夜の街は、
静かすぎて怖かった。
遠くを見る力がある人間ほど、
近くの痛みに縛られることがある。
墨江 涼は、
ローブの襟を指でつまみながら歩いていた。
紺色の布に走る金の装飾が、
街灯の光を鈍く弾く。
顔の半分は影に沈み、
息は浅い。
―帰らなきゃ。
妹は、きっと眠っている。
薬の時間も、
体温も、
ちゃんと確認しなければならない。
それなのに。
足が、止まった。
裏道の先。
星の欠片みたいな、
小さなランプ。
「…」
理由はなかった。
ただ、その光が―
遠くを見なくていい場所に見えた。
カラン。
鈴の音は、
胸の奥に溜まっていた息を、
静かに外へ出した。
店内はあたたかく、
星図の描かれた壁が、
夜をやさしく押し返している。
カウンターの向こうで、
マスターが湯を沸かしていた。
「こんにちは。いらっしゃいませ」
声は、
境界線のようだった。
入っていい、
とも、
入らなくていい、
とも言わない。
涼は、
ローブの影から顔を少しだけ出す。
「…僕は、墨江 涼って言います」
声が、思ったより細い。
「射手座です」
マスターは頷き、
何も聞かない。
その沈黙に、
涼は少し救われた。
差し出された紅茶は、
透明な琥珀色だった。
香りは、どこか―
息を深く吸いたくなる匂い。
一口飲んで、涼は瞬きをする。
「…」
甘くない。
苦くもない。
ただ、
喉を通るとき、
胸が少しだけ広がった。
「…妹が、病気で」
言うつもりはなかった。
けれど、言葉は落ちてしまった。
「助けたいんです。だから、医学を…」
カップを持つ指が、わずかに震える。
「歌が、好きでした」
ぽつり。
「…本当は」
それ以上、声が続かなかった。
歌えば、息が楽になる。
声を出せば、世界が少しだけ遠くなる。
でも、
その時間は―
―妹の隣にいられない時間だった。
「射手座は」
マスターが、静かに言う。
[太字][明朝体][大文字]「本来、とても遠くを見る星です」
[/大文字][/明朝体][/太字]
涼は顔を伏せる。
「でも今夜のあなたは、
一番近くの命から、
目を離していない」
それは、
責める言葉ではなかった。
「…それって」
涼は、
かすれた声で聞く。
「臆病、
ですよね」
マスターは、首を横に振る。
[太字][明朝体][大文字]「選択です」
[/大文字][/明朝体][/太字]
短く、はっきりと。
「あなたは、
声よりも、
手を選んだ」
カップの中で、
紅茶が小さく揺れた。
「歌は、
失われていません」
涼は、
ゆっくり顔を上げる。
「…え?」
「あなたの声は、
今は使われていないだけです」
沈黙。
それは、
希望ではなく、
保留された未来の言い方だった。
涼は、
紅茶を飲み干す。
「…また、来てもいいですか」
「ええ」
マスターは頷く。
「扉は、
あなたを覚えています」
カラン。
扉が閉まる。
星図の壁に、
細く、
遠くへ伸びる線が一本、
刻まれた。
だがその線は、
途中で、
確かに立ち止まっている。
―まだ、
飛ばない選択。
マスターはそれを見つめ、
静かに呟く。
「射手座は、
飛ぶ前に、守ることを知る星でもあります」
ランプの光が、
やさしく揺れた。
夜は、
まだ深い。
そして星図には、
歌を待つ余白が、
確かに残っていた。
静かすぎて怖かった。
遠くを見る力がある人間ほど、
近くの痛みに縛られることがある。
墨江 涼は、
ローブの襟を指でつまみながら歩いていた。
紺色の布に走る金の装飾が、
街灯の光を鈍く弾く。
顔の半分は影に沈み、
息は浅い。
―帰らなきゃ。
妹は、きっと眠っている。
薬の時間も、
体温も、
ちゃんと確認しなければならない。
それなのに。
足が、止まった。
裏道の先。
星の欠片みたいな、
小さなランプ。
「…」
理由はなかった。
ただ、その光が―
遠くを見なくていい場所に見えた。
カラン。
鈴の音は、
胸の奥に溜まっていた息を、
静かに外へ出した。
店内はあたたかく、
星図の描かれた壁が、
夜をやさしく押し返している。
カウンターの向こうで、
マスターが湯を沸かしていた。
「こんにちは。いらっしゃいませ」
声は、
境界線のようだった。
入っていい、
とも、
入らなくていい、
とも言わない。
涼は、
ローブの影から顔を少しだけ出す。
「…僕は、墨江 涼って言います」
声が、思ったより細い。
「射手座です」
マスターは頷き、
何も聞かない。
その沈黙に、
涼は少し救われた。
差し出された紅茶は、
透明な琥珀色だった。
香りは、どこか―
息を深く吸いたくなる匂い。
一口飲んで、涼は瞬きをする。
「…」
甘くない。
苦くもない。
ただ、
喉を通るとき、
胸が少しだけ広がった。
「…妹が、病気で」
言うつもりはなかった。
けれど、言葉は落ちてしまった。
「助けたいんです。だから、医学を…」
カップを持つ指が、わずかに震える。
「歌が、好きでした」
ぽつり。
「…本当は」
それ以上、声が続かなかった。
歌えば、息が楽になる。
声を出せば、世界が少しだけ遠くなる。
でも、
その時間は―
―妹の隣にいられない時間だった。
「射手座は」
マスターが、静かに言う。
[太字][明朝体][大文字]「本来、とても遠くを見る星です」
[/大文字][/明朝体][/太字]
涼は顔を伏せる。
「でも今夜のあなたは、
一番近くの命から、
目を離していない」
それは、
責める言葉ではなかった。
「…それって」
涼は、
かすれた声で聞く。
「臆病、
ですよね」
マスターは、首を横に振る。
[太字][明朝体][大文字]「選択です」
[/大文字][/明朝体][/太字]
短く、はっきりと。
「あなたは、
声よりも、
手を選んだ」
カップの中で、
紅茶が小さく揺れた。
「歌は、
失われていません」
涼は、
ゆっくり顔を上げる。
「…え?」
「あなたの声は、
今は使われていないだけです」
沈黙。
それは、
希望ではなく、
保留された未来の言い方だった。
涼は、
紅茶を飲み干す。
「…また、来てもいいですか」
「ええ」
マスターは頷く。
「扉は、
あなたを覚えています」
カラン。
扉が閉まる。
星図の壁に、
細く、
遠くへ伸びる線が一本、
刻まれた。
だがその線は、
途中で、
確かに立ち止まっている。
―まだ、
飛ばない選択。
マスターはそれを見つめ、
静かに呟く。
「射手座は、
飛ぶ前に、守ることを知る星でもあります」
ランプの光が、
やさしく揺れた。
夜は、
まだ深い。
そして星図には、
歌を待つ余白が、
確かに残っていた。
- 1.ティータイムの始まり。
- 2.乙女座 やさしく、つよくなれなくて。
- 3.蟹座 甘さの奥で、息を止めてきた
- 4.牡牛座 余裕の仮面と、足りない甘さ
- 5.山羊座 ゆっくりでいいと、知らなかった
- 6.双子座 言葉が二つに割れたまま
- 7.天秤座 言葉を量る、沈黙の重さは。
- 8.獅子座 微笑みの奥で、拳を握るひと
- 9.射手座 遠くを願い、声を置いてきた
- 10.水瓶座 笑っているあいだは、自由でいられた
- 11.牡羊座 引き受ける勇気と、静かな覚悟
- 12.魚座 仮の笑顔と振り返ってしまったこと
- 13.蟹座 信じられなかった手の、ぬくもりを思い出すまで
- 14.宇宙という名の空を結びに。
- 15.蛇遣い座 13番目になれなくて。
- 16.第二期 惑星たちの夜
- 17.金星 一行の本音は、金星に預けて
- 18.土星 抱え込めてしまった者は、零れ方を知らない
- 19.天王星 光を残す星