【スピンオフシリーズ】紫原家の後悔。
紫原瑚緑は、ここにいる。
誰にも見えない場所に。
誰にも触れられない形で。
夜の路地裏。
雨に濡れたアスファルトに、街灯の光が滲んでいる。
人の影が通り過ぎ、音だけが瑚緑の中を素通りしていく。
――寒い。
それは、昔と同じ感覚だった。
温度ではない。
存在が世界に定着していないときの、空白の冷え。
「……」
彼は自分の手を見る。
輪郭はある。だが、どこか曖昧だ。
意識を向けなければ、消えてしまいそうなほどに。
不死身。
幽霊の暗殺者。
触れられない刃。
そう呼ばれるようになって、どれほどの時間が経ったのか、瑚緑自身にも分からない。
年という概念は、彼の中で意味を失っていた。
ただ、仕事は続いた。
依頼主の声。
目的地。
名前を告げられ、影を抜け、結果だけを残す。
感情は必要なかった。
恐怖も、ためらいも、憎しみも。
――そう、思っていた。
「……紫殺」
遠くで、誰かがその名を呼ぶ。
瑚緑は振り返らない。
振り返る理由が、なかったからだ。
その夜、任務の帰り道で、彼は足を止めた。
小さな声。
「……おにい、ちゃん……?」
錯覚だと、すぐに分かった。
それでも、体が動かなかった。
子どもの声。
震えていて、かすれていて。
けれど、確かに――
賈緑の声に、似ていた。
「……」
瑚緑は、ゆっくりと振り返る。
路地の奥、段ボールの影。
そこにいたのは、妹ではない。
見知らぬ子どもだ。
それでも。
その子が膝を抱え、同じように怯えて座っている姿を見た瞬間、
瑚緑の中で、何かが軋んだ。
――声を出すな。
――目立つな。
――生き残れ。
昔、彼が妹に送った無言の命令。
「……大丈夫」
気づけば、瑚緑は声を出していた。
自分でも驚くほど、はっきりと。
もちろん、その声は届かない。
子どもは、ただ寒そうに身を縮めるだけだ。
それでも、瑚緑はそこに立った。
風が吹く。
彼の輪郭が、わずかに揺らぐ。
――妹が、生きている限り。
その言葉が、胸の奥で反響する。
もしかしたら。
妹は、どこかでまだ同じように怯えているのかもしれない。
もしかしたら。
もう、大人になって、兄のことなど忘れているかもしれない。
それでも。
「……探す」
誰に聞かせるでもなく、瑚緑は呟いた。
感情は無いはずだった。
だが今、胸の奥にあるこの重さを、彼は否定できなかった。
幽霊でも、刃でもいい。
商品でも、兵器でもいい。
――兄であることだけは、手放さない。
紫原瑚緑は、今日もここにいる。
影と影のあいだに立ち、
妹の声を探しながら。
再会するその瞬間まで。
[水平線]
誰にも見えない場所に。
誰にも触れられない形で。
夜の路地裏。
雨に濡れたアスファルトに、街灯の光が滲んでいる。
人の影が通り過ぎ、音だけが瑚緑の中を素通りしていく。
――寒い。
それは、昔と同じ感覚だった。
温度ではない。
存在が世界に定着していないときの、空白の冷え。
「……」
彼は自分の手を見る。
輪郭はある。だが、どこか曖昧だ。
意識を向けなければ、消えてしまいそうなほどに。
不死身。
幽霊の暗殺者。
触れられない刃。
そう呼ばれるようになって、どれほどの時間が経ったのか、瑚緑自身にも分からない。
年という概念は、彼の中で意味を失っていた。
ただ、仕事は続いた。
依頼主の声。
目的地。
名前を告げられ、影を抜け、結果だけを残す。
感情は必要なかった。
恐怖も、ためらいも、憎しみも。
――そう、思っていた。
「……紫殺」
遠くで、誰かがその名を呼ぶ。
瑚緑は振り返らない。
振り返る理由が、なかったからだ。
その夜、任務の帰り道で、彼は足を止めた。
小さな声。
「……おにい、ちゃん……?」
錯覚だと、すぐに分かった。
それでも、体が動かなかった。
子どもの声。
震えていて、かすれていて。
けれど、確かに――
賈緑の声に、似ていた。
「……」
瑚緑は、ゆっくりと振り返る。
路地の奥、段ボールの影。
そこにいたのは、妹ではない。
見知らぬ子どもだ。
それでも。
その子が膝を抱え、同じように怯えて座っている姿を見た瞬間、
瑚緑の中で、何かが軋んだ。
――声を出すな。
――目立つな。
――生き残れ。
昔、彼が妹に送った無言の命令。
「……大丈夫」
気づけば、瑚緑は声を出していた。
自分でも驚くほど、はっきりと。
もちろん、その声は届かない。
子どもは、ただ寒そうに身を縮めるだけだ。
それでも、瑚緑はそこに立った。
風が吹く。
彼の輪郭が、わずかに揺らぐ。
――妹が、生きている限り。
その言葉が、胸の奥で反響する。
もしかしたら。
妹は、どこかでまだ同じように怯えているのかもしれない。
もしかしたら。
もう、大人になって、兄のことなど忘れているかもしれない。
それでも。
「……探す」
誰に聞かせるでもなく、瑚緑は呟いた。
感情は無いはずだった。
だが今、胸の奥にあるこの重さを、彼は否定できなかった。
幽霊でも、刃でもいい。
商品でも、兵器でもいい。
――兄であることだけは、手放さない。
紫原瑚緑は、今日もここにいる。
影と影のあいだに立ち、
妹の声を探しながら。
再会するその瞬間まで。
[水平線]
クリップボードにコピーしました