外の世界。中世ヨーロッパの、名もなき寒村。
冷雨がそぼ降る夜、教会の地下聖堂で、一人の少女が銀のナイフを研いでいた。
彼女には名がなかった。ただ「十九番」と呼ばれていた。
生まれつき、彼女の世界は時折、音もなく静止した。周囲からは悪魔の子と忌み嫌われ、教会に引き取られてからは、夜の住人を狩る「道具」として仕込まれた。
感情は不要だった。恐怖も、憐れみも。
ただ、標との距離を測り、時を止め、心臓に銀を穿つ。それだけの機械。
「次なる標は、東の果てに消えた『緋色の悪魔』。行け、十九番。主の御名において」
老司祭の冷徹な声に、彼女は無言で一礼し、霧深い夜へと消えた。
それが、彼女が「道具」として受けた、最後の命令だった。
数年にも及ぶ放浪の果て、彼女は国境を越え、海を渡り、いつしか理の外側――幻想郷へと迷い込んでいた。
季節外れの霧が立ち込める湖の畔。その先に、血のように赤い巨大な洋館が聳え立っていた。
「......あそこに、いる」
確信があった。長年、怪物を狩り続けてきた彼女の嗅覚が、館から漂う圧倒的な「死」と「貴氣」を察知していた。
彼女は音もなく湖面を渡り、紅魔館の敷地内へと侵入した。
訓練された身のこなしは、夜露を払う風よりも鋭く、庭園を巡回する妖精メイドたちの目を容易く欺く。
正面玄関は避け、二階のバルコニーから館内へ。
豪奢な廊下、並べられた美術品。外の世界の王宮さえ霞むほどの絢爛さに、彼女は眉一つ動かさない。ただ、標的の寝所、あるいは玉座の間を目指して、館の深部へと進む。
冷たい殺意だけが、彼女の心を支配していた。
この館の主を殺せば、あるいは、この終わりのない狩りの日々も終わるのかもしれない。そんな微かな、人間らしい希望さえ、今の彼女には毒だった。
曲がり角を曲がった、その時。
「――おや、こんな時間にお客様とは、随分と珍しいな。」
静寂を切り裂く、穏やかだが通る声。
彼女は瞬時に身を固めた。
(気配はなかった。いつからそこにいた?)
廊下の先、月光が差し込む窓辺に、一人の男が立っていた。
燕尾服を完璧に着こなし、背筋を正した、赤髪に翠の目をした執事。
男は、彼女の殺気に満ちた姿を見ても、眉一つ動かさない。それどころか、困った迷子を見るような、温和な目を向けている。
「美鈴さん、居眠りしてたのか...?このような夜更けに、どのようなご用件で? お引き取り願えるのであれば、温かい紅茶の一杯でも淹れるけど。」
(交渉の余地はない。)
彼女は無言で、懐から十数本の銀ナイフを抜き放った。
(......ジャマだ。)
心の中で呟くと同時に、彼女は世界を止めた。
カチリ、と脳内で音がした。
廊下を渡る風が止まり、窓の外の雨粒が空中に固定される。月光さえも硬化したかのように動かない。
完全なる静寂。彼女だけの時間。
彼女は、止められた時間の中で、執事に向かってナイフを放った。
一本、二本、三本......計十二本。
心臓、喉、眉間、主要な動脈。必殺の軌道を描き、ナイフは空中で静止する。
時間は、再び動き出すその瞬間、すべての運動エネルギーを解放する。
いかに強大な怪物といえど、この「静止した死の雨」から逃れる術はない。
彼女は冷ややかな目で、動かぬ執事を見つめた。
(......さようなら。)
心の中で時間を動かす。
――カチリ。
時は動き出した。
十二本の銀ナイフが、本来の速度を超えた剛速で、執事の肉体を切り裂く......はずだった。
「......へぇ...」
執事の声。
彼女は、自分の目を疑った。
いや、目は確かに捉えていた。しかし、脳が理解を拒否した。
「触れる直前」で、全てのナイフが止まっていた。
執事の身体能力は、彼女の想像を絶していた。
彼は、時間が動き出した瞬間、襲い掛かるナイフの全てを、その素手で掴み取ったのだ。
眉間を狙ったナイフは親指と人差指で、喉元へのナイフは掌で。
執事の動きは、あまりに速く、あまりに正確で、まるで最初からそこにナイフがあることを知っていたかのようだった。
執事「なるほど、時間を操る能力か。しかも、インターバルは無いし停止時間に制限も無さそう...前にも時間停止のヤツと戦ったことはあるけど、能力的にはソイツより強い。恵まれてるな。」
執事は、掴み取った銀ナイフを、一本、また一本と、まるでコレクションを確認するように床に落としていく。
チャリン、チャリンと、銀が石畳を叩く音が、静寂に響く。
「しかし、少々威力が足りない。ここでは、あまりにも。」
執事の翠の目が、初めて鋭い光を帯びた。
それは、獲物を定める怪物の目だった。
彼は、最後のナイフを指先で弄びながら、彼女に向かって一歩、足を踏み出した。
「さて、侵入者。紅茶の誘いを断った以上、相応の覚悟はできてるか?」
(……化け物)
彼女は、初めて背筋に冷たいものを感じた。
外の世界で狩ってきた吸血鬼とは、次元が違う。
この館は、彼女がこれまで生きてきた世界とは、全く異なるルールで動いている。
彼女は再びナイフを構えたが、その手が、微かに震えているのを、自分でも気づいていた。
これが、彼女が「吸血鬼のメイド」となる、運命の夜の始まりだった。
冷雨がそぼ降る夜、教会の地下聖堂で、一人の少女が銀のナイフを研いでいた。
彼女には名がなかった。ただ「十九番」と呼ばれていた。
生まれつき、彼女の世界は時折、音もなく静止した。周囲からは悪魔の子と忌み嫌われ、教会に引き取られてからは、夜の住人を狩る「道具」として仕込まれた。
感情は不要だった。恐怖も、憐れみも。
ただ、標との距離を測り、時を止め、心臓に銀を穿つ。それだけの機械。
「次なる標は、東の果てに消えた『緋色の悪魔』。行け、十九番。主の御名において」
老司祭の冷徹な声に、彼女は無言で一礼し、霧深い夜へと消えた。
それが、彼女が「道具」として受けた、最後の命令だった。
数年にも及ぶ放浪の果て、彼女は国境を越え、海を渡り、いつしか理の外側――幻想郷へと迷い込んでいた。
季節外れの霧が立ち込める湖の畔。その先に、血のように赤い巨大な洋館が聳え立っていた。
「......あそこに、いる」
確信があった。長年、怪物を狩り続けてきた彼女の嗅覚が、館から漂う圧倒的な「死」と「貴氣」を察知していた。
彼女は音もなく湖面を渡り、紅魔館の敷地内へと侵入した。
訓練された身のこなしは、夜露を払う風よりも鋭く、庭園を巡回する妖精メイドたちの目を容易く欺く。
正面玄関は避け、二階のバルコニーから館内へ。
豪奢な廊下、並べられた美術品。外の世界の王宮さえ霞むほどの絢爛さに、彼女は眉一つ動かさない。ただ、標的の寝所、あるいは玉座の間を目指して、館の深部へと進む。
冷たい殺意だけが、彼女の心を支配していた。
この館の主を殺せば、あるいは、この終わりのない狩りの日々も終わるのかもしれない。そんな微かな、人間らしい希望さえ、今の彼女には毒だった。
曲がり角を曲がった、その時。
「――おや、こんな時間にお客様とは、随分と珍しいな。」
静寂を切り裂く、穏やかだが通る声。
彼女は瞬時に身を固めた。
(気配はなかった。いつからそこにいた?)
廊下の先、月光が差し込む窓辺に、一人の男が立っていた。
燕尾服を完璧に着こなし、背筋を正した、赤髪に翠の目をした執事。
男は、彼女の殺気に満ちた姿を見ても、眉一つ動かさない。それどころか、困った迷子を見るような、温和な目を向けている。
「美鈴さん、居眠りしてたのか...?このような夜更けに、どのようなご用件で? お引き取り願えるのであれば、温かい紅茶の一杯でも淹れるけど。」
(交渉の余地はない。)
彼女は無言で、懐から十数本の銀ナイフを抜き放った。
(......ジャマだ。)
心の中で呟くと同時に、彼女は世界を止めた。
カチリ、と脳内で音がした。
廊下を渡る風が止まり、窓の外の雨粒が空中に固定される。月光さえも硬化したかのように動かない。
完全なる静寂。彼女だけの時間。
彼女は、止められた時間の中で、執事に向かってナイフを放った。
一本、二本、三本......計十二本。
心臓、喉、眉間、主要な動脈。必殺の軌道を描き、ナイフは空中で静止する。
時間は、再び動き出すその瞬間、すべての運動エネルギーを解放する。
いかに強大な怪物といえど、この「静止した死の雨」から逃れる術はない。
彼女は冷ややかな目で、動かぬ執事を見つめた。
(......さようなら。)
心の中で時間を動かす。
――カチリ。
時は動き出した。
十二本の銀ナイフが、本来の速度を超えた剛速で、執事の肉体を切り裂く......はずだった。
「......へぇ...」
執事の声。
彼女は、自分の目を疑った。
いや、目は確かに捉えていた。しかし、脳が理解を拒否した。
「触れる直前」で、全てのナイフが止まっていた。
執事の身体能力は、彼女の想像を絶していた。
彼は、時間が動き出した瞬間、襲い掛かるナイフの全てを、その素手で掴み取ったのだ。
眉間を狙ったナイフは親指と人差指で、喉元へのナイフは掌で。
執事の動きは、あまりに速く、あまりに正確で、まるで最初からそこにナイフがあることを知っていたかのようだった。
執事「なるほど、時間を操る能力か。しかも、インターバルは無いし停止時間に制限も無さそう...前にも時間停止のヤツと戦ったことはあるけど、能力的にはソイツより強い。恵まれてるな。」
執事は、掴み取った銀ナイフを、一本、また一本と、まるでコレクションを確認するように床に落としていく。
チャリン、チャリンと、銀が石畳を叩く音が、静寂に響く。
「しかし、少々威力が足りない。ここでは、あまりにも。」
執事の翠の目が、初めて鋭い光を帯びた。
それは、獲物を定める怪物の目だった。
彼は、最後のナイフを指先で弄びながら、彼女に向かって一歩、足を踏み出した。
「さて、侵入者。紅茶の誘いを断った以上、相応の覚悟はできてるか?」
(……化け物)
彼女は、初めて背筋に冷たいものを感じた。
外の世界で狩ってきた吸血鬼とは、次元が違う。
この館は、彼女がこれまで生きてきた世界とは、全く異なるルールで動いている。
彼女は再びナイフを構えたが、その手が、微かに震えているのを、自分でも気づいていた。
これが、彼女が「吸血鬼のメイド」となる、運命の夜の始まりだった。