誰かが庭にいる気配がする。
「幡姫ちゃん、…波子です」
叔母の波子が御簾越しに呼んでいた。
「姉上から聞いて、心配して来たのよ…。そうだ、三浦殿も来てるわ」
(頼むから来ないで。ほうっておいて!)
と、怒鳴り返したい。とにかく今は何も理解出来ていないのだから、一人で考えさせてほしかった。が、それはこらえて静かに返事をした。
「…ごめんなさい、今は会いたくない」
「姫にじかにお渡ししたい物があるらしいの」
波子が頑なに帰ってくれないので、はあ、と溜め息をついて起き上がった。外の光が眩しい。
「何ですか…」
「これを」
濡れ縁に座る義村の手に乗っていたのは、あの日、義高に預けた薄赤色の布だった。
「義高殿と別れた数日後、胸騒ぎがして武蔵まで行ったのです。そうしたら、山道に落ちていたと私の家人が…」
渡したときのまま、きれいに畳まれている。違うのは、濃い赤色の染みがついていることだ。
「血…?」
「一度洗ったのですが、落ちず…」
義高の血に違いなかった。
「お亡くなりになる瞬間まで、肌身離さず持っていて下さった証拠でございましょう…」
現物がそこにあることで、幡姫の中で義高の死は現実となった。初めて涙が一粒落ちた。そのあとはもう、感情に身を任せて泣くことができた。
「義高様…!よ、義高、さまああああっ!!!」
堰を切ったように悲しさが押し寄せた。
「こんな風に返ってくるなんて、思わなかった…。私はあなたの手から、受け取りたかったのに…!」
「義高殿の反対を押し切っても、ついていくべきでした。…恨むならばこの義村を、いかようにもご処断ください…」
彼は珍しく素直に平伏し、謝罪した。幡姫はしゃくりあげながら首を横に振った。
「そんなの出来ない…悪いのは、悪いのは…」
父だ。そう言いかけて、止めた。
(私があの時、命を懸けて止めていたら…私も死ぬって言えたら、父上は止まった…?)
背中に冷たい汗が流れる。自分にもっと出来ることがあったのに、それをしなかった。なら、悪いのは誰か、明白だった。
「…私だから」
「姫、それは…!」
違う、と言う義村の声を背中で受けながら、幡姫はよろよろと部屋に戻った。
・・・
小菊は義時の館で横になっている。
(あのとき私が軽薄にも、義高様を逃がせなどと言ったから…)
凄まじい後悔、罪悪感が彼女を襲った。
(すべて、鎌倉殿のはかりごとだったのだ)
すると義時が帰ってきた。彼女は夫に心配をかけるのを憂い、背を向けた。
「調子はどうだ、小菊」
しかしこの男は妻を溺愛しすぎている。かえって小菊を気にかけ、彼女の乱れた髪を手で梳く。
「あまり気に病まぬほうがいい」
「でも、私がもっと気をつけておけば、あんなことには…!!今も姫は部屋に引きこもって…」
小菊は顔を背けたまま肩を震わせて泣いた。
「お前が悪いのではない」
「では、誰が悪かったのですか!?…鎌倉殿ですか?」
小菊の責め立てる声に、義時は自問した。
(確かに鎌倉殿の謀略だ。でも、私は鎌倉殿を恨みきれない…あの方の苦悩も天才ぶりも、伊豆時代からそばで見てきたのだから)
苦しそうに顔を歪める。
(それが辛い。幡姫様とも妻とも違う立場にいる私には、彼女達の思いを理解してやれない…むしろ私は鎌倉殿側の人間になりつつある…)
彼は不器用に妻から目を背けた。
鎌倉で起きることは理がまかり通らない。「鎌倉の為」ならそんなことはどうでも良いのだ。
責任を誰かに押し付けて責めれば、確かに楽になる。しかしそれだけのこと。この地では責任者など探したところで意味は無く、起きたことは変わらない。
「口が過ぎるぞ。…これは誰の責任にも出来ないのだ」
義時の考えはついに上手く言葉にならなかった。
つづく
「幡姫ちゃん、…波子です」
叔母の波子が御簾越しに呼んでいた。
「姉上から聞いて、心配して来たのよ…。そうだ、三浦殿も来てるわ」
(頼むから来ないで。ほうっておいて!)
と、怒鳴り返したい。とにかく今は何も理解出来ていないのだから、一人で考えさせてほしかった。が、それはこらえて静かに返事をした。
「…ごめんなさい、今は会いたくない」
「姫にじかにお渡ししたい物があるらしいの」
波子が頑なに帰ってくれないので、はあ、と溜め息をついて起き上がった。外の光が眩しい。
「何ですか…」
「これを」
濡れ縁に座る義村の手に乗っていたのは、あの日、義高に預けた薄赤色の布だった。
「義高殿と別れた数日後、胸騒ぎがして武蔵まで行ったのです。そうしたら、山道に落ちていたと私の家人が…」
渡したときのまま、きれいに畳まれている。違うのは、濃い赤色の染みがついていることだ。
「血…?」
「一度洗ったのですが、落ちず…」
義高の血に違いなかった。
「お亡くなりになる瞬間まで、肌身離さず持っていて下さった証拠でございましょう…」
現物がそこにあることで、幡姫の中で義高の死は現実となった。初めて涙が一粒落ちた。そのあとはもう、感情に身を任せて泣くことができた。
「義高様…!よ、義高、さまああああっ!!!」
堰を切ったように悲しさが押し寄せた。
「こんな風に返ってくるなんて、思わなかった…。私はあなたの手から、受け取りたかったのに…!」
「義高殿の反対を押し切っても、ついていくべきでした。…恨むならばこの義村を、いかようにもご処断ください…」
彼は珍しく素直に平伏し、謝罪した。幡姫はしゃくりあげながら首を横に振った。
「そんなの出来ない…悪いのは、悪いのは…」
父だ。そう言いかけて、止めた。
(私があの時、命を懸けて止めていたら…私も死ぬって言えたら、父上は止まった…?)
背中に冷たい汗が流れる。自分にもっと出来ることがあったのに、それをしなかった。なら、悪いのは誰か、明白だった。
「…私だから」
「姫、それは…!」
違う、と言う義村の声を背中で受けながら、幡姫はよろよろと部屋に戻った。
・・・
小菊は義時の館で横になっている。
(あのとき私が軽薄にも、義高様を逃がせなどと言ったから…)
凄まじい後悔、罪悪感が彼女を襲った。
(すべて、鎌倉殿のはかりごとだったのだ)
すると義時が帰ってきた。彼女は夫に心配をかけるのを憂い、背を向けた。
「調子はどうだ、小菊」
しかしこの男は妻を溺愛しすぎている。かえって小菊を気にかけ、彼女の乱れた髪を手で梳く。
「あまり気に病まぬほうがいい」
「でも、私がもっと気をつけておけば、あんなことには…!!今も姫は部屋に引きこもって…」
小菊は顔を背けたまま肩を震わせて泣いた。
「お前が悪いのではない」
「では、誰が悪かったのですか!?…鎌倉殿ですか?」
小菊の責め立てる声に、義時は自問した。
(確かに鎌倉殿の謀略だ。でも、私は鎌倉殿を恨みきれない…あの方の苦悩も天才ぶりも、伊豆時代からそばで見てきたのだから)
苦しそうに顔を歪める。
(それが辛い。幡姫様とも妻とも違う立場にいる私には、彼女達の思いを理解してやれない…むしろ私は鎌倉殿側の人間になりつつある…)
彼は不器用に妻から目を背けた。
鎌倉で起きることは理がまかり通らない。「鎌倉の為」ならそんなことはどうでも良いのだ。
責任を誰かに押し付けて責めれば、確かに楽になる。しかしそれだけのこと。この地では責任者など探したところで意味は無く、起きたことは変わらない。
「口が過ぎるぞ。…これは誰の責任にも出来ないのだ」
義時の考えはついに上手く言葉にならなかった。
つづく
- 1.序幕,伊豆国の姫君
- 2.突然の危機
- 3.伊豆山の女性たち
- 4.鎌倉入り
- 5.木曽の将軍
- 6.人質と姫君
- 7.若武者の正体
- 8.福始
- 9.義高の懐郷病(一)
- 10.義高の懐郷病(二)
- 11.躍進する義仲
- 12.小咄,鎌倉の恋人
- 13.幡姫の立ち聞き
- 14.旭日昇天
- 15.没落の始まり
- 16.決別と忠告
- 17.最悪の予感
- 18.そして日は沈む
- 19.矛盾した願い
- 20.恐ろしい計画
- 21.守りたいひと(一)
- 22.守りたいひと(二)
- 23.知らせ
- 24.それぞれの後悔
- 25.巴御前
- 26.義経の憂鬱
- 27.屋島
- 28.壇ノ浦の海
- 29.歓喜と不信
- 30.亀裂
- 31.不穏
- 32.別離の襲撃
- 33.すれ違いの果てに
- 34.囚われの白拍子
- 35.幡姫と静(一)
- 36.幡姫と静(二)
- 37.空蝉
- 38.奥羽の重鎮