執事に背後から完璧に拘束されたまま、彼女は遅れてやってきた全身の激痛に耐えていた。
呼吸を整えようともがく彼女の耳に、コツ...コツ...と静かな足音が響く。
その足音は、廊下の奥の暗闇から近づいてきた。
執事のそれとは違う、小さく、しかし一歩ごとに空間の空気を重く塗り替えていくような、圧倒的な存在感。
「あら、ずいぶんと賑やかじゃない」
現れたのは、幼い少女の姿をした吸血鬼だった。
夜の闇を溶かしたような紫の髪に、燃えるような緋色の瞳。背中には蝙蝠を思わせる、漆黒の悪魔の翼が静かに佇んでいる。
彼女こそが、外の世界で『緋色の悪魔』と恐れられ、教会の老司祭が彼女に命を賭して討てと命じた標的――レミリア・スカーレット。
「お嬢様。お騒がせして申し訳ありません。美鈴さんがまた居眠りをしていたようで、外の世界から迷い込んだネズミが一匹、ここまで入り込みました」
執事はそう言うと、彼女を拘束したまま、レミリアに対して深く頭を下げた。
レミリアは散らばった銀のナイフを一瞥し、それから床に膝をつかされている彼女を、興味深そうに見下ろした。その瞳には、恐怖も怒りもなく、ただ退屈な日常に現れた新しい玩具を眺めるような、純粋な愉悦だけが浮かんでいる。
「ふーん......。時間を止める能力、ね。外の世界の人間にしては、なかなか面白い芸を持っているじゃない。でも、うちの執事には敵わなかったみたいだけど。」
くすくすと、鈴を転がすような愛らしい声でレミリアは笑う。しかし、その幼い容姿から放たれるプレッシャーは、彼女の全身の肌を粟立たせるに十分だった。これが、本物の吸血鬼。外の世界で狩ってきた、血に飢えただけの獣たちとは格が違う。
「......殺せ」
彼女は、乾いた声で短く呟いた。
任務は失敗した。道具として育てられた自分に、敗北の後に残された道は死しかない。教会の教えが、彼女の脳内で冷たく響いていた。
しかし、レミリアは彼女の言葉を聞くと、さらに愉快そうに目を細めた。
「殺せ、か。相変わらず外の人間は退屈なセリフしか言えないのね。でも、残念。私は今、機嫌がいいの。それに、あなたのその能力......ここで腐らせるには、少しもったいないわ」
レミリアは一歩、彼女へと近づき、その小さな手で彼女の顎を強引に持ち上げた。
緋色の瞳が、彼女の瞳の奥を見つめる。その瞬間、彼女は自分の脳内に、何か目に見えない強大な力が直接触れてきたような錯覚に陥った。運命そのものを弄ばれているような、絶対的な敗北感。
「あなた、名前は?」
「......ない。十九番、とだけ」
「十九番? 番号なんて名前じゃないわ。......そうね、今日からあなたの時間を、私のために使いなさい。これからは私の許可なく、死ぬことも、時間を止めることも許さない」
レミリアは満足そうに微笑むと、宣言するように告げた。
「あなたに新しい名前をあげる。そうね......」
レミリアの目線が今日キルンが持ってきた花を活けた花瓶に移る。夕方には蕾だったのに今では咲き誇っている。野生の花は生命力が高い。
「今夜は十六夜...丁度花が咲いた十六夜の夜に出会ったから―――[漢字]十六夜咲夜[/漢字][ふりがな]いざよいさくや[/ふりがな]。それがあなたの新しい名前よ」
咲夜。
その言葉が耳に届いた瞬間、彼女の胸の奥で、カチリ、と何かが動いた気がした。
これまで彼女の世界を縛り付けていた、教会の冷たい規則や『道具』としての役割が、音を立てて崩れ去っていく。
レミリアは執事に向き直ると、短く命じた。
「キルン、その子にうちのメイドの仕事を叩き込みなさい。時間はいくらでもあるんだから、完璧にね」
「御意のままに、お嬢様」
キルンと言うらしいその執事はクスクスと笑いながら拘束を解き、咲夜の前に回り込んで、紳士的に手を差し伸べた。
「というわけだ、咲夜。今日からお前は、この紅魔館のメイドだ。お前のその便利な能力、家事の手際を上げるためにしっかり使ってもらうからな。......まずは、居眠りしている美鈴さんを起こす手伝いから始めてもらおうかな。」
床にへたり込んだまま、新しく『咲夜』となった少女は、自分の手のひらを見つめた。
冷たい雨の降る外の世界には、もう戻る場所なんてない。
彼女は、目の前の執事の手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
少女の運命の歯車が今、全く新しい音を立てて動き始めた。
呼吸を整えようともがく彼女の耳に、コツ...コツ...と静かな足音が響く。
その足音は、廊下の奥の暗闇から近づいてきた。
執事のそれとは違う、小さく、しかし一歩ごとに空間の空気を重く塗り替えていくような、圧倒的な存在感。
「あら、ずいぶんと賑やかじゃない」
現れたのは、幼い少女の姿をした吸血鬼だった。
夜の闇を溶かしたような紫の髪に、燃えるような緋色の瞳。背中には蝙蝠を思わせる、漆黒の悪魔の翼が静かに佇んでいる。
彼女こそが、外の世界で『緋色の悪魔』と恐れられ、教会の老司祭が彼女に命を賭して討てと命じた標的――レミリア・スカーレット。
「お嬢様。お騒がせして申し訳ありません。美鈴さんがまた居眠りをしていたようで、外の世界から迷い込んだネズミが一匹、ここまで入り込みました」
執事はそう言うと、彼女を拘束したまま、レミリアに対して深く頭を下げた。
レミリアは散らばった銀のナイフを一瞥し、それから床に膝をつかされている彼女を、興味深そうに見下ろした。その瞳には、恐怖も怒りもなく、ただ退屈な日常に現れた新しい玩具を眺めるような、純粋な愉悦だけが浮かんでいる。
「ふーん......。時間を止める能力、ね。外の世界の人間にしては、なかなか面白い芸を持っているじゃない。でも、うちの執事には敵わなかったみたいだけど。」
くすくすと、鈴を転がすような愛らしい声でレミリアは笑う。しかし、その幼い容姿から放たれるプレッシャーは、彼女の全身の肌を粟立たせるに十分だった。これが、本物の吸血鬼。外の世界で狩ってきた、血に飢えただけの獣たちとは格が違う。
「......殺せ」
彼女は、乾いた声で短く呟いた。
任務は失敗した。道具として育てられた自分に、敗北の後に残された道は死しかない。教会の教えが、彼女の脳内で冷たく響いていた。
しかし、レミリアは彼女の言葉を聞くと、さらに愉快そうに目を細めた。
「殺せ、か。相変わらず外の人間は退屈なセリフしか言えないのね。でも、残念。私は今、機嫌がいいの。それに、あなたのその能力......ここで腐らせるには、少しもったいないわ」
レミリアは一歩、彼女へと近づき、その小さな手で彼女の顎を強引に持ち上げた。
緋色の瞳が、彼女の瞳の奥を見つめる。その瞬間、彼女は自分の脳内に、何か目に見えない強大な力が直接触れてきたような錯覚に陥った。運命そのものを弄ばれているような、絶対的な敗北感。
「あなた、名前は?」
「......ない。十九番、とだけ」
「十九番? 番号なんて名前じゃないわ。......そうね、今日からあなたの時間を、私のために使いなさい。これからは私の許可なく、死ぬことも、時間を止めることも許さない」
レミリアは満足そうに微笑むと、宣言するように告げた。
「あなたに新しい名前をあげる。そうね......」
レミリアの目線が今日キルンが持ってきた花を活けた花瓶に移る。夕方には蕾だったのに今では咲き誇っている。野生の花は生命力が高い。
「今夜は十六夜...丁度花が咲いた十六夜の夜に出会ったから―――[漢字]十六夜咲夜[/漢字][ふりがな]いざよいさくや[/ふりがな]。それがあなたの新しい名前よ」
咲夜。
その言葉が耳に届いた瞬間、彼女の胸の奥で、カチリ、と何かが動いた気がした。
これまで彼女の世界を縛り付けていた、教会の冷たい規則や『道具』としての役割が、音を立てて崩れ去っていく。
レミリアは執事に向き直ると、短く命じた。
「キルン、その子にうちのメイドの仕事を叩き込みなさい。時間はいくらでもあるんだから、完璧にね」
「御意のままに、お嬢様」
キルンと言うらしいその執事はクスクスと笑いながら拘束を解き、咲夜の前に回り込んで、紳士的に手を差し伸べた。
「というわけだ、咲夜。今日からお前は、この紅魔館のメイドだ。お前のその便利な能力、家事の手際を上げるためにしっかり使ってもらうからな。......まずは、居眠りしている美鈴さんを起こす手伝いから始めてもらおうかな。」
床にへたり込んだまま、新しく『咲夜』となった少女は、自分の手のひらを見つめた。
冷たい雨の降る外の世界には、もう戻る場所なんてない。
彼女は、目の前の執事の手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
少女の運命の歯車が今、全く新しい音を立てて動き始めた。