夜は、すでに深層へ沈んでいた。
星図の壁には、十二の線と、数えられなかった空白。
そのどちらにも属さない時間帯。
ランプは揺れていない。
風もない。
それでも――
扉の前に、
「立ち止まっている思考」の重さだけが、確かにあった。
迷っている、のではない。
引き返す理由も、進む理由も、すでに整理し終えている。
それでも、扉を開けない。
――開けてしまえば、
考えていることを、考えているまま持ち込んでしまうから。
カラン。
鈴は、静かに鳴った。
音が鳴ったあとで、
本人が少しだけ驚いた顔をする。
まるで、
自分より先に、思考が扉を押したみたいに。
薄茶色の長いワンピース。
袖は指先を隠し、床に近いほど長い。
一歩踏み出すたび、
布が遅れてついてくる。
くるりと回れば、
袖が円を描いて、
自分自身を囲ってしまうような――
そんな服。
顔立ちは整っている。
けれど視線は、
常に「同時に三つ以上のこと」を考えている位置にある。
「……こんばんは」
声は静かで、落ち着いている。
「僕は土喰シズだよ。よろしくね」
一人称は「僕」。
けれど、どこにも少年性はない。
年齢は、測れない。
本人も、数えていない。
「土星、だ」
マスターは、すぐに頷かなかった。
それは、
確認が必要な星だったからだ。
土星。
枠。
制限。
耐久。
抱え込むことで、崩れないことを選び続けた星。
「……いらっしゃいませ」
少し遅れて、
それでも変わらない声で迎える。
シズは、
一番奥の席ではなく、
けれど入口からも遠い位置に座った。
逃げられる距離を残した、覚悟の場所。
差し出されたのは、紅茶ではなかった。
黒い、平らな皿。
中央に、薄茶色のアイスが一つ。
その周囲を、
茶色の砂糖が、ぐるりと円を描いている。
――輪。
土星の環。
「……アイス?」
「ええ」
マスターは、説明を足さない。
シズは一瞬、
視線だけで全体を測る。
温度。
量。
溶ける速度。
意味。
「なるほど」
スプーンを入れる前に、
小さく笑った。
「マスターは、なんでもわかってるんだね……」
かすかに、口角が上がる。
「……(ニコッ)」
一口。
舌に触れた瞬間、
甘さが主張しない。
苦みも、前に出ない。
ただ、
包み込む。
逃げ場を作らない味。
「……まろやかだ」
二口目で、
環の砂糖に触れる。
甘さが、少しだけ強くなる。
「……」
シズは、
そこで初めて、スプーンを止めた。
「僕ね」
視線はアイスに落としたまま。
「考えるの、得意なんだ」
断言だった。
「起きる前に、全部仮定して。
失敗も、誤解も、嫌われる理由も」
環をなぞるように、
砂糖を少し崩す。
「だから、耐えられる」
一拍。
「……耐えられてしまう」
マスターは、何も言わない。
「考えを吐き出そうとするとね」
スプーンが止まる。
「……周りが、遠ざかる気がした」
声に、揺れはない。
揺れないように、
何度も構築し直された声。
「だから、言わないほうがいいって結論にした」
「正しい判断ですね」
マスターは、否定しない。
「土星は、
壊れない選択を、選び続ける星です」
「……でしょ?」
シズは、少しだけ満足そうに笑う。
「僕は、賢いから」
自嘲ではない。
誇りでもない。
事実の提示。
「でもさ」
三口目。
アイスの中心に近づく。
「……賢いって、
わかってもらえないと、
ただの壁になるんだね」
そこで、初めて。
ほんの一瞬、
考えが遅れた。
「……あ」
小さく、息が漏れる。
「これ、溶けると」
環の砂糖が、
アイスに混ざっていく。
「……輪が、なくなる」
マスターは、静かに言う。
「環は、
守るためのものです」
「でも」
続ける。
「中心を、
一人にするためのものでもあります」
沈黙。
シズは、
最後の一口を、ゆっくり口に運ぶ。
「……またこようかな」
少しだけ、軽い調子で。
「なんてね。僕の気分次第さ」
立ち上がる。
袖が、
円を描いて揺れる。
扉の前で、
一度だけ振り返る。
「……マスター」
「はい」
「僕の考え、
ここに置いていっても……
壊れない?」
マスターは、答えない。
代わりに、
伏せていたカップの一つを、
静かに起こした。
それだけで、
十分だった。
カラン。
扉が閉まる。
星図の壁に、
太く、遅い線が刻まれる。
十二のどれとも違う位置。
けれど、
中心を囲うような軌道。
完成しない。
外れもしない。
――枠として、そこに在り続ける線。
マスターは、それを見つめて、呟く。
「抱え込める者ほど、
手放し方を、誰にも教わらない」
ランプは、揺れない。
夜は、まだ深い。
そして、
数えられなかった星は――
また一つ、
確かに、ここを覚えた。
星図の壁には、十二の線と、数えられなかった空白。
そのどちらにも属さない時間帯。
ランプは揺れていない。
風もない。
それでも――
扉の前に、
「立ち止まっている思考」の重さだけが、確かにあった。
迷っている、のではない。
引き返す理由も、進む理由も、すでに整理し終えている。
それでも、扉を開けない。
――開けてしまえば、
考えていることを、考えているまま持ち込んでしまうから。
カラン。
鈴は、静かに鳴った。
音が鳴ったあとで、
本人が少しだけ驚いた顔をする。
まるで、
自分より先に、思考が扉を押したみたいに。
薄茶色の長いワンピース。
袖は指先を隠し、床に近いほど長い。
一歩踏み出すたび、
布が遅れてついてくる。
くるりと回れば、
袖が円を描いて、
自分自身を囲ってしまうような――
そんな服。
顔立ちは整っている。
けれど視線は、
常に「同時に三つ以上のこと」を考えている位置にある。
「……こんばんは」
声は静かで、落ち着いている。
「僕は土喰シズだよ。よろしくね」
一人称は「僕」。
けれど、どこにも少年性はない。
年齢は、測れない。
本人も、数えていない。
「土星、だ」
マスターは、すぐに頷かなかった。
それは、
確認が必要な星だったからだ。
土星。
枠。
制限。
耐久。
抱え込むことで、崩れないことを選び続けた星。
「……いらっしゃいませ」
少し遅れて、
それでも変わらない声で迎える。
シズは、
一番奥の席ではなく、
けれど入口からも遠い位置に座った。
逃げられる距離を残した、覚悟の場所。
差し出されたのは、紅茶ではなかった。
黒い、平らな皿。
中央に、薄茶色のアイスが一つ。
その周囲を、
茶色の砂糖が、ぐるりと円を描いている。
――輪。
土星の環。
「……アイス?」
「ええ」
マスターは、説明を足さない。
シズは一瞬、
視線だけで全体を測る。
温度。
量。
溶ける速度。
意味。
「なるほど」
スプーンを入れる前に、
小さく笑った。
「マスターは、なんでもわかってるんだね……」
かすかに、口角が上がる。
「……(ニコッ)」
一口。
舌に触れた瞬間、
甘さが主張しない。
苦みも、前に出ない。
ただ、
包み込む。
逃げ場を作らない味。
「……まろやかだ」
二口目で、
環の砂糖に触れる。
甘さが、少しだけ強くなる。
「……」
シズは、
そこで初めて、スプーンを止めた。
「僕ね」
視線はアイスに落としたまま。
「考えるの、得意なんだ」
断言だった。
「起きる前に、全部仮定して。
失敗も、誤解も、嫌われる理由も」
環をなぞるように、
砂糖を少し崩す。
「だから、耐えられる」
一拍。
「……耐えられてしまう」
マスターは、何も言わない。
「考えを吐き出そうとするとね」
スプーンが止まる。
「……周りが、遠ざかる気がした」
声に、揺れはない。
揺れないように、
何度も構築し直された声。
「だから、言わないほうがいいって結論にした」
「正しい判断ですね」
マスターは、否定しない。
「土星は、
壊れない選択を、選び続ける星です」
「……でしょ?」
シズは、少しだけ満足そうに笑う。
「僕は、賢いから」
自嘲ではない。
誇りでもない。
事実の提示。
「でもさ」
三口目。
アイスの中心に近づく。
「……賢いって、
わかってもらえないと、
ただの壁になるんだね」
そこで、初めて。
ほんの一瞬、
考えが遅れた。
「……あ」
小さく、息が漏れる。
「これ、溶けると」
環の砂糖が、
アイスに混ざっていく。
「……輪が、なくなる」
マスターは、静かに言う。
「環は、
守るためのものです」
「でも」
続ける。
「中心を、
一人にするためのものでもあります」
沈黙。
シズは、
最後の一口を、ゆっくり口に運ぶ。
「……またこようかな」
少しだけ、軽い調子で。
「なんてね。僕の気分次第さ」
立ち上がる。
袖が、
円を描いて揺れる。
扉の前で、
一度だけ振り返る。
「……マスター」
「はい」
「僕の考え、
ここに置いていっても……
壊れない?」
マスターは、答えない。
代わりに、
伏せていたカップの一つを、
静かに起こした。
それだけで、
十分だった。
カラン。
扉が閉まる。
星図の壁に、
太く、遅い線が刻まれる。
十二のどれとも違う位置。
けれど、
中心を囲うような軌道。
完成しない。
外れもしない。
――枠として、そこに在り続ける線。
マスターは、それを見つめて、呟く。
「抱え込める者ほど、
手放し方を、誰にも教わらない」
ランプは、揺れない。
夜は、まだ深い。
そして、
数えられなかった星は――
また一つ、
確かに、ここを覚えた。
- 1.ティータイムの始まり。
- 2.乙女座 やさしく、つよくなれなくて。
- 3.蟹座 甘さの奥で、息を止めてきた
- 4.牡牛座 余裕の仮面と、足りない甘さ
- 5.山羊座 ゆっくりでいいと、知らなかった
- 6.双子座 言葉が二つに割れたまま
- 7.天秤座 言葉を量る、沈黙の重さは。
- 8.獅子座 微笑みの奥で、拳を握るひと
- 9.射手座 遠くを願い、声を置いてきた
- 10.水瓶座 笑っているあいだは、自由でいられた
- 11.牡羊座 引き受ける勇気と、静かな覚悟
- 12.魚座 仮の笑顔と振り返ってしまったこと
- 13.蟹座 信じられなかった手の、ぬくもりを思い出すまで
- 14.宇宙という名の空を結びに。
- 15.蛇遣い座 13番目になれなくて。
- 16.第二期 惑星たちの夜
- 17.金星 一行の本音は、金星に預けて
- 18.土星 抱え込めてしまった者は、零れ方を知らない
- 19.天王星 光を残す星