幡姫は義高が逃げて以来、よく眠れない日が続いている。
(ご無事なのかしら、義高様。今どこにいるの…?)
心配なのはそれだけではなかった。
小菊が倒れ、寝たきりになっているという。
父上が何かしたのだ、と思った。
頼朝の前につき出された小菊や幸氏が殺されることはなく、政子や義時に処罰が下ることもなかった。単に義高に与したことが知られていないだけかも知れないが。
それでも幡姫はその時の事を思い出すだけで手が震える。父があんな恐ろしい態度をとったから、小菊が心を病んでしまったのだと思い込んだ。
(怖い…誰かそばにいてくれたらいいのに)
柱の影にうずくまって、義高のくれた押し花を握ると少し落ち着く。
「ご無事でありますように」
にわかに御所が騒がしくなった。
(何かしら)
幡姫はなぜかとてつもなく気になって、その方へ向かった。
一人の御家人が頼朝の居室に入る。名は[漢字]藤内光澄[/漢字][ふりがな]とうないみつずみ[/ふりがな]。手には大きな桶を持っている。それは“殺した者の首”を入れるための桶だった。彼は頼朝の命令を、忠実に遂行して帰ってきたのだ。
義時の顔がみるみる青ざめていった。
「それは…」
「この藤内光澄、今朝、木曽義高を討ち取りましてございます!」
あまりに大きな声で、あまりに残酷な事実が告げられた。
「声が大きい!幡姫様にはくれぐれも内密にせねば…!」
義時は鬼のような形相で光澄に迫ったが、すでに遅かった。
幡姫が真っ白い顔で立ち尽くしていた。
「義高様が…どうしたって言うの…」
「姫…!」
義時は幡姫に駆け寄って袖で彼女の顔を覆い隠す。
「幡ちゃん、大丈夫だから、いい子だから向こうへ行って!!」
昔の幡姫に向けていたような口調でなだめたが、幡姫は義時を振り払った。
「義高様を、殺したの…?…うそ、うそでしょう、父上!?」
頼朝は顔を背けた。
「誰かあるか?御台所を呼べ、早く!!」
「…それ、は」
鉄のような匂いが幡姫の鼻を刺した。
彼女は、その桶に何が入っているかを察してしまった。
「いや……!!」
・・・
幡姫はあまりの衝撃に気を失い、事の[漢字]顛末[/漢字][ふりがな]てんまつ[/ふりがな]を知った政子は頼朝に詰め寄った。
「あなたもそれはそれは悩んだでしょう、我が娘の大切な者を奪うのですから。でも」
政子は頼朝の手を掴んだ。
「あの男が大声を出さなければ、可哀想なあの娘は、それを急に知ることはなかった。今も姫は部屋で寝込んでいます!」
「儂とて、あんなに急に知らせる気は無論なかった…!」
頼朝はその場を収めようとしたが、政子は引き下がらない。
「あの藤内とかいう者だけは許せません!!」
「…わかった。然るべき処罰をしよう」
頼朝はついに折れ、哀れな光澄はしばらく後に処刑された。
御簾を下ろした暗い室内でひとり、幡姫は横になっていた。震えが止まらなかった。
(義高様が、殺されてしまった…)
彼女の頭は今の状況をなんとか受け入れようと、ずっと回転している。が、出来なかった。なにせ義高とはつい数日前に別れたばかり、現実味がなかったのだから。
(義高様ともう会えないなんて信じられない…!本当に、どこにも生きていらっしゃらないの?本当に、あれは義高様の首なの?)
辛いのは、人生で一番悲しい瞬間であるはずなのに、涙の一滴も流れないことだった。これが現実なのか分かっていないのだから、無理はない。
周りの景色がゆがんで、ぐるぐる回って見える。とてつもなく胸が悪くなっていった。
「義高様…」
目をあける気力も失せ、だんだんと視界が暗くなっていく。
つづく
(ご無事なのかしら、義高様。今どこにいるの…?)
心配なのはそれだけではなかった。
小菊が倒れ、寝たきりになっているという。
父上が何かしたのだ、と思った。
頼朝の前につき出された小菊や幸氏が殺されることはなく、政子や義時に処罰が下ることもなかった。単に義高に与したことが知られていないだけかも知れないが。
それでも幡姫はその時の事を思い出すだけで手が震える。父があんな恐ろしい態度をとったから、小菊が心を病んでしまったのだと思い込んだ。
(怖い…誰かそばにいてくれたらいいのに)
柱の影にうずくまって、義高のくれた押し花を握ると少し落ち着く。
「ご無事でありますように」
にわかに御所が騒がしくなった。
(何かしら)
幡姫はなぜかとてつもなく気になって、その方へ向かった。
一人の御家人が頼朝の居室に入る。名は[漢字]藤内光澄[/漢字][ふりがな]とうないみつずみ[/ふりがな]。手には大きな桶を持っている。それは“殺した者の首”を入れるための桶だった。彼は頼朝の命令を、忠実に遂行して帰ってきたのだ。
義時の顔がみるみる青ざめていった。
「それは…」
「この藤内光澄、今朝、木曽義高を討ち取りましてございます!」
あまりに大きな声で、あまりに残酷な事実が告げられた。
「声が大きい!幡姫様にはくれぐれも内密にせねば…!」
義時は鬼のような形相で光澄に迫ったが、すでに遅かった。
幡姫が真っ白い顔で立ち尽くしていた。
「義高様が…どうしたって言うの…」
「姫…!」
義時は幡姫に駆け寄って袖で彼女の顔を覆い隠す。
「幡ちゃん、大丈夫だから、いい子だから向こうへ行って!!」
昔の幡姫に向けていたような口調でなだめたが、幡姫は義時を振り払った。
「義高様を、殺したの…?…うそ、うそでしょう、父上!?」
頼朝は顔を背けた。
「誰かあるか?御台所を呼べ、早く!!」
「…それ、は」
鉄のような匂いが幡姫の鼻を刺した。
彼女は、その桶に何が入っているかを察してしまった。
「いや……!!」
・・・
幡姫はあまりの衝撃に気を失い、事の[漢字]顛末[/漢字][ふりがな]てんまつ[/ふりがな]を知った政子は頼朝に詰め寄った。
「あなたもそれはそれは悩んだでしょう、我が娘の大切な者を奪うのですから。でも」
政子は頼朝の手を掴んだ。
「あの男が大声を出さなければ、可哀想なあの娘は、それを急に知ることはなかった。今も姫は部屋で寝込んでいます!」
「儂とて、あんなに急に知らせる気は無論なかった…!」
頼朝はその場を収めようとしたが、政子は引き下がらない。
「あの藤内とかいう者だけは許せません!!」
「…わかった。然るべき処罰をしよう」
頼朝はついに折れ、哀れな光澄はしばらく後に処刑された。
御簾を下ろした暗い室内でひとり、幡姫は横になっていた。震えが止まらなかった。
(義高様が、殺されてしまった…)
彼女の頭は今の状況をなんとか受け入れようと、ずっと回転している。が、出来なかった。なにせ義高とはつい数日前に別れたばかり、現実味がなかったのだから。
(義高様ともう会えないなんて信じられない…!本当に、どこにも生きていらっしゃらないの?本当に、あれは義高様の首なの?)
辛いのは、人生で一番悲しい瞬間であるはずなのに、涙の一滴も流れないことだった。これが現実なのか分かっていないのだから、無理はない。
周りの景色がゆがんで、ぐるぐる回って見える。とてつもなく胸が悪くなっていった。
「義高様…」
目をあける気力も失せ、だんだんと視界が暗くなっていく。
つづく
- 1.序幕,伊豆国の姫君
- 2.突然の危機
- 3.伊豆山の女性たち
- 4.鎌倉入り
- 5.木曽の将軍
- 6.人質と姫君
- 7.若武者の正体
- 8.福始
- 9.義高の懐郷病(一)
- 10.義高の懐郷病(二)
- 11.躍進する義仲
- 12.小咄,鎌倉の恋人
- 13.幡姫の立ち聞き
- 14.旭日昇天
- 15.没落の始まり
- 16.決別と忠告
- 17.最悪の予感
- 18.そして日は沈む
- 19.矛盾した願い
- 20.恐ろしい計画
- 21.守りたいひと(一)
- 22.守りたいひと(二)
- 23.知らせ
- 24.それぞれの後悔
- 25.巴御前
- 26.義経の憂鬱
- 27.屋島
- 28.壇ノ浦の海
- 29.歓喜と不信
- 30.亀裂
- 31.不穏
- 32.別離の襲撃
- 33.すれ違いの果てに
- 34.囚われの白拍子
- 35.幡姫と静(一)
- 36.幡姫と静(二)
- 37.空蝉
- 38.奥羽の重鎮