改めて、彼の姿を見る。
狐のお面は、想像していたよりも小さかった。
子どもの顔に合わせて作られたのか、頬のあたりがわずかに丸く、
白地の上に引かれた赤い模様も、どこか控えめだ。
目の部分は細く切れ上がっているのに、
覗く奥は暗く、感情が読み取れない。
笑っている形のはずなのに、
それが本心なのか、ただの形なのか、判断がつかなかった。
お面の下から覗く顎の線は細く、
首は折れそうなほどに白い。
年は、私と同じくらいか、
それとも、もっと幼いのかもしれない。
髪は黒く、柔らかそうで、
ところどころ無造作に跳ねている。
けれどその乱れ方は、
風に任せたというより、
誰かに触れられるのを拒んだあとのようにも見えた。
服装は、不思議と時代が分からない。
深い紺色の羽織のようなものを着ているが、
丈は少し短く、袖口も簡素で、
祭りの衣装と普段着の中間みたいだった。
足元は草履ではなく、
けれど靴とも違う、
薄い影のような履物。
地面を踏んでいるはずなのに、
重さを感じさせない。
一番、奇妙だったのは―
彼の動きだった。
歩いているのに、
音がしない。
立ち止まっているのに、
完全に[太字][大文字]止まって[/大文字][/太字]はいない。
まるで、
この世界にきちんと焦点が合っていないみたいに、
少しだけ輪郭がずれている。
「そんなに見ると、減るよ」
狐のお面の奥から、声がした。
からかうような調子。
でも、不快ではない。
「…あなたは、本当に人間なの?」
そう尋ねると、
彼は一瞬だけ、黙った。
それから、肩をすくめる。
「さあ」
「少なくとも、ここではね」
その答え方が、
仮面そのものみたいだと思った。
本当のことを言っているようで、
何も明かしていない。
私は、その狐のお面から、
なぜか目を逸らせなかった。
―この子は、
仮面を被っているんじゃない。
仮面と、一体化している。
そんな予感が、
胸の奥で、静かに形を持ち始めていた。
光は、音もなく広がっていった。
割れた鏡の破片一つ一つが、
まるで水面のように揺れ、
部屋の天井も、壁も、境目を失っていく。
足元が、頼りなくなる。
「待って」
思わず声が出た。
何を待ってほしいのかも分からないまま。
狐のお面の少年は、
破片の向こう側で立ち止まり、振り返った。
「怖い?」
その問いは、優しかった。
同時に、逃げ道を塞ぐようでもあった。
「…分からない」
正直に答えてしまったことに、
自分で少し驚く。
狐の少年は、少しだけ首を傾げる。
「じゃあ、大丈夫だよ」
「本当に怖いときは、ちゃんと分かるから」
そう言って、
彼は破片の縁に手をかけた。
その指は白く、
人のものと同じ形をしているのに、
どこか輪郭が曖昧だった。
「こっちはね、鏡の裏側なんだ」
彼が一歩、前に出る。
破片の中から、
狐のお面を被った“全身”が、ゆっくりと現れた。
足が、床に触れる。
音はしなかった。
「鏡の表が、君たちの世界
―裏が、僕らの世界」
「僕ら…?」
問いかけると、
少年は少しだけ、言葉に詰まった。
「仮面を被ったまま、
自分でいるのをやめた人たち」
その言い方が、
あまりにも静かで、
胸の奥に沈んだ。
「帰れなくなった人もいるし、
帰らないことを選んだ人もいる」
狐のお面が、こちらを向く。
「君は、どっちになる?」
答えられなかった。
代わりに、
鏡の破片の一つに映った自分と、
目が合った。
そこにいる私は、
怯えていた。
でも同時に、
どこか期待しているようにも見えた。
―仮面を被りたい。
その感情を認めてしまった瞬間、
床が、消えた。
落ちる、という感覚はなかった。
ただ、世界が裏返る。
次に足が触れたのは、
硬い地面だった。
顔を上げる。
そこは、夜だった。
空は暗いのに、
星は一つもなく、
代わりに無数の灯りが浮かんでいる。
提灯のような、
人魂のような、
名前のつかない光。
その下を歩く人影たちは、
皆、仮面を被っていた。
鬼。
狐。
能面のようなもの。
見たことのない形。
誰一人、
素顔を晒していない。
「ようこそ」
隣で、狐のお面の少年が言った。
「ここが、仮面の世界」
私は、無意識に自分の顔に触れた。
―何も、ない。
それなのに、
胸の奥が、ひどく落ち着いている。
「君には、まだ仮面がないね」
少年は、楽しそうに言った。
「大丈夫。ここでは、
必要になったときに、ちゃんと現れる」
灯りの一つが、
ふっと近づいてきて、
私の足元を照らした。
影が、地面に落ちる。
その影は、
今までより少しだけ、
違う形をしていた。
狐のお面は、想像していたよりも小さかった。
子どもの顔に合わせて作られたのか、頬のあたりがわずかに丸く、
白地の上に引かれた赤い模様も、どこか控えめだ。
目の部分は細く切れ上がっているのに、
覗く奥は暗く、感情が読み取れない。
笑っている形のはずなのに、
それが本心なのか、ただの形なのか、判断がつかなかった。
お面の下から覗く顎の線は細く、
首は折れそうなほどに白い。
年は、私と同じくらいか、
それとも、もっと幼いのかもしれない。
髪は黒く、柔らかそうで、
ところどころ無造作に跳ねている。
けれどその乱れ方は、
風に任せたというより、
誰かに触れられるのを拒んだあとのようにも見えた。
服装は、不思議と時代が分からない。
深い紺色の羽織のようなものを着ているが、
丈は少し短く、袖口も簡素で、
祭りの衣装と普段着の中間みたいだった。
足元は草履ではなく、
けれど靴とも違う、
薄い影のような履物。
地面を踏んでいるはずなのに、
重さを感じさせない。
一番、奇妙だったのは―
彼の動きだった。
歩いているのに、
音がしない。
立ち止まっているのに、
完全に[太字][大文字]止まって[/大文字][/太字]はいない。
まるで、
この世界にきちんと焦点が合っていないみたいに、
少しだけ輪郭がずれている。
「そんなに見ると、減るよ」
狐のお面の奥から、声がした。
からかうような調子。
でも、不快ではない。
「…あなたは、本当に人間なの?」
そう尋ねると、
彼は一瞬だけ、黙った。
それから、肩をすくめる。
「さあ」
「少なくとも、ここではね」
その答え方が、
仮面そのものみたいだと思った。
本当のことを言っているようで、
何も明かしていない。
私は、その狐のお面から、
なぜか目を逸らせなかった。
―この子は、
仮面を被っているんじゃない。
仮面と、一体化している。
そんな予感が、
胸の奥で、静かに形を持ち始めていた。
光は、音もなく広がっていった。
割れた鏡の破片一つ一つが、
まるで水面のように揺れ、
部屋の天井も、壁も、境目を失っていく。
足元が、頼りなくなる。
「待って」
思わず声が出た。
何を待ってほしいのかも分からないまま。
狐のお面の少年は、
破片の向こう側で立ち止まり、振り返った。
「怖い?」
その問いは、優しかった。
同時に、逃げ道を塞ぐようでもあった。
「…分からない」
正直に答えてしまったことに、
自分で少し驚く。
狐の少年は、少しだけ首を傾げる。
「じゃあ、大丈夫だよ」
「本当に怖いときは、ちゃんと分かるから」
そう言って、
彼は破片の縁に手をかけた。
その指は白く、
人のものと同じ形をしているのに、
どこか輪郭が曖昧だった。
「こっちはね、鏡の裏側なんだ」
彼が一歩、前に出る。
破片の中から、
狐のお面を被った“全身”が、ゆっくりと現れた。
足が、床に触れる。
音はしなかった。
「鏡の表が、君たちの世界
―裏が、僕らの世界」
「僕ら…?」
問いかけると、
少年は少しだけ、言葉に詰まった。
「仮面を被ったまま、
自分でいるのをやめた人たち」
その言い方が、
あまりにも静かで、
胸の奥に沈んだ。
「帰れなくなった人もいるし、
帰らないことを選んだ人もいる」
狐のお面が、こちらを向く。
「君は、どっちになる?」
答えられなかった。
代わりに、
鏡の破片の一つに映った自分と、
目が合った。
そこにいる私は、
怯えていた。
でも同時に、
どこか期待しているようにも見えた。
―仮面を被りたい。
その感情を認めてしまった瞬間、
床が、消えた。
落ちる、という感覚はなかった。
ただ、世界が裏返る。
次に足が触れたのは、
硬い地面だった。
顔を上げる。
そこは、夜だった。
空は暗いのに、
星は一つもなく、
代わりに無数の灯りが浮かんでいる。
提灯のような、
人魂のような、
名前のつかない光。
その下を歩く人影たちは、
皆、仮面を被っていた。
鬼。
狐。
能面のようなもの。
見たことのない形。
誰一人、
素顔を晒していない。
「ようこそ」
隣で、狐のお面の少年が言った。
「ここが、仮面の世界」
私は、無意識に自分の顔に触れた。
―何も、ない。
それなのに、
胸の奥が、ひどく落ち着いている。
「君には、まだ仮面がないね」
少年は、楽しそうに言った。
「大丈夫。ここでは、
必要になったときに、ちゃんと現れる」
灯りの一つが、
ふっと近づいてきて、
私の足元を照らした。
影が、地面に落ちる。
その影は、
今までより少しだけ、
違う形をしていた。