ナツの終わり
甲子園から帰ってきた翌朝、学校は妙に静かだった。
昨日までなら、校門をくぐるだけで誰かが声をかけてきた。
「おかえり」
「準優勝、おめでとう」
「感動したよ」
そんな言葉が飛び交って、そのたびに僕らは頭を下げた。
けれど今日は、蝉の声しか聞こえなかった。
八月二十六日。
夏休みの終わりが近づいていた。
僕は誰もいない教室の窓を開けた。
熱気が、どっと入り込んでくる。
机の上には、昨日までの新聞が何部も置かれていた。
『悲願の初優勝ならず』
『堂々の準優勝』
『あと一歩届かず』
どの記事にも、僕らの学校の名前が載っている。
写真の中で、僕は泣いていた。
九回裏。
あと一球で試合が終わるというところで、僕はベンチから立ち上がれなかった。
最後の打球が外野手のグラブに収まった瞬間、甲子園の空がやけに青かった。
そして、相手チームの選手たちが一斉に駆け出した。
笑っていた。
泣きながら抱き合っていた。
帽子を放り投げていた。
その光景が、今でも頭から離れない。
僕らの目の前で、彼らの夏が完成した。
僕らの夏は、そこで終わった。
「準優勝」
テレビのアナウンサーは、何度もそう言った。
全国で二番目。
十分すごい。
学校に戻れば、みんながそう言ってくれる。
先生も。
後輩も。
家族も。
知らない人まで。
でも。
僕は新聞を握りつぶした。
「……違うだろ」
誰もいない教室で、声が漏れた。
「二番じゃない」
僕らは一番じゃなかった。
ただ、それだけだった。
あの日の甲子園には、一番になるために行った。
「準優勝するぞ」なんて言って、誰も練習していなかった。
朝早くからバットを振ったのも。
泥だらけになったのも。
何度も吐きそうになりながら走ったのも。
全部、一番になるためだった。
だから、準優勝という言葉を聞くたびに胸が痛くなる。
褒められるほど、苦しくなる。
「すごかったよ」と言われるたびに、
――でも、負けた。
そう思ってしまう。
廊下から足音が聞こえた。
「やっぱりいた」
振り返ると、野球部のマネージャーだった。
手には段ボール箱を抱えている。
「何してんの」
「新聞読んでた」
「暇だね」
「お前もだろ」
「私は仕事」
彼女は箱を机に置いた。
中には、甲子園で使った応援グッズや、寄せ書きのうちわ、学校名の入ったタオルなんかが詰め込まれていた。
「片付け?」
「うん。夏のもの、全部しまわないと」
夏のもの。
その言葉が妙に胸に刺さった。
「……もう終わりなんだな」
「うん」
「まだ昨日なのに」
「昨日だからじゃない?」
僕は何も言えなかった。
昨日のことなのに、もう過去になっている。
甲子園も。
応援も。
あの九回も。
全部。
「なあ」
「ん?」
「優勝したかったな」
「うん」
「……悔しい」
「うん」
「めちゃくちゃ悔しい」
「知ってる」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
僕も黙った。
しばらくして、彼女が一枚の写真を取り出した。
甲子園のアルプススタンド。
青いタオルが一面に広がっている。
「これ、決勝の日」
「撮ったの?」
「うん」
写真の中では、みんな笑っていた。
僕らの学校の名前を叫んでいる。
選手の家族も。
卒業生も。
近所の人も。
名前も知らない小学生まで。
「すごいな」
僕は呟いた。
「うん」
「こんなに来てくれてたんだ」
「知らなかった?」
「試合中は見る余裕なかった」
僕は写真を見つめた。
あの声援を思い出した。
打席に入ったとき。
守備についたとき。
最後の九回。
僕らの名前を呼ぶ声が、甲子園中に響いていた。
なのに。
最後に聞こえたのは、相手校の歓声だった。
「……あいつら」
「ん?」
「今頃、何してんのかな」
「優勝した学校?」
「ああ」
僕は窓の外を見た。
「まだ喜んでるのかな」
「たぶんね」
「いいよな」
自分でも驚くほど、声が低くなった。
「優勝したんだから」
羨ましかった。
悔しかった。
素直に「おめでとう」と言えない自分が嫌になるくらい、悔しかった。
僕らが欲しかったものを、あいつらは持っている。
僕らが何年も夢見てきたものを、あいつらは昨日、手に入れた。
今日から彼らは「甲子園優勝校」だ。
僕らは「準優勝校」。
たった一文字の違い。
でも、その一文字が、どうしようもなく遠い。
「俺さ」
口に出すと、涙が出そうになった。
「最後の打球、もう百回くらい思い出してる」
「……うん」
「もし、あと十センチ左だったらとか」
「うん」
「もし、あの回に一本打ててたらとか」
「うん」
「もし、俺があのボールをもっとちゃんと捕れてたらとか」
止まらなくなった。
「考えても意味ないのに」
僕は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「ずっと考えてる」
彼女は何も言わなかった。
ただ、隣に立っていた。
「夢だったんだよ」
僕は言った。
「甲子園で勝つことが」
「うん」
「一回でいいから、優勝って言われたかった」
声が震えた。
「……俺たち、あんなにやったのにな」
その瞬間、涙が落ちた。
悔しかった。
努力が足りなかったなんて思いたくない。
誰より練習した。
誰より走った。
誰より勝ちたかった。
それでも負けた。
それが、一番悔しかった。
努力した分だけ勝てるなら、こんなに苦しくない。
頑張った分だけ報われるなら、誰も泣かない。
でも、野球はそうじゃなかった。
たった一試合。
たった一球。
それだけで、三年間が終わる。
彼女が小さく息を吐いた。
「私ね」
「……ん?」
「試合が終わったとき、悔しくて泣いた」
「うん」
「でも、今はそれより、あんたたちが悔しがってるのを見るほうがつらい」
「なんで」
「だって、まだ終わってないから」
僕は顔を上げた。
「何が?」
「悔しいって思えるなら、まだ終わってないでしょ」
その言葉が、胸の奥に残った。
窓の外で蝉が鳴いている。
夏はまだ暑い。
甲子園から帰ってきたばかりなのだから、当たり前だ。
なのに、僕にはもう秋が近づいているように感じた。
「来年も甲子園、行けるかな」
僕が言うと、
「知らない」
彼女は即答した。
「おい」
「でも」
彼女は少し笑った。
「行けたらいいね」
「……うん」
僕は机の上の新聞を見た。
そこには、大きな見出しで「準優勝」と書かれている。
もう一度、それを見た。
やっぱり悔しい。
悔しくて、悔しくて、どうしようもない。
たぶん、何年経っても忘れない。
あの日、甲子園の空が青かったこと。
最後の打球がグラブに入った瞬間。
相手チームが喜んでいたこと。
僕らが泣いたこと。
そして、「準優勝」と呼ばれたこと。
忘れたくない。
この悔しさだけは。
忘れてしまったら、本当に僕らの夏が終わってしまう気がした。
僕は新聞をたたんだ。
「帰るか」
「うん」
教室を出る前に、黒板を見た。
そこには誰かが書いたままの文字が残っていた。
『甲子園、ありがとう』
僕はチョークを手に取った。
その下に、小さく書き足した。
『悔しい』
一瞬、迷った。
けれど、その隣にもう一つ書いた。
『だから、また行く』
教室を出る。
校門までの道を歩く。
蝉の声が、少しずつ遠くなっていく。
空はまだ青い。
あの日の甲子園と同じくらい、青い。
僕は空を見上げた。
負けた。
悔しい。
まだ、全然受け入れられない。
準優勝なんて、今はどうでもいい。
欲しかったのは一番だった。
その気持ちは、きっとしばらく消えない。
それでいいと思った。
悔しさを無理に思い出にしなくていい。
今はまだ、傷のままでいい。
だって、あの夏を本気で生きた証拠だから。
校門の向こうで、風が吹いた。
蝉の声に混じって、どこかから自転車のベルが聞こえた。
夏が終わっていく。
僕らの夏が。
けれど、最後の一球を悔やむ気持ちまで、終わらせるつもりはなかった。
いつかまた、あの場所へ行く。
今度こそ、一番になるために。
そう思いながら、僕は歩いた。
涙の跡が残った顔のまま。
まだ、悔しさを抱えたまま。
――ナツの終わりは、きっとここから始まる。
昨日までなら、校門をくぐるだけで誰かが声をかけてきた。
「おかえり」
「準優勝、おめでとう」
「感動したよ」
そんな言葉が飛び交って、そのたびに僕らは頭を下げた。
けれど今日は、蝉の声しか聞こえなかった。
八月二十六日。
夏休みの終わりが近づいていた。
僕は誰もいない教室の窓を開けた。
熱気が、どっと入り込んでくる。
机の上には、昨日までの新聞が何部も置かれていた。
『悲願の初優勝ならず』
『堂々の準優勝』
『あと一歩届かず』
どの記事にも、僕らの学校の名前が載っている。
写真の中で、僕は泣いていた。
九回裏。
あと一球で試合が終わるというところで、僕はベンチから立ち上がれなかった。
最後の打球が外野手のグラブに収まった瞬間、甲子園の空がやけに青かった。
そして、相手チームの選手たちが一斉に駆け出した。
笑っていた。
泣きながら抱き合っていた。
帽子を放り投げていた。
その光景が、今でも頭から離れない。
僕らの目の前で、彼らの夏が完成した。
僕らの夏は、そこで終わった。
「準優勝」
テレビのアナウンサーは、何度もそう言った。
全国で二番目。
十分すごい。
学校に戻れば、みんながそう言ってくれる。
先生も。
後輩も。
家族も。
知らない人まで。
でも。
僕は新聞を握りつぶした。
「……違うだろ」
誰もいない教室で、声が漏れた。
「二番じゃない」
僕らは一番じゃなかった。
ただ、それだけだった。
あの日の甲子園には、一番になるために行った。
「準優勝するぞ」なんて言って、誰も練習していなかった。
朝早くからバットを振ったのも。
泥だらけになったのも。
何度も吐きそうになりながら走ったのも。
全部、一番になるためだった。
だから、準優勝という言葉を聞くたびに胸が痛くなる。
褒められるほど、苦しくなる。
「すごかったよ」と言われるたびに、
――でも、負けた。
そう思ってしまう。
廊下から足音が聞こえた。
「やっぱりいた」
振り返ると、野球部のマネージャーだった。
手には段ボール箱を抱えている。
「何してんの」
「新聞読んでた」
「暇だね」
「お前もだろ」
「私は仕事」
彼女は箱を机に置いた。
中には、甲子園で使った応援グッズや、寄せ書きのうちわ、学校名の入ったタオルなんかが詰め込まれていた。
「片付け?」
「うん。夏のもの、全部しまわないと」
夏のもの。
その言葉が妙に胸に刺さった。
「……もう終わりなんだな」
「うん」
「まだ昨日なのに」
「昨日だからじゃない?」
僕は何も言えなかった。
昨日のことなのに、もう過去になっている。
甲子園も。
応援も。
あの九回も。
全部。
「なあ」
「ん?」
「優勝したかったな」
「うん」
「……悔しい」
「うん」
「めちゃくちゃ悔しい」
「知ってる」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
僕も黙った。
しばらくして、彼女が一枚の写真を取り出した。
甲子園のアルプススタンド。
青いタオルが一面に広がっている。
「これ、決勝の日」
「撮ったの?」
「うん」
写真の中では、みんな笑っていた。
僕らの学校の名前を叫んでいる。
選手の家族も。
卒業生も。
近所の人も。
名前も知らない小学生まで。
「すごいな」
僕は呟いた。
「うん」
「こんなに来てくれてたんだ」
「知らなかった?」
「試合中は見る余裕なかった」
僕は写真を見つめた。
あの声援を思い出した。
打席に入ったとき。
守備についたとき。
最後の九回。
僕らの名前を呼ぶ声が、甲子園中に響いていた。
なのに。
最後に聞こえたのは、相手校の歓声だった。
「……あいつら」
「ん?」
「今頃、何してんのかな」
「優勝した学校?」
「ああ」
僕は窓の外を見た。
「まだ喜んでるのかな」
「たぶんね」
「いいよな」
自分でも驚くほど、声が低くなった。
「優勝したんだから」
羨ましかった。
悔しかった。
素直に「おめでとう」と言えない自分が嫌になるくらい、悔しかった。
僕らが欲しかったものを、あいつらは持っている。
僕らが何年も夢見てきたものを、あいつらは昨日、手に入れた。
今日から彼らは「甲子園優勝校」だ。
僕らは「準優勝校」。
たった一文字の違い。
でも、その一文字が、どうしようもなく遠い。
「俺さ」
口に出すと、涙が出そうになった。
「最後の打球、もう百回くらい思い出してる」
「……うん」
「もし、あと十センチ左だったらとか」
「うん」
「もし、あの回に一本打ててたらとか」
「うん」
「もし、俺があのボールをもっとちゃんと捕れてたらとか」
止まらなくなった。
「考えても意味ないのに」
僕は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「ずっと考えてる」
彼女は何も言わなかった。
ただ、隣に立っていた。
「夢だったんだよ」
僕は言った。
「甲子園で勝つことが」
「うん」
「一回でいいから、優勝って言われたかった」
声が震えた。
「……俺たち、あんなにやったのにな」
その瞬間、涙が落ちた。
悔しかった。
努力が足りなかったなんて思いたくない。
誰より練習した。
誰より走った。
誰より勝ちたかった。
それでも負けた。
それが、一番悔しかった。
努力した分だけ勝てるなら、こんなに苦しくない。
頑張った分だけ報われるなら、誰も泣かない。
でも、野球はそうじゃなかった。
たった一試合。
たった一球。
それだけで、三年間が終わる。
彼女が小さく息を吐いた。
「私ね」
「……ん?」
「試合が終わったとき、悔しくて泣いた」
「うん」
「でも、今はそれより、あんたたちが悔しがってるのを見るほうがつらい」
「なんで」
「だって、まだ終わってないから」
僕は顔を上げた。
「何が?」
「悔しいって思えるなら、まだ終わってないでしょ」
その言葉が、胸の奥に残った。
窓の外で蝉が鳴いている。
夏はまだ暑い。
甲子園から帰ってきたばかりなのだから、当たり前だ。
なのに、僕にはもう秋が近づいているように感じた。
「来年も甲子園、行けるかな」
僕が言うと、
「知らない」
彼女は即答した。
「おい」
「でも」
彼女は少し笑った。
「行けたらいいね」
「……うん」
僕は机の上の新聞を見た。
そこには、大きな見出しで「準優勝」と書かれている。
もう一度、それを見た。
やっぱり悔しい。
悔しくて、悔しくて、どうしようもない。
たぶん、何年経っても忘れない。
あの日、甲子園の空が青かったこと。
最後の打球がグラブに入った瞬間。
相手チームが喜んでいたこと。
僕らが泣いたこと。
そして、「準優勝」と呼ばれたこと。
忘れたくない。
この悔しさだけは。
忘れてしまったら、本当に僕らの夏が終わってしまう気がした。
僕は新聞をたたんだ。
「帰るか」
「うん」
教室を出る前に、黒板を見た。
そこには誰かが書いたままの文字が残っていた。
『甲子園、ありがとう』
僕はチョークを手に取った。
その下に、小さく書き足した。
『悔しい』
一瞬、迷った。
けれど、その隣にもう一つ書いた。
『だから、また行く』
教室を出る。
校門までの道を歩く。
蝉の声が、少しずつ遠くなっていく。
空はまだ青い。
あの日の甲子園と同じくらい、青い。
僕は空を見上げた。
負けた。
悔しい。
まだ、全然受け入れられない。
準優勝なんて、今はどうでもいい。
欲しかったのは一番だった。
その気持ちは、きっとしばらく消えない。
それでいいと思った。
悔しさを無理に思い出にしなくていい。
今はまだ、傷のままでいい。
だって、あの夏を本気で生きた証拠だから。
校門の向こうで、風が吹いた。
蝉の声に混じって、どこかから自転車のベルが聞こえた。
夏が終わっていく。
僕らの夏が。
けれど、最後の一球を悔やむ気持ちまで、終わらせるつもりはなかった。
いつかまた、あの場所へ行く。
今度こそ、一番になるために。
そう思いながら、僕は歩いた。
涙の跡が残った顔のまま。
まだ、悔しさを抱えたまま。
――ナツの終わりは、きっとここから始まる。
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