真夏の悪夢
八月の夜は、どこかおかしい。
昼間に焼けたアスファルトは日付が変わっても熱を吐き続け、風はぬるく、生き物の息のように肌へまとわりつく。
その夜、私は祖母の家へ向かっていた。
祖母は三年前に亡くなった。家は空き家になり、取り壊しが決まっている。
最後に一度だけ見ておこう。
そんな軽い気持ちだった。
鍵は錆びついていたが、力を込めると嫌な音を立てて開いた。
玄関には、祖母が履いていた赤いサンダルが揃えて置かれていた。
誰も住んでいないはずなのに。
「……誰かいる?」
返事はない。
代わりに、居間の柱時計が、止まっているはずの針を一度だけ鳴らした。
――カチ。
私は苦笑した。
古い家だ。音くらい鳴る。
そう自分に言い聞かせ、部屋を見て回る。
畳は湿気を吸い、障子は黄ばんでいた。
しかし、仏壇だけは異様にきれいだった。
線香の灰も新しい。
思わず手を合わせた瞬間だった。
耳元で、祖母の声がした。
「暑かったでしょう。」
振り返る。
誰もいない。
なのに、背中を冷たい指で撫でられた感覚だけが残っていた。
その夜は家に泊まるつもりだった。
電気は通っている。
扇風機だけ回して横になる。
羽根はゆっくり回転し、規則正しい音を刻む。
ぶぅん。
ぶぅん。
ぶぅん。
眠気が訪れた頃、その音が変わった。
ぶぅん。
ぶぅん。
……ひとり。
ぶぅん。
……ひとり。
私は目を開けた。
扇風機は同じ速度で回っている。
なのに、羽根が風を切る音が言葉になって聞こえる。
――ひとり。
――ひとり。
――ひとり。
気味が悪くなり、コンセントを抜いた。
羽根は止まった。
それでも。
「ひとり。」
声だけが回り続けていた。
暗闇の中。
部屋の隅に誰か立っている。
背の低い老婆だった。
祖母だ。
けれど顔がない。
目も鼻も口もなく、白い皮膚だけがのっぺりと貼りついている。
その顔の真ん中が、ゆっくり割れた。
縦に。
裂け目から、無数の蝉があふれ出した。
ミンミンミンミンミンミン――。
部屋中が羽音で埋まる。
蝉は私の口へ、耳へ、鼻へ潜り込もうとした。
叫ぼうとしても声が出ない。
息ができない。
苦しい。
祖母が裂けた口で笑った。
「夏はね。」
蝉の鳴き声の中でも、その声だけははっきり聞こえた。
「毎年、ひとり連れていくの。」
私は飛び起きた。
朝だった。
汗で布団が濡れている。
夢だった。
そう思った。
窓の外では、眩しいほどの青空が広がり、蝉が元気に鳴いている。
安心して顔を洗いに行く。
洗面所の鏡を見る。
耳の穴から、黒い脚が一本だけ覗いていた。
私は悲鳴を上げて引き抜こうとした。
脚はするりと奥へ引っ込む。
その瞬間。
鏡の中の私は、私より一拍遅れて笑った。
私は笑っていない。
鏡の中の私は口を開き、静かに囁いた。
「来年まで、そこで待ってて。」
鏡は元に戻った。
呼吸が荒くなる。
耳の奥で、何かが羽を震わせている。
ジジジジジ……
病院へ行っても異常はないと言われた。
耳鳴りでしょう、と。
友人に話しても笑われた。
それでも毎年、八月が近づくと羽音は大きくなる。
蝉が鳴き始める頃には、夜中に祖母の声が聞こえる。
「今年は、誰にしようか。」
私は決して夏の夜に窓を開けない。
蝉が部屋へ入ってくるからではない。
あの声が、外からではなく、耳の中から聞こえてくると知っているからだ。
そして今年も。
八月七日の夜。
耳の奥で何かが殻を破った。
その音は、産声によく似ていた。
昼間に焼けたアスファルトは日付が変わっても熱を吐き続け、風はぬるく、生き物の息のように肌へまとわりつく。
その夜、私は祖母の家へ向かっていた。
祖母は三年前に亡くなった。家は空き家になり、取り壊しが決まっている。
最後に一度だけ見ておこう。
そんな軽い気持ちだった。
鍵は錆びついていたが、力を込めると嫌な音を立てて開いた。
玄関には、祖母が履いていた赤いサンダルが揃えて置かれていた。
誰も住んでいないはずなのに。
「……誰かいる?」
返事はない。
代わりに、居間の柱時計が、止まっているはずの針を一度だけ鳴らした。
――カチ。
私は苦笑した。
古い家だ。音くらい鳴る。
そう自分に言い聞かせ、部屋を見て回る。
畳は湿気を吸い、障子は黄ばんでいた。
しかし、仏壇だけは異様にきれいだった。
線香の灰も新しい。
思わず手を合わせた瞬間だった。
耳元で、祖母の声がした。
「暑かったでしょう。」
振り返る。
誰もいない。
なのに、背中を冷たい指で撫でられた感覚だけが残っていた。
その夜は家に泊まるつもりだった。
電気は通っている。
扇風機だけ回して横になる。
羽根はゆっくり回転し、規則正しい音を刻む。
ぶぅん。
ぶぅん。
ぶぅん。
眠気が訪れた頃、その音が変わった。
ぶぅん。
ぶぅん。
……ひとり。
ぶぅん。
……ひとり。
私は目を開けた。
扇風機は同じ速度で回っている。
なのに、羽根が風を切る音が言葉になって聞こえる。
――ひとり。
――ひとり。
――ひとり。
気味が悪くなり、コンセントを抜いた。
羽根は止まった。
それでも。
「ひとり。」
声だけが回り続けていた。
暗闇の中。
部屋の隅に誰か立っている。
背の低い老婆だった。
祖母だ。
けれど顔がない。
目も鼻も口もなく、白い皮膚だけがのっぺりと貼りついている。
その顔の真ん中が、ゆっくり割れた。
縦に。
裂け目から、無数の蝉があふれ出した。
ミンミンミンミンミンミン――。
部屋中が羽音で埋まる。
蝉は私の口へ、耳へ、鼻へ潜り込もうとした。
叫ぼうとしても声が出ない。
息ができない。
苦しい。
祖母が裂けた口で笑った。
「夏はね。」
蝉の鳴き声の中でも、その声だけははっきり聞こえた。
「毎年、ひとり連れていくの。」
私は飛び起きた。
朝だった。
汗で布団が濡れている。
夢だった。
そう思った。
窓の外では、眩しいほどの青空が広がり、蝉が元気に鳴いている。
安心して顔を洗いに行く。
洗面所の鏡を見る。
耳の穴から、黒い脚が一本だけ覗いていた。
私は悲鳴を上げて引き抜こうとした。
脚はするりと奥へ引っ込む。
その瞬間。
鏡の中の私は、私より一拍遅れて笑った。
私は笑っていない。
鏡の中の私は口を開き、静かに囁いた。
「来年まで、そこで待ってて。」
鏡は元に戻った。
呼吸が荒くなる。
耳の奥で、何かが羽を震わせている。
ジジジジジ……
病院へ行っても異常はないと言われた。
耳鳴りでしょう、と。
友人に話しても笑われた。
それでも毎年、八月が近づくと羽音は大きくなる。
蝉が鳴き始める頃には、夜中に祖母の声が聞こえる。
「今年は、誰にしようか。」
私は決して夏の夜に窓を開けない。
蝉が部屋へ入ってくるからではない。
あの声が、外からではなく、耳の中から聞こえてくると知っているからだ。
そして今年も。
八月七日の夜。
耳の奥で何かが殻を破った。
その音は、産声によく似ていた。
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