八月三十一日の退屈
夏休みは、長い。
七月の終わりには、そう思っていた。
朝は蝉の声で目が覚める。冷蔵庫を開けても麦茶しかない。テレビをつけても、昨日と同じような番組をやっている。
宿題はまだ、半分以上残っている。
だからといって、やる気もない。
僕は八月十日から、ほとんど毎日をそんなふうに過ごしていた。
友達に連絡しても、「暑いから今日は無理」と返ってくる。外に出れば暑い。家にいれば暇だ。
夏休みなんて、始まる前がいちばん楽しい。
そんなことを考えながら、僕は二階の自分の部屋で扇風機に向かっていた。
「暇だなあ」
誰もいない部屋で言うと、扇風機が、
「だー」
と答えた。
もちろん、ただの風の音だった。
*
八月二十日。
僕は近所のコンビニへアイスを買いに行った。
途中、神社の前を通った。
小さな神社だった。普段なら気にも留めない。
けれど、その日は境内の端に、見慣れない女の子が座っていた。
白いワンピースに、麦わら帽子。
いかにも夏休み、という格好だった。
「何してるの?」
僕が聞くと、女の子はこっちを見た。
「退屈してる」
「僕も」
「じゃあ、仲間だね」
女の子は笑った。
それから僕たちは、特に何をするでもなく、神社の石段に座った。
蝉が鳴いていた。
風が吹いた。
遠くで誰かの自転車のベルが鳴った。
「ねえ」
女の子が言った。
「夏休みって、どうしてこんなに暇なんだろうね」
「宿題があるからじゃない?」
「宿題がなくても暇だよ」
「たしかに」
「じゃあ、暇って悪いことなのかな」
僕は少し考えた。
「悪いんじゃない?」
「どうして?」
「だって、何もしてないってことでしょ」
女の子は首を傾げた。
「でも、何もしてないときって、いろんなものが見えるよ」
「いろんなもの?」
「ほら」
彼女が指差した。
神社の屋根。
木の葉。
青すぎる空。
僕は初めて、それらをちゃんと見た。
「去年の夏も、ここに来た?」
「来たよ」
「じゃあ、去年も同じだった?」
「たぶん」
「でも、覚えてないでしょ?」
「……うん」
「だから、今年は覚えておこうよ」
その言葉が、妙に心に残った。
*
それから僕は、毎日神社へ行った。
女の子はいつもいた。
僕たちはいろいろなことをした。
境内に落ちている蝉の抜け殻を集めたり。
雲の形を当てたり。
百円玉を賽銭箱に入れて、二人で同時に願い事をしたり。
駄菓子屋で買ったラムネを飲みながら、どうでもいい話をしたり。
ある日は、夕立に降られて二人で社殿の軒下に逃げ込んだ。
「夏休みって、ずっとこうならいいのにね」
僕が言うと、
「ずっとは嫌だな」
彼女は笑った。
「どうして?」
「夏休みが終わらないと、夏休みが好きになれないから」
意味が分からなかった。
けれど、なんとなく分かる気もした。
*
八月三十一日。
宿題は、まだ終わっていなかった。
僕は朝から机に向かっていた。
読書感想文。
自由研究。
絵日記。
どれも手つかずだった。
昼過ぎ、僕は神社へ向かった。
けれど、女の子はいなかった。
境内にも。
石段にも。
社殿の裏にも。
どこにもいなかった。
代わりに、石段の上に小さな紙が置いてあった。
僕は拾った。
そこには、鉛筆でこう書かれていた。
『今年の夏休みは、退屈じゃなかったよ』
僕は紙を握りしめた。
そのとき、神社の向こうから風が吹いた。
蝉の声が、少しだけ遠くなった。
*
家に帰ってから、僕は宿題を始めた。
読書感想文には、こう書いた。
――夏休みは長い。
何もすることがない日もある。
朝から晩まで暇で、退屈で、早く学校が始まればいいと思うこともある。
でも、あとから振り返ると、その「何もなかった日」のことを、いちばんよく覚えているのかもしれない。
蝉の声。
ぬるい風。
溶けかけたアイス。
神社の石段。
そして、名前も知らない女の子。
僕はそこで筆を止めた。
女の子の名前を、僕は知らなかった。
どうして毎日あそこにいたのかも。
どこから来たのかも。
八月三十一日に、どこへ行ったのかも。
何ひとつ知らない。
なのに、不思議と寂しくなかった。
僕は窓を開けた。
夜の風が入ってきた。
昼間よりずっと涼しい。
明日から学校が始まる。
そう思ったら、少しだけ嬉しかった。
夏休みが終わることが、初めて嫌じゃなかった。
机の上には、まだ終わっていない宿題が山ほどある。
僕はそれを見て、ため息をついた。
「……やっぱり、夏休みって長いな」
誰もいない部屋で呟く。
すると窓の外から、
――だー。
と、風が返事をした。
僕は笑った。
そして、残りの宿題に手を伸ばした。
今年の夏休みは、もうすぐ終わる。
けれど、退屈だったはずの日々は、きっとこれからも、僕の中で夏のまま残り続ける。
七月の終わりには、そう思っていた。
朝は蝉の声で目が覚める。冷蔵庫を開けても麦茶しかない。テレビをつけても、昨日と同じような番組をやっている。
宿題はまだ、半分以上残っている。
だからといって、やる気もない。
僕は八月十日から、ほとんど毎日をそんなふうに過ごしていた。
友達に連絡しても、「暑いから今日は無理」と返ってくる。外に出れば暑い。家にいれば暇だ。
夏休みなんて、始まる前がいちばん楽しい。
そんなことを考えながら、僕は二階の自分の部屋で扇風機に向かっていた。
「暇だなあ」
誰もいない部屋で言うと、扇風機が、
「だー」
と答えた。
もちろん、ただの風の音だった。
*
八月二十日。
僕は近所のコンビニへアイスを買いに行った。
途中、神社の前を通った。
小さな神社だった。普段なら気にも留めない。
けれど、その日は境内の端に、見慣れない女の子が座っていた。
白いワンピースに、麦わら帽子。
いかにも夏休み、という格好だった。
「何してるの?」
僕が聞くと、女の子はこっちを見た。
「退屈してる」
「僕も」
「じゃあ、仲間だね」
女の子は笑った。
それから僕たちは、特に何をするでもなく、神社の石段に座った。
蝉が鳴いていた。
風が吹いた。
遠くで誰かの自転車のベルが鳴った。
「ねえ」
女の子が言った。
「夏休みって、どうしてこんなに暇なんだろうね」
「宿題があるからじゃない?」
「宿題がなくても暇だよ」
「たしかに」
「じゃあ、暇って悪いことなのかな」
僕は少し考えた。
「悪いんじゃない?」
「どうして?」
「だって、何もしてないってことでしょ」
女の子は首を傾げた。
「でも、何もしてないときって、いろんなものが見えるよ」
「いろんなもの?」
「ほら」
彼女が指差した。
神社の屋根。
木の葉。
青すぎる空。
僕は初めて、それらをちゃんと見た。
「去年の夏も、ここに来た?」
「来たよ」
「じゃあ、去年も同じだった?」
「たぶん」
「でも、覚えてないでしょ?」
「……うん」
「だから、今年は覚えておこうよ」
その言葉が、妙に心に残った。
*
それから僕は、毎日神社へ行った。
女の子はいつもいた。
僕たちはいろいろなことをした。
境内に落ちている蝉の抜け殻を集めたり。
雲の形を当てたり。
百円玉を賽銭箱に入れて、二人で同時に願い事をしたり。
駄菓子屋で買ったラムネを飲みながら、どうでもいい話をしたり。
ある日は、夕立に降られて二人で社殿の軒下に逃げ込んだ。
「夏休みって、ずっとこうならいいのにね」
僕が言うと、
「ずっとは嫌だな」
彼女は笑った。
「どうして?」
「夏休みが終わらないと、夏休みが好きになれないから」
意味が分からなかった。
けれど、なんとなく分かる気もした。
*
八月三十一日。
宿題は、まだ終わっていなかった。
僕は朝から机に向かっていた。
読書感想文。
自由研究。
絵日記。
どれも手つかずだった。
昼過ぎ、僕は神社へ向かった。
けれど、女の子はいなかった。
境内にも。
石段にも。
社殿の裏にも。
どこにもいなかった。
代わりに、石段の上に小さな紙が置いてあった。
僕は拾った。
そこには、鉛筆でこう書かれていた。
『今年の夏休みは、退屈じゃなかったよ』
僕は紙を握りしめた。
そのとき、神社の向こうから風が吹いた。
蝉の声が、少しだけ遠くなった。
*
家に帰ってから、僕は宿題を始めた。
読書感想文には、こう書いた。
――夏休みは長い。
何もすることがない日もある。
朝から晩まで暇で、退屈で、早く学校が始まればいいと思うこともある。
でも、あとから振り返ると、その「何もなかった日」のことを、いちばんよく覚えているのかもしれない。
蝉の声。
ぬるい風。
溶けかけたアイス。
神社の石段。
そして、名前も知らない女の子。
僕はそこで筆を止めた。
女の子の名前を、僕は知らなかった。
どうして毎日あそこにいたのかも。
どこから来たのかも。
八月三十一日に、どこへ行ったのかも。
何ひとつ知らない。
なのに、不思議と寂しくなかった。
僕は窓を開けた。
夜の風が入ってきた。
昼間よりずっと涼しい。
明日から学校が始まる。
そう思ったら、少しだけ嬉しかった。
夏休みが終わることが、初めて嫌じゃなかった。
机の上には、まだ終わっていない宿題が山ほどある。
僕はそれを見て、ため息をついた。
「……やっぱり、夏休みって長いな」
誰もいない部屋で呟く。
すると窓の外から、
――だー。
と、風が返事をした。
僕は笑った。
そして、残りの宿題に手を伸ばした。
今年の夏休みは、もうすぐ終わる。
けれど、退屈だったはずの日々は、きっとこれからも、僕の中で夏のまま残り続ける。
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