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夏祭りのあとで

町には古い言い伝えがあった。
祭りの最後に流す灯籠には、願いを書いてはいけない年があるという。

その年に願いを書くと、願いは叶う代わりに、その願いを抱いていた自分がいなくなる。

だから町の老人たちは、何も書かない灯籠を静かに川へ流した。

子どもだった私は、それを臆病なのだと思っていた。

願いくらい書けばいいのに、と。

あれから二十年が過ぎた。

父が亡くなり、母は遠くの施設へ入り、私は東京で働き、帰省する理由も少なくなっていた。

それでも夏になると、不思議とあの祭りだけは思い出した。

町へ戻ると、空気の匂いは昔と変わらなかった。

焼きとうもろこし。

線香花火。

川から吹く少し湿った風。

提灯の灯りは、まるで時間だけを照らしているようだった。

駅前の商店街を歩く。

私が通っていた駄菓子屋は喫茶店になり、自転車屋は閉じていた。

知らない子どもたちが笑いながら走り抜ける。

その笑い声だけは、私の記憶より新しい。

祭囃子が始まるころ、私は川辺へ向かった。

灯籠を受け取る。

白い紙。

墨。

筆。

何を書けばいいのか分からない。

願いはある。

「もう一度父に会いたい。」

そう書こうとして、筆が止まった。

もし願いが叶ったとして。

父が帰ってきたとして。

その父は、本当に私が会いたかった父なのだろうか。

あるいは、会いたいと思っている私は、昔の私なのだろうか。

「人は、同じ川に二度入れない。」

大学で読んだ哲学者の言葉を思い出す。

変わるのは川だけではない。

川へ入る人も変わっている。

ならば再会とは何なのだろう。

昔と同じ父など存在しない。

昔と同じ私も、もう存在しない。

「悩んでいるね。」

声がした。

振り返ると、一人の老人が腰を下ろしていた。

紺色の浴衣。

古びた団扇。

顔立ちはどこにでもいそうなのに、一度目を離すと忘れてしまいそうだった。

「願いを書くべきか迷っています。」

老人は灯籠を見つめた。

「願いとは面白いものだ。」

「どうしてですか。」

「未来へ向かっているようで、実は過去へ手を伸ばしている。」

私は意味を考えた。

老人は川を見つめたまま続ける。

「幸せになりたい、という願いの中には、今の自分では足りないという過去がある。」

「誰かに会いたいという願いには、失った時間がある。」

「人は未来ではなく、失ったものに導かれて生きている。」

その言葉は胸に落ちた。

祭りは毎年ある。

けれど私が探していたのは、今年の祭りではなかった。

父が笑っていた祭り。

母が浴衣を直してくれた祭り。

友人と夜店を回った祭り。

二度と戻らない一夜だった。

「祭りは終わるから美しい。」

私がそう言うと、老人は静かに笑った。

「違う。」

「終わるからではない。」

「終わったことに、あとから気づくから美しい。」

その言葉だけは理解できなかった。

やがて花火が始まった。

夜空いっぱいに光が咲く。

誰も空を見上げている。

しかし不思議なことに、人々は花火そのものを見ているのではない。

隣に立つ誰かと、同じ花火を見たという時間を見ている。

そう思えた。

花火が消えるたび、闇は少しだけ深くなる。

老人が言う。

「君は、自分を一人の人間だと思っている。」

「違うんですか。」

「人は、会った人の数だけ存在している。」

父の前の私。

母の前の私。

友人の前の私。

初恋の人の前の私。

今の職場の私。

どれも私だった。

どれも違っていた。

もし、その全員が私を忘れたら。

私はまだ、私なのだろうか。

老人は何も答えない。

川風だけが吹いていた。

灯籠流しが始まる。

一つ、また一つと灯が水面へ浮かぶ。

星が川へ落ちていくようだった。

私は結局、何も書かなかった。

願いを書く代わりに、白紙を折りたたんで灯籠へ入れる。

「それでいい。」

老人はそう言った。

「言葉にならないものほど、本当は失われない。」

灯籠を流す。

小さな灯は他の灯と混ざり、どれが自分のものか分からなくなる。

私は隣を見た。

老人がいない。

最初から誰も座っていなかったように、草だけが風に揺れている。

祭りは終わった。

人々は家路につく。

屋台の灯りが一つずつ消え、笑い声が遠ざかる。

最後まで残った私は、川だけを見つめていた。

流れていく灯は、やがて闇へ溶ける。

一つ消え、また一つ消える。

それを見ていて、私はふと思い出した。

父と最後に祭りへ来た夜のことを。

あの日も父は灯籠を流した。

私は尋ねたのだ。

「何を書いたの?」

父は笑って答えなかった。

あのときは秘密にしているのだと思った。

違ったのかもしれない。

何も書かなかったのだ。

私が生まれてから、父は何度も祭りへ来ていた。

そのたびに、願いを書かなかったのだろう。

叶えたい未来よりも、守りたい今のほうが大きかったのかもしれない。

私は川面へ目を戻した。

さっきまで見えていた灯は、一つも残っていなかった。

光は消えたのではない。

遠くへ行きすぎて、もう見えなくなっただけだ。

そのことが、どうしようもなく悲しかった。

人も同じなのだと思った。

別れとは、突然いなくなることではない。

少しずつ遠くなり、声を忘れ、匂いを忘れ、顔を思い出すまで時間がかかるようになって、それでも心のどこかではまだ生き続けていることなのだ。

帰り道、神社の石段を下りる。

誰もいない境内で、風鈴が一つだけ鳴った。

振り返る。

提灯はもう消えていた。

祭りは終わっていた。

終わったはずなのに、私はまだ祭りの中にいる気がした。

あるいは、本当は人生そのものが、終わったあとでしか祭りだったと気づけない一夜なのかもしれない。

翌朝、町を発つ前に川へ寄った。

水面には何も浮かんでいなかった。

昨日の光は、跡形もない。

けれど川だけは、何事もなかったように流れ続けていた。

私はその流れを見送りながら、ふと父の声を思い出そうとした。

何度繰り返しても、その声だけが思い出せなかった。

笑顔は覚えている。

背中も覚えている。

大きな手も覚えている。

けれど、声だけが、夏の終わりの風にさらわれたように戻ってこない。

私は目を閉じた。

もし人が二度死ぬのだとしたら、一度目は息を引き取る日で、二度目は誰かの記憶から、その声が消える日なのだろう。

川は静かに流れていた。

私は何も祈らず、何も願わず、ただ一礼して町をあとにした。

遠ざかる車窓から川が見えた。

朝の光を受けて、水面だけが白く輝いている。

昨夜流した灯籠は、もうどこにも見えない。

けれど、その見えない光が今も海へ向かっているのだと信じたかった。

それは願いではない。

願いになる前に、人が誰かを想った、その一瞬のぬくもりだった。

作者メッセージ

今ロシア語で悪口送ってその後、短冊に語彙力アップ、5000閲覧、彼氏を願ったKanonLOVEです((

では!

2026/08/01 20:26

KanonLOVE
ID:≫ n00YEDEqgv6kY
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