見えない句読点
人は、
過去へ戻ることはできない。
けれど過去は、
ときどき現在のほうへ歩いてくる。
その足音はあまりにも静かで、
気づいた頃には、
もう隣に立っている。
三年という時間は、
人間を変えるには十分であり、
忘れるにはあまりにも短かった。
社会に出てから、
私は何冊もの本を読んだ。
学生だった頃より、
ずっと多く。
けれど、
あの講義室で先生が語った一時間ほど私を揺さぶる文章には、
一度も出会わなかった。
それは先生の言葉が優れていたからではない。
あの頃の私は、
世界そのものを読み始めたばかりだった。
若さとは、
感受性ではない。
世界がまだ名づけられていない状態のことをいうのだ。
だから、
あの時間は二度と訪れない。
夏の午後だった。
出張先の大学で開かれた公開講演会。
講師の名前を見た瞬間、
私は立ち止まった。
先生だった。
名前の横に「教授」と記されている。
肩書きだけが時間の経過を証明していた。
講演の内容は「文学における沈黙」。
相変わらずだ、
と私は思う。
先生は昔から、
言葉よりも、
言葉にならなかったものを語る人だった。
講演が終わる。
拍手が響く。
私は最後まで席を立てなかった。
再会とは、
不思議な出来事だ。
会いたかったはずなのに、
本当に会えると、
人は願いが叶ったとは感じない。
むしろ、
自分がどれほど時間を失っていたのかを知る。
人は、
人そのものを恋しく思うのではない。
その人と共にいた自分自身を恋しく思うのだ。
廊下で先生を見つけた。
向こうも私に気づく。
ほんの一瞬、
驚いた表情。
そして、
変わらない穏やかな微笑み。
「……久しぶりだね。」
その声だけで、
三年という時間は崩れた。
私は、
あの日と同じように答える。
「先生。」
卒業しても、
その呼び方しかできなかった。
名前で呼ぶ自由はある。
けれど自由とは、
何でも選べることではない。
選べるのに、
選ばないことでもある。
キャンパスを並んで歩く。
木漏れ日は昔と同じ角度で地面へ落ち、
蝉は夏が永遠であるかのように鳴いていた。
世界はよくできている。
人間だけを変え、
季節だけは変えない。
「仕事はどう?」
ありふれた問いだった。
私は少し笑う。
ありふれているからこそ、
人はそこへ本音を隠せる。
「失敗ばかりです。」
「失敗しない人はいないよ。」
「先生は。」
「私は、人より少し失敗を忘れるのが上手なだけ。」
その答えが、
先生らしかった。
人間は、
自分の哲学を語ろうとして語るのではない。
日常の何気ない返事の中に、
その人の一生が滲む。
私は歩きながら考えていた。
あの頃、
私は先生を愛していたのだろうか。
違う。
愛していた、
ではない。
先生を理解したいと思い続けていた。
そして結局、
一人の人間を理解することなど誰にもできないのだと知った。
理解できないから、
人は読み続ける。
本も、
人も、
人生も。
その終わりのない読書の名前が、
愛なのかもしれない。
池のほとりで、
先生は立ち止まる。
風が水面を揺らす。
映っていた雲が砕け、
すぐにまた一つの空へ戻る。
「覚えているかい。」
先生が静かに言う。
「昔、講義で話したこと。」
私は頷いた。
「文学は、言えなかったことの墓標。」
「そう。」
少し間を置いて、
先生は続けた。
「今なら、一つだけ訂正できる。」
私は先生を見る。
「墓標じゃない。」
先生は揺れる水面へ目を向けた。
「言えなかったものが、生き続ける場所だ。」
その言葉を聞いた瞬間、
私はようやく理解した。
先生は昔から、
答えを変える人だった。
世界が変わるからではない。
自分が変わることを恐れない人だった。
哲学とは、
正しい答えを持つことではない。
昨日の自分を否定できる勇気なのだ。
私は何かを言いかけた。
喉まで上がった言葉は、
名前を持たないまま消えていく。
もう伝える必要はないと思った。
伝えたところで、
この人が困るからではない。
あの恋は、
言葉になる前に私を育ててしまったからだ。
もし「あのとき好きでした」と告げれば、
美しい思い出になるだろう。
けれど私は、
美しい思い出よりも、
不完全な真実を選びたかった。
人は、
人生を整理するために言葉を使う。
だが、
整理されない感情があるから、
人は生き続けられる。
先生は空を見上げた。
「夏も終わるね。」
私は、
その横顔を見る。
学生だった頃と同じように。
そして気づく。
私はもう、
この横顔を手に入れたいとは思っていなかった。
ただ、
この人が今日も世界を見つめていることが、
嬉しかった。
恋は、
所有したいという願いから始まることがある。
けれど時間は、
それを祈りへ変えていく。
幸福でありますように。
元気でありますように。
その願いに、
自分が含まれていなくてもかまわないと思えたとき、
恋は静かに別の名前へ変わる。
別れ際、
先生は微笑んだ。
「また、どこかで。」
約束ではない。
未来を縛らない言葉だった。
だからこそ、
美しかった。
私は深く頭を下げる。
先生の背中は、
夕暮れの光の中へゆっくりと溶けていく。
追いかけようとは思わなかった。
追いかければ、
あの日の私へ戻ってしまう。
人は前へ進むから大人になるのではない。
振り返っても歩き出せるようになったとき、
大人になる。
蝉の声が少し遠くなっていた。
夏は終わる。
恋も終わる。
いや、
終わったのではない。
人生という長い文章の中で、
その恋は結末ではなく、
一つの句読点になったのだ。
そして私は、
その先を生きていく。
先生から教わったのは、
文学だけではない。
答えのない問いとともに生きること。
誰かを愛した記憶を、
誰のものにもせず抱き続けること。
言葉はいつか尽きる。
けれど、
沈黙は尽きない。
だから人は、
本を閉じたあとも、
生き続けることができるのだ。
過去へ戻ることはできない。
けれど過去は、
ときどき現在のほうへ歩いてくる。
その足音はあまりにも静かで、
気づいた頃には、
もう隣に立っている。
三年という時間は、
人間を変えるには十分であり、
忘れるにはあまりにも短かった。
社会に出てから、
私は何冊もの本を読んだ。
学生だった頃より、
ずっと多く。
けれど、
あの講義室で先生が語った一時間ほど私を揺さぶる文章には、
一度も出会わなかった。
それは先生の言葉が優れていたからではない。
あの頃の私は、
世界そのものを読み始めたばかりだった。
若さとは、
感受性ではない。
世界がまだ名づけられていない状態のことをいうのだ。
だから、
あの時間は二度と訪れない。
夏の午後だった。
出張先の大学で開かれた公開講演会。
講師の名前を見た瞬間、
私は立ち止まった。
先生だった。
名前の横に「教授」と記されている。
肩書きだけが時間の経過を証明していた。
講演の内容は「文学における沈黙」。
相変わらずだ、
と私は思う。
先生は昔から、
言葉よりも、
言葉にならなかったものを語る人だった。
講演が終わる。
拍手が響く。
私は最後まで席を立てなかった。
再会とは、
不思議な出来事だ。
会いたかったはずなのに、
本当に会えると、
人は願いが叶ったとは感じない。
むしろ、
自分がどれほど時間を失っていたのかを知る。
人は、
人そのものを恋しく思うのではない。
その人と共にいた自分自身を恋しく思うのだ。
廊下で先生を見つけた。
向こうも私に気づく。
ほんの一瞬、
驚いた表情。
そして、
変わらない穏やかな微笑み。
「……久しぶりだね。」
その声だけで、
三年という時間は崩れた。
私は、
あの日と同じように答える。
「先生。」
卒業しても、
その呼び方しかできなかった。
名前で呼ぶ自由はある。
けれど自由とは、
何でも選べることではない。
選べるのに、
選ばないことでもある。
キャンパスを並んで歩く。
木漏れ日は昔と同じ角度で地面へ落ち、
蝉は夏が永遠であるかのように鳴いていた。
世界はよくできている。
人間だけを変え、
季節だけは変えない。
「仕事はどう?」
ありふれた問いだった。
私は少し笑う。
ありふれているからこそ、
人はそこへ本音を隠せる。
「失敗ばかりです。」
「失敗しない人はいないよ。」
「先生は。」
「私は、人より少し失敗を忘れるのが上手なだけ。」
その答えが、
先生らしかった。
人間は、
自分の哲学を語ろうとして語るのではない。
日常の何気ない返事の中に、
その人の一生が滲む。
私は歩きながら考えていた。
あの頃、
私は先生を愛していたのだろうか。
違う。
愛していた、
ではない。
先生を理解したいと思い続けていた。
そして結局、
一人の人間を理解することなど誰にもできないのだと知った。
理解できないから、
人は読み続ける。
本も、
人も、
人生も。
その終わりのない読書の名前が、
愛なのかもしれない。
池のほとりで、
先生は立ち止まる。
風が水面を揺らす。
映っていた雲が砕け、
すぐにまた一つの空へ戻る。
「覚えているかい。」
先生が静かに言う。
「昔、講義で話したこと。」
私は頷いた。
「文学は、言えなかったことの墓標。」
「そう。」
少し間を置いて、
先生は続けた。
「今なら、一つだけ訂正できる。」
私は先生を見る。
「墓標じゃない。」
先生は揺れる水面へ目を向けた。
「言えなかったものが、生き続ける場所だ。」
その言葉を聞いた瞬間、
私はようやく理解した。
先生は昔から、
答えを変える人だった。
世界が変わるからではない。
自分が変わることを恐れない人だった。
哲学とは、
正しい答えを持つことではない。
昨日の自分を否定できる勇気なのだ。
私は何かを言いかけた。
喉まで上がった言葉は、
名前を持たないまま消えていく。
もう伝える必要はないと思った。
伝えたところで、
この人が困るからではない。
あの恋は、
言葉になる前に私を育ててしまったからだ。
もし「あのとき好きでした」と告げれば、
美しい思い出になるだろう。
けれど私は、
美しい思い出よりも、
不完全な真実を選びたかった。
人は、
人生を整理するために言葉を使う。
だが、
整理されない感情があるから、
人は生き続けられる。
先生は空を見上げた。
「夏も終わるね。」
私は、
その横顔を見る。
学生だった頃と同じように。
そして気づく。
私はもう、
この横顔を手に入れたいとは思っていなかった。
ただ、
この人が今日も世界を見つめていることが、
嬉しかった。
恋は、
所有したいという願いから始まることがある。
けれど時間は、
それを祈りへ変えていく。
幸福でありますように。
元気でありますように。
その願いに、
自分が含まれていなくてもかまわないと思えたとき、
恋は静かに別の名前へ変わる。
別れ際、
先生は微笑んだ。
「また、どこかで。」
約束ではない。
未来を縛らない言葉だった。
だからこそ、
美しかった。
私は深く頭を下げる。
先生の背中は、
夕暮れの光の中へゆっくりと溶けていく。
追いかけようとは思わなかった。
追いかければ、
あの日の私へ戻ってしまう。
人は前へ進むから大人になるのではない。
振り返っても歩き出せるようになったとき、
大人になる。
蝉の声が少し遠くなっていた。
夏は終わる。
恋も終わる。
いや、
終わったのではない。
人生という長い文章の中で、
その恋は結末ではなく、
一つの句読点になったのだ。
そして私は、
その先を生きていく。
先生から教わったのは、
文学だけではない。
答えのない問いとともに生きること。
誰かを愛した記憶を、
誰のものにもせず抱き続けること。
言葉はいつか尽きる。
けれど、
沈黙は尽きない。
だから人は、
本を閉じたあとも、
生き続けることができるのだ。
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