【[漢字]訛柄[/漢字][ふりがな]なまえ[/ふりがな] [漢字]路足可[/漢字][ふりがな]みちたりか[/ふりがな]】
「[漢字]名付屋[/漢字][ふりがな]なづけや[/ふりがな]」を経営する、初老の男性。
終始穏やかな物腰と上等なシルクハットにモーニング、白髪と手に持ったステッキが特徴。
本人曰く、「常時彷徨い続けている」とのことだが、そもそも彼が店の外を歩く姿を目撃したものは暫定ゼロ人。また、何と何の間を彷徨っているのかについてはトップシークレット。
抽象を体現したかのようなこの紳士において唯一言えることは、ただいま132回目の禁煙中であるということ。
[水平線]
「ごきげんよう」
初夏の朝日を映しながら、引き戸のそばに備え付けられたガラスのドアベルが、からんころんと涼しげな音を立てた。
木枠が区切る丸窓の、樫の扉の向こうから、ほっそりとした人影が見えた。
路足可は手に持っていた書類から目を上げて、彼女――“本日のお客様”を見た。
小さな名付屋に入ってきたのは、ロココ王朝を思わせる華やかなパラソルを優雅に携えた、たおやかな貴婦人であった。
「ようこそいらっしゃいました、レディ。こちらへお掛けになってください」
「ええ…、失礼いたしますわ」
店に敷かれた、趣味の良い褪せたカーペットの上を、柔らかな足音が響く。
近づくと、彼女は華奢だがそれでいてかなり背が高いことがわかった。
「本日は、一体どのような“[漢字]隠名[/漢字][ふりがな]かくりな[/ふりがな]”をご所望ですか?」
「そろそろ、青葉の季節でしょう。今年は別荘へは向かわず、避暑地で涼遊をしたいと思っているのです。ほら…わたくしが誰なのか、貴方もご存知でしょう…?」
「…」
路足可には皆目見当もつかない。が、わかっていますよと言わんばかりに、彼は微笑みを絶やすことはしなかった。
おそらく、どこぞの名家の息女といったところであろう。
「ですからまあ、誰もわたくしとは解らないような、ふう変りな隠名が欲しいんですの。報酬はまあ…言い値でお支払いいたしますわ」
「……ええ、報酬などというものにつきましては…」
「それでね?奇妙で、それでいて風雅な名にしてくださいましね。わたくしの存在などちらとも見せず、だけれどもどこか気品の隠せないような…そもそも、逗留地はわたくしのお祖父様の昔馴染みの方が営んでらっしゃったペンションで…」
ふわりと射し込む朝の光の中、婦人の喋り口は留まるところを知らないが如くに、動き続けた。
路足可はその気味の悪い違和感をおくびにも出さないまま、にこにこと相槌を打ち続ける。
お客様の話をお聞きするのは、店主として大事な役目のひとつでもあるのだ。
たとえ、それが貴人の皮を被った、ただの高慢ちきだったとしても。
古いタイプライターが、カタカタと爽やかな音を立てる。これは路足可の愛用品であり、柔らかな飴色の光沢を帯びた金属はところどころ錆びてはいるものの、よく手入れされて窓際に鎮座していた。
ちなみに、もうひとつの愛用品はカウンターの下に隠しているのだが、彼はここ数週間その姿を見ていない。
カウンターの奥、店の最奥の丸木の壁は路足可の身長の二倍ほどの四角形に大きくくり抜かれており、嵌めごろしのガラスがそこを跨いでいる。
まるで洞穴のような小さな外観でも、店自体の奥行きと高さはそれなりに大きいのだ。なぜならば、店全体を蔦と樹木が覆い隠しているから。
タイプライターが弾く、光の粒を映したガラスの奥。
木漏れ日を纏った若葉の緑色が、透明な壁の先一面に広がっている。
「では、こちらをお受け取りくださいませ」
「あら、なんですの?…ああ、もしやこれが」
「ええ、こちらの[漢字]隠名[/漢字][ふりがな]かくりな[/ふりがな]が、レディ…貴女様に最も相応しいかと」
路足可は、老紳士には似つかぬそのほっそりとした指を白手袋に包み、一枚の封筒を差し出した。
先ほど歌うような軽やかな音を立てていたタイプライターは、この羊皮紙に染みた優しいインディゴのインクと、それによってぼやけて転写された上品な筆記体を刻み込んでいたらしい。
「うふふ…大変ご苦労さまでございましたわ。評判の貴方のことですから、きっと品のある美しい名なのでしょうね」
「ええ。よろしければ封をとき、今ご自分の目でご確認くださいませ」
貴婦人は嬉しそうに、羊皮紙に貼り付けられたドライフラワーの封蝋をはがし、中の薄い紙を取り出す。
彼女は笑顔のままその中を見て、
…みるみるうちに、表情を険しくさせた。
「いかがでございましょう…お気に、召しましたでしょうか」
「っ…どうもこうも…ありませんわ!全く腹立たしい…!貴方ね、こんな仕事で報酬を貰えるとでもお思いかしら!?」
「いえ。それは無理、というものでしょうね」
噛みつかんばかりに声を荒らげる彼女に、路足可は平然と言い放った。
「な…っ」
「そもそも、私の店において、「報酬」などという直接的で不躾な言葉は、お使いにならないでいただきたい。そしてレディがどのようにお考えかはわかりませんが、その[漢字]隠名[/漢字][ふりがな]かくりな[/ふりがな]は本来、良い方向に使われることの多い言葉。…「ご存知でしょう…?」と仰っておられた貴女様がどこのどなたかは私、ちっとも存じませんが、諫言を受け入れてくださる度量をお持ちでしたら、ひとつだけ。
…勉強が、足りないのでは?くっふふ…」
「〜〜〜〜っ!!」
口元に手を添えて顔を引き攣らせるように笑う店主に、貴婦人は顔を紅潮させ、それはそれは激昂した様子で封筒を机に叩きつけた。
そして彼女は何も言わないまま、扉を乱暴にバタンと閉め、そのたおやかな仕草をかなぐり捨てたかのような形相で森をずんずんと去っていった。
「…やはり、夏だからお気に召されなかったのだろうか…
「[漢字]姥桜[/漢字][ふりがな]うばざくら[/ふりがな]」という名。くっふふ、「姥百合」の方が良かったかな。
厚化粧で若作りしてはいたが、きっともうゆき遅れと言っていいほどお年を召して…ふふ…」
彼はどこまでも完璧な「紳士の笑顔」を浮かべ、カウンターの下に隠したもうひとつの愛用品―
―翡翠細工の[漢字]煙管[/漢字][ふりがな]きせる[/ふりがな]を、取り出した。
…禁煙のことは、忘れたことにする。
[水平線]
【[漢字]訛柄[/漢字][ふりがな]なまえ[/ふりがな] [漢字]路足可[/漢字][ふりがな]みちたりか[/ふりがな]】
彼は、多少面倒なほどに潔癖な嫌儲のきらいがあるらしく、店名に「屋」とついているのすら体裁取り繕いのためらしい。
よってこれは商売ではなく、ただの趣味。
不幸にも彼の店内で「報酬」などと金銭に関する単語を口にしてしまった者は、それが悪意なき発言だろうと(というか大体の場合は善意からの発言なのだが)彼に嫌われてしまう。
良識ある大人であれば一般的に言わないであろう、ラインを超えた皮肉や悪口(容姿、年齢にまつわる悪口等、シンプルに失礼なものばかり)もホイホイ口にするため、接し方には細心の注意が必要。
つまるところ、性格が大変悪い。
禁煙は次で133回目だ。木造りの窓から、甘い煙がくゆっている。
外見が紳士だからといって、中身まで優しく温厚な「紳士」と思われる義理など、ないのである。
「[漢字]名付屋[/漢字][ふりがな]なづけや[/ふりがな]」を経営する、初老の男性。
終始穏やかな物腰と上等なシルクハットにモーニング、白髪と手に持ったステッキが特徴。
本人曰く、「常時彷徨い続けている」とのことだが、そもそも彼が店の外を歩く姿を目撃したものは暫定ゼロ人。また、何と何の間を彷徨っているのかについてはトップシークレット。
抽象を体現したかのようなこの紳士において唯一言えることは、ただいま132回目の禁煙中であるということ。
[水平線]
「ごきげんよう」
初夏の朝日を映しながら、引き戸のそばに備え付けられたガラスのドアベルが、からんころんと涼しげな音を立てた。
木枠が区切る丸窓の、樫の扉の向こうから、ほっそりとした人影が見えた。
路足可は手に持っていた書類から目を上げて、彼女――“本日のお客様”を見た。
小さな名付屋に入ってきたのは、ロココ王朝を思わせる華やかなパラソルを優雅に携えた、たおやかな貴婦人であった。
「ようこそいらっしゃいました、レディ。こちらへお掛けになってください」
「ええ…、失礼いたしますわ」
店に敷かれた、趣味の良い褪せたカーペットの上を、柔らかな足音が響く。
近づくと、彼女は華奢だがそれでいてかなり背が高いことがわかった。
「本日は、一体どのような“[漢字]隠名[/漢字][ふりがな]かくりな[/ふりがな]”をご所望ですか?」
「そろそろ、青葉の季節でしょう。今年は別荘へは向かわず、避暑地で涼遊をしたいと思っているのです。ほら…わたくしが誰なのか、貴方もご存知でしょう…?」
「…」
路足可には皆目見当もつかない。が、わかっていますよと言わんばかりに、彼は微笑みを絶やすことはしなかった。
おそらく、どこぞの名家の息女といったところであろう。
「ですからまあ、誰もわたくしとは解らないような、ふう変りな隠名が欲しいんですの。報酬はまあ…言い値でお支払いいたしますわ」
「……ええ、報酬などというものにつきましては…」
「それでね?奇妙で、それでいて風雅な名にしてくださいましね。わたくしの存在などちらとも見せず、だけれどもどこか気品の隠せないような…そもそも、逗留地はわたくしのお祖父様の昔馴染みの方が営んでらっしゃったペンションで…」
ふわりと射し込む朝の光の中、婦人の喋り口は留まるところを知らないが如くに、動き続けた。
路足可はその気味の悪い違和感をおくびにも出さないまま、にこにこと相槌を打ち続ける。
お客様の話をお聞きするのは、店主として大事な役目のひとつでもあるのだ。
たとえ、それが貴人の皮を被った、ただの高慢ちきだったとしても。
古いタイプライターが、カタカタと爽やかな音を立てる。これは路足可の愛用品であり、柔らかな飴色の光沢を帯びた金属はところどころ錆びてはいるものの、よく手入れされて窓際に鎮座していた。
ちなみに、もうひとつの愛用品はカウンターの下に隠しているのだが、彼はここ数週間その姿を見ていない。
カウンターの奥、店の最奥の丸木の壁は路足可の身長の二倍ほどの四角形に大きくくり抜かれており、嵌めごろしのガラスがそこを跨いでいる。
まるで洞穴のような小さな外観でも、店自体の奥行きと高さはそれなりに大きいのだ。なぜならば、店全体を蔦と樹木が覆い隠しているから。
タイプライターが弾く、光の粒を映したガラスの奥。
木漏れ日を纏った若葉の緑色が、透明な壁の先一面に広がっている。
「では、こちらをお受け取りくださいませ」
「あら、なんですの?…ああ、もしやこれが」
「ええ、こちらの[漢字]隠名[/漢字][ふりがな]かくりな[/ふりがな]が、レディ…貴女様に最も相応しいかと」
路足可は、老紳士には似つかぬそのほっそりとした指を白手袋に包み、一枚の封筒を差し出した。
先ほど歌うような軽やかな音を立てていたタイプライターは、この羊皮紙に染みた優しいインディゴのインクと、それによってぼやけて転写された上品な筆記体を刻み込んでいたらしい。
「うふふ…大変ご苦労さまでございましたわ。評判の貴方のことですから、きっと品のある美しい名なのでしょうね」
「ええ。よろしければ封をとき、今ご自分の目でご確認くださいませ」
貴婦人は嬉しそうに、羊皮紙に貼り付けられたドライフラワーの封蝋をはがし、中の薄い紙を取り出す。
彼女は笑顔のままその中を見て、
…みるみるうちに、表情を険しくさせた。
「いかがでございましょう…お気に、召しましたでしょうか」
「っ…どうもこうも…ありませんわ!全く腹立たしい…!貴方ね、こんな仕事で報酬を貰えるとでもお思いかしら!?」
「いえ。それは無理、というものでしょうね」
噛みつかんばかりに声を荒らげる彼女に、路足可は平然と言い放った。
「な…っ」
「そもそも、私の店において、「報酬」などという直接的で不躾な言葉は、お使いにならないでいただきたい。そしてレディがどのようにお考えかはわかりませんが、その[漢字]隠名[/漢字][ふりがな]かくりな[/ふりがな]は本来、良い方向に使われることの多い言葉。…「ご存知でしょう…?」と仰っておられた貴女様がどこのどなたかは私、ちっとも存じませんが、諫言を受け入れてくださる度量をお持ちでしたら、ひとつだけ。
…勉強が、足りないのでは?くっふふ…」
「〜〜〜〜っ!!」
口元に手を添えて顔を引き攣らせるように笑う店主に、貴婦人は顔を紅潮させ、それはそれは激昂した様子で封筒を机に叩きつけた。
そして彼女は何も言わないまま、扉を乱暴にバタンと閉め、そのたおやかな仕草をかなぐり捨てたかのような形相で森をずんずんと去っていった。
「…やはり、夏だからお気に召されなかったのだろうか…
「[漢字]姥桜[/漢字][ふりがな]うばざくら[/ふりがな]」という名。くっふふ、「姥百合」の方が良かったかな。
厚化粧で若作りしてはいたが、きっともうゆき遅れと言っていいほどお年を召して…ふふ…」
彼はどこまでも完璧な「紳士の笑顔」を浮かべ、カウンターの下に隠したもうひとつの愛用品―
―翡翠細工の[漢字]煙管[/漢字][ふりがな]きせる[/ふりがな]を、取り出した。
…禁煙のことは、忘れたことにする。
[水平線]
【[漢字]訛柄[/漢字][ふりがな]なまえ[/ふりがな] [漢字]路足可[/漢字][ふりがな]みちたりか[/ふりがな]】
彼は、多少面倒なほどに潔癖な嫌儲のきらいがあるらしく、店名に「屋」とついているのすら体裁取り繕いのためらしい。
よってこれは商売ではなく、ただの趣味。
不幸にも彼の店内で「報酬」などと金銭に関する単語を口にしてしまった者は、それが悪意なき発言だろうと(というか大体の場合は善意からの発言なのだが)彼に嫌われてしまう。
良識ある大人であれば一般的に言わないであろう、ラインを超えた皮肉や悪口(容姿、年齢にまつわる悪口等、シンプルに失礼なものばかり)もホイホイ口にするため、接し方には細心の注意が必要。
つまるところ、性格が大変悪い。
禁煙は次で133回目だ。木造りの窓から、甘い煙がくゆっている。
外見が紳士だからといって、中身まで優しく温厚な「紳士」と思われる義理など、ないのである。