星を冷やす湖
夏がいちばん暑くなる夜だけ現れる湖がある、と祖母は言っていた。
その湖は地図にはなく、朝になれば跡形もなく消える。
「星が熱を持ちすぎた年だけ、空が冷やしに来るんだよ」
子どもの頃は本気で信じていた。
大人になるにつれ、そんな話は忘れてしまった。
だから高校二年の夏休み、私は祖母の古い家を片付けている最中に、一枚の紙切れを見つけても笑うしかなかった。
――今年も、湖は待っています。
紙には、それだけ書かれていた。
その夜は眠れなかった。
昼間の熱気が畳に残り、窓の外では虫たちが絶え間なく鳴いている。
祖母の家の裏山へ続く細い道を、私は懐中電灯ひとつで歩き始めた。
風はぬるい。
なのに山の奥へ進むほど、空気が少しずつ冷えていく。
やがて木々が途切れた。
そこには、本当に湖があった。
鏡のような水面に、満天の星が映っている。
違う。
映っているのではない。
星そのものが、水の中に沈んでいた。
無数の光が、ゆっくり揺れている。
「来たんだね。」
声がした。
振り返ると、白いワンピースを着た少女が立っていた。
年は私と同じくらいだろうか。
髪には朝顔の花が一輪だけ飾られている。
「ここは?」
「星を冷やす場所。」
彼女は当然のように答えた。
「空の星はね、みんな人の願いを受け止めるでしょう。願いって、すごく熱いの。嬉しい願いも、苦しい願いも、全部熱になる。」
少女は湖を見つめる。
「だから毎年、夏の終わりに少しだけ休ませるの。」
水面から小さな光が浮かび上がった。
掌ほどの星だった。
ふわふわと私の目の前まで飛んできて、頬に触れる。
冷たい。
氷のようではなく、夕立のあとの風みたいな温度だった。
「触ってもいいよ。」
恐る恐る手を伸ばく。
星は私の手の中で、小さく脈を打った。
その瞬間、誰かの声が聞こえた。
「受かりますように。」
「元気になりますように。」
「もう一度会えますように。」
世界中の願いだった。
泣きながら祈る声。
笑いながら願う声。
照れくさそうにつぶやく声。
星はそれらを抱え続けて、こんなにも熱くなっていたのだ。
私は思わず胸が苦しくなった。
「重いね。」
「うん。」
少女は笑った。
「でも星は、一度も嫌だって言ったことがない。」
私は彼女と並んで湖畔を歩いた。
蛍が飛び交うように、小さな星たちが空中を漂っている。
「あなたは誰?」
尋ねると、彼女は少しだけ困った顔をした。
「名前はないの。」
「じゃあ、湖の精?」
「そう呼ばれたこともある。」
「本当は?」
「夏。」
私は聞き返そうとして、言葉を失った。
彼女の髪の先が、月明かりに透けていた。
少しずつ消えている。
「湖が消える朝には、私もいなくなる。」
「毎年?」
「うん。」
「寂しくない?」
彼女は少し考えてから言った。
「寂しいって思えるくらい、毎年誰かが来てくれるから。」
その笑顔は、なぜだか涙が出そうになるほど優しかった。
夜明けが近づくと、湖の水が空へ昇り始めた。
星たちは一つずつ浮かび上がり、夜空へ帰っていく。
光は昨日より少しだけ柔らかく見えた。
「冷えたんだね。」
「うん。今年も大丈夫。」
彼女は安心したように頷く。
しかし身体はもう半分ほど透けていた。
「また来年。」
私は言った。
「来るよ。」
少女は首を横に振った。
「来年の私は、今年の私じゃない。」
夏は毎年違う。
吹く風も、蝉の声も、雲の形も。
同じようでいて、一つとして同じ夏はない。
「でも。」
彼女は私の胸に指先を当てた。
「あなたが今年の夏を忘れなければ、私は消えない。」
その言葉を最後に、少女は朝焼けへ溶けていった。
朝顔の花びらだけが一枚、足元へ落ちる。
それも風にさらわれると、湖は跡形もなく消えていた。
夏休みが終わった。
教室では誰もが宿題や進路の話をしている。
窓の外では積乱雲が小さくなり、空が少し高く見えた。
私はふと夜空を見上げる。
星は変わらず瞬いている。
けれど以前とは違って見えた。
誰かの願いを抱き、
誰かの明日を照らし、
そして年に一度だけ、静かな湖で休んでいる。
そんな秘密を知ってしまったから。
あの夏が夢だったのか、本当にあった出来事だったのか、今でも分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
一年後、またいちばん暑い夜になったら、私は裏山へ向かうだろう。
今年とは違う夏に会うために。
そして、冷たくなった星にそっと触れながら、新しい願いを預けるのだ。
「どうか来年の夏も、誰かにとって忘れられない季節になりますように。」
その湖は地図にはなく、朝になれば跡形もなく消える。
「星が熱を持ちすぎた年だけ、空が冷やしに来るんだよ」
子どもの頃は本気で信じていた。
大人になるにつれ、そんな話は忘れてしまった。
だから高校二年の夏休み、私は祖母の古い家を片付けている最中に、一枚の紙切れを見つけても笑うしかなかった。
――今年も、湖は待っています。
紙には、それだけ書かれていた。
その夜は眠れなかった。
昼間の熱気が畳に残り、窓の外では虫たちが絶え間なく鳴いている。
祖母の家の裏山へ続く細い道を、私は懐中電灯ひとつで歩き始めた。
風はぬるい。
なのに山の奥へ進むほど、空気が少しずつ冷えていく。
やがて木々が途切れた。
そこには、本当に湖があった。
鏡のような水面に、満天の星が映っている。
違う。
映っているのではない。
星そのものが、水の中に沈んでいた。
無数の光が、ゆっくり揺れている。
「来たんだね。」
声がした。
振り返ると、白いワンピースを着た少女が立っていた。
年は私と同じくらいだろうか。
髪には朝顔の花が一輪だけ飾られている。
「ここは?」
「星を冷やす場所。」
彼女は当然のように答えた。
「空の星はね、みんな人の願いを受け止めるでしょう。願いって、すごく熱いの。嬉しい願いも、苦しい願いも、全部熱になる。」
少女は湖を見つめる。
「だから毎年、夏の終わりに少しだけ休ませるの。」
水面から小さな光が浮かび上がった。
掌ほどの星だった。
ふわふわと私の目の前まで飛んできて、頬に触れる。
冷たい。
氷のようではなく、夕立のあとの風みたいな温度だった。
「触ってもいいよ。」
恐る恐る手を伸ばく。
星は私の手の中で、小さく脈を打った。
その瞬間、誰かの声が聞こえた。
「受かりますように。」
「元気になりますように。」
「もう一度会えますように。」
世界中の願いだった。
泣きながら祈る声。
笑いながら願う声。
照れくさそうにつぶやく声。
星はそれらを抱え続けて、こんなにも熱くなっていたのだ。
私は思わず胸が苦しくなった。
「重いね。」
「うん。」
少女は笑った。
「でも星は、一度も嫌だって言ったことがない。」
私は彼女と並んで湖畔を歩いた。
蛍が飛び交うように、小さな星たちが空中を漂っている。
「あなたは誰?」
尋ねると、彼女は少しだけ困った顔をした。
「名前はないの。」
「じゃあ、湖の精?」
「そう呼ばれたこともある。」
「本当は?」
「夏。」
私は聞き返そうとして、言葉を失った。
彼女の髪の先が、月明かりに透けていた。
少しずつ消えている。
「湖が消える朝には、私もいなくなる。」
「毎年?」
「うん。」
「寂しくない?」
彼女は少し考えてから言った。
「寂しいって思えるくらい、毎年誰かが来てくれるから。」
その笑顔は、なぜだか涙が出そうになるほど優しかった。
夜明けが近づくと、湖の水が空へ昇り始めた。
星たちは一つずつ浮かび上がり、夜空へ帰っていく。
光は昨日より少しだけ柔らかく見えた。
「冷えたんだね。」
「うん。今年も大丈夫。」
彼女は安心したように頷く。
しかし身体はもう半分ほど透けていた。
「また来年。」
私は言った。
「来るよ。」
少女は首を横に振った。
「来年の私は、今年の私じゃない。」
夏は毎年違う。
吹く風も、蝉の声も、雲の形も。
同じようでいて、一つとして同じ夏はない。
「でも。」
彼女は私の胸に指先を当てた。
「あなたが今年の夏を忘れなければ、私は消えない。」
その言葉を最後に、少女は朝焼けへ溶けていった。
朝顔の花びらだけが一枚、足元へ落ちる。
それも風にさらわれると、湖は跡形もなく消えていた。
夏休みが終わった。
教室では誰もが宿題や進路の話をしている。
窓の外では積乱雲が小さくなり、空が少し高く見えた。
私はふと夜空を見上げる。
星は変わらず瞬いている。
けれど以前とは違って見えた。
誰かの願いを抱き、
誰かの明日を照らし、
そして年に一度だけ、静かな湖で休んでいる。
そんな秘密を知ってしまったから。
あの夏が夢だったのか、本当にあった出来事だったのか、今でも分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
一年後、またいちばん暑い夜になったら、私は裏山へ向かうだろう。
今年とは違う夏に会うために。
そして、冷たくなった星にそっと触れながら、新しい願いを預けるのだ。
「どうか来年の夏も、誰かにとって忘れられない季節になりますように。」
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