好きと嫌いほど近くて遠いものはないでしょう
嫌いな人ほど、よく見える。
そんなことを言ったのは、たしか高校二年の夏だった。
「じゃあ、佐伯くんのこと嫌いなの?」
放課後の教室で、窓際の席に座っていた私は、友人の美咲にそう訊かれた。
「嫌い」
即答した。
「どこが?」
「全部」
「全部って、逆に好きなんじゃない?」
「違う」
私は机に頬杖をついたまま、校庭を見た。
グラウンドの端で、佐伯くんがサッカーボールを蹴っている。
夕方の光に照らされて、汗で濡れた髪が少しだけ光っていた。
それを見ている自分に気づいて、私は慌てて視線を逸らした。
「ほら、見てるじゃん」
「見てない」
「今、三秒くらい見てた」
「校庭を見てただけ」
「はいはい」
美咲は笑った。
私はもう一度、窓の外を見た。
佐伯くんがこちらを見上げた気がした。
目が合う前に、私はカーテンを閉めた。
佐伯くんは、昔から私の苦手なタイプだった。
誰にでも親切で、誰とでも話せて、先生に怒られてもへらへら笑っている。
私とは正反対。
私は人の顔色を気にして、言いたいことを飲み込んで、誰かに嫌われないように生きていた。
だから、彼のことが嫌いだった。
――正確には。
彼みたいになれない自分が、嫌いだった。
「藤井」
ある日の帰り道、後ろから声をかけられた。
振り返ると、佐伯くんが走ってきた。
「なに」
「これ、落とした」
差し出されたのは、私のシャープペンシルだった。
「あ……」
朝、机の下に落としたのだろう。
「ありがとう」
「珍しく素直」
「うるさい」
「やっぱり怒るじゃん」
彼は笑った。
私はその笑顔が嫌いだった。
どうしてそんなふうに笑えるのか、わからない。
「ねえ、藤井」
「なに」
「俺のこと、嫌い?」
心臓が跳ねた。
「……なんで?」
「なんとなく」
「嫌い」
今度も即答だった。
「そっか」
彼は少しだけ笑った。
でも、いつもの笑顔ではなかった。
「じゃあ、よかった」
「何が?」
「俺、藤井のこと好きだから」
世界から音が消えた。
蝉の声も、車の音も、遠くの踏切の音も。
全部なくなった。
「……は?」
「だから、好き」
私は何も言えなかった。
言えるわけがなかった。
嫌いだと思っていた。
ずっと。
なのに。
胸の奥では、ずっとその言葉を待っていたような気がした。
それから、私たちは付き合った。
恋人になったからといって、急に何かが変わるわけではなかった。
朝、教室で「おはよう」と言う。
昼休みに一緒に弁当を食べる。
帰り道を並んで歩く。
そんな小さなことが増えただけだった。
けれど私は、毎日が少しずつ怖くなった。
好きになるほど、失うのが怖くなる。
彼が誰かと楽しそうに話しているだけで、不安になった。
私より可愛い女の子が笑いかければ、胸が痛くなった。
そんな自分が嫌だった。
ある日、私は彼に言った。
「もう、別れよう」
「なんで?」
「疲れたから」
「俺、何かした?」
「してない」
「じゃあ、なんで?」
答えられなかった。
好きだから。
好きすぎるから。
好きなままでは、私は私を嫌いになってしまうから。
そんなこと、言えるわけがなかった。
「……嫌いになったの」
嘘だった。
彼は黙った。
しばらくして、小さく笑った。
「そっか」
あのときと同じ笑い方だった。
でも今度は、その笑顔がひどく寂しそうに見えた。
「じゃあ、仕方ないな」
彼はそれだけ言った。
卒業式の日。
私は最後まで、佐伯くんと話さなかった。
話したら、きっと戻りたくなる。
だから逃げた。
校門を出て、駅へ向かって歩いていると、後ろから誰かに呼ばれた。
「藤井!」
振り返る。
佐伯くんだった。
卒業証書の筒を抱えて、息を切らしている。
「……何?」
「これ」
彼は私に、小さな紙袋を差し出した。
「何?」
「開けて」
中には、あの日私が落としたシャープペンシルが入っていた。
「……これ」
「ずっと持ってた」
「なんで?」
「返すタイミング、なくて」
私は笑った。
「馬鹿じゃないの」
「うん」
彼も笑った。
泣きそうになるのを隠すみたいに。
「藤井」
「なに?」
「俺、まだ好きだから」
胸が痛かった。
「でも、もう追いかけない」
「……うん」
「元気で」
「佐伯くんも」
彼は背を向けた。
私はその背中を見つめた。
遠ざかっていく。
好きな人の背中は、こんなにも遠く見えるのかと思った。
それから十年が経った。
私は東京で働いていた。
恋人は何人かできた。
結婚を考えた人もいた。
けれど、あの頃の彼ほど、心の奥に残った人はいなかった。
ある冬の日、仕事帰りに駅前の本屋へ立ち寄った。
雑誌を手に取ろうとしたとき、隣から声がした。
「藤井?」
振り向く。
そこに、佐伯くんがいた。
十年前と同じ笑顔。
ただ、少しだけ大人になっていた。
「……久しぶり」
「久しぶり」
「元気だった?」
「まあまあ」
「俺も」
それだけで、胸がいっぱいになった。
好きだった。
今でも好きなのかもしれない。
でも、十年という時間は、簡単には戻せない。
「結婚した?」
彼が訊いた。
「してない」
「そっか」
「佐伯くんは?」
「俺も」
少しの沈黙。
店内に流れる音楽だけが、妙に大きく聞こえた。
「ねえ」
私は言った。
「どうしてあのとき、私のこと好きだったの?」
彼は少し考えてから答えた。
「嫌いって言いながら、いつも俺のこと見てたから」
「……それだけ?」
「それだけじゃないけど」
彼は笑った。
「俺も、藤井のことばっかり見てたから」
ああ。
そうだったのか。
好きと嫌いは、反対なんかじゃなかった。
どちらも、その人のことを考えてしまう気持ちなのだ。
ただ一歩間違えれば、近づくことも、遠ざかることもできる。
あの頃の私は、好きだから嫌いと言った。
嫌いと言えば、自分を守れると思った。
でも、本当は逆だった。
好きだったからこそ、もっと近くにいたかった。
「佐伯くん」
「ん?」
「今でも、私のこと好き?」
彼は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「……それ、ずるくない?」
「答えて」
「好きだよ」
十年前と同じ言葉だった。
なのに今度は、怖くなかった。
「じゃあ」
私は少しだけ息を吸った。
「もう一回、好きになってもいい?」
彼は笑った。
「遅いよ」
「ごめん」
「十年待った」
「……ごめん」
「だから、今度は十年待たせないで」
そう言って、彼は手を差し出した。
私はその手を取った。
あの日、遠ざかっていった背中を追いかけることはできなかった。
でも今日なら、隣を歩ける。
好きと嫌いほど近くて遠いものはないでしょう。
たった一文字の違いなのに。
その一文字の向こう側には、十年分の時間があった。
そして私は今、その距離を、少しずつ埋めていく。
繋いだ手の温度を確かめながら。
今度こそ、離さないように。
そんなことを言ったのは、たしか高校二年の夏だった。
「じゃあ、佐伯くんのこと嫌いなの?」
放課後の教室で、窓際の席に座っていた私は、友人の美咲にそう訊かれた。
「嫌い」
即答した。
「どこが?」
「全部」
「全部って、逆に好きなんじゃない?」
「違う」
私は机に頬杖をついたまま、校庭を見た。
グラウンドの端で、佐伯くんがサッカーボールを蹴っている。
夕方の光に照らされて、汗で濡れた髪が少しだけ光っていた。
それを見ている自分に気づいて、私は慌てて視線を逸らした。
「ほら、見てるじゃん」
「見てない」
「今、三秒くらい見てた」
「校庭を見てただけ」
「はいはい」
美咲は笑った。
私はもう一度、窓の外を見た。
佐伯くんがこちらを見上げた気がした。
目が合う前に、私はカーテンを閉めた。
佐伯くんは、昔から私の苦手なタイプだった。
誰にでも親切で、誰とでも話せて、先生に怒られてもへらへら笑っている。
私とは正反対。
私は人の顔色を気にして、言いたいことを飲み込んで、誰かに嫌われないように生きていた。
だから、彼のことが嫌いだった。
――正確には。
彼みたいになれない自分が、嫌いだった。
「藤井」
ある日の帰り道、後ろから声をかけられた。
振り返ると、佐伯くんが走ってきた。
「なに」
「これ、落とした」
差し出されたのは、私のシャープペンシルだった。
「あ……」
朝、机の下に落としたのだろう。
「ありがとう」
「珍しく素直」
「うるさい」
「やっぱり怒るじゃん」
彼は笑った。
私はその笑顔が嫌いだった。
どうしてそんなふうに笑えるのか、わからない。
「ねえ、藤井」
「なに」
「俺のこと、嫌い?」
心臓が跳ねた。
「……なんで?」
「なんとなく」
「嫌い」
今度も即答だった。
「そっか」
彼は少しだけ笑った。
でも、いつもの笑顔ではなかった。
「じゃあ、よかった」
「何が?」
「俺、藤井のこと好きだから」
世界から音が消えた。
蝉の声も、車の音も、遠くの踏切の音も。
全部なくなった。
「……は?」
「だから、好き」
私は何も言えなかった。
言えるわけがなかった。
嫌いだと思っていた。
ずっと。
なのに。
胸の奥では、ずっとその言葉を待っていたような気がした。
それから、私たちは付き合った。
恋人になったからといって、急に何かが変わるわけではなかった。
朝、教室で「おはよう」と言う。
昼休みに一緒に弁当を食べる。
帰り道を並んで歩く。
そんな小さなことが増えただけだった。
けれど私は、毎日が少しずつ怖くなった。
好きになるほど、失うのが怖くなる。
彼が誰かと楽しそうに話しているだけで、不安になった。
私より可愛い女の子が笑いかければ、胸が痛くなった。
そんな自分が嫌だった。
ある日、私は彼に言った。
「もう、別れよう」
「なんで?」
「疲れたから」
「俺、何かした?」
「してない」
「じゃあ、なんで?」
答えられなかった。
好きだから。
好きすぎるから。
好きなままでは、私は私を嫌いになってしまうから。
そんなこと、言えるわけがなかった。
「……嫌いになったの」
嘘だった。
彼は黙った。
しばらくして、小さく笑った。
「そっか」
あのときと同じ笑い方だった。
でも今度は、その笑顔がひどく寂しそうに見えた。
「じゃあ、仕方ないな」
彼はそれだけ言った。
卒業式の日。
私は最後まで、佐伯くんと話さなかった。
話したら、きっと戻りたくなる。
だから逃げた。
校門を出て、駅へ向かって歩いていると、後ろから誰かに呼ばれた。
「藤井!」
振り返る。
佐伯くんだった。
卒業証書の筒を抱えて、息を切らしている。
「……何?」
「これ」
彼は私に、小さな紙袋を差し出した。
「何?」
「開けて」
中には、あの日私が落としたシャープペンシルが入っていた。
「……これ」
「ずっと持ってた」
「なんで?」
「返すタイミング、なくて」
私は笑った。
「馬鹿じゃないの」
「うん」
彼も笑った。
泣きそうになるのを隠すみたいに。
「藤井」
「なに?」
「俺、まだ好きだから」
胸が痛かった。
「でも、もう追いかけない」
「……うん」
「元気で」
「佐伯くんも」
彼は背を向けた。
私はその背中を見つめた。
遠ざかっていく。
好きな人の背中は、こんなにも遠く見えるのかと思った。
それから十年が経った。
私は東京で働いていた。
恋人は何人かできた。
結婚を考えた人もいた。
けれど、あの頃の彼ほど、心の奥に残った人はいなかった。
ある冬の日、仕事帰りに駅前の本屋へ立ち寄った。
雑誌を手に取ろうとしたとき、隣から声がした。
「藤井?」
振り向く。
そこに、佐伯くんがいた。
十年前と同じ笑顔。
ただ、少しだけ大人になっていた。
「……久しぶり」
「久しぶり」
「元気だった?」
「まあまあ」
「俺も」
それだけで、胸がいっぱいになった。
好きだった。
今でも好きなのかもしれない。
でも、十年という時間は、簡単には戻せない。
「結婚した?」
彼が訊いた。
「してない」
「そっか」
「佐伯くんは?」
「俺も」
少しの沈黙。
店内に流れる音楽だけが、妙に大きく聞こえた。
「ねえ」
私は言った。
「どうしてあのとき、私のこと好きだったの?」
彼は少し考えてから答えた。
「嫌いって言いながら、いつも俺のこと見てたから」
「……それだけ?」
「それだけじゃないけど」
彼は笑った。
「俺も、藤井のことばっかり見てたから」
ああ。
そうだったのか。
好きと嫌いは、反対なんかじゃなかった。
どちらも、その人のことを考えてしまう気持ちなのだ。
ただ一歩間違えれば、近づくことも、遠ざかることもできる。
あの頃の私は、好きだから嫌いと言った。
嫌いと言えば、自分を守れると思った。
でも、本当は逆だった。
好きだったからこそ、もっと近くにいたかった。
「佐伯くん」
「ん?」
「今でも、私のこと好き?」
彼は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「……それ、ずるくない?」
「答えて」
「好きだよ」
十年前と同じ言葉だった。
なのに今度は、怖くなかった。
「じゃあ」
私は少しだけ息を吸った。
「もう一回、好きになってもいい?」
彼は笑った。
「遅いよ」
「ごめん」
「十年待った」
「……ごめん」
「だから、今度は十年待たせないで」
そう言って、彼は手を差し出した。
私はその手を取った。
あの日、遠ざかっていった背中を追いかけることはできなかった。
でも今日なら、隣を歩ける。
好きと嫌いほど近くて遠いものはないでしょう。
たった一文字の違いなのに。
その一文字の向こう側には、十年分の時間があった。
そして私は今、その距離を、少しずつ埋めていく。
繋いだ手の温度を確かめながら。
今度こそ、離さないように。
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