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ハッカと空と鏡

 彼女の部屋には、鏡が三枚あった。
 一枚は玄関。

 一枚はベッドの脇。

 そしてもう一枚は、窓のない壁に掛けられていた。

 僕は、その三枚目の鏡が嫌いだった。

 何も映さないからだ。

 正確には、僕だけが映らない。

 彼女には見えるらしい。

「今日もいるよ」

 彼女は鏡を見ながら言う。

「誰が?」

「あなた」

「僕はここにいるじゃん」

「そうじゃなくて」

 彼女は笑う。

 その笑い方が、少しだけ寂しい。

「鏡の中のあなた」

 六月の終わり。

 僕たちは付き合って三年になる。

 大学の講義をさぼって、彼女の古いアパートで一日中眠ったり、コンビニまで歩いてアイスを買ったりした。

 特別なことなんて何もなかった。

 だから、僕はその日まで気づかなかった。

 彼女が、僕のことを一度も名前で呼んでいないことに。

「ねえ」

 彼女が言う。

「私たち、いつから付き合ってたっけ?」

「三年前」

「そうだっけ」

「そうだよ」

「……そっか」

 彼女は笑った。

 それから窓を開けた。

 夏の匂いがした。

 少し湿った風。

 遠くで鳴いている蝉。

 そして、どこか薬品みたいな、冷たい匂い。

「ハッカ?」

 僕が言うと、彼女は頷いた。

「好きなの」

「昔から?」

「ううん」

 彼女は窓の外を見た。

「あなたと会ってから」

 その言葉が妙に引っかかった。

 僕たちが初めて会ったのは、三年前の夏だった。

 雨の降る駅で、彼女が傘を忘れて困っていた。

 僕が傘に入れてあげた。

 たったそれだけだった。

 それから毎日会うようになった。

 僕は彼女を好きになった。

 彼女も僕を好きだと言った。

 それだけの話。

 ――のはずだった。

「ねえ、今日、空を見に行かない?」

「どこへ?」

「屋上」

 彼女は僕の手を取った。

 指が冷たい。

 いつもそうだった。

 彼女の手は、夏でも冷たかった。

 屋上に出ると、空は異様なほど青かった。

 雲ひとつない。

 彼女はフェンスにもたれて、僕を見た。

「もし私が死んだら、どうする?」

「急に何?」

「答えて」

「……忘れるわけないだろ」

「そうじゃなくて」

 彼女は少し考えてから言った。

「他の人を好きになる?」

「ならない」

「嘘」

「本当」

「じゃあ、証明して」

 彼女は僕にキスをした。

 いつものキスだった。

 なのに、その瞬間。

 世界から音が消えた。

 蝉の声も。

 風の音も。

 車の音も。

 彼女の呼吸さえも。

 全部。

 僕は彼女の肩を掴んだ。

「……今、何した?」

 彼女は泣いていた。

「ごめん」

「何が?」

「これで最後だから」

 その瞬間、空に巨大な亀裂が入った。

 青い空が鏡みたいにひび割れていく。

 僕は立ち尽くした。

 彼女は泣きながら笑っていた。

「やっと思い出した?」

「何を……」

「私たち」

 彼女は僕の胸に顔を埋めた。

「三年前じゃないよ」

 耳元で、彼女が囁く。

「私たちは、もう二十七回会ってる」

 頭の奥で何かが弾けた。

 夏。

 雨。

 駅。

 傘。

 彼女。

 別れ。

 死。

 そして、また夏。

 何度も。

 何度も。

 僕は彼女を好きになっていた。

 彼女が死ぬたびに。

 僕が忘れるたびに。

 世界が最初からやり直されるたびに。

「どうして……」

「私が死ぬと、あなたが私を忘れるから」

「じゃあ、今までの僕は……」

「全部、本物だよ」

 彼女は笑った。

「だから困るの」

「何が?」

「何回忘れても、あなたがまた私を好きになるから」

 空の亀裂が広がっていく。

 鏡のような青が、細かく砕け始める。

「今回は、私が先に忘れることにしたの」

「……嫌だ」

「うん」

「嫌だよ」

「うん」

「また会える?」

 彼女は首を横に振った。

「たぶん」

 その答えが、彼女らしかった。

 僕は彼女を抱きしめた。

 冷たい身体だった。

 ハッカの匂いがした。

 彼女は僕の胸の中で、小さく笑った。

「ねえ」

「なに?」

「次の人生で会えたらさ」

「うん」

「今度は、鏡のない部屋に住もう」

「……うん」

「それで、ちゃんと名前で呼んで」

 僕は彼女の名前を呼ぼうとした。

 けれど、声が出なかった。

 名前だけが、どうしても思い出せない。

 空が落ちてくる。

 彼女の身体が、光の粒になっていく。

「大好き」

 最後に聞こえたのは、それだけだった。

 そして僕は、目を覚ました。

 知らない部屋だった。

 窓の外には、夏の空。

 机の上には、小さなハッカの飴。

 壁には鏡が一枚。

 そこに僕は映っていた。

 ただし、隣に誰かが立っていた。

 長い髪。

 白いシャツ。

 冷たい目。

 知らない女の子。

 なのに僕は、泣いていた。

 彼女が鏡の中から僕を見る。

「……やっと会えた」

 そう言って笑った。

 僕は、何も思い出せないまま答えた。

「うん」

 理由もなく、胸が痛かった。

 そして、なぜか懐かしいハッカの匂いがした。

作者メッセージ

読み切り小説をずっと書いているとだんだん摩訶不思議になっていく。

では!

2026/08/14 20:08

KanonLOVE
ID:≫ n00YEDEqgv6kY
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