夏の冷たさ
蝉が鳴き始める少し前の夏は、いつも冷たい。
少なくとも、僕にはそうだった。
八月になると、町は太陽に焼かれて、アスファルトは昼間の熱を夜まで抱えていた。川沿いの道には干からびた草が並び、古い商店街の軒先では、誰も買わないような風鈴だけが律儀に鳴っていた。
その町に、僕は十七歳まで住んでいた。
そして、十七歳の夏に、姉を失った。
姉の名前は、紗季といった。
僕より三つ年上で、笑うと左の頬に小さなくぼみができた。
紗季は夏が嫌いだった。
「暑いからじゃないよ」
そう言っていた。
「夏って、みんな幸せそうだから」
意味がよく分からなかった。
「春はさ、みんな少し寂しそうじゃん。冬もそう。でも夏になると、急にみんな元気になるでしょう。海に行ったり、花火見たり。そういうのを見ると、自分だけ取り残されたみたいになるの」
僕は笑った。
「姉ちゃん、変なの」
「うん。知ってる」
紗季も笑った。
それが、僕が覚えている最後の笑顔だった。
*
紗季がいなくなったのは、八月十二日の午後だった。
母から電話があった。
「紗季が帰ってこないの」
僕はそのとき、友達とゲームをしていた。
「そのうち帰ってくるよ」
そう答えた。
けれど、帰ってこなかった。
警察が来て、近所の人が集まり、夜になっても、翌朝になっても、紗季は帰ってこなかった。
三日目の朝、川下の堰で見つかった。
事故だった。
そう説明された。
それから僕は、夏になると水が怖くなった。
プールも、海も、川も。
けれど、本当に怖かったのは水ではなかった。
僕は、最後の電話で「そのうち帰ってくる」と言った自分が怖かった。
もっと心配すればよかった。
探しに行けばよかった。
一緒にいてやればよかった。
そんな後悔は、十七歳の僕には重すぎた。
だから僕は、町を出た。
大学に行くという理由をつけて、できるだけ遠くへ行った。
夏が来るたび、僕は帰らなかった。
*
それから十二年後。
母が亡くなった。
葬儀を終えたあと、僕は一人で実家を片づけていた。
押し入れの奥から、古い缶が出てきた。
紗季のものだった。
中には、写真が何枚かと、海辺で拾った貝殻、それから一枚の小さな紙が入っていた。
紙には、鉛筆でこう書いてあった。
――八月十三日、午後四時。駅前の時計の下。
僕は長い間、その紙を見つめていた。
八月十三日。
姉がいなくなった翌日だった。
どうしてそんな約束をしていたのか、僕には分からなかった。
けれど、その日の午後四時、僕は駅へ向かった。
*
駅前の時計は、昔のままだった。
針だけが新しくなっていた。
時計の下には、古いベンチがあった。
僕はそこに座った。
午後四時。
もちろん、紗季は来なかった。
分かっていた。
十二年前に死んだ人間が、来るはずがない。
それでも僕は、しばらく動けなかった。
蝉の声が、頭上から降ってきた。
そのときだった。
「お兄さん?」
声をかけられた。
顔を上げると、小さな女の子が立っていた。
「……何?」
「お兄さん、紗季さんのお兄ちゃん?」
心臓が、一度だけ大きく鳴った。
「どうして、その名前を?」
女の子は、少し考えてから言った。
「お母さんが知ってるから」
そして、僕の隣に座った。
「これ、渡してって」
手渡されたのは、古い青い封筒だった。
僕は震える手で開いた。
中には、姉の字で手紙が入っていた。
――お兄ちゃんへ。
――もしこれを読んでいるなら、私はたぶん、もういない。
そこで僕は読むのをやめた。
目の前がぼやけた。
十二年間、閉じ込めていたものが、一気に胸の奥からあふれてきた。
それでも、読み続けた。
――あの日、私は川へ行くつもりだった。
――でも、死ぬつもりじゃないよ。
――ただ、少しだけ一人になりたかった。
――お兄ちゃんに言えなかったことがある。
――私はずっと、病気だった。
僕の指から手紙が落ちそうになった。
――でも、お母さんには言わないでって頼んだ。
――治るかもしれないって言われていたから。
――だから、帰ったら話そうと思っていた。
――帰れなくなるなんて、思ってなかった。
そこまで読んで、僕は空を見た。
青かった。
腹が立つほど、青かった。
――お兄ちゃん。
――あの日、「そのうち帰ってくる」って言ったでしょう。
――あれ、嬉しかったんだ。
――私が帰ることを、当たり前みたいに信じてくれたから。
――だから、謝らないで。
僕は泣いていた。
人目も気にせず、子どものように泣いていた。
――もし夏が嫌いになったら、八月十三日に駅へ行って。
――きっと誰かが、私の代わりに隣に座ってくれるから。
最後の一行は、少しだけ字が乱れていた。
――夏は暑いだけじゃないよ。誰かがいなくなった場所も、ちゃんと冷たくなるんだよ。
*
女の子は、僕が泣き終わるまで何も言わなかった。
やがて立ち上がって、
「じゃあね、お兄ちゃん」
と言った。
「待って」
僕は呼び止めた。
「君のお母さんって……誰?」
女の子は振り返った。
「お母さん、昔、紗季さんに助けてもらったんだって」
それだけ言って、走っていった。
僕は追わなかった。
追えば、何かが変わってしまいそうだった。
駅前には、夕方の風が吹いていた。
十二年ぶりに、僕は夏の風を冷たいと思わなかった。
むしろ、少しだけ温かかった。
蝉が鳴いている。
時計の針が、午後四時半を指している。
僕はベンチから立ち上がった。
そして初めて、姉の死んだ町を、ゆっくり歩いて帰った。
夏はまだ暑かった。
川も、空も、焼けた道路も、何も変わっていなかった。
ただ、僕の中にあった「帰れない場所」が、一つだけなくなっていた。
その年から僕は、夏が嫌いではなくなった。
八月十三日になると、駅前のベンチに座る。
そして、誰かが隣に来るのを待つ。
話しかけてくる人もいる。
何も言わずに座っている人もいる。
僕はそのたびに思う。
人がいなくなった場所は、いつまでも冷たい。
けれど、その冷たさを知っている人間が隣に座れば、少しずつ温かくなる。
だから僕は、今年もここにいる。
蝉の声を聞きながら。
遠くで鳴る風鈴の音を聞きながら。
もう二度と帰ってこない人を、待つのではなく。
誰かが帰ってこられる場所を、残すために。
八月の夕暮れは、ゆっくりと町を青く染めていった。
その青さの中で、僕は初めて、夏を美しいと思った。
少なくとも、僕にはそうだった。
八月になると、町は太陽に焼かれて、アスファルトは昼間の熱を夜まで抱えていた。川沿いの道には干からびた草が並び、古い商店街の軒先では、誰も買わないような風鈴だけが律儀に鳴っていた。
その町に、僕は十七歳まで住んでいた。
そして、十七歳の夏に、姉を失った。
姉の名前は、紗季といった。
僕より三つ年上で、笑うと左の頬に小さなくぼみができた。
紗季は夏が嫌いだった。
「暑いからじゃないよ」
そう言っていた。
「夏って、みんな幸せそうだから」
意味がよく分からなかった。
「春はさ、みんな少し寂しそうじゃん。冬もそう。でも夏になると、急にみんな元気になるでしょう。海に行ったり、花火見たり。そういうのを見ると、自分だけ取り残されたみたいになるの」
僕は笑った。
「姉ちゃん、変なの」
「うん。知ってる」
紗季も笑った。
それが、僕が覚えている最後の笑顔だった。
*
紗季がいなくなったのは、八月十二日の午後だった。
母から電話があった。
「紗季が帰ってこないの」
僕はそのとき、友達とゲームをしていた。
「そのうち帰ってくるよ」
そう答えた。
けれど、帰ってこなかった。
警察が来て、近所の人が集まり、夜になっても、翌朝になっても、紗季は帰ってこなかった。
三日目の朝、川下の堰で見つかった。
事故だった。
そう説明された。
それから僕は、夏になると水が怖くなった。
プールも、海も、川も。
けれど、本当に怖かったのは水ではなかった。
僕は、最後の電話で「そのうち帰ってくる」と言った自分が怖かった。
もっと心配すればよかった。
探しに行けばよかった。
一緒にいてやればよかった。
そんな後悔は、十七歳の僕には重すぎた。
だから僕は、町を出た。
大学に行くという理由をつけて、できるだけ遠くへ行った。
夏が来るたび、僕は帰らなかった。
*
それから十二年後。
母が亡くなった。
葬儀を終えたあと、僕は一人で実家を片づけていた。
押し入れの奥から、古い缶が出てきた。
紗季のものだった。
中には、写真が何枚かと、海辺で拾った貝殻、それから一枚の小さな紙が入っていた。
紙には、鉛筆でこう書いてあった。
――八月十三日、午後四時。駅前の時計の下。
僕は長い間、その紙を見つめていた。
八月十三日。
姉がいなくなった翌日だった。
どうしてそんな約束をしていたのか、僕には分からなかった。
けれど、その日の午後四時、僕は駅へ向かった。
*
駅前の時計は、昔のままだった。
針だけが新しくなっていた。
時計の下には、古いベンチがあった。
僕はそこに座った。
午後四時。
もちろん、紗季は来なかった。
分かっていた。
十二年前に死んだ人間が、来るはずがない。
それでも僕は、しばらく動けなかった。
蝉の声が、頭上から降ってきた。
そのときだった。
「お兄さん?」
声をかけられた。
顔を上げると、小さな女の子が立っていた。
「……何?」
「お兄さん、紗季さんのお兄ちゃん?」
心臓が、一度だけ大きく鳴った。
「どうして、その名前を?」
女の子は、少し考えてから言った。
「お母さんが知ってるから」
そして、僕の隣に座った。
「これ、渡してって」
手渡されたのは、古い青い封筒だった。
僕は震える手で開いた。
中には、姉の字で手紙が入っていた。
――お兄ちゃんへ。
――もしこれを読んでいるなら、私はたぶん、もういない。
そこで僕は読むのをやめた。
目の前がぼやけた。
十二年間、閉じ込めていたものが、一気に胸の奥からあふれてきた。
それでも、読み続けた。
――あの日、私は川へ行くつもりだった。
――でも、死ぬつもりじゃないよ。
――ただ、少しだけ一人になりたかった。
――お兄ちゃんに言えなかったことがある。
――私はずっと、病気だった。
僕の指から手紙が落ちそうになった。
――でも、お母さんには言わないでって頼んだ。
――治るかもしれないって言われていたから。
――だから、帰ったら話そうと思っていた。
――帰れなくなるなんて、思ってなかった。
そこまで読んで、僕は空を見た。
青かった。
腹が立つほど、青かった。
――お兄ちゃん。
――あの日、「そのうち帰ってくる」って言ったでしょう。
――あれ、嬉しかったんだ。
――私が帰ることを、当たり前みたいに信じてくれたから。
――だから、謝らないで。
僕は泣いていた。
人目も気にせず、子どものように泣いていた。
――もし夏が嫌いになったら、八月十三日に駅へ行って。
――きっと誰かが、私の代わりに隣に座ってくれるから。
最後の一行は、少しだけ字が乱れていた。
――夏は暑いだけじゃないよ。誰かがいなくなった場所も、ちゃんと冷たくなるんだよ。
*
女の子は、僕が泣き終わるまで何も言わなかった。
やがて立ち上がって、
「じゃあね、お兄ちゃん」
と言った。
「待って」
僕は呼び止めた。
「君のお母さんって……誰?」
女の子は振り返った。
「お母さん、昔、紗季さんに助けてもらったんだって」
それだけ言って、走っていった。
僕は追わなかった。
追えば、何かが変わってしまいそうだった。
駅前には、夕方の風が吹いていた。
十二年ぶりに、僕は夏の風を冷たいと思わなかった。
むしろ、少しだけ温かかった。
蝉が鳴いている。
時計の針が、午後四時半を指している。
僕はベンチから立ち上がった。
そして初めて、姉の死んだ町を、ゆっくり歩いて帰った。
夏はまだ暑かった。
川も、空も、焼けた道路も、何も変わっていなかった。
ただ、僕の中にあった「帰れない場所」が、一つだけなくなっていた。
その年から僕は、夏が嫌いではなくなった。
八月十三日になると、駅前のベンチに座る。
そして、誰かが隣に来るのを待つ。
話しかけてくる人もいる。
何も言わずに座っている人もいる。
僕はそのたびに思う。
人がいなくなった場所は、いつまでも冷たい。
けれど、その冷たさを知っている人間が隣に座れば、少しずつ温かくなる。
だから僕は、今年もここにいる。
蝉の声を聞きながら。
遠くで鳴る風鈴の音を聞きながら。
もう二度と帰ってこない人を、待つのではなく。
誰かが帰ってこられる場所を、残すために。
八月の夕暮れは、ゆっくりと町を青く染めていった。
その青さの中で、僕は初めて、夏を美しいと思った。
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