才能の名前
才能という言葉が、嫌いだった。
十七歳の春、僕はそれをはっきり自覚した。
教室の窓から見える桜は、風が吹くたびに花びらを落としていた。黒板には進路希望調査の文字があって、担任の先生は「そろそろ真面目に考えろよ」と笑った。
「将来の夢とか、得意なこととか。何でもいいから書け」
僕は白紙のまま、シャープペンシルを握っていた。
隣の席では、佐伯が迷いなく紙を埋めている。
佐伯は絵がうまかった。
小学生のころからずっとそうだった。授業中にノートの端へ描いた落書きでさえ、僕には本物の絵に見えた。
高校に入ってからは美術部で賞を取り、文化祭では彼女の絵を見るためだけに他校から人が来た。
「お前は?」
佐伯が僕の紙を覗き込んだ。
「まだ決まってない」
「また?」
「うん」
「じゃあ、絵描けば?」
「無理」
「なんで?」
「才能ないから」
佐伯は少しだけ黙った。
それから、
「才能って、そんな便利な言葉じゃないと思うけど」
と言った。
僕は笑った。
「才能あるやつには分からないよ」
その日から、僕たちは少しだけ話さなくなった。
*
僕には、本当に何もなかった。
勉強は平均。
運動も平均。
音楽は音痴。
絵は壊滅的。
文章を書いても、先生から返ってくるのは「もう少し自分の言葉で」という曖昧な赤ペンだけだった。
だから僕は、「才能」というものを信じていた。
人にはそれぞれ、最初から与えられたものがある。
絵を描ける人。
歌える人。
数学ができる人。
人を笑わせられる人。
そして、自分には何もない。
そう考えると、妙に安心できた。
努力しても届かない理由を、最初から持っていないせいにできるからだ。
そんな僕に、一つだけ好きなことがあった。
人の話を聞くことだった。
特別なことではない。
休み時間、誰かが昨日見た映画の話をすれば聞く。
部活で失敗した友達がいれば聞く。
先生の愚痴を聞かされても聞く。
ただ、それだけ。
だから自分でも、それを「才能」とは思わなかった。
ある日の放課後、図書室で佐伯を見つけた。
彼女は一人で、古い美術書をめくっていた。
「まだ帰らないの?」
「雨だから」
窓を見ると、確かに雨が降っていた。
「傘は?」
「忘れた」
「絵描きなのに?」
「関係ある?」
「ない」
僕たちは少し笑った。
それからしばらく、沈黙が続いた。
ふと佐伯が言った。
「私ね、絵をやめようと思ってる」
「え?」
「大学も美術じゃないところにする」
「なんで?」
「向いてないから」
僕は思わず笑いそうになった。
「佐伯が?」
「うん」
「冗談でしょ」
「本気」
佐伯は本を閉じた。
「最近、全然描けないんだ」
「でも賞とか――」
「昔の話だよ」
その声は、初めて聞くほど弱かった。
「何を描いても、誰かの絵に見える。先生には『技術はある』って言われる。でも、それだけ」
僕は何も言えなかった。
「私、才能があると思ってたんだ」
佐伯は窓の外を見た。
「だから、描けなくなったら何も残らないんだと思う」
雨音が図書室を満たした。
僕はしばらく考えてから、言った。
「じゃあ、やめればいいんじゃない?」
佐伯がこちらを見る。
「……冷たいね」
「だって、やりたくないなら、やめてもいいだろ」
「でも」
「でも?」
「私が絵をやめたら、私には何が残るの?」
その質問に、僕は答えられなかった。
だから、別のことを聞いた。
「佐伯さ」
「何?」
「なんで絵を描いてるの?」
彼女はしばらく黙った。
そして、少し笑った。
「……分からない」
「分からない?」
「小さいころから描いてたから」
「じゃあ、描くのが好きなんじゃない?」
「好きだよ」
「だったら、描けばいいじゃん」
佐伯は目を丸くした。
「上手くなくても?」
「うん」
「賞が取れなくても?」
「うん」
「誰にも認められなくても?」
「たぶん」
「たぶん?」
「そこは僕にも分からない」
佐伯は笑った。
今度の笑い方は、少しだけ泣きそうだった。
「変なの」
「何が?」
「才能がない人に言われると、説得力ある」
「それ褒めてる?」
「たぶん」
雨は、そのあと一時間ほど降り続いた。
*
卒業式の日。
佐伯は美術大学に進むことを決めていた。
僕は普通の大学へ行く。
特別な夢は、まだなかった。
校門の前で、佐伯が言った。
「ねえ」
「ん?」
「私、あれから考えたんだけど」
「何を?」
「才能って、結果のことじゃないのかもしれない」
「どういうこと?」
「何度失敗しても、やめられないこと」
佐伯は笑った。
「それなら、私には少しだけあるかも」
僕も笑った。
「じゃあ僕にはないな」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、私が一つ教えてあげる」
「何?」
「人の話を聞くこと」
僕は黙った。
「それ、才能だと思うよ」
「そんなの誰でもできる」
「できないよ」
「できるだろ」
「じゃあ、私の話を最後まで聞いてくれる?」
僕は頷いた。
佐伯は、卒業してからやりたいことを話した。
どんな絵を描きたいか。
どんな場所へ行きたいか。
怖いこと。
楽しみなこと。
失敗したらどうしようということ。
僕は黙って聞いた。
最後に佐伯は言った。
「ほら」
「何?」
「才能あるじゃん」
僕は笑った。
「こんな才能、履歴書に書けないよ」
「書かなくていいんじゃない?」
桜の花びらが一枚、僕たちの間を通り過ぎた。
「才能って、誰かに見せるためだけにあるものじゃないから」
その言葉を、僕はずっと覚えている。
*
十年後。
僕は小さな出版社で働いている。
編集者になった。
作家の話を聞く。
書けない人の話を聞く。
書きすぎて迷子になった人の話を聞く。
売れなくて苦しんでいる人の話も聞く。
僕は相変わらず、絵が描けない。
歌も下手だ。
特別な計算もできない。
誰もが驚くような才能なんて、今でも持っていないと思う。
それでも、ときどき思う。
人が自分でも気づいていない言葉を、少しだけ待ってあげる。
その人が話し終わるまで、黙っている。
言葉にならないものを、急かさずに隣に置いておく。
もしかしたら、それも才能なのかもしれない。
ある冬の日、一冊の画集が会社に届いた。
表紙には、佐伯の名前があった。
彼女の個展が開かれるらしい。
ページをめくる。
どの絵も、十年前よりずっと不器用だった。
けれど、不思議なくらい彼女の絵だった。
巻末に、短い文章が載っていた。
――才能があるから描くのではなく、描きたいから描く。
僕はそこで本を閉じた。
窓の外には、雪が降っていた。
机の上には、まだ返事を書いていない原稿が一つ。
僕は原稿用紙を手に取り、作者へ電話をかける。
「もしもし」
電話の向こうから、緊張した声が聞こえた。
「はい」
僕は言った。
「続きを、聞かせてもらえますか」
それだけ言うと、相手は少し黙った。
やがて、小さな声で、
「……はい」
と答えた。
才能には、きっと名前がない。
あるいは、誰かに名前をつけてもらうものではないのだ。
ただ、自分が何度でも戻ってしまう場所。
何度失敗しても、なぜか手放せないもの。
誰かに認められるより先に、自分が大切にしてしまったもの。
それを、人は後から「才能」と呼ぶのかもしれない。
電話の向こうで、物語が始まった。
僕は黙って、それを聞いていた。
十七歳の春、僕はそれをはっきり自覚した。
教室の窓から見える桜は、風が吹くたびに花びらを落としていた。黒板には進路希望調査の文字があって、担任の先生は「そろそろ真面目に考えろよ」と笑った。
「将来の夢とか、得意なこととか。何でもいいから書け」
僕は白紙のまま、シャープペンシルを握っていた。
隣の席では、佐伯が迷いなく紙を埋めている。
佐伯は絵がうまかった。
小学生のころからずっとそうだった。授業中にノートの端へ描いた落書きでさえ、僕には本物の絵に見えた。
高校に入ってからは美術部で賞を取り、文化祭では彼女の絵を見るためだけに他校から人が来た。
「お前は?」
佐伯が僕の紙を覗き込んだ。
「まだ決まってない」
「また?」
「うん」
「じゃあ、絵描けば?」
「無理」
「なんで?」
「才能ないから」
佐伯は少しだけ黙った。
それから、
「才能って、そんな便利な言葉じゃないと思うけど」
と言った。
僕は笑った。
「才能あるやつには分からないよ」
その日から、僕たちは少しだけ話さなくなった。
*
僕には、本当に何もなかった。
勉強は平均。
運動も平均。
音楽は音痴。
絵は壊滅的。
文章を書いても、先生から返ってくるのは「もう少し自分の言葉で」という曖昧な赤ペンだけだった。
だから僕は、「才能」というものを信じていた。
人にはそれぞれ、最初から与えられたものがある。
絵を描ける人。
歌える人。
数学ができる人。
人を笑わせられる人。
そして、自分には何もない。
そう考えると、妙に安心できた。
努力しても届かない理由を、最初から持っていないせいにできるからだ。
そんな僕に、一つだけ好きなことがあった。
人の話を聞くことだった。
特別なことではない。
休み時間、誰かが昨日見た映画の話をすれば聞く。
部活で失敗した友達がいれば聞く。
先生の愚痴を聞かされても聞く。
ただ、それだけ。
だから自分でも、それを「才能」とは思わなかった。
ある日の放課後、図書室で佐伯を見つけた。
彼女は一人で、古い美術書をめくっていた。
「まだ帰らないの?」
「雨だから」
窓を見ると、確かに雨が降っていた。
「傘は?」
「忘れた」
「絵描きなのに?」
「関係ある?」
「ない」
僕たちは少し笑った。
それからしばらく、沈黙が続いた。
ふと佐伯が言った。
「私ね、絵をやめようと思ってる」
「え?」
「大学も美術じゃないところにする」
「なんで?」
「向いてないから」
僕は思わず笑いそうになった。
「佐伯が?」
「うん」
「冗談でしょ」
「本気」
佐伯は本を閉じた。
「最近、全然描けないんだ」
「でも賞とか――」
「昔の話だよ」
その声は、初めて聞くほど弱かった。
「何を描いても、誰かの絵に見える。先生には『技術はある』って言われる。でも、それだけ」
僕は何も言えなかった。
「私、才能があると思ってたんだ」
佐伯は窓の外を見た。
「だから、描けなくなったら何も残らないんだと思う」
雨音が図書室を満たした。
僕はしばらく考えてから、言った。
「じゃあ、やめればいいんじゃない?」
佐伯がこちらを見る。
「……冷たいね」
「だって、やりたくないなら、やめてもいいだろ」
「でも」
「でも?」
「私が絵をやめたら、私には何が残るの?」
その質問に、僕は答えられなかった。
だから、別のことを聞いた。
「佐伯さ」
「何?」
「なんで絵を描いてるの?」
彼女はしばらく黙った。
そして、少し笑った。
「……分からない」
「分からない?」
「小さいころから描いてたから」
「じゃあ、描くのが好きなんじゃない?」
「好きだよ」
「だったら、描けばいいじゃん」
佐伯は目を丸くした。
「上手くなくても?」
「うん」
「賞が取れなくても?」
「うん」
「誰にも認められなくても?」
「たぶん」
「たぶん?」
「そこは僕にも分からない」
佐伯は笑った。
今度の笑い方は、少しだけ泣きそうだった。
「変なの」
「何が?」
「才能がない人に言われると、説得力ある」
「それ褒めてる?」
「たぶん」
雨は、そのあと一時間ほど降り続いた。
*
卒業式の日。
佐伯は美術大学に進むことを決めていた。
僕は普通の大学へ行く。
特別な夢は、まだなかった。
校門の前で、佐伯が言った。
「ねえ」
「ん?」
「私、あれから考えたんだけど」
「何を?」
「才能って、結果のことじゃないのかもしれない」
「どういうこと?」
「何度失敗しても、やめられないこと」
佐伯は笑った。
「それなら、私には少しだけあるかも」
僕も笑った。
「じゃあ僕にはないな」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、私が一つ教えてあげる」
「何?」
「人の話を聞くこと」
僕は黙った。
「それ、才能だと思うよ」
「そんなの誰でもできる」
「できないよ」
「できるだろ」
「じゃあ、私の話を最後まで聞いてくれる?」
僕は頷いた。
佐伯は、卒業してからやりたいことを話した。
どんな絵を描きたいか。
どんな場所へ行きたいか。
怖いこと。
楽しみなこと。
失敗したらどうしようということ。
僕は黙って聞いた。
最後に佐伯は言った。
「ほら」
「何?」
「才能あるじゃん」
僕は笑った。
「こんな才能、履歴書に書けないよ」
「書かなくていいんじゃない?」
桜の花びらが一枚、僕たちの間を通り過ぎた。
「才能って、誰かに見せるためだけにあるものじゃないから」
その言葉を、僕はずっと覚えている。
*
十年後。
僕は小さな出版社で働いている。
編集者になった。
作家の話を聞く。
書けない人の話を聞く。
書きすぎて迷子になった人の話を聞く。
売れなくて苦しんでいる人の話も聞く。
僕は相変わらず、絵が描けない。
歌も下手だ。
特別な計算もできない。
誰もが驚くような才能なんて、今でも持っていないと思う。
それでも、ときどき思う。
人が自分でも気づいていない言葉を、少しだけ待ってあげる。
その人が話し終わるまで、黙っている。
言葉にならないものを、急かさずに隣に置いておく。
もしかしたら、それも才能なのかもしれない。
ある冬の日、一冊の画集が会社に届いた。
表紙には、佐伯の名前があった。
彼女の個展が開かれるらしい。
ページをめくる。
どの絵も、十年前よりずっと不器用だった。
けれど、不思議なくらい彼女の絵だった。
巻末に、短い文章が載っていた。
――才能があるから描くのではなく、描きたいから描く。
僕はそこで本を閉じた。
窓の外には、雪が降っていた。
机の上には、まだ返事を書いていない原稿が一つ。
僕は原稿用紙を手に取り、作者へ電話をかける。
「もしもし」
電話の向こうから、緊張した声が聞こえた。
「はい」
僕は言った。
「続きを、聞かせてもらえますか」
それだけ言うと、相手は少し黙った。
やがて、小さな声で、
「……はい」
と答えた。
才能には、きっと名前がない。
あるいは、誰かに名前をつけてもらうものではないのだ。
ただ、自分が何度でも戻ってしまう場所。
何度失敗しても、なぜか手放せないもの。
誰かに認められるより先に、自分が大切にしてしまったもの。
それを、人は後から「才能」と呼ぶのかもしれない。
電話の向こうで、物語が始まった。
僕は黙って、それを聞いていた。
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