夜の街は、ひどく静かだった。
静かすぎて、
自分の足音が、
誰かに見られている気がする。
「…」
蟹留星機は、
ぼだぼだの黒いパーカーの袖を、
無意識に引き下げた。
フードはかぶっていない。
かぶると、
周りが見えなくなるから。
見えないのは、
怖い。
「…ふう」
小さく息を吐く。
それだけで、
胸の奥が少し苦しくなる。
人混みは避けた。
大通りも避けた。
気づいたら、
一本裏道に入り込んでいた。
…知らない道。
でも、
不思議と足は止まらなかった。
淡く揺れる、
星みたいなランプが見えたからだ。
「…喫茶店?」
看板はない。
説明もない。
なのに―
ここなら、
入ってもいい気がした。
カラン。
鈴の音が鳴る。
肩がびくっと跳ねる。
反射的に、
出口の位置を確認する。
…大丈夫。
誰も、こちらを見ていない。
店内は、
あたたかかった。
夜の冷たさが、
ゆっくり溶けていく。
壁には星図。
時計はあるのに、
時間が曖昧だ。
「こんにちは。いらっしゃいませ」
カウンターの向こうのマスターは、
年齢も感情も、
読み取れない。
星機は、
少し迷ってから、
口を開いた。
「…僕は、蟹留星機です」
声が、思ったより小さい。
「蟹座…
…です」
マスターは、
静かに頷いた。
それだけで、
胸の奥に張りついていた緊張が、
少し剥がれた。
差し出された紅茶は、
淡い色をしていた。
甘い香り。
でも、
どこか慎重な匂い。
一口飲む。
…あったかい。
「…」
言葉が、出ない。
星機は、
カップを両手で包み込んだ。
逃げ場を作るみたいに。
「…君達が、他の星座か」
ぽつりと、独り言みたいに言う。
マスターは何も答えない。
ただ、
湯の温度を保っている。
「…僕さ」
星機は、
視線を落としたまま続けた。
「人、信じられないんだ」
紅茶の表面が、わずかに揺れる。
「小学校のとき…毎日、からかわれてさ
笑ってるフリしても、逃げても、無視しても…全部、だめで」
喉が、
少し詰まる。
「だから、思ったんだ
人を信じなければ、裏切られないって」
それは、弱気な結論だった。
でも、生きるための答えだった。
「…臆病でしょ」
自嘲気味に笑う。
マスターは、
静かに言った。
「蟹座は、本来―
[太字][大文字][明朝体][斜体]守るために、殻を持つ星です[/斜体][/明朝体][/大文字][/太字]」
星機は、
わずかに顔を上げる。
「…殻?」
「ええ」
「それは、弱さではありません
一度、深く傷ついた者だけが、選ぶ方法です」
星機の指が、カップの縁をなぞる。
「…じゃあ
僕が、人を遠ざけてきたのも……」
「生き延びるため、です」
短く、
はっきりと。
胸の奥で、
何かがほどける音がした。
「…でも」
星機は、少しだけ眉を下げる。
「寂しくなるときも、あるんだ」
「誰かの手、思い出しちゃうと……」
小学校の、
あの日より前。
まだ、
世界が怖くなかった頃。
「…触れても、いいのかなって」
マスターは、カップを温め直す。
「殻は、
閉じたままでも、役に立ちます」
一拍。
「ですが
開けられることを、知っている殻は―
それだけで、もう強い」
星機は、
しばらく黙っていた。
それから、
紅茶を飲み干す。
「…また、来てもいいですか」
声は小さい。
でも、
逃げていない。
「ええ」
マスターは頷いた。
「扉は、あなたを覚えています」
カラン。
扉が閉まる。
星図の壁に、
柔らかく、
包み込むような線が一本、
刻まれた。
他の星と、
少し距離を保ちながら。
でも、
確かにつながる位置。
マスターは、
それを見つめて呟く。
「信じられなかった者ほど、
信じることの重さを、知っています」
ランプの光が、
静かに揺れた。
夜は、まだ深い。
だがその奥で、
殻の内側から、
小さな光が、確かに灯り始めていた。
静かすぎて、
自分の足音が、
誰かに見られている気がする。
「…」
蟹留星機は、
ぼだぼだの黒いパーカーの袖を、
無意識に引き下げた。
フードはかぶっていない。
かぶると、
周りが見えなくなるから。
見えないのは、
怖い。
「…ふう」
小さく息を吐く。
それだけで、
胸の奥が少し苦しくなる。
人混みは避けた。
大通りも避けた。
気づいたら、
一本裏道に入り込んでいた。
…知らない道。
でも、
不思議と足は止まらなかった。
淡く揺れる、
星みたいなランプが見えたからだ。
「…喫茶店?」
看板はない。
説明もない。
なのに―
ここなら、
入ってもいい気がした。
カラン。
鈴の音が鳴る。
肩がびくっと跳ねる。
反射的に、
出口の位置を確認する。
…大丈夫。
誰も、こちらを見ていない。
店内は、
あたたかかった。
夜の冷たさが、
ゆっくり溶けていく。
壁には星図。
時計はあるのに、
時間が曖昧だ。
「こんにちは。いらっしゃいませ」
カウンターの向こうのマスターは、
年齢も感情も、
読み取れない。
星機は、
少し迷ってから、
口を開いた。
「…僕は、蟹留星機です」
声が、思ったより小さい。
「蟹座…
…です」
マスターは、
静かに頷いた。
それだけで、
胸の奥に張りついていた緊張が、
少し剥がれた。
差し出された紅茶は、
淡い色をしていた。
甘い香り。
でも、
どこか慎重な匂い。
一口飲む。
…あったかい。
「…」
言葉が、出ない。
星機は、
カップを両手で包み込んだ。
逃げ場を作るみたいに。
「…君達が、他の星座か」
ぽつりと、独り言みたいに言う。
マスターは何も答えない。
ただ、
湯の温度を保っている。
「…僕さ」
星機は、
視線を落としたまま続けた。
「人、信じられないんだ」
紅茶の表面が、わずかに揺れる。
「小学校のとき…毎日、からかわれてさ
笑ってるフリしても、逃げても、無視しても…全部、だめで」
喉が、
少し詰まる。
「だから、思ったんだ
人を信じなければ、裏切られないって」
それは、弱気な結論だった。
でも、生きるための答えだった。
「…臆病でしょ」
自嘲気味に笑う。
マスターは、
静かに言った。
「蟹座は、本来―
[太字][大文字][明朝体][斜体]守るために、殻を持つ星です[/斜体][/明朝体][/大文字][/太字]」
星機は、
わずかに顔を上げる。
「…殻?」
「ええ」
「それは、弱さではありません
一度、深く傷ついた者だけが、選ぶ方法です」
星機の指が、カップの縁をなぞる。
「…じゃあ
僕が、人を遠ざけてきたのも……」
「生き延びるため、です」
短く、
はっきりと。
胸の奥で、
何かがほどける音がした。
「…でも」
星機は、少しだけ眉を下げる。
「寂しくなるときも、あるんだ」
「誰かの手、思い出しちゃうと……」
小学校の、
あの日より前。
まだ、
世界が怖くなかった頃。
「…触れても、いいのかなって」
マスターは、カップを温め直す。
「殻は、
閉じたままでも、役に立ちます」
一拍。
「ですが
開けられることを、知っている殻は―
それだけで、もう強い」
星機は、
しばらく黙っていた。
それから、
紅茶を飲み干す。
「…また、来てもいいですか」
声は小さい。
でも、
逃げていない。
「ええ」
マスターは頷いた。
「扉は、あなたを覚えています」
カラン。
扉が閉まる。
星図の壁に、
柔らかく、
包み込むような線が一本、
刻まれた。
他の星と、
少し距離を保ちながら。
でも、
確かにつながる位置。
マスターは、
それを見つめて呟く。
「信じられなかった者ほど、
信じることの重さを、知っています」
ランプの光が、
静かに揺れた。
夜は、まだ深い。
だがその奥で、
殻の内側から、
小さな光が、確かに灯り始めていた。
- 1.ティータイムの始まり。
- 2.乙女座 やさしく、つよくなれなくて。
- 3.蟹座 甘さの奥で、息を止めてきた
- 4.牡牛座 余裕の仮面と、足りない甘さ
- 5.山羊座 ゆっくりでいいと、知らなかった
- 6.双子座 言葉が二つに割れたまま
- 7.天秤座 言葉を量る、沈黙の重さは。
- 8.獅子座 微笑みの奥で、拳を握るひと
- 9.射手座 遠くを願い、声を置いてきた
- 10.水瓶座 笑っているあいだは、自由でいられた
- 11.牡羊座 引き受ける勇気と、静かな覚悟
- 12.魚座 仮の笑顔と振り返ってしまったこと
- 13.蟹座 信じられなかった手の、ぬくもりを思い出すまで
- 14.宇宙という名の空を結びに。
- 15.蛇遣い座 13番目になれなくて。
- 16.第二期 惑星たちの夜
- 17.金星 一行の本音は、金星に預けて
- 18.土星 抱え込めてしまった者は、零れ方を知らない
- 19.天王星 光を残す星