その重々しい門は風化で錆びてしまっていて、とてもじゃないが人が暮らしているようには見えない。
だけどよく目を凝らすと、扉の辺りに張り紙がしてあるのが見えた。
「占いの…館?」
全身の力を込めて門を開けて、奇妙な植物の生い茂った庭を抜けて…やっとこさ私は、その扉を開いた。
廃墟、という感じではない。この建物の中に誰か几帳面な人が一人住んでいるのだろうなということが容易に想像できるような、清潔で、古風で、こぢんまりとした内装だった。
誰かいないかと首を伸ばすと、またポケットが鳴る。軽快な金属音も、静寂の中に音を見つけようと耳を澄ましている今の私には耳障りなものだった。
トレーナーの上から、その分厚い布地越しに長方形の硬い物体を抑えつける。
その時、思ってもいなかったところから声がした。
「キミは、お客様かな?いらっしゃい」
…少女は、目を見開いて固まりました。
そして、ぎこちなく後ろを振り返ります。
「どうした?レンズ豆鉄砲喰らったような顔して」
凛々しい声の主は、どことなく威圧感のあるその、仁王立ちの彼女でした。
館内にいるものとばかり思っていた住人は、なんと先ほど通ってきたはずの、庭にいたのです。きっと、やたらと大きい植物に姿を隠されて見つけることができなかったのでしょう。
少女は咄嗟に、焦りました。
彼女からすれば少女は、見知らぬ人の家に用もないのに苦労して侵入し、勝手に扉を開けて中を覗いていた変質者です。あまりの驚きに声を出せなかった少女は、弁明をしようという気持ちより先に、警察を呼ばれるかもしれないという恐怖に対する覚悟をしてしまいました。
ところがどうしたことか、彼女はその大きな風変わりな帽子の下の端正な顔に涼やかな笑みを浮かべ、さりげなく少女を招き入れたのです。
初対面だというのになぜか断れないほどに清々しい、それでいて安心できるような不思議な話術に乗せられ、少女は館の奥へと足を踏み入れて行きました…
彼女が歩くリズムに合わせて、赤褐色の混じった金糸のような柔らかで豊かな髪が、青い帽子についた大きなツバの下でふわりふわりと揺れる。これまた丁寧に掃除がなされたアンティークな廊下を、彼女について歩いた。
「えっ、すっご……でも、え?」
やがて案内されたのは、こっくりとしたワインの一滴を凝縮したような、金と深い暗色の赤の部屋だった。
百年もの時を感じさせる古びた、よく手入れされた木彫りの調度品に掛かる深紅のビロードの帯はシルクの金糸にふちどられていた。ドーム状になった銀赤色の天井の中央には高級ホテルのようなシャンデリアがきらびやかに提げられ、夜香に照り映える瑠璃の壺に、鮮血の雫を纏ったような大輪の薔薇がいくつか並んでいる。
カチカチと小気味よい音を絶えず鳴らす古風な柱時計を取り囲むように並ぶ、壁一面の洋書。キャビネットに並ぶグラスと、透明なランプに注がれた燃し油、真紅のフランネル。
オペラカーテンが美しい光沢を放ちながら静かで優美なドレープをたくし上げる。薄紅を差したオーガンティーは幾重ものフリルの川を流し、たっぷりと余った生地の海を、チョコレート色の床に落としていた。
「…[漢字]さっき[/漢字][ふりがな]・・・[/ふりがな]と違う」
まるでホテルのVIPルームかはたまたどこかのお城としか思えないその部屋に少女はたじろぎましたが、彼女はそれを半ば強引に猫足のクッション椅子に座らせ、口を開きました。
「まずは、何の説明もなしにこんな所まで連れてきてしまったことを謝ろう。私の名前はシーラ。キミは?」
にこやかに微笑む彼女の口調は、凛々しいものでした。
「私は…[漢字]奏[/漢字][ふりがな]かなで[/ふりがな]。「音楽を奏でる」の漢字です。えっと、ここは…一体」
つい先ほどまで元気に飛び回るように森を散策していた奏でしたが、突然自分の身に降りかかった不可思議な出来事にさすがに驚いたようで、まともな質問の一つもできません。しかし彼女――〝シーラ〟は、奏のような人間には慣れっこで、言いたいことを十分にわかっているのでしょう。聞きたかったことを、全て説明してくれました。
まず、この世界は魔法界。いわゆる、異世界。
そして、彼女は魔女であるということ。
最近人間を相手にした〝占い稼業・悩み相談〟を始めたシーラたちは、奏たちの暮らす世界にワープポータルをいくつか設置し、目隠しと誘引の魔法をかけたそうなのです。つまり、「悩んでいる人だけがこの館に辿り着ける」ようになっている、ということです。
「だからまあ…道に迷ったから助けを求めに程度でここに来たんだろうが、病むほど悩んでる奴が目の前にいるとなると、それを何もせずにノコノコ返すってわけにはいかなくてだな…」
「ああ、悩みを話せばいいんですね!わかりました!いくらですか?」
この説明も、[漢字]さっき聞いた[/漢字][ふりがな]・・・・・・[/ふりがな]。
シーラさんは、私の飲み込みがやけに早いことに怪訝な表情をしていたようだが、その顔を一瞬で引っ込めて笑顔を作った。
「金銭でのお代は頂かないんだ。その代わり報酬として、〝消したい記憶〟を一つ頂きたい」
少女はその「対価」を聞いて、少々驚きました。
消したい記憶。それは対価というより、むしろ報酬なのではないのだろうか、と。
ただでさえ突然のことに驚き、状況の整理がついていない状態でのこの言葉が少女を混乱させたのは、無理もないことでした。
眼の前の彼女も、お構いなしに話を進めています。
「まあ会ったばかりでデリカシーに欠けるが、友達だとでも思って相談してくれ」
ですが同時に、煌びやかな部屋といい、目の前の魔女がまとう何やら不思議な雰囲気といい、深く考えずこの状況をそのまま受け止めてしまった方が早いのでは、という気持ちが大きくなっていきました。
ひとたびそう考えてしまえば、少女は自分で驚くほどにその場に順応してしまう所があるのです。
自分を抑えて人に合わせてしまいがちなのも、その性質が関係しているのかもしれませんでした。
「友達…ですね!わかりました。それなら」
今回も、私は悩むこともなく、それを口にした。
「私、リスカしてたんですよぉ。その傷、消してください!」
ほう、とシーラさんは片眉を上げ、問いかけた。
「消したいのは〝記憶〟じゃないのか。物理的な消去魔法なら一応出来ないこともないが…初っ端から確認もせずに記憶以外のものを対価として求めてくるとは、随分とまあ肝の据わったお嬢ちゃんだ」
うん、だって、[漢字]もう知ってた[/漢字][ふりがな]・・・・・・[/ふりがな]もの。
「はじめ」は、そりゃ最初に「記憶以外のものを代わりにすることはできますか?」って聞いたよ。でもそこで「できる」って分かったんだから、もう1回聞くのはムダでしょ?
…まあ、シーラさんにそんな事を言ったって、どうせ何を言っているのか分からないだろうけど。
兎にも角にも、「承った」との言葉をいただけたので、とりあえずはほっとした。
煌びやかなシャンデリアが、きりりと削られた宝石のような強い光を注ぐ。それを反射した灯油のアンティークランプが、てらてらと光っている。
私は両手をその懐古趣味なローテーブルに載せて、口を開いた。
「…私、人や動物…とにかく、「命」に対する関心が薄すぎる気がするんです!なんとなく、違和感があって。道徳心がないというか、皆当たり前に持っているような倫理にどこか欠けているような…」
「ほう。その違和感とやらを感じ始めたのはいつのことだ?生来何の疑問も持たずに付き合ってきた自分の価値観に、周りとの[漢字]齟齬[/漢字][ふりがな]そご[/ふりがな]を感じたのは」
「ああ…いえ、生まれつきそうだったわけではなくて。昔はそういう心を持てていた、と自分では思うんですが」
自分のことなどあまり人に話す[漢字]性[/漢字][ふりがな]たち[/ふりがな]ではないはずの少女が、なぜか驚くほどにするすると〝悩み〟を打ち明けていました。
もはや自ら意思を持っているのではないかと思われるほどに、流暢に動く口。
少女自身も呆気に取られながら、どこか他人事のような感覚でぼうっと考えていました。そして、朧げながらその理由の一片を、探り当てました。
…シーラさんのこの、独特な雰囲気にあてられている。
例えば、溢れる母性だったり、兄姉のような親愛に満ちた柔和な笑顔だったり…「思わず悩みを相談してしまう」相手というのは、いわゆる所の「聖母系」タイプではないのでしょうか。
目の前のほっそりした魔女には確かに頼りがいはありそうですが、お世辞にも「母のような愛情」を感じたりはしません。
少女が普段から「好きな人」に分類する、砂糖菓子のようなふわふわとした優しさや甘さといったものを、彼女はまるで持ち合わせていないのでした。
つまるところ。
…魔女って、こんな凛々しい感じで合ってるの?
心の中で首を傾げながら、それでも明瞭な受け答えを行ってしまう不思議。
優美な装飾に囲まれたその部屋の中で、あまりにも不釣り合いなそのきりりとした笑顔が、若芽でも摘み抜くようにするすると少女の話を引き出してくるのでした。
「依頼内容は、他者を大切に思いやる本来の気持ちを取り戻したい、ということで間違いないな」
「…はい」
シーラさんの手元をぼうっと見ていると、机のすぐ側から、美しい意匠の凝らされた銀の手鏡が出てきた。
「それでは占いを始めていこう。まず改めて名乗るが、私は“予言と賢哲の魔女”シーラ。得意魔法は、この先の未来に起こる出来事に対する、ほぼ確定的な予測……回避や確変が可能なものだが。そして使用する魔具は、この鏡と時の聖水だ」
彼女が透明な小瓶を振ると、カラコロと宝石を転がしたような小さな音がする。
「そして“予言”には、未来を知ることへの相応の責任が伴う。奏、キミにその覚悟は――」
長ったらしい口上を[漢字]また[/漢字][ふりがな]・・[/ふりがな]聞かされるのかと少しうんざりしていた時、シーラさんは急にその口を噤んだ。
「…なんてな。覚悟や責任なんて、お前にあるわけがないよな」
「!!」
俯いて前にふわりと垂れた雲のような赤毛から、鋭い眼光が覗く。
そのまま視線を逸らさずに言葉を続ける。尖った尋問が、驚き慌てる私を突き刺し、抉る。
彼女は、怒っていた。
「お前、[漢字]前回[/漢字][ふりがな]・・[/ふりがな]、私達を殺したな?」
――それは、私が「やり直せる」ことを知っていないと出てこないはずの言葉。
コイツはなぜ、私の秘密を知っている?
[水平線]
「その悩みに対して、自力で対処を行おうとしたことは?」
「あります!」
少女は勢い込んで、はっきりと頷きました。
ランプのグラスを満たす、青い光が跳ねました。
また。また、行動と感情が釣り合っていない状態が続いています。
少しずつ、心の境界が曖昧になっていく感覚が、指先の神経に沁み入ってきます。
「私、元は命を大切にできていました…たぶん。その証拠と言っていいかはわかりませんが、取り返しのつかない失敗をしてしまった時、ちゃんと「やらかした」って思えていたんです」
魔女帽子の下の薄い眉が、僅かに動きました。
「ほう。「やらかした」とはつまり…」
「後悔、です。
…私が原因で家が家事になったことがあるんです。
全てが火に呑み込まれて、両親もペットも、全員死んじゃった時。私、ちゃんと「後悔」できてたんです」
「火事に遭ったことが?それでは、言いづらいが…キミのご両親は亡くなっているんだな」
「…ああいえいえ、今もピンピンしてますよ!父も母も、かわいいコテラも超元気!あっ、コテラって飼ってる犬の名前なんですけど」
その場に似つかわしくない明るい声色とその内容に、魔女が怪訝な顔をしましたが、少女は喋り続けました。
「もうコレが赤ちゃんの時なんて、今じゃ想像もつかないくらいにホント獰猛で!危うく腕を噛まれるとこだったんですよ。この年まで無傷なんて、私ってラッキーですよね!まあ、その無傷な腕を自分で切っちゃったんですけどね!あっそうだ、報酬がコレなんだからちゃんとその状態をお見せしたほうが良いですよね。
ホントにやっちゃってたんでちょいグロいですけど、ちょっと待ってくださいね…」
急に饒舌に喋りだした少女にうろたえるでもなく、シーラは、ただただ黙って彼女を見つめました。
少女がまくった袖からは、細い腕が現れました。
まったくもって、一切の傷もない、白い腕が。
「……」
「…うっ…ふふふ、あっははは!びっくりしちゃいましたよね!ゴメンナサイ。いやあだって、そりゃ何回だってやっちゃうんですよねぇ。リスカもODも、どこまでも!
だって翌日にはこの通り、どんな傷だって綺麗さっぱり消えちゃってるんですもん。
ははは!あはは…なんで」
ダンッ!!
トレーナーの袖が、机を勢いよく叩きつけました。
「……なんで…なんで!!!私は痛かったのに、苦しかったのに!どうせ全部消えちゃって何もなかったことになるんだったら、そんな茶番に愛情なんて持てるわけがない!
私が命を大切にする心を取り戻したい本当の理由は、この力を失うことが怖いから…!
ねえシーラさん。分かります?私はねえ、一日だけタイムリープする能力を持ってるんだ!「やっちゃった」とか「失敗した」って心底から「後悔」できないと、発動しない能力なの。ホント使えない!」
シーラの形の良い顎をぐいと引き寄せ、少女は舐めるような眼光でそう吐き捨てました。
至近距離で見つめられても、姿勢良く座る魔女の表情は一切変わりません。しかし、それすらも気にしていないかのように、少女はその手をあっけなく放しました。
「だからさ、私が失敗ややり直したいことを「後悔」できなくなっちゃったら、もうタイムリープはできなくなっちゃうんだ。ねえ、怖いと思わない?それに気づいちゃった時、私がまともな状態でいられたと思う?ねえシーラさん、どう思う?
…おかしいよね。だってどうせやり直せるんだったら、誰だってどんな失敗をしても後悔なんてしないよね。
「やらかした」って、人生が一回きりのヤツにしかない感情だったんだよ。シーラさんも一回しか人生がない人だよね。ねえ、後悔ってどうしたらできるの?私、もう分かんなくなっちゃった」
それだけ言うと、少女ははあーっと芝居がかった大きなため息をつき、倒れ込むようにして椅子に座りました。
ショートパンツの脚を組み、テーブルの上に生けられた青い薔薇を一本引き抜きます。
「で、「自力で対処」したことについてだよね?
…あるよ、山ほど。リスカだってそう。自分の身で痛みを感じれば後悔の方法が分かるかな…って何回でも傷つけてみたけど、一向に効果はナシ!なーんで私、もともと当たり前に持ってたモノをこうも簡単に失っちゃったんだろ。
ものすごく不思議だったけど、私気づいたんですよね」
薔薇の花が一枚一枚ちぎられていき、毛足の長い金糸のカーペットに、星のような蒼い涙がはらはらと落ちていきます。
それを微笑んで眺めながら、少女は再び弓なりの唇を開きました。
「思い出したの。友達のなーぽんって子が、ものすごい忘れっぽい子でね。だけど、本人なりに色々工夫してるんだ。
…頑張ってるんだよ。やり直しができないから、失敗が失敗として残っちゃうから。
それで、私に教えてくれたことがあってね」
――私、絶対に忘れたくないことは、何回も繰り返し繰り返し思い出すようにしてるんだぁ。
たとえ明日の授業で持ってかなきゃいけないものを忘れたとしても、また私がちょっと怒られるだけで済むけど。
でも、私の大切な思い出だけは、一生失くしたくないの。もう替えの効かない、世界にひとつだけの宝物だから――
少女はトレーナーのポケットの上から、無機質な直方体の輪郭を愛おしげになぞりました。
「そう、言ってた。そう。なーぽんは、忘れたくないことは何回も繰り返すといいんだよって、言ってたの。
私さ、自分の家が火事になったときは、ちゃんと後悔できてたって言ったよね。
シーラさん、さっき「友達だとでも思って相談してくれ」って、言ってくれましたよね?
シーラさんは、もう、私の「友達」。つまり、大切なモノ。私は、大切なモノを火事で失うと、「後悔できる」。
…だから」
「!!…っ…何を…!!」
魔女が驚愕の表情で勢いよく立ち上がりましたが、もう時は既に遅く。
少女はキャビネットに駆け寄って蒼ガラスのランプを床に叩き落とし、ポケットから取り出し火を着けた銀色のライターを、そこに向かって放り投げたのです。
…砕け散る、透明なガラスの音。
部屋中に散らばった灯油と、蒼い薔薇の花びら。ランプからこぼれ落ちた、防火用のミントソルトと、夜空色のフランネル。
そして、そこに一瞬にして燃え広がる、赫炎の霧。
引火した炎の柱は、部屋を飲み込みながらあっという間に肥大化していきました。
火花は躍りながら、カーペットに移り、木製の調度品に移り、カーテンに移り。
深い海のようだったその青い部屋は、たった一瞬で、
肺の底まで焦げ付くような灼熱の獄炎に包まれたのです。
だけどよく目を凝らすと、扉の辺りに張り紙がしてあるのが見えた。
「占いの…館?」
全身の力を込めて門を開けて、奇妙な植物の生い茂った庭を抜けて…やっとこさ私は、その扉を開いた。
廃墟、という感じではない。この建物の中に誰か几帳面な人が一人住んでいるのだろうなということが容易に想像できるような、清潔で、古風で、こぢんまりとした内装だった。
誰かいないかと首を伸ばすと、またポケットが鳴る。軽快な金属音も、静寂の中に音を見つけようと耳を澄ましている今の私には耳障りなものだった。
トレーナーの上から、その分厚い布地越しに長方形の硬い物体を抑えつける。
その時、思ってもいなかったところから声がした。
「キミは、お客様かな?いらっしゃい」
…少女は、目を見開いて固まりました。
そして、ぎこちなく後ろを振り返ります。
「どうした?レンズ豆鉄砲喰らったような顔して」
凛々しい声の主は、どことなく威圧感のあるその、仁王立ちの彼女でした。
館内にいるものとばかり思っていた住人は、なんと先ほど通ってきたはずの、庭にいたのです。きっと、やたらと大きい植物に姿を隠されて見つけることができなかったのでしょう。
少女は咄嗟に、焦りました。
彼女からすれば少女は、見知らぬ人の家に用もないのに苦労して侵入し、勝手に扉を開けて中を覗いていた変質者です。あまりの驚きに声を出せなかった少女は、弁明をしようという気持ちより先に、警察を呼ばれるかもしれないという恐怖に対する覚悟をしてしまいました。
ところがどうしたことか、彼女はその大きな風変わりな帽子の下の端正な顔に涼やかな笑みを浮かべ、さりげなく少女を招き入れたのです。
初対面だというのになぜか断れないほどに清々しい、それでいて安心できるような不思議な話術に乗せられ、少女は館の奥へと足を踏み入れて行きました…
彼女が歩くリズムに合わせて、赤褐色の混じった金糸のような柔らかで豊かな髪が、青い帽子についた大きなツバの下でふわりふわりと揺れる。これまた丁寧に掃除がなされたアンティークな廊下を、彼女について歩いた。
「えっ、すっご……でも、え?」
やがて案内されたのは、こっくりとしたワインの一滴を凝縮したような、金と深い暗色の赤の部屋だった。
百年もの時を感じさせる古びた、よく手入れされた木彫りの調度品に掛かる深紅のビロードの帯はシルクの金糸にふちどられていた。ドーム状になった銀赤色の天井の中央には高級ホテルのようなシャンデリアがきらびやかに提げられ、夜香に照り映える瑠璃の壺に、鮮血の雫を纏ったような大輪の薔薇がいくつか並んでいる。
カチカチと小気味よい音を絶えず鳴らす古風な柱時計を取り囲むように並ぶ、壁一面の洋書。キャビネットに並ぶグラスと、透明なランプに注がれた燃し油、真紅のフランネル。
オペラカーテンが美しい光沢を放ちながら静かで優美なドレープをたくし上げる。薄紅を差したオーガンティーは幾重ものフリルの川を流し、たっぷりと余った生地の海を、チョコレート色の床に落としていた。
「…[漢字]さっき[/漢字][ふりがな]・・・[/ふりがな]と違う」
まるでホテルのVIPルームかはたまたどこかのお城としか思えないその部屋に少女はたじろぎましたが、彼女はそれを半ば強引に猫足のクッション椅子に座らせ、口を開きました。
「まずは、何の説明もなしにこんな所まで連れてきてしまったことを謝ろう。私の名前はシーラ。キミは?」
にこやかに微笑む彼女の口調は、凛々しいものでした。
「私は…[漢字]奏[/漢字][ふりがな]かなで[/ふりがな]。「音楽を奏でる」の漢字です。えっと、ここは…一体」
つい先ほどまで元気に飛び回るように森を散策していた奏でしたが、突然自分の身に降りかかった不可思議な出来事にさすがに驚いたようで、まともな質問の一つもできません。しかし彼女――〝シーラ〟は、奏のような人間には慣れっこで、言いたいことを十分にわかっているのでしょう。聞きたかったことを、全て説明してくれました。
まず、この世界は魔法界。いわゆる、異世界。
そして、彼女は魔女であるということ。
最近人間を相手にした〝占い稼業・悩み相談〟を始めたシーラたちは、奏たちの暮らす世界にワープポータルをいくつか設置し、目隠しと誘引の魔法をかけたそうなのです。つまり、「悩んでいる人だけがこの館に辿り着ける」ようになっている、ということです。
「だからまあ…道に迷ったから助けを求めに程度でここに来たんだろうが、病むほど悩んでる奴が目の前にいるとなると、それを何もせずにノコノコ返すってわけにはいかなくてだな…」
「ああ、悩みを話せばいいんですね!わかりました!いくらですか?」
この説明も、[漢字]さっき聞いた[/漢字][ふりがな]・・・・・・[/ふりがな]。
シーラさんは、私の飲み込みがやけに早いことに怪訝な表情をしていたようだが、その顔を一瞬で引っ込めて笑顔を作った。
「金銭でのお代は頂かないんだ。その代わり報酬として、〝消したい記憶〟を一つ頂きたい」
少女はその「対価」を聞いて、少々驚きました。
消したい記憶。それは対価というより、むしろ報酬なのではないのだろうか、と。
ただでさえ突然のことに驚き、状況の整理がついていない状態でのこの言葉が少女を混乱させたのは、無理もないことでした。
眼の前の彼女も、お構いなしに話を進めています。
「まあ会ったばかりでデリカシーに欠けるが、友達だとでも思って相談してくれ」
ですが同時に、煌びやかな部屋といい、目の前の魔女がまとう何やら不思議な雰囲気といい、深く考えずこの状況をそのまま受け止めてしまった方が早いのでは、という気持ちが大きくなっていきました。
ひとたびそう考えてしまえば、少女は自分で驚くほどにその場に順応してしまう所があるのです。
自分を抑えて人に合わせてしまいがちなのも、その性質が関係しているのかもしれませんでした。
「友達…ですね!わかりました。それなら」
今回も、私は悩むこともなく、それを口にした。
「私、リスカしてたんですよぉ。その傷、消してください!」
ほう、とシーラさんは片眉を上げ、問いかけた。
「消したいのは〝記憶〟じゃないのか。物理的な消去魔法なら一応出来ないこともないが…初っ端から確認もせずに記憶以外のものを対価として求めてくるとは、随分とまあ肝の据わったお嬢ちゃんだ」
うん、だって、[漢字]もう知ってた[/漢字][ふりがな]・・・・・・[/ふりがな]もの。
「はじめ」は、そりゃ最初に「記憶以外のものを代わりにすることはできますか?」って聞いたよ。でもそこで「できる」って分かったんだから、もう1回聞くのはムダでしょ?
…まあ、シーラさんにそんな事を言ったって、どうせ何を言っているのか分からないだろうけど。
兎にも角にも、「承った」との言葉をいただけたので、とりあえずはほっとした。
煌びやかなシャンデリアが、きりりと削られた宝石のような強い光を注ぐ。それを反射した灯油のアンティークランプが、てらてらと光っている。
私は両手をその懐古趣味なローテーブルに載せて、口を開いた。
「…私、人や動物…とにかく、「命」に対する関心が薄すぎる気がするんです!なんとなく、違和感があって。道徳心がないというか、皆当たり前に持っているような倫理にどこか欠けているような…」
「ほう。その違和感とやらを感じ始めたのはいつのことだ?生来何の疑問も持たずに付き合ってきた自分の価値観に、周りとの[漢字]齟齬[/漢字][ふりがな]そご[/ふりがな]を感じたのは」
「ああ…いえ、生まれつきそうだったわけではなくて。昔はそういう心を持てていた、と自分では思うんですが」
自分のことなどあまり人に話す[漢字]性[/漢字][ふりがな]たち[/ふりがな]ではないはずの少女が、なぜか驚くほどにするすると〝悩み〟を打ち明けていました。
もはや自ら意思を持っているのではないかと思われるほどに、流暢に動く口。
少女自身も呆気に取られながら、どこか他人事のような感覚でぼうっと考えていました。そして、朧げながらその理由の一片を、探り当てました。
…シーラさんのこの、独特な雰囲気にあてられている。
例えば、溢れる母性だったり、兄姉のような親愛に満ちた柔和な笑顔だったり…「思わず悩みを相談してしまう」相手というのは、いわゆる所の「聖母系」タイプではないのでしょうか。
目の前のほっそりした魔女には確かに頼りがいはありそうですが、お世辞にも「母のような愛情」を感じたりはしません。
少女が普段から「好きな人」に分類する、砂糖菓子のようなふわふわとした優しさや甘さといったものを、彼女はまるで持ち合わせていないのでした。
つまるところ。
…魔女って、こんな凛々しい感じで合ってるの?
心の中で首を傾げながら、それでも明瞭な受け答えを行ってしまう不思議。
優美な装飾に囲まれたその部屋の中で、あまりにも不釣り合いなそのきりりとした笑顔が、若芽でも摘み抜くようにするすると少女の話を引き出してくるのでした。
「依頼内容は、他者を大切に思いやる本来の気持ちを取り戻したい、ということで間違いないな」
「…はい」
シーラさんの手元をぼうっと見ていると、机のすぐ側から、美しい意匠の凝らされた銀の手鏡が出てきた。
「それでは占いを始めていこう。まず改めて名乗るが、私は“予言と賢哲の魔女”シーラ。得意魔法は、この先の未来に起こる出来事に対する、ほぼ確定的な予測……回避や確変が可能なものだが。そして使用する魔具は、この鏡と時の聖水だ」
彼女が透明な小瓶を振ると、カラコロと宝石を転がしたような小さな音がする。
「そして“予言”には、未来を知ることへの相応の責任が伴う。奏、キミにその覚悟は――」
長ったらしい口上を[漢字]また[/漢字][ふりがな]・・[/ふりがな]聞かされるのかと少しうんざりしていた時、シーラさんは急にその口を噤んだ。
「…なんてな。覚悟や責任なんて、お前にあるわけがないよな」
「!!」
俯いて前にふわりと垂れた雲のような赤毛から、鋭い眼光が覗く。
そのまま視線を逸らさずに言葉を続ける。尖った尋問が、驚き慌てる私を突き刺し、抉る。
彼女は、怒っていた。
「お前、[漢字]前回[/漢字][ふりがな]・・[/ふりがな]、私達を殺したな?」
――それは、私が「やり直せる」ことを知っていないと出てこないはずの言葉。
コイツはなぜ、私の秘密を知っている?
[水平線]
「その悩みに対して、自力で対処を行おうとしたことは?」
「あります!」
少女は勢い込んで、はっきりと頷きました。
ランプのグラスを満たす、青い光が跳ねました。
また。また、行動と感情が釣り合っていない状態が続いています。
少しずつ、心の境界が曖昧になっていく感覚が、指先の神経に沁み入ってきます。
「私、元は命を大切にできていました…たぶん。その証拠と言っていいかはわかりませんが、取り返しのつかない失敗をしてしまった時、ちゃんと「やらかした」って思えていたんです」
魔女帽子の下の薄い眉が、僅かに動きました。
「ほう。「やらかした」とはつまり…」
「後悔、です。
…私が原因で家が家事になったことがあるんです。
全てが火に呑み込まれて、両親もペットも、全員死んじゃった時。私、ちゃんと「後悔」できてたんです」
「火事に遭ったことが?それでは、言いづらいが…キミのご両親は亡くなっているんだな」
「…ああいえいえ、今もピンピンしてますよ!父も母も、かわいいコテラも超元気!あっ、コテラって飼ってる犬の名前なんですけど」
その場に似つかわしくない明るい声色とその内容に、魔女が怪訝な顔をしましたが、少女は喋り続けました。
「もうコレが赤ちゃんの時なんて、今じゃ想像もつかないくらいにホント獰猛で!危うく腕を噛まれるとこだったんですよ。この年まで無傷なんて、私ってラッキーですよね!まあ、その無傷な腕を自分で切っちゃったんですけどね!あっそうだ、報酬がコレなんだからちゃんとその状態をお見せしたほうが良いですよね。
ホントにやっちゃってたんでちょいグロいですけど、ちょっと待ってくださいね…」
急に饒舌に喋りだした少女にうろたえるでもなく、シーラは、ただただ黙って彼女を見つめました。
少女がまくった袖からは、細い腕が現れました。
まったくもって、一切の傷もない、白い腕が。
「……」
「…うっ…ふふふ、あっははは!びっくりしちゃいましたよね!ゴメンナサイ。いやあだって、そりゃ何回だってやっちゃうんですよねぇ。リスカもODも、どこまでも!
だって翌日にはこの通り、どんな傷だって綺麗さっぱり消えちゃってるんですもん。
ははは!あはは…なんで」
ダンッ!!
トレーナーの袖が、机を勢いよく叩きつけました。
「……なんで…なんで!!!私は痛かったのに、苦しかったのに!どうせ全部消えちゃって何もなかったことになるんだったら、そんな茶番に愛情なんて持てるわけがない!
私が命を大切にする心を取り戻したい本当の理由は、この力を失うことが怖いから…!
ねえシーラさん。分かります?私はねえ、一日だけタイムリープする能力を持ってるんだ!「やっちゃった」とか「失敗した」って心底から「後悔」できないと、発動しない能力なの。ホント使えない!」
シーラの形の良い顎をぐいと引き寄せ、少女は舐めるような眼光でそう吐き捨てました。
至近距離で見つめられても、姿勢良く座る魔女の表情は一切変わりません。しかし、それすらも気にしていないかのように、少女はその手をあっけなく放しました。
「だからさ、私が失敗ややり直したいことを「後悔」できなくなっちゃったら、もうタイムリープはできなくなっちゃうんだ。ねえ、怖いと思わない?それに気づいちゃった時、私がまともな状態でいられたと思う?ねえシーラさん、どう思う?
…おかしいよね。だってどうせやり直せるんだったら、誰だってどんな失敗をしても後悔なんてしないよね。
「やらかした」って、人生が一回きりのヤツにしかない感情だったんだよ。シーラさんも一回しか人生がない人だよね。ねえ、後悔ってどうしたらできるの?私、もう分かんなくなっちゃった」
それだけ言うと、少女ははあーっと芝居がかった大きなため息をつき、倒れ込むようにして椅子に座りました。
ショートパンツの脚を組み、テーブルの上に生けられた青い薔薇を一本引き抜きます。
「で、「自力で対処」したことについてだよね?
…あるよ、山ほど。リスカだってそう。自分の身で痛みを感じれば後悔の方法が分かるかな…って何回でも傷つけてみたけど、一向に効果はナシ!なーんで私、もともと当たり前に持ってたモノをこうも簡単に失っちゃったんだろ。
ものすごく不思議だったけど、私気づいたんですよね」
薔薇の花が一枚一枚ちぎられていき、毛足の長い金糸のカーペットに、星のような蒼い涙がはらはらと落ちていきます。
それを微笑んで眺めながら、少女は再び弓なりの唇を開きました。
「思い出したの。友達のなーぽんって子が、ものすごい忘れっぽい子でね。だけど、本人なりに色々工夫してるんだ。
…頑張ってるんだよ。やり直しができないから、失敗が失敗として残っちゃうから。
それで、私に教えてくれたことがあってね」
――私、絶対に忘れたくないことは、何回も繰り返し繰り返し思い出すようにしてるんだぁ。
たとえ明日の授業で持ってかなきゃいけないものを忘れたとしても、また私がちょっと怒られるだけで済むけど。
でも、私の大切な思い出だけは、一生失くしたくないの。もう替えの効かない、世界にひとつだけの宝物だから――
少女はトレーナーのポケットの上から、無機質な直方体の輪郭を愛おしげになぞりました。
「そう、言ってた。そう。なーぽんは、忘れたくないことは何回も繰り返すといいんだよって、言ってたの。
私さ、自分の家が火事になったときは、ちゃんと後悔できてたって言ったよね。
シーラさん、さっき「友達だとでも思って相談してくれ」って、言ってくれましたよね?
シーラさんは、もう、私の「友達」。つまり、大切なモノ。私は、大切なモノを火事で失うと、「後悔できる」。
…だから」
「!!…っ…何を…!!」
魔女が驚愕の表情で勢いよく立ち上がりましたが、もう時は既に遅く。
少女はキャビネットに駆け寄って蒼ガラスのランプを床に叩き落とし、ポケットから取り出し火を着けた銀色のライターを、そこに向かって放り投げたのです。
…砕け散る、透明なガラスの音。
部屋中に散らばった灯油と、蒼い薔薇の花びら。ランプからこぼれ落ちた、防火用のミントソルトと、夜空色のフランネル。
そして、そこに一瞬にして燃え広がる、赫炎の霧。
引火した炎の柱は、部屋を飲み込みながらあっという間に肥大化していきました。
火花は躍りながら、カーペットに移り、木製の調度品に移り、カーテンに移り。
深い海のようだったその青い部屋は、たった一瞬で、
肺の底まで焦げ付くような灼熱の獄炎に包まれたのです。
- 1.序章 Witches in the evening
- 2.夢幻の恋・前編 担当占い師:リーエ
- 3.夢幻の恋・中編 担当占い師:リーエ
- 4.夢幻の恋・後編 担当占い師:リーエ
- 5.幕間 a noble which in the kitchen
- 6.無気力ワットエバー・前編 担当占い師:ミゼ
- 7.無気力ワットエバー・中編 担当占い師:ミゼ
- 8.無気力ワットエバー・後編 担当占い師:ミゼ
- 9.幕間 a genius witch in the ritual room
- 10.兎の耳に掛けた鍵・前編 担当占い師:シーラ
- 11.兎の耳に掛けた鍵・中編 担当占い師:シーラ
- 12.兎の耳に掛けた鍵・後編 担当占い師:シーラ
- 13.幕間 a curious witch in the garden
- 14.背信と棄義のワルツ・前編 担当占い師:リーエ
- 15.背信と棄義のワルツ・中編 担当占い師:リーエ
- 16.背信と棄義のワルツ・後編 担当占い師:リーエ
- 17.間章 Witches in the night
- 18.クレペリン式遁走譚・前編 担当占い師:リーエ
- 19.クレペリン式遁走譚・中編 担当占い師:リーエ
- 20.クレペリン式遁走譚・後編 担当占い師:リーエ
- 21.幕間 the inside story of pure witch 〜リーエのひみつ〜
- 22.限局性漫劇のすゝめ・前編 担当占い師:ミゼ
- 23.限局性漫劇のすゝめ・中編 担当占い師:ミゼ
- 24.限局性漫劇のすゝめ・後編 担当占い師:ミゼ
- 25.幕間 the inside story of cursed witch 〜ミゼのひみつ〜
- 26.ハルモニア・前編 担当占い師:シーラ
- 27.ハルモニア・中編 担当占い師:シーラ