話は少し前に戻り、鎌倉。
源義経が頼朝の代わりに上洛する事が決まる。
幡姫はそれが何を意味するのか分かっていなかったので、義経と義高が不仲になっていることも、それどころか義高が鎌倉中を敵視し始めているのにも気づいていなかった。
義高は幡姫や、周りの女性達に対しては変わらない態度で接していたので、“何も知らない子供”でいられる幡姫が気づかぬのも無理はなかったが…。
彼女がその異常に気がついたのは義経が間もなく出立しようという日のことである。
幡姫は義高と義経が二人だけでいるのを見つけた。そっと几帳の影に隠れる。
義経と義高の間に流れる空気はぴんと張り詰めていて、触れるのではないかと思うほどに硬く重苦しかった。
(前はこんなじゃなかったのに…どうしたの?)
以前覗き見た二人の和やかな雰囲気はすっかり消え失せている。
「聞いていると思うが、俺は京に上ることになった」
「ええ」
「…どうせお前のことだから分かってるとは思うが、恐らく俺はお前の父親と戦わなければならん」
幡姫は息をのんだ。どうしてそういう事になるのだろう。味方同士で戦う気は無いのではなかったのか。
「ええ」
「俺は叶うならお前の父とは味方として戦いたかったんだ、それなのに」
「そのときは命に気をつけて下さい、父は本当に強いですから」
義経の言葉をさえぎるように吐き捨てた。普段の穏やかさからは想像もできないほど冷たい言葉だった。
「あ、そう。…お前が父を大事なように、俺は兄上が大事だ。だから兄上のために動く。それはいいな?」
「これで決別、というわけですか…」
影で息をひそめていた幡姫はその会話からほとんどの事情を察した。
(もし戦になって、義仲殿が負けたら…?)
それより先は少女には予想もできず、考える気にもなれなかった。
すると歩いてきた義経が幡姫のすぐ横で立ち止まった。目線を合わせず、小声で言う。
「聞いてたんでしょう?姫様」
「あ、あの」
「立ち上がらずにお聞きください」
義経は立ち上がろうとする幡姫を手で制止した。
「万一の時は義高殿を頼みます。」
「え…?」
「俺は義仲を討たねばならないかもしれない。でも、あいつの友人として、せめてもの願いです」
義経は淡々とした口調で続ける。
「もしもの時、あれを助けられるのは姫だけですから」
幡姫は聞き返そうとしたが、義経は早足で行ってしまった。
万一の時。木曽が敵に回った時。
そうだ。あくまでも彼は“人質”なのだ。
「待って!!」
足が震えている。気がつくと義高がそばにいた。
彼は青白い顔をした幡姫に驚いて、心配そうに抱き寄せる。
「大丈夫ですか?」
「義高様…」
「姫様…?幡姫様!!」
幡姫はその場に倒れた。
つづく
源義経が頼朝の代わりに上洛する事が決まる。
幡姫はそれが何を意味するのか分かっていなかったので、義経と義高が不仲になっていることも、それどころか義高が鎌倉中を敵視し始めているのにも気づいていなかった。
義高は幡姫や、周りの女性達に対しては変わらない態度で接していたので、“何も知らない子供”でいられる幡姫が気づかぬのも無理はなかったが…。
彼女がその異常に気がついたのは義経が間もなく出立しようという日のことである。
幡姫は義高と義経が二人だけでいるのを見つけた。そっと几帳の影に隠れる。
義経と義高の間に流れる空気はぴんと張り詰めていて、触れるのではないかと思うほどに硬く重苦しかった。
(前はこんなじゃなかったのに…どうしたの?)
以前覗き見た二人の和やかな雰囲気はすっかり消え失せている。
「聞いていると思うが、俺は京に上ることになった」
「ええ」
「…どうせお前のことだから分かってるとは思うが、恐らく俺はお前の父親と戦わなければならん」
幡姫は息をのんだ。どうしてそういう事になるのだろう。味方同士で戦う気は無いのではなかったのか。
「ええ」
「俺は叶うならお前の父とは味方として戦いたかったんだ、それなのに」
「そのときは命に気をつけて下さい、父は本当に強いですから」
義経の言葉をさえぎるように吐き捨てた。普段の穏やかさからは想像もできないほど冷たい言葉だった。
「あ、そう。…お前が父を大事なように、俺は兄上が大事だ。だから兄上のために動く。それはいいな?」
「これで決別、というわけですか…」
影で息をひそめていた幡姫はその会話からほとんどの事情を察した。
(もし戦になって、義仲殿が負けたら…?)
それより先は少女には予想もできず、考える気にもなれなかった。
すると歩いてきた義経が幡姫のすぐ横で立ち止まった。目線を合わせず、小声で言う。
「聞いてたんでしょう?姫様」
「あ、あの」
「立ち上がらずにお聞きください」
義経は立ち上がろうとする幡姫を手で制止した。
「万一の時は義高殿を頼みます。」
「え…?」
「俺は義仲を討たねばならないかもしれない。でも、あいつの友人として、せめてもの願いです」
義経は淡々とした口調で続ける。
「もしもの時、あれを助けられるのは姫だけですから」
幡姫は聞き返そうとしたが、義経は早足で行ってしまった。
万一の時。木曽が敵に回った時。
そうだ。あくまでも彼は“人質”なのだ。
「待って!!」
足が震えている。気がつくと義高がそばにいた。
彼は青白い顔をした幡姫に驚いて、心配そうに抱き寄せる。
「大丈夫ですか?」
「義高様…」
「姫様…?幡姫様!!」
幡姫はその場に倒れた。
つづく
- 1.序幕,伊豆国の姫君
- 2.突然の危機
- 3.伊豆山の女性たち
- 4.鎌倉入り
- 5.木曽の将軍
- 6.人質と姫君
- 7.若武者の正体
- 8.福始
- 9.義高の懐郷病(一)
- 10.義高の懐郷病(二)
- 11.躍進する義仲
- 12.小咄,鎌倉の恋人
- 13.幡姫の立ち聞き
- 14.旭日昇天
- 15.没落の始まり
- 16.決別と忠告
- 17.最悪の予感
- 18.そして日は沈む
- 19.矛盾した願い
- 20.恐ろしい計画
- 21.守りたいひと(一)
- 22.守りたいひと(二)
- 23.知らせ
- 24.それぞれの後悔
- 25.巴御前
- 26.義経の憂鬱
- 27.屋島
- 28.壇ノ浦の海
- 29.歓喜と不信
- 30.亀裂
- 31.不穏
- 32.別離の襲撃
- 33.すれ違いの果てに
- 34.囚われの白拍子
- 35.幡姫と静(一)
- 36.幡姫と静(二)
- 37.空蝉
- 38.奥羽の重鎮