執事の足が地を蹴った。
床の石畳が、彼の踏み込みの衝撃に耐えかねて微かに悲鳴を上げる。
ただの人間のはずの男が放つ、亜音速を超える突進。それは、異能の魔術をも凌駕する、鍛え上げられた肉体のみが可能にする暴力そのものだった。
(まだだ......まだ、私の時間なら!)
彼女は恐怖をねじ伏せ、再び世界を止めた。
カチリ。
風が死に、世界の色彩が反転する。
執事の身体は、彼女から僅か数歩の距離、前傾姿勢のまま宙で固定されていた。
赤い髪が鋭く後ろに流れ、翠の目は真っ直ぐに彼女を射抜いたまま、微動だにしない。
(今度こそ......確実に殺す!)
彼女は懐から、持てる限りの銀ナイフを抜き放った。
三十本。いや、それ以上。
執事の頭上、足元、左右、そして心臓へと至る全方位の空間に、隙間なく銀の凶器を固定していく。これだけの密度の刃を、いかに敏捷な肉体といえど、回避することは絶対に不可能なはずだった。
(終わりよ。)
心の中で、時間を動かす。
――カチリ。
時は動き出した。
しかし、その瞬間、彼女の網膜が捉えたのは、驚愕の光景だった。
「甘いな」
執事の声が、耳元で響く。
彼は、全方位から迫るナイフの嵐を完璧に避けた。
時間が動き出す刹那、ナイフが本来の速度と運動エネルギーを取り戻すプロセスの、ほんの僅かな一瞬のラグ。
執事は爆発的な慣性と尋常ならざる反射神経を利用して、そのラグの間にナイフが収束して物理的な壁を作るよりも早く、彼女の懐へと、弾丸のように滑り込んできたのだ。
三十本以上の銀ナイフは、完全に標的を失い、執事の後方の床へと虚しく突き刺さる。
「ガハッ……!」
肺の中の空気が、すべて強制的に叩き出された。
衝撃。
執事の手掌が、彼女の鳩尾(みぞおち)へと、寸分の狂いもなく撃ち込まれていた。
内臓を激しく揺らし、横隔膜を麻痺させて、一時的に身体の自由を完全に奪い制圧。
力なく、彼女の手から残りのナイフが滑り落ち、石畳に高音を立てて散らばった。
「時間を止め、ナイフを放つ。その一芸を過信し過ぎていたことこそが、お前の最大の弱点だ。」
彼女は床に膝をつき、激しく咳き込みながら、苦悶の表情で執事を睨みつけた。
しかし、執事は彼女に追撃を加えることはせず、背後に回り込むと、動けない彼女の両腕を背中で交差させ、拘束した。
その拘束は、まるで鋼鉄の枷(かせ)のようにびくともしない。
「能力で動かなくなった相手を殺すことには慣れていても、死地を潜り抜けた人間と戦うのは、初めてのようだな。お嬢さん」
執事は、掴み取った彼女の腕の感触から、その幼さと、これまでに重ねてきたであろう過酷な鍛錬の跡を感じ取り、小さく息を吐いた。
「時を止める異能を誇る程度の人間なんて、我が主の前には通用しないよ。まして、能力に過信した人間など、俺一人で事足りる。」
彼は、拘束した彼女の耳元で、静かに、しかし絶対的な現実を告げる。
「ようこそ、紅魔館へ。我が主のもとへ案内しよう。お前の運命がここで尽きるか、あるいは、新たな時間を刻み始めるか......それはお嬢様のお心次第...と言うわけで俺にはなんか言っても無駄だからな。」
彼女は、ただ冷たい石畳を見つめるしかなかった。
外の世界で道具として生き、死神と恐れられた少女は、今、一人の人間の執事によって、完全にその牙を折られた。
だが、不思議と絶望はなかった。
館の深部から漂ってくる、圧倒的な力を持つ吸血鬼の主の気配。
冷たい雨の降る外の世界よりも、この血の臭いがする不気味な館の方が、なぜか自分に馴染むような、奇妙な予感だけが胸を満たしていた。
床の石畳が、彼の踏み込みの衝撃に耐えかねて微かに悲鳴を上げる。
ただの人間のはずの男が放つ、亜音速を超える突進。それは、異能の魔術をも凌駕する、鍛え上げられた肉体のみが可能にする暴力そのものだった。
(まだだ......まだ、私の時間なら!)
彼女は恐怖をねじ伏せ、再び世界を止めた。
カチリ。
風が死に、世界の色彩が反転する。
執事の身体は、彼女から僅か数歩の距離、前傾姿勢のまま宙で固定されていた。
赤い髪が鋭く後ろに流れ、翠の目は真っ直ぐに彼女を射抜いたまま、微動だにしない。
(今度こそ......確実に殺す!)
彼女は懐から、持てる限りの銀ナイフを抜き放った。
三十本。いや、それ以上。
執事の頭上、足元、左右、そして心臓へと至る全方位の空間に、隙間なく銀の凶器を固定していく。これだけの密度の刃を、いかに敏捷な肉体といえど、回避することは絶対に不可能なはずだった。
(終わりよ。)
心の中で、時間を動かす。
――カチリ。
時は動き出した。
しかし、その瞬間、彼女の網膜が捉えたのは、驚愕の光景だった。
「甘いな」
執事の声が、耳元で響く。
彼は、全方位から迫るナイフの嵐を完璧に避けた。
時間が動き出す刹那、ナイフが本来の速度と運動エネルギーを取り戻すプロセスの、ほんの僅かな一瞬のラグ。
執事は爆発的な慣性と尋常ならざる反射神経を利用して、そのラグの間にナイフが収束して物理的な壁を作るよりも早く、彼女の懐へと、弾丸のように滑り込んできたのだ。
三十本以上の銀ナイフは、完全に標的を失い、執事の後方の床へと虚しく突き刺さる。
「ガハッ……!」
肺の中の空気が、すべて強制的に叩き出された。
衝撃。
執事の手掌が、彼女の鳩尾(みぞおち)へと、寸分の狂いもなく撃ち込まれていた。
内臓を激しく揺らし、横隔膜を麻痺させて、一時的に身体の自由を完全に奪い制圧。
力なく、彼女の手から残りのナイフが滑り落ち、石畳に高音を立てて散らばった。
「時間を止め、ナイフを放つ。その一芸を過信し過ぎていたことこそが、お前の最大の弱点だ。」
彼女は床に膝をつき、激しく咳き込みながら、苦悶の表情で執事を睨みつけた。
しかし、執事は彼女に追撃を加えることはせず、背後に回り込むと、動けない彼女の両腕を背中で交差させ、拘束した。
その拘束は、まるで鋼鉄の枷(かせ)のようにびくともしない。
「能力で動かなくなった相手を殺すことには慣れていても、死地を潜り抜けた人間と戦うのは、初めてのようだな。お嬢さん」
執事は、掴み取った彼女の腕の感触から、その幼さと、これまでに重ねてきたであろう過酷な鍛錬の跡を感じ取り、小さく息を吐いた。
「時を止める異能を誇る程度の人間なんて、我が主の前には通用しないよ。まして、能力に過信した人間など、俺一人で事足りる。」
彼は、拘束した彼女の耳元で、静かに、しかし絶対的な現実を告げる。
「ようこそ、紅魔館へ。我が主のもとへ案内しよう。お前の運命がここで尽きるか、あるいは、新たな時間を刻み始めるか......それはお嬢様のお心次第...と言うわけで俺にはなんか言っても無駄だからな。」
彼女は、ただ冷たい石畳を見つめるしかなかった。
外の世界で道具として生き、死神と恐れられた少女は、今、一人の人間の執事によって、完全にその牙を折られた。
だが、不思議と絶望はなかった。
館の深部から漂ってくる、圧倒的な力を持つ吸血鬼の主の気配。
冷たい雨の降る外の世界よりも、この血の臭いがする不気味な館の方が、なぜか自分に馴染むような、奇妙な予感だけが胸を満たしていた。