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名前のない夏

人は、
いつ恋を始めるのだろう。
その人の顔を見た瞬間だろうか。

声を聞いた瞬間だろうか。

それとも、
自分の知らなかった世界を、
その人の言葉が静かに開いてしまった瞬間だろうか。

今になっても、
私には分からない。

ただ一つだけ確かなのは、
恋は始まった瞬間を教えてはくれないということだった。

気づけば、
もう戻れなくなっている。

その春、
私は一つの講義を履修した。

理由は単純だった。

国文学が好きだったから。

ただ、
それだけのはずだった。

教室へ入ると、
窓際から柔らかな光が差し込み、
机の上には春の埃が薄く積もっていた。

教壇に立った先生は、
出席簿を閉じたまま黒板へ歩き、
一行だけ書いた。

「言葉は、世界を説明するためではなく、世界から零れ落ちたものに触れるためにある。」
その瞬間、
私は講義を受けていることを忘れた。
あの一文は、
黒板ではなく私の内側へ書き込まれた。

人は誰かの思想に心を奪われることがある。

顔や声ではない。

世界の見え方に恋をすることがある。

その日から私は、
毎週同じ席へ座るようになった。

最前列の窓側。

先生の横顔がいちばんよく見える場所だった。

講義を聞くためだ、
と自分には言い聞かせた。

もちろん、
それも嘘ではなかった。

けれど、
講義が終わるたびに私は、
自分が何を学んだのかより、
先生がどんな表情で本を閉じたのかを思い出していた。

そのことに気づいたときには、
もう遅かった。

恋とは炎ではない。

静かな浸水だ。

気づかないうちに床まで満ち、
ある日ふと立ち上がろうとして、
自分が深く沈んでいたことを知る。

先生はよく、
授業中に窓の外を見た。

その沈黙が好きだった。

説明をやめた時間ではない。

言葉より先に景色を信じている人だけが持つ沈黙だった。

私はそんな横顔を盗み見ながら、
ノートには授業内容ではなく、
自分でも意味の分からない言葉を書き連ねていた。

「先生は、何を見ているのだろう。」

「私は先生の何を見ているのだろう。」

「人は、人を理解できるのだろうか。」

問いばかり増えていく。

先生の講義は、
いつも答えをくれなかった。

だから私は、
講義が終わるたびに先生のことを考え続けた。

きっと、
それが恋を育てた。

答えを与えられなかった問いは、
人の中で生き続ける。

恋も同じなのだ。

雨の季節が過ぎる。

ある日、
研究室で借りた本を抱えて歩いていると、
廊下の向こうから先生が歩いてきた。

「読み終わった?」

その一言だけだった。

私はうまく答えられなかった。

読んだ。

感動した。

考えさせられた。

どの言葉も本当なのに、
本当ではなかった。

本当は、
先生が勧めてくれたという事実だけで、
その本は私にとって特別になっていた。

そんなことを言えるはずもない。

「……はい。何度か読み返しました。」

ようやく絞り出した言葉に、
先生は穏やかに笑った。

「本は、一度読んだだけでは終わらないからね。」

その笑顔を見た瞬間、
私は思った。

この人はきっと、
私の人生からいなくなっても、
ずっと私の中で読み返される。

本の一節のように。

夏が来る。

蝉が鳴き始める。

先生は相変わらず教壇に立ち、
私は相変わらず最前列に座る。

何も変わらない。

変わらないように見えて、
私だけが少しずつ変わっていく。

先生が教室へ入るだけで胸が高鳴る。

先生が誰かと話しているだけで、
理由の分からない寂しさを覚える。

先生が黒板へ字を書く後ろ姿を見つめているだけで、
一日が終わってしまう。

こんな感情を、
文学は何と呼ぶのだろう。

憧れ。

尊敬。

恋。

どの言葉も少しずつ違う。

だから私は名前を付けなかった。

名前を付ければ、
輪郭ができる。

輪郭ができれば、
終わりが始まる。

曖昧なままなら、
この想いはまだ世界のどこにも属さずにいられる。

けれど夏という季節は残酷だった。

光はあまりにも明るく、
人の心にできた影まで浮かび上がらせてしまう。

私は知ってしまった。

先生が誰にでも同じように穏やかであることを。

誰にでも同じように本を勧め、
同じように笑い、
同じように名前を呼ぶことを。

特別だと思っていたものは、
私だけが勝手に特別にしていただけだった。

その事実は悲しかった。

けれど同時に、
先生らしいとも思った。

この人は誰か一人を特別扱いする人ではない。

だからこそ私は、
この人を好きになってしまったのだ。

恋とは、
報われる可能性があるから始まるものではない。

その人がその人であることを知り、
それでもなお惹かれてしまうことなのだ。

私は何度も自分に言い聞かせた。

卒業すれば、
この気持ちも過去になる。

時間は人を救う。

そう信じたかった。

しかし心のどこかでは知っていた。

時間は傷を消すのではない。

傷の周りに静かに新しい人生を積み重ねるだけだということを。

夏の終わりが近づく夕方、
教室の窓から吹き込んだ風が、
先生のプリントを一枚さらっていった。

私はとっさに拾い上げ、
教壇へ届ける。

「ありがとう。」

その一言に、
私はまた救われてしまう。

こんな些細な言葉で満たされてしまう自分は、
きっともう引き返せない。

先生は何も知らない。

知らないままでいい。

この恋は、
届かないからこそ美しいのではない。

届かせないと決めた瞬間から、
ようやく私自身のものになったのだから。

作者メッセージ

どうも!
教科✕感情シリーズ書こうとしたら哲学系小説がいつの間にかできてしまいました!
人気だったら続編出します!
人気じゃなくても続編出します!(作っちゃったから)

では!

2026/07/22 06:27

KanonLOVE
ID:≫ n00YEDEqgv6kY
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大学哲学系哲学系(?)

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