消えたムヒの謎
ムヒが消えた。
それだけなら、別に事件ではない。
蚊に刺されたから塗った。どこかに置いた。見つからない。
たぶん、それだけのことだ。
ただし――そのムヒが、冷蔵庫の中にあったとなると話は少し変わってくる。
八月の金曜日、午後九時。
僕は台所の冷蔵庫を開けて、麦茶を取り出した。
そして、二段目の棚に見慣れないものを見つけた。
「……ムヒ?」
白と青の小さな容器。
紛れもなく、我が家のムヒだった。
僕は眉をひそめた。
ムヒが冷蔵庫に入っている。
どう考えてもおかしい。
そもそも、僕は今夜、蚊に刺された。
帰宅してすぐ、玄関の棚に置いてあったムヒを手に取り、左足首に塗った。
その後、シャワーを浴びた。
夕食を作った。
洗い物をした。
そして今、冷蔵庫から麦茶を出した。
つまり――
「……いつの間に?」
僕はムヒを冷蔵庫から取り出した。
冷たい。
当然だ。
冷蔵庫に入っていたのだから。
だが、奇妙なのはそこではなかった。
容器のキャップが、半開きになっていた。
しかも、口の部分に白い跡がついている。
「誰か使った?」
僕は独り言を言った。
この部屋に住んでいるのは僕一人だ。
もちろん、他に使う人はいない。
なのに、ムヒは冷蔵庫にいる。
しかも、使った形跡まである。
まるで――
誰かが、僕の知らないところでムヒを使って、冷やしておいたみたいに。
その瞬間、背後で物音がした。
カタン。
僕は振り返った。
もちろん、誰もいない。
窓も閉まっている。
エアコンの風で何かが揺れたのだろう。
そう思いかけて、僕は床を見た。
そこに、小さな茶色い点があった。
「……?」
近づいてみる。
蚊だった。
潰れている。
僕はしゃがみ込んだ。
そして、妙なことに気づいた。
蚊の死骸のすぐそばに、青い小さな跡がついている。
ムヒの色だ。
「……なんだこれ」
僕は立ち上がった。
頭の中で、今日の出来事を順番に並べてみる。
帰宅。
玄関。
ムヒ。
左足首。
シャワー。
夕食。
洗い物。
冷蔵庫。
ムヒ。
そこまで考えて、ふと気づいた。
ムヒを塗ったあと、僕は何をした?
シャワーを浴びた。
そのとき、脱衣所のゴミ箱に、何かを捨てた。
……いや。
何かを捨てた?
僕は脱衣所へ走った。
ゴミ箱を覗く。
ティッシュが数枚。
レシート。
空になった歯磨き粉の箱。
そして――
「……あった」
ティッシュの間に、蚊の死骸が一匹。
僕はそれを見て、ようやく思い出した。
シャワーを浴びる前。
左足首が痒かった。
だからムヒを塗った。
その直後、足元を飛んでいた蚊を見つけた。
僕は反射的に手で叩いた。
そして、潰れた蚊をティッシュでつまんでゴミ箱へ捨てた。
そこまではいい。
問題は、その後だった。
シャワーから出た僕は、冷蔵庫を開けてビールを取ろうとした。
そのとき、手に持っていたムヒを――
たぶん、冷蔵庫の中に入れた。
「…………」
自分でも信じられなかった。
なぜそんなことをしたのか。
だが、さらに考えると、理由はわかった。
僕はその日、暑さでかなりぼんやりしていた。
冷たいビールを取る。
手にムヒ。
冷蔵庫を開ける。
無意識にムヒまで一緒に入れる。
そして、そのことを完全に忘れる。
ただ、それだけ。
では、なぜキャップが半開きなのか。
僕はムヒを眺めた。
しばらく考えて――気づいた。
僕は帰宅直後、蚊に刺された足にムヒを塗った。
そのあと蚊を叩いた。
手にはムヒがついていた。
ティッシュで蚊をつまんだ。
ゴミ箱へ捨てた。
その手で冷蔵庫を開けて、ムヒをしまった。
つまり。
ムヒのキャップを閉めたつもりで、ちゃんと閉めていなかった。
そして僕は、冷蔵庫から麦茶を取り出した。
そのとき、棚の奥にあるムヒを見つけた。
ただ、それだけだった。
「……しょうもな」
僕は笑った。
しかし、そのとき。
冷蔵庫の奥から、また小さな音がした。
カタン。
「?」
見る。
何もない。
僕はしばらく黙って冷蔵庫を見つめた。
そして、ゆっくりと二段目の棚を引き出した。
奥から出てきたのは――
もう一本のムヒだった。
「…………」
僕は固まった。
白と青の容器。
こちらも見慣れた我が家のムヒ。
ただし。
僕がさっき見つけたムヒとは違う。
ラベルの端に、黒い油性ペンで小さく文字が書いてある。
――「予備」。
僕は思い出した。
先月、母が遊びに来たときに置いていったものだ。
「……そうだった」
僕は額を押さえた。
どうやら我が家には、最初からムヒが二本あったらしい。
一週間ほど前、僕は「ムヒがない」と思って、新しいものを買ってきた。
だが、そのとき古い一本を見つけて、
「まあ、予備にしよう」
と冷蔵庫の横の棚に置いた――
……ところまでは思い出せた。
そして今日。
僕はその「新しい一本」を使った。
使い終わったあと、冷蔵庫に入れた。
つまり。
消えたと思っていたムヒは、消えてなどいなかった。
僕が二本のムヒを完全に混同していただけだ。
「謎、解決……」
そう呟いて、僕は二本のムヒを並べた。
一本は新品同様。
もう一本は、今日使ったので少し減っている。
僕は二本を見比べた。
そして、あることに気づいた。
新品のほうの底に、小さなシールが貼ってある。
そこには僕の字で、
「冷蔵庫に入れない」
と書いてあった。
「…………」
僕は天井を見上げた。
どうやらこの家で一番解けない謎は、
僕がなぜ自分で注意書きを書いたのに、それを無視したのか
ということらしい。
窓の外では、まだ蝉が鳴いていた。
八月の夜は暑い。
僕は冷蔵庫を閉めた。
そして二本のムヒを、今度こそ玄関の棚に置いた。
――翌朝。
僕は玄関で靴を履きながら、何気なく棚を見た。
ムヒは二本とも、ちゃんとそこにあった。
僕は安心して家を出た。
その三時間後。
職場の冷蔵庫を開けた僕は、そこに見覚えのある白と青の容器を発見した。
「…………」
僕はしばらく黙っていた。
そして、ラベルを確認した。
僕のムヒだった。
どうやら謎は、まだ終わっていなかった。
それだけなら、別に事件ではない。
蚊に刺されたから塗った。どこかに置いた。見つからない。
たぶん、それだけのことだ。
ただし――そのムヒが、冷蔵庫の中にあったとなると話は少し変わってくる。
八月の金曜日、午後九時。
僕は台所の冷蔵庫を開けて、麦茶を取り出した。
そして、二段目の棚に見慣れないものを見つけた。
「……ムヒ?」
白と青の小さな容器。
紛れもなく、我が家のムヒだった。
僕は眉をひそめた。
ムヒが冷蔵庫に入っている。
どう考えてもおかしい。
そもそも、僕は今夜、蚊に刺された。
帰宅してすぐ、玄関の棚に置いてあったムヒを手に取り、左足首に塗った。
その後、シャワーを浴びた。
夕食を作った。
洗い物をした。
そして今、冷蔵庫から麦茶を出した。
つまり――
「……いつの間に?」
僕はムヒを冷蔵庫から取り出した。
冷たい。
当然だ。
冷蔵庫に入っていたのだから。
だが、奇妙なのはそこではなかった。
容器のキャップが、半開きになっていた。
しかも、口の部分に白い跡がついている。
「誰か使った?」
僕は独り言を言った。
この部屋に住んでいるのは僕一人だ。
もちろん、他に使う人はいない。
なのに、ムヒは冷蔵庫にいる。
しかも、使った形跡まである。
まるで――
誰かが、僕の知らないところでムヒを使って、冷やしておいたみたいに。
その瞬間、背後で物音がした。
カタン。
僕は振り返った。
もちろん、誰もいない。
窓も閉まっている。
エアコンの風で何かが揺れたのだろう。
そう思いかけて、僕は床を見た。
そこに、小さな茶色い点があった。
「……?」
近づいてみる。
蚊だった。
潰れている。
僕はしゃがみ込んだ。
そして、妙なことに気づいた。
蚊の死骸のすぐそばに、青い小さな跡がついている。
ムヒの色だ。
「……なんだこれ」
僕は立ち上がった。
頭の中で、今日の出来事を順番に並べてみる。
帰宅。
玄関。
ムヒ。
左足首。
シャワー。
夕食。
洗い物。
冷蔵庫。
ムヒ。
そこまで考えて、ふと気づいた。
ムヒを塗ったあと、僕は何をした?
シャワーを浴びた。
そのとき、脱衣所のゴミ箱に、何かを捨てた。
……いや。
何かを捨てた?
僕は脱衣所へ走った。
ゴミ箱を覗く。
ティッシュが数枚。
レシート。
空になった歯磨き粉の箱。
そして――
「……あった」
ティッシュの間に、蚊の死骸が一匹。
僕はそれを見て、ようやく思い出した。
シャワーを浴びる前。
左足首が痒かった。
だからムヒを塗った。
その直後、足元を飛んでいた蚊を見つけた。
僕は反射的に手で叩いた。
そして、潰れた蚊をティッシュでつまんでゴミ箱へ捨てた。
そこまではいい。
問題は、その後だった。
シャワーから出た僕は、冷蔵庫を開けてビールを取ろうとした。
そのとき、手に持っていたムヒを――
たぶん、冷蔵庫の中に入れた。
「…………」
自分でも信じられなかった。
なぜそんなことをしたのか。
だが、さらに考えると、理由はわかった。
僕はその日、暑さでかなりぼんやりしていた。
冷たいビールを取る。
手にムヒ。
冷蔵庫を開ける。
無意識にムヒまで一緒に入れる。
そして、そのことを完全に忘れる。
ただ、それだけ。
では、なぜキャップが半開きなのか。
僕はムヒを眺めた。
しばらく考えて――気づいた。
僕は帰宅直後、蚊に刺された足にムヒを塗った。
そのあと蚊を叩いた。
手にはムヒがついていた。
ティッシュで蚊をつまんだ。
ゴミ箱へ捨てた。
その手で冷蔵庫を開けて、ムヒをしまった。
つまり。
ムヒのキャップを閉めたつもりで、ちゃんと閉めていなかった。
そして僕は、冷蔵庫から麦茶を取り出した。
そのとき、棚の奥にあるムヒを見つけた。
ただ、それだけだった。
「……しょうもな」
僕は笑った。
しかし、そのとき。
冷蔵庫の奥から、また小さな音がした。
カタン。
「?」
見る。
何もない。
僕はしばらく黙って冷蔵庫を見つめた。
そして、ゆっくりと二段目の棚を引き出した。
奥から出てきたのは――
もう一本のムヒだった。
「…………」
僕は固まった。
白と青の容器。
こちらも見慣れた我が家のムヒ。
ただし。
僕がさっき見つけたムヒとは違う。
ラベルの端に、黒い油性ペンで小さく文字が書いてある。
――「予備」。
僕は思い出した。
先月、母が遊びに来たときに置いていったものだ。
「……そうだった」
僕は額を押さえた。
どうやら我が家には、最初からムヒが二本あったらしい。
一週間ほど前、僕は「ムヒがない」と思って、新しいものを買ってきた。
だが、そのとき古い一本を見つけて、
「まあ、予備にしよう」
と冷蔵庫の横の棚に置いた――
……ところまでは思い出せた。
そして今日。
僕はその「新しい一本」を使った。
使い終わったあと、冷蔵庫に入れた。
つまり。
消えたと思っていたムヒは、消えてなどいなかった。
僕が二本のムヒを完全に混同していただけだ。
「謎、解決……」
そう呟いて、僕は二本のムヒを並べた。
一本は新品同様。
もう一本は、今日使ったので少し減っている。
僕は二本を見比べた。
そして、あることに気づいた。
新品のほうの底に、小さなシールが貼ってある。
そこには僕の字で、
「冷蔵庫に入れない」
と書いてあった。
「…………」
僕は天井を見上げた。
どうやらこの家で一番解けない謎は、
僕がなぜ自分で注意書きを書いたのに、それを無視したのか
ということらしい。
窓の外では、まだ蝉が鳴いていた。
八月の夜は暑い。
僕は冷蔵庫を閉めた。
そして二本のムヒを、今度こそ玄関の棚に置いた。
――翌朝。
僕は玄関で靴を履きながら、何気なく棚を見た。
ムヒは二本とも、ちゃんとそこにあった。
僕は安心して家を出た。
その三時間後。
職場の冷蔵庫を開けた僕は、そこに見覚えのある白と青の容器を発見した。
「…………」
僕はしばらく黙っていた。
そして、ラベルを確認した。
僕のムヒだった。
どうやら謎は、まだ終わっていなかった。
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