サーモンピンクの空
君と別れた日の空は、サーモンピンクだった。
どうしてそんな色だったのか、今でも覚えている。
駅前の大きな時計が午後六時を告げて、帰宅を急ぐ人たちの波が私の横を流れていく。誰も私たちを見ていなかった。世界はいつも通りに動いていて、電車は時間通りに来て、信号は青と赤を繰り返していた。
ただ、私の隣から君だけがいなくなった。
「じゃあね」
君はそう言った。
「元気で」
それだけだった。
もっと何か言ってくれると思っていた。
最後くらい、泣いてくれると思っていた。
――好きだった、とか。
――本当は別れたくない、とか。
そんな言葉を、ほんの少しだけ期待していた。
でも君は笑った。
いつもと同じ、少し困ったような笑い方だった。
「今までありがとう」
その言葉が、いちばん残酷だった。
ありがとうなんて言われたら、私たちの時間が全部「過去」になってしまう気がした。
だから私は何も言えなかった。
君の背中が人混みに消えていくのを、ただ見ていた。
空だけが、やけに綺麗だった。
*
あれから三年が経った。
私は今でも、ときどきあの日の夢を見る。
夢の中では、私たちはまだ恋人だ。
待ち合わせをして、くだらない話をして、コンビニで新作のお菓子を買って、帰り道に手をつなぐ。
君は笑っている。
私も笑っている。
夢の中の私は、まだ何も失っていない。
だから目が覚める瞬間が嫌いだった。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでくると、君のいない部屋が現実になる。
スマートフォンを手に取っても、君からの通知なんてない。
当然だ。
連絡先だって、もう消してしまった。
それでも三年間、私は一度も君の名前を忘れられなかった。
忘れるというのは、記憶を消すことではないのだと、その頃の私はまだ知らなかった。
忘れるというのは、思い出しても胸が痛まなくなることなのだ。
そして私は、まだそこまで辿り着けていなかった。
*
ある秋の日、私は仕事で久しぶりにあの駅を訪れた。
改札を出ると、懐かしい匂いがした。
焼きたてのパン。
雨上がりのアスファルト。
どこか遠くから聞こえる電車の音。
何も変わっていないように見えて、実際には全部が少しずつ変わっていた。
駅前の店がなくなっていた。
新しいカフェができていた。
時計も、いつの間にかデジタルになっていた。
そして私は、あの日と同じ場所に立っていた。
空を見上げる。
夕暮れだった。
薄い雲が西の空を染めている。
サーモンピンク。
あの日と同じ色だった。
「……まだ、こんな色になるんだ」
思わず笑ってしまった。
胸が痛むと思っていた。
でも、不思議なことに痛くなかった。
代わりに、少しだけ寂しかった。
それだけだった。
私は駅前のベンチに座り、鞄からスマートフォンを取り出した。
そして、消したはずの君の名前を検索しようとして――やめた。
もう、いい。
君が今どこにいるのか。
誰と暮らしているのか。
どんな顔で笑っているのか。
知らなくていい。
知らないままでいい。
そう思えたのは、初めてだった。
*
帰りの電車を待っていると、ホームに夕日が差し込んできた。
窓ガラスに映った自分の顔を見る。
三年前より、少し大人になった気がした。
あの日の私は、君を失ったことで、自分の人生まで終わってしまったように思っていた。
でも終わらなかった。
朝は来た。
仕事にも行った。
友達と笑った。
新しい服を買った。
知らない街へ旅行にも行った。
君のいない時間は、思っていたよりずっと長く続いた。
そして気づいた。
恋が終わっても、人生は終わらない。
ただ、その人と一緒にいる未来だけがなくなるのだ。
なくなった未来の代わりに、別の未来が少しずつ伸びていく。
私は立ち上がった。
電車がホームに入ってくる。
風が吹いて、髪が揺れた。
ふと空を見る。
サーモンピンクの光が、街を優しく包んでいた。
あの日は、この空が嫌いだった。
あまりにも綺麗だったから。
私の世界が壊れた日に、どうして空だけがこんなに綺麗なのだろうと思った。
けれど今は違う。
綺麗な空は、誰かの幸せのためだけにあるわけじゃない。
失恋した人の上にも、同じように広がる。
泣いている人にも。
誰かを忘れられない人にも。
そして、いつか前を向こうとしている人にも。
「さよなら」
私は誰もいない隣に向かって、小さく呟いた。
君に言ったのか。
あの日の自分に言ったのか。
それはもう、わからなかった。
電車のドアが開く。
私は乗り込んだ。
走り出した電車の窓から、夕暮れの街が遠ざかっていく。
サーモンピンクの空も、少しずつ夜の色に変わっていった。
そのことが、今日は少しだけ嬉しかった。
終わるものは、終わっていい。
終わったからこそ、次の夜が来る。
そして夜が明ければ、また新しい朝が来る。
私は窓に映る自分に向かって、ほんの少し笑った。
三年前にはできなかった笑顔だった。
もう、君がいなくても大丈夫。
そう思えた。
そして電車は、知らない明日へ向かって走り続けた。
どうしてそんな色だったのか、今でも覚えている。
駅前の大きな時計が午後六時を告げて、帰宅を急ぐ人たちの波が私の横を流れていく。誰も私たちを見ていなかった。世界はいつも通りに動いていて、電車は時間通りに来て、信号は青と赤を繰り返していた。
ただ、私の隣から君だけがいなくなった。
「じゃあね」
君はそう言った。
「元気で」
それだけだった。
もっと何か言ってくれると思っていた。
最後くらい、泣いてくれると思っていた。
――好きだった、とか。
――本当は別れたくない、とか。
そんな言葉を、ほんの少しだけ期待していた。
でも君は笑った。
いつもと同じ、少し困ったような笑い方だった。
「今までありがとう」
その言葉が、いちばん残酷だった。
ありがとうなんて言われたら、私たちの時間が全部「過去」になってしまう気がした。
だから私は何も言えなかった。
君の背中が人混みに消えていくのを、ただ見ていた。
空だけが、やけに綺麗だった。
*
あれから三年が経った。
私は今でも、ときどきあの日の夢を見る。
夢の中では、私たちはまだ恋人だ。
待ち合わせをして、くだらない話をして、コンビニで新作のお菓子を買って、帰り道に手をつなぐ。
君は笑っている。
私も笑っている。
夢の中の私は、まだ何も失っていない。
だから目が覚める瞬間が嫌いだった。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでくると、君のいない部屋が現実になる。
スマートフォンを手に取っても、君からの通知なんてない。
当然だ。
連絡先だって、もう消してしまった。
それでも三年間、私は一度も君の名前を忘れられなかった。
忘れるというのは、記憶を消すことではないのだと、その頃の私はまだ知らなかった。
忘れるというのは、思い出しても胸が痛まなくなることなのだ。
そして私は、まだそこまで辿り着けていなかった。
*
ある秋の日、私は仕事で久しぶりにあの駅を訪れた。
改札を出ると、懐かしい匂いがした。
焼きたてのパン。
雨上がりのアスファルト。
どこか遠くから聞こえる電車の音。
何も変わっていないように見えて、実際には全部が少しずつ変わっていた。
駅前の店がなくなっていた。
新しいカフェができていた。
時計も、いつの間にかデジタルになっていた。
そして私は、あの日と同じ場所に立っていた。
空を見上げる。
夕暮れだった。
薄い雲が西の空を染めている。
サーモンピンク。
あの日と同じ色だった。
「……まだ、こんな色になるんだ」
思わず笑ってしまった。
胸が痛むと思っていた。
でも、不思議なことに痛くなかった。
代わりに、少しだけ寂しかった。
それだけだった。
私は駅前のベンチに座り、鞄からスマートフォンを取り出した。
そして、消したはずの君の名前を検索しようとして――やめた。
もう、いい。
君が今どこにいるのか。
誰と暮らしているのか。
どんな顔で笑っているのか。
知らなくていい。
知らないままでいい。
そう思えたのは、初めてだった。
*
帰りの電車を待っていると、ホームに夕日が差し込んできた。
窓ガラスに映った自分の顔を見る。
三年前より、少し大人になった気がした。
あの日の私は、君を失ったことで、自分の人生まで終わってしまったように思っていた。
でも終わらなかった。
朝は来た。
仕事にも行った。
友達と笑った。
新しい服を買った。
知らない街へ旅行にも行った。
君のいない時間は、思っていたよりずっと長く続いた。
そして気づいた。
恋が終わっても、人生は終わらない。
ただ、その人と一緒にいる未来だけがなくなるのだ。
なくなった未来の代わりに、別の未来が少しずつ伸びていく。
私は立ち上がった。
電車がホームに入ってくる。
風が吹いて、髪が揺れた。
ふと空を見る。
サーモンピンクの光が、街を優しく包んでいた。
あの日は、この空が嫌いだった。
あまりにも綺麗だったから。
私の世界が壊れた日に、どうして空だけがこんなに綺麗なのだろうと思った。
けれど今は違う。
綺麗な空は、誰かの幸せのためだけにあるわけじゃない。
失恋した人の上にも、同じように広がる。
泣いている人にも。
誰かを忘れられない人にも。
そして、いつか前を向こうとしている人にも。
「さよなら」
私は誰もいない隣に向かって、小さく呟いた。
君に言ったのか。
あの日の自分に言ったのか。
それはもう、わからなかった。
電車のドアが開く。
私は乗り込んだ。
走り出した電車の窓から、夕暮れの街が遠ざかっていく。
サーモンピンクの空も、少しずつ夜の色に変わっていった。
そのことが、今日は少しだけ嬉しかった。
終わるものは、終わっていい。
終わったからこそ、次の夜が来る。
そして夜が明ければ、また新しい朝が来る。
私は窓に映る自分に向かって、ほんの少し笑った。
三年前にはできなかった笑顔だった。
もう、君がいなくても大丈夫。
そう思えた。
そして電車は、知らない明日へ向かって走り続けた。
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