氷るレクイエム
肌にまとわりつくような、ねっとりとした熱気だった。
アスファルトからは陽炎が立ち上り、街路樹のセミの鳴き声が、俺の耳を劈くように急き立ててくる。
令和の時代に取り残されたような、掠れた文字の看板――かき氷専門店「氷室」。
その引き戸を引いた瞬間、冷房の冷気と一緒に、鼻を突くような緊迫感が俺の顔を叩いた。
「佐藤先輩、こちらです」
後輩の巡査が、額の汗を拭いながら奥のボックス席へと俺を促す。
そこに、男がいた。
店主の金沢(60)。
椅子に深く腰掛けたまま、虚ろな目を天井に向けて硬直している。
その右手には、今なお銀色のスプーンが固く握られていた。
まるで、まだ食べ続けている最中だと主張するかのように。
「死因は急性毒劇物による中毒死です」
検視官が、俺の耳元で短く告げた。
「死亡推定時刻は午後二時前後。ほぼ即死だったと思われます」
俺は眼鏡のブリッジを押し上げ、テーブルの上の「それ」を凝視した。
ガラスの器に盛られた、いちごかき氷。
だが、俺の刑事としての勘が、その見た目に対して強烈なアラームを鳴らしていた。
不自然極まりない。
器に盛られた氷は、右半分だけが真っ赤なシロップに染まり、左半分は削り出されたままの「真っ白な雪」の姿を保っているのだ。
冷房の風に晒され、氷の縁からじわじわと透明な水へと溶け出し始めているその光景は、どこかグロテスクですらあった。
もう一つ、俺の目を引いたのは、金沢の左手だった。
テーブルの上に不自然に投げ出されたその指先。
その先には、赤いいちごシロップの滴を指で引きずったような、歪な「レ」の字の跡が残されていた。
「先輩、被害者のダイイング・メッセージでしょうか?」
後輩が手帳を片手に顔を覗き込んでくる。
「さあな。だが、文字にしては不自然だ」
俺は小さく首を振り、店内に留め置かれている三人の容疑者へと視線を向けた。
背中にじっとりとした嫌な汗が流れるのを感じる。
「私が……私が、最初に見つけたんです」
最初に口を開いたのは、アルバイトの阿部(25)だった。
エプロンをつけた両手を小刻みに震わせ、顔面を蒼白にしている。
「店長はいつも、午後二時になると自分用のかき氷を作って食べるのが日課でした。
今日も自分で氷を削り、シロップをかけて、あの席に着いたんです。
私は厨房の奥で製氷機の掃除をしていたので、食べている姿は直接見ていません。静かになったなと思って見に来たら、もう……」
事前に署から入っていた情報が頭をよぎる。阿部は店主と、給与の未払いを巡って度々激しい口論を起こしていた。
「私はただ、いつものように涼みに来ただけですよ」
冷や汗を拭いながらハンカチを握りしめたのは、常連客の坂口(42)だ。
「二時少し前に店に入ったら、金沢さんがちょうど氷を削っているところでした。
挨拶をして、私は離れた席で週刊誌を読んでいたんです。
金沢さんが席に着いて、一口食べたと思ったら、急に胸を押さえて倒れて……何が起きたか分からなかった」
坂口はギャンブル依存症で多額の借金を抱えており、金沢に借金を断られ、恨んでいたという動機がある。
「私は、ただの通りすがりよ」
腕を組み、不機嫌そうに吐き捨てたのは、向かいのモダンカフェの店主、千歳(30)だ。
「うちの店にお客さんを呼び戻すために、文句を言いに来たの。
この古い店があるせいで、うちの若い客が流れていっちゃうから。
でも、店に入ったらもう金沢さんは倒れていたわ。阿部君が悲鳴を上げているところだった」
千歳のカフェとこの店の間では、客引きを巡るトラブルが絶えなかった。
三人の容疑者。
全員に動機があり、全員に犯行の機会がある。
そこへ、鑑識の男が俺に耳打ちした。
「佐藤さん、毒物は金沢の器の『いちごシロップ』からのみ検出されました。厨房の一升瓶はシロです。器に直接盛られたな」
よし、と俺は心の中で呟いた。すべての材料は揃った。
俺は再び、溶けかけのかき氷の前に立った。
赤いシロップと、白い氷。
そしてテーブルの「レ」の字。
俺は目を閉じ、自分がかき氷を食べる時の動きを頭の中でトレースする。
右手にスプーンを持ち、左手で器を支える。
シロップをかけるときは……。
目を開けた瞬間、俺の中で冷たいパズルが音を立てて組み上がった。
「阿部さん」
俺は極めて低い声で、その名前を呼んだ。
「あんたの証言には、看過できない致命的な嘘がある」
「え……? 嘘なんて、ついていません!」
阿部が声を裏返らせ、一歩後退りする。
その瞳に明らかな動揺が走るのを、俺は見逃さなかった。
「あんたは、店主が『自分で氷を削り、自分でシロップをかけて席に着いた』と言った。
それが嘘だ。
このかき氷を見てみろ。半分は真っ白なまま、もう半分だけに綺麗にシロップがかかっている。
右利きの金沢さんが、自分でシロップをかけたなら、こんな奇妙な形には絶対にならない」
「そんなの、ただの気まぐれで、半分だけかけたのかも知れないじゃないですか!」
「いいえ。かき氷機から氷を器に盛る際、氷は必ず山型になる。
右利きの人間が自分でシロップの入った容器を持つ場合、器を回しながら全体にかけるか、あるいは手前から奥へと流すのが自然だ。
だが、この氷は『左側から、斜め下に滑り落ちるように』シロップがかかっている。
これは、席に座っている金沢さんの左側から、別の人間が容器を傾けてシロップを注いだ軌跡だ」
俺は逃げ道を塞ぐように、阿部へと一歩踏み込んだ。
「さらに、このテーブルの『レ』の字だ。後輩はこれをダイイング・メッセージだと言ったが、それも違う。
金沢さんは右利きだ。
猛毒を飲まされ、意識が薄れる極限状態の中で、わざわざ使い慣れない左手で文字を書くはずがない。
金沢さんの左手がそこにあったのは、単に、自分の左側に立っていた『犯人』――
――あんたの衣服を掴もうと、必死に手を伸ばして抵抗した結果だ」
「じゃあ、その『レ』の字は何なんですか!」
「これは文字じゃない。あんたが慌てて証拠を消そうとした『擦り跡』だ」
俺は阿部の目を真っ向から見据えた。
「あんたが金沢さんの隙を突き、左側から毒入りのいちごシロップを回しかけた際、シロップがテーブルに一滴こぼれた。
あんたは毒殺が完了した後、その滴が証拠になるのを恐れ、指先で咄嗟に拭き取ろうとした。
だが、金沢さんの体が倒れ込んできたため、完全に消し去ることができず、指を引いた跡が『レ』の字の形に残ってしまったんだ。
――阿部さん、あんたの指先から、いちごの甘い香りと、微量の毒物反応が出るか、今から調べさせてもらってもいいな?」
「あ……、ああ……」
阿部の口から、魂が抜けたような掠れた声が漏れた。
その場にへたり込み、エプロンに顔を埋めて、彼はむせび泣き始めた。
「店長は……あの人は、私がどれだけ朝早くから仕込みをしても、どれだけ丁寧に氷を削る技術を磨いても、一度も褒めてくれなかった。
それどころか、時給を下げるとまで言い出したんだ。
この店は、俺の努力で持っていたようなものなのに……!」
動機は、積年の承認欲求の拗れと、金銭的な絶望。
後輩の巡査に連行されていく阿部の後ろ姿を、俺はポケットに手を突っ込んだまま、静かに見送った。
店外へ出ると、凶悪なまでの熱風が再び俺を包み込んだ。
店内のテーブルの上では、事件の残酷な証拠となったいちごかき氷が、夏の光を浴びて完全に溶けきり、ただの赤くにじんだ冷たい水へと姿を変えていた。
俺は深くため息をつき、次の現場へと歩き出した。
アスファルトからは陽炎が立ち上り、街路樹のセミの鳴き声が、俺の耳を劈くように急き立ててくる。
令和の時代に取り残されたような、掠れた文字の看板――かき氷専門店「氷室」。
その引き戸を引いた瞬間、冷房の冷気と一緒に、鼻を突くような緊迫感が俺の顔を叩いた。
「佐藤先輩、こちらです」
後輩の巡査が、額の汗を拭いながら奥のボックス席へと俺を促す。
そこに、男がいた。
店主の金沢(60)。
椅子に深く腰掛けたまま、虚ろな目を天井に向けて硬直している。
その右手には、今なお銀色のスプーンが固く握られていた。
まるで、まだ食べ続けている最中だと主張するかのように。
「死因は急性毒劇物による中毒死です」
検視官が、俺の耳元で短く告げた。
「死亡推定時刻は午後二時前後。ほぼ即死だったと思われます」
俺は眼鏡のブリッジを押し上げ、テーブルの上の「それ」を凝視した。
ガラスの器に盛られた、いちごかき氷。
だが、俺の刑事としての勘が、その見た目に対して強烈なアラームを鳴らしていた。
不自然極まりない。
器に盛られた氷は、右半分だけが真っ赤なシロップに染まり、左半分は削り出されたままの「真っ白な雪」の姿を保っているのだ。
冷房の風に晒され、氷の縁からじわじわと透明な水へと溶け出し始めているその光景は、どこかグロテスクですらあった。
もう一つ、俺の目を引いたのは、金沢の左手だった。
テーブルの上に不自然に投げ出されたその指先。
その先には、赤いいちごシロップの滴を指で引きずったような、歪な「レ」の字の跡が残されていた。
「先輩、被害者のダイイング・メッセージでしょうか?」
後輩が手帳を片手に顔を覗き込んでくる。
「さあな。だが、文字にしては不自然だ」
俺は小さく首を振り、店内に留め置かれている三人の容疑者へと視線を向けた。
背中にじっとりとした嫌な汗が流れるのを感じる。
「私が……私が、最初に見つけたんです」
最初に口を開いたのは、アルバイトの阿部(25)だった。
エプロンをつけた両手を小刻みに震わせ、顔面を蒼白にしている。
「店長はいつも、午後二時になると自分用のかき氷を作って食べるのが日課でした。
今日も自分で氷を削り、シロップをかけて、あの席に着いたんです。
私は厨房の奥で製氷機の掃除をしていたので、食べている姿は直接見ていません。静かになったなと思って見に来たら、もう……」
事前に署から入っていた情報が頭をよぎる。阿部は店主と、給与の未払いを巡って度々激しい口論を起こしていた。
「私はただ、いつものように涼みに来ただけですよ」
冷や汗を拭いながらハンカチを握りしめたのは、常連客の坂口(42)だ。
「二時少し前に店に入ったら、金沢さんがちょうど氷を削っているところでした。
挨拶をして、私は離れた席で週刊誌を読んでいたんです。
金沢さんが席に着いて、一口食べたと思ったら、急に胸を押さえて倒れて……何が起きたか分からなかった」
坂口はギャンブル依存症で多額の借金を抱えており、金沢に借金を断られ、恨んでいたという動機がある。
「私は、ただの通りすがりよ」
腕を組み、不機嫌そうに吐き捨てたのは、向かいのモダンカフェの店主、千歳(30)だ。
「うちの店にお客さんを呼び戻すために、文句を言いに来たの。
この古い店があるせいで、うちの若い客が流れていっちゃうから。
でも、店に入ったらもう金沢さんは倒れていたわ。阿部君が悲鳴を上げているところだった」
千歳のカフェとこの店の間では、客引きを巡るトラブルが絶えなかった。
三人の容疑者。
全員に動機があり、全員に犯行の機会がある。
そこへ、鑑識の男が俺に耳打ちした。
「佐藤さん、毒物は金沢の器の『いちごシロップ』からのみ検出されました。厨房の一升瓶はシロです。器に直接盛られたな」
よし、と俺は心の中で呟いた。すべての材料は揃った。
俺は再び、溶けかけのかき氷の前に立った。
赤いシロップと、白い氷。
そしてテーブルの「レ」の字。
俺は目を閉じ、自分がかき氷を食べる時の動きを頭の中でトレースする。
右手にスプーンを持ち、左手で器を支える。
シロップをかけるときは……。
目を開けた瞬間、俺の中で冷たいパズルが音を立てて組み上がった。
「阿部さん」
俺は極めて低い声で、その名前を呼んだ。
「あんたの証言には、看過できない致命的な嘘がある」
「え……? 嘘なんて、ついていません!」
阿部が声を裏返らせ、一歩後退りする。
その瞳に明らかな動揺が走るのを、俺は見逃さなかった。
「あんたは、店主が『自分で氷を削り、自分でシロップをかけて席に着いた』と言った。
それが嘘だ。
このかき氷を見てみろ。半分は真っ白なまま、もう半分だけに綺麗にシロップがかかっている。
右利きの金沢さんが、自分でシロップをかけたなら、こんな奇妙な形には絶対にならない」
「そんなの、ただの気まぐれで、半分だけかけたのかも知れないじゃないですか!」
「いいえ。かき氷機から氷を器に盛る際、氷は必ず山型になる。
右利きの人間が自分でシロップの入った容器を持つ場合、器を回しながら全体にかけるか、あるいは手前から奥へと流すのが自然だ。
だが、この氷は『左側から、斜め下に滑り落ちるように』シロップがかかっている。
これは、席に座っている金沢さんの左側から、別の人間が容器を傾けてシロップを注いだ軌跡だ」
俺は逃げ道を塞ぐように、阿部へと一歩踏み込んだ。
「さらに、このテーブルの『レ』の字だ。後輩はこれをダイイング・メッセージだと言ったが、それも違う。
金沢さんは右利きだ。
猛毒を飲まされ、意識が薄れる極限状態の中で、わざわざ使い慣れない左手で文字を書くはずがない。
金沢さんの左手がそこにあったのは、単に、自分の左側に立っていた『犯人』――
――あんたの衣服を掴もうと、必死に手を伸ばして抵抗した結果だ」
「じゃあ、その『レ』の字は何なんですか!」
「これは文字じゃない。あんたが慌てて証拠を消そうとした『擦り跡』だ」
俺は阿部の目を真っ向から見据えた。
「あんたが金沢さんの隙を突き、左側から毒入りのいちごシロップを回しかけた際、シロップがテーブルに一滴こぼれた。
あんたは毒殺が完了した後、その滴が証拠になるのを恐れ、指先で咄嗟に拭き取ろうとした。
だが、金沢さんの体が倒れ込んできたため、完全に消し去ることができず、指を引いた跡が『レ』の字の形に残ってしまったんだ。
――阿部さん、あんたの指先から、いちごの甘い香りと、微量の毒物反応が出るか、今から調べさせてもらってもいいな?」
「あ……、ああ……」
阿部の口から、魂が抜けたような掠れた声が漏れた。
その場にへたり込み、エプロンに顔を埋めて、彼はむせび泣き始めた。
「店長は……あの人は、私がどれだけ朝早くから仕込みをしても、どれだけ丁寧に氷を削る技術を磨いても、一度も褒めてくれなかった。
それどころか、時給を下げるとまで言い出したんだ。
この店は、俺の努力で持っていたようなものなのに……!」
動機は、積年の承認欲求の拗れと、金銭的な絶望。
後輩の巡査に連行されていく阿部の後ろ姿を、俺はポケットに手を突っ込んだまま、静かに見送った。
店外へ出ると、凶悪なまでの熱風が再び俺を包み込んだ。
店内のテーブルの上では、事件の残酷な証拠となったいちごかき氷が、夏の光を浴びて完全に溶けきり、ただの赤くにじんだ冷たい水へと姿を変えていた。
俺は深くため息をつき、次の現場へと歩き出した。
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