私は仮面が好きだった。
自分を隠せて、
自分ではない誰かになれて。
それは逃げるための道具であり、
同時に、
私を救ってくれるものだった。
仮面を被れば、
笑うべきときに笑えるし、
怒るべきときに怒れる。
中身がどうであれ、
外側だけは、
ちゃんと[太字]人間[/太字]でいられた。
まるで自分から離れられるようで。
私は、
仮面が好きだった。
私は鏡が大嫌いだった。
そこに映る私は、
仮面を被らない。
隠しもしないし、
嘘もつかない。
どんなに目を逸らしても、
鏡の中の私は、
私より先に、
私を見つけてしまう。
一番の理由は、
[太字]いつでも正直でしかいてくれない
[/太字]からだった。
どんなに傷つこうと、
どんなに壊れかけていようと、
鏡は、
誠実でしかいてくれない。
それが、
どうしようもなく嫌だった。
仮面と鏡は、
どちらも、
誰にでもなれる。
でも―
仮面は、
嘘つきでいてくれるのに、
鏡は、
誠実さを貫く。
似ているようで、
二つはまったく違う場所に立っていた。
私はその違いから、
ずっと目を逸らしていた。
ある日、鏡を割った。
衝動だったのか、
必然だったのか、
今となっては分からない。
床に散らばった破片の中に、
無数の私が映っていた。
笑っているのに、
笑っていない私。
怒っているのに、
怒っていない私。
泣いているのに、
涙のない私。
どれも、
私だった。
だからこそ、
それを見るのが、
耐えられなかった。
破片の一つが、
かすかに、光った気がした。
私はそのとき、まだ知らなかった。
鏡は、
割れて終わるものではないことを。
仮面が、
呼び声を持つことを。
そして―
割れた鏡の向こう側で、
誰かが、
私を待っていたことを。
床に散らばった鏡の破片は、
思っていたよりも静かだった。
何かが起こると思っていた。
悲鳴のような音や、
世界が歪む感覚や、
取り返しのつかない後悔が。
けれど、
部屋は何も変わらない。
ただ、
割れた鏡だけが、
私の足元で、
私を見上げていた。
破片を一つ拾い上げる。
指先に冷たい感触が伝わり、
遅れて、
痛みが来た。
血が、
鏡の縁をなぞるように流れる。
その赤が映った瞬間、
破片の中の景色が、
わずかに揺れた。
―違う。
そこに映っていたのは、
血に濡れた私の顔ではなかった。
白い面。
細くつり上がった目。
口元だけが、意味ありげに微笑んでいる。
[太字][明朝体][大文字]狐の、
お面だった。[/大文字][/明朝体][/太字]
息が詰まる。
思わず破片を落としそうになり、
慌てて握り直す。
もう一度、
確かめるように覗き込む。
狐の面は、
まだそこにあった。
そして次の瞬間、
破片の向こう側で、
その狐が―
―瞬きをした。
「…やっと、見てくれた…」
声がした。
耳元ではない。
頭の中でもない。
鏡の向こう側からだった。
「大丈夫。取って食べたりはしないよ」
どこか幼い声。
けれど妙に落ち着いていて、
作られたみたいに、
整っている。
「君が鏡を割ってくれなかったら、
僕は、ずっとここにいなきゃいけなかった」
破片の中で、
狐のお面が少し傾く。
「ねえ。
君も、顔を隠したいんでしょう?」
心臓が、
大きく跳ねた。
どうして、
それを。
「嘘がつける場所があるんだ
仮面を被れば、ちゃんと[太字]なりたい自分[/太字]でいられる」
狐の面の奥は、
暗くて、
何も見えない。
空っぽなのに、
そこには確かに[太字]誰か[/太字]がいた。
「…あなたは、誰?」
私の声は、
思ったより震えていなかった。
「僕?」
狐の少年は、
少し考える仕草をした。
「名前は、まだないんだ
でも―」
一歩、こちらへ近づく。
正確には、
鏡の向こうから、
こちらへ。
「君が望むなら、案内くらいはできる」
狐のお面が、
微笑む。
微笑んでいるように、
見えただけなのかもしれない。
「仮面の世界へ」
その瞬間、
床に散らばっていた鏡の破片すべてが、
同時に、
淡く光り始めた。
自分を隠せて、
自分ではない誰かになれて。
それは逃げるための道具であり、
同時に、
私を救ってくれるものだった。
仮面を被れば、
笑うべきときに笑えるし、
怒るべきときに怒れる。
中身がどうであれ、
外側だけは、
ちゃんと[太字]人間[/太字]でいられた。
まるで自分から離れられるようで。
私は、
仮面が好きだった。
私は鏡が大嫌いだった。
そこに映る私は、
仮面を被らない。
隠しもしないし、
嘘もつかない。
どんなに目を逸らしても、
鏡の中の私は、
私より先に、
私を見つけてしまう。
一番の理由は、
[太字]いつでも正直でしかいてくれない
[/太字]からだった。
どんなに傷つこうと、
どんなに壊れかけていようと、
鏡は、
誠実でしかいてくれない。
それが、
どうしようもなく嫌だった。
仮面と鏡は、
どちらも、
誰にでもなれる。
でも―
仮面は、
嘘つきでいてくれるのに、
鏡は、
誠実さを貫く。
似ているようで、
二つはまったく違う場所に立っていた。
私はその違いから、
ずっと目を逸らしていた。
ある日、鏡を割った。
衝動だったのか、
必然だったのか、
今となっては分からない。
床に散らばった破片の中に、
無数の私が映っていた。
笑っているのに、
笑っていない私。
怒っているのに、
怒っていない私。
泣いているのに、
涙のない私。
どれも、
私だった。
だからこそ、
それを見るのが、
耐えられなかった。
破片の一つが、
かすかに、光った気がした。
私はそのとき、まだ知らなかった。
鏡は、
割れて終わるものではないことを。
仮面が、
呼び声を持つことを。
そして―
割れた鏡の向こう側で、
誰かが、
私を待っていたことを。
床に散らばった鏡の破片は、
思っていたよりも静かだった。
何かが起こると思っていた。
悲鳴のような音や、
世界が歪む感覚や、
取り返しのつかない後悔が。
けれど、
部屋は何も変わらない。
ただ、
割れた鏡だけが、
私の足元で、
私を見上げていた。
破片を一つ拾い上げる。
指先に冷たい感触が伝わり、
遅れて、
痛みが来た。
血が、
鏡の縁をなぞるように流れる。
その赤が映った瞬間、
破片の中の景色が、
わずかに揺れた。
―違う。
そこに映っていたのは、
血に濡れた私の顔ではなかった。
白い面。
細くつり上がった目。
口元だけが、意味ありげに微笑んでいる。
[太字][明朝体][大文字]狐の、
お面だった。[/大文字][/明朝体][/太字]
息が詰まる。
思わず破片を落としそうになり、
慌てて握り直す。
もう一度、
確かめるように覗き込む。
狐の面は、
まだそこにあった。
そして次の瞬間、
破片の向こう側で、
その狐が―
―瞬きをした。
「…やっと、見てくれた…」
声がした。
耳元ではない。
頭の中でもない。
鏡の向こう側からだった。
「大丈夫。取って食べたりはしないよ」
どこか幼い声。
けれど妙に落ち着いていて、
作られたみたいに、
整っている。
「君が鏡を割ってくれなかったら、
僕は、ずっとここにいなきゃいけなかった」
破片の中で、
狐のお面が少し傾く。
「ねえ。
君も、顔を隠したいんでしょう?」
心臓が、
大きく跳ねた。
どうして、
それを。
「嘘がつける場所があるんだ
仮面を被れば、ちゃんと[太字]なりたい自分[/太字]でいられる」
狐の面の奥は、
暗くて、
何も見えない。
空っぽなのに、
そこには確かに[太字]誰か[/太字]がいた。
「…あなたは、誰?」
私の声は、
思ったより震えていなかった。
「僕?」
狐の少年は、
少し考える仕草をした。
「名前は、まだないんだ
でも―」
一歩、こちらへ近づく。
正確には、
鏡の向こうから、
こちらへ。
「君が望むなら、案内くらいはできる」
狐のお面が、
微笑む。
微笑んでいるように、
見えただけなのかもしれない。
「仮面の世界へ」
その瞬間、
床に散らばっていた鏡の破片すべてが、
同時に、
淡く光り始めた。