてほしいのです」
「別の生き方…なんていらない……義高様…」
幡姫の口から無気力に流れ出た。でも巴は根気よく続ける。
「姫が生きたいように生きてください。私のように新しい殿御に嫁いでも、義高様を忘れずに独り身でいてもいいのです…どう生きるかは、姫が決めていいのです」
「私が…?」
「でも、義高様は姫に死んでほしいとは言わないと思います。義仲様がそうしたように」
巴は目を潤ませながら優しく諭し続けた。
・・・
「どうでしたか」
政子は娘の居室から出てきた巴に尋ねた。巴は
「まだまだお辛そうでございました…が、時が心の傷を和らげてくれると信じましょう」
と言って、和田の館に帰っていった。
(新しい幸せ…別の生き方…)
一人に戻った幡姫は、巴の言葉を心の中で繰り返しつぶやいた。
まだまだ辛い。でも、違った幸せを知りたくもあった。
自分がこれからも生きることを、義高が望んでくれるなら。
「とりあえず、もう少し生きてみようかな…」
幡姫はゆっくりと床から起き上がった。
つづく
暗闇の中でふと気付いた。幡姫はあれから数日近く床に[漢字]臥[/漢字][ふりがな]ふ[/ふりがな]せっていて、水もろくに飲んでいない。
何も喉を通りそうにないのだ。悲涙はとうに枯れ、何もする気になれなかった。
あとからあとから虚しさや喪失感が押し寄せた。幡姫は暗い暗い部屋で、父を恨み、自分を恨んでいる。
そんな幡姫の元に来訪者があった。
「幡姫様。お初にお目にかかります。巴にございます」
「巴…?」
義高がよく話してくれた、あの巴御前だった。彼女は義仲と別れた後、捕らえられて鎌倉に連れて行かれた。そこで死罪になるはずだったのを御家人の和田義盛に救われ、妻となったという。
義高の許婚だった幡姫が塞ぎ込んでいると聞き、見舞いにやってきたのである。
「義高様のことは聞きました。心が痛みます…私も義高様を実の子のように[漢字]慈[/漢字][ふりがな]いつく[/ふりがな]しんでいましたから」
「…」
「私も愛した殿方を失った身…幡姫様のお気持ちが分かります」
幡姫は巴に背を向けたままだ。
「後悔もございましょう。私も、今なお最期までついて行って一緒に死ぬべきだったと悔やんでいますもの」
返事はなかった。すっかり弱りきっている娘を見て、巴は胸が突き刺されるようだった。
自分は女ながらも男に混ざり、死と隣り合わせに生きてきた。でもこの少女は違う。戦など見せるべきではない、幼い娘だ。それがこの血なまぐさい謀略に巻き込まれて、この後どう生きれば良いのか、分からないのだろう。
「でも、私は今、御家人の和田殿の妻として二つ目の人生を生きています。新しい幸せを見つけたのです。姫にも私と同じように、別の生き方を見つけてほしいのです」
「別の生き方…なんていらない……義高様…」
幡姫の口から無気力に流れ出た。でも巴は根気よく続ける。
「姫が生きたいように生きてください。私のように新しい殿御に嫁いでも、義高様を忘れずに独り身でいてもいいのです…どう生きるかは、姫が決めていいのです」
「私が…?」
「でも、義高様は姫に死んでほしいとは言わないと思います。義仲様がそうしたように」
巴は目を潤ませながら優しく諭し続けた。
・・・
「どうでしたか」
政子は娘の居室から出てきた巴に尋ねた。巴は
「まだまだお辛そうでございました…が、時が心の傷を和らげてくれると信じましょう」
と言って、和田の館に帰っていった。
(新しい幸せ…別の生き方…)
一人に戻った幡姫は、巴の言葉を心の中で繰り返しつぶやいた。
まだまだ辛い。でも、違った幸せを知りたくもあった。
自分がこれからも生きることを、義高が望んでくれるなら。
「とりあえず、もう少し生きてみようかな…」
幡姫はゆっくりと床から起き上がった。
つづく
- 1.序幕,伊豆国の姫君
- 2.突然の危機
- 3.伊豆山の女性たち
- 4.鎌倉入り
- 5.木曽の将軍
- 6.人質と姫君
- 7.若武者の正体
- 8.福始
- 9.義高の懐郷病(一)
- 10.義高の懐郷病(二)
- 11.躍進する義仲
- 12.小咄,鎌倉の恋人
- 13.幡姫の立ち聞き
- 14.旭日昇天
- 15.没落の始まり
- 16.決別と忠告
- 17.最悪の予感
- 18.そして日は沈む
- 19.矛盾した願い
- 20.恐ろしい計画
- 21.守りたいひと(一)
- 22.守りたいひと(二)
- 23.知らせ
- 24.それぞれの後悔
- 25.巴御前
- 26.義経の憂鬱
- 27.屋島
- 28.壇ノ浦の海
- 29.歓喜と不信
- 30.亀裂
- 31.不穏
- 32.別離の襲撃
- 33.すれ違いの果てに
- 34.囚われの白拍子
- 35.幡姫と静(一)
- 36.幡姫と静(二)
- 37.空蝉
- 38.奥羽の重鎮