神谷ゆめが図書室に来たのは、
本当に、ただの偶然だった。
放課後、友達と昇降口で別れて、
家に帰るには少し早くて、
どこかで時間を潰したかっただけ。
クラスはうるさいし、
部活の音は苦手だし、
だから人の来ない場所を選んだ。
古い校舎の奥にある図書室は、
いつも空気がひんやりしていて、
時間が止まっているみたいで好きだった。
その日も、
何か特別なことを期待していたわけじゃない。
…ただ、
目に入ってしまった。
棚の一番下、
奥に押し込まれるように置かれた、
分厚い一冊の本。
表紙は色あせて、
触ると粉が落ちそうなくらい古い。
題名は、ほとんど読めなかった。
「…なにこれ?」
声に出した瞬間、
なぜか胸の奥が、きゅっと縮んだ。
開いてはいけない。
理由は分からないけど、
確かに、そう思った。
なのに―
「ちょっと見るだけだし」
そう自分に言い訳して、
私はページに指をかけた。
―ぱらり。
その瞬間、
図書室の空気が変わった。
さっきまで聞こえていた、
遠くの部活の音が、
[太字][大文字][明朝体]消えた。
[/明朝体][/大文字][/太字]
時計の秒針の音も、
自分の呼吸も、
全部が遠くなる。
ページに並ぶ文字が、
ゆっくりと、
私に合わせて並び替わっていく。
難しい言葉のはずなのに、
読めてしまう。
理解できてしまう。
それが、
一番怖かった。
「…え?」
喉が、ひくっと鳴った。
そのとき―
[明朝体]「こんにちはぁ」
[/明朝体]
背後から、
やわらかくて、眠そうな声。
心臓が、跳ねた。
振り返ると、
そこにいたのは―
―少女だった。
水色の髪。
先に行くほど黒く染まっているミディアムヘア。
赤い瞳が、夕方の光を受けて、
やけにきれいに見えた。
「初めましてぇ、雷です!」
にこにこ笑って、
まるで普通の同年代みたいに。
でも、
ここは図書室の奥で、
私は誰かが来る気配を、
まったく感じていなかった。
「…えっと、え?」
言葉が、情けないくらい詰まった。
「こう見えても悪魔。
てか黙れ」
ふわっとした声の直後、
刺さるみたいな一言。
頭が、追いつかなかった。
「…あ、あく、ま?」
「うん」
雷は、
まるで「今日は晴れだね」みたいな調子で頷いた。
「で、君、困りごとあるでしょ?」
その言葉に、
なぜか胸の奥を見られた気がした。
困りごと。
誰かを助けたい気持ち。
放っておけない性格。
それで損をすることが多いのに、
やめられないところ。
全部、
ばれている気がした。
「大丈夫だよ」
雷は、
机の上の魔導書を指でとん、と叩く。
「力をあげるわけじゃないし」
「ただね」
少しだけ、
声のトーンが変わった。
[太字][斜体][大文字][明朝体]「見えるようになるだけ」
[/明朝体][/大文字][/斜体][/太字]
見えてはいけないもの。
聞こえないはずの声。
忘れられて、
置き去りにされた気配。
それを想像した瞬間、
背中が、
ぞわっとした。
[太字][大文字][明朝体]「代わりに、
小さな約束をひとつ」[/明朝体][/大文字][/太字]
…小さな?
その言葉を、
私は信じてしまった。
今思えば、
悪魔の言う「小さい」は、
人間の基準じゃなかったのに。
「…約束って、なに?」
雷は、
一瞬だけ目を伏せてから、
笑った。
でもその笑顔は、
どこか疲れて見えた。
「困ってる人がいたら、
無視しないこと」
その瞬間、
胸が、きゅっと締め付けられた。
それは―
私が、一番できないことだったから。
「それだけ?」
確認するみたいに聞いた。
雷は、
少しだけ首をかしげる。
「それだけ」
でも、
否定しなかった。
「無視できなくなる」ことを。
「見える以上、
気づかないふりはできない」ことを。
私は、
甘いお菓子を誰かに分けるみたいに、
その約束を受け取ってしまった。
「…わかった」
言った瞬間、
魔導書が、
自分でページを閉じた。
ばたん、という音が、
やけに大きく響いた。
胸の奥で、
何かがカチッと噛み合った気がした。
それは、
鍵がかかる音に、少し似ていた。
「…えへへ。
これから仲良くしてくださいね!」
雷は、
一歩だけ後ろに下がって言った。
その距離が、
もう戻れない線みたいに感じた。
「…あ、ゆめです。
神谷ゆめ。
ゆめって呼んで」
声が、少し震えていたと思う。
「了解、ゆめ」
そう言った雷の影が、
一瞬だけ―
私の影と重なった。
その日から、
私の世界には、
影が増えた。
ただの暗さじゃない。
逃げ場のない影。
優しさを選び続けなければならない、
代償としての影。
この契約は、
簡単だった。
でも―
終わりが、見えなかった。
そして私はまだ、
それが「どれほど重い契約か」を、
本当の意味では知らなかった。
本当に、ただの偶然だった。
放課後、友達と昇降口で別れて、
家に帰るには少し早くて、
どこかで時間を潰したかっただけ。
クラスはうるさいし、
部活の音は苦手だし、
だから人の来ない場所を選んだ。
古い校舎の奥にある図書室は、
いつも空気がひんやりしていて、
時間が止まっているみたいで好きだった。
その日も、
何か特別なことを期待していたわけじゃない。
…ただ、
目に入ってしまった。
棚の一番下、
奥に押し込まれるように置かれた、
分厚い一冊の本。
表紙は色あせて、
触ると粉が落ちそうなくらい古い。
題名は、ほとんど読めなかった。
「…なにこれ?」
声に出した瞬間、
なぜか胸の奥が、きゅっと縮んだ。
開いてはいけない。
理由は分からないけど、
確かに、そう思った。
なのに―
「ちょっと見るだけだし」
そう自分に言い訳して、
私はページに指をかけた。
―ぱらり。
その瞬間、
図書室の空気が変わった。
さっきまで聞こえていた、
遠くの部活の音が、
[太字][大文字][明朝体]消えた。
[/明朝体][/大文字][/太字]
時計の秒針の音も、
自分の呼吸も、
全部が遠くなる。
ページに並ぶ文字が、
ゆっくりと、
私に合わせて並び替わっていく。
難しい言葉のはずなのに、
読めてしまう。
理解できてしまう。
それが、
一番怖かった。
「…え?」
喉が、ひくっと鳴った。
そのとき―
[明朝体]「こんにちはぁ」
[/明朝体]
背後から、
やわらかくて、眠そうな声。
心臓が、跳ねた。
振り返ると、
そこにいたのは―
―少女だった。
水色の髪。
先に行くほど黒く染まっているミディアムヘア。
赤い瞳が、夕方の光を受けて、
やけにきれいに見えた。
「初めましてぇ、雷です!」
にこにこ笑って、
まるで普通の同年代みたいに。
でも、
ここは図書室の奥で、
私は誰かが来る気配を、
まったく感じていなかった。
「…えっと、え?」
言葉が、情けないくらい詰まった。
「こう見えても悪魔。
てか黙れ」
ふわっとした声の直後、
刺さるみたいな一言。
頭が、追いつかなかった。
「…あ、あく、ま?」
「うん」
雷は、
まるで「今日は晴れだね」みたいな調子で頷いた。
「で、君、困りごとあるでしょ?」
その言葉に、
なぜか胸の奥を見られた気がした。
困りごと。
誰かを助けたい気持ち。
放っておけない性格。
それで損をすることが多いのに、
やめられないところ。
全部、
ばれている気がした。
「大丈夫だよ」
雷は、
机の上の魔導書を指でとん、と叩く。
「力をあげるわけじゃないし」
「ただね」
少しだけ、
声のトーンが変わった。
[太字][斜体][大文字][明朝体]「見えるようになるだけ」
[/明朝体][/大文字][/斜体][/太字]
見えてはいけないもの。
聞こえないはずの声。
忘れられて、
置き去りにされた気配。
それを想像した瞬間、
背中が、
ぞわっとした。
[太字][大文字][明朝体]「代わりに、
小さな約束をひとつ」[/明朝体][/大文字][/太字]
…小さな?
その言葉を、
私は信じてしまった。
今思えば、
悪魔の言う「小さい」は、
人間の基準じゃなかったのに。
「…約束って、なに?」
雷は、
一瞬だけ目を伏せてから、
笑った。
でもその笑顔は、
どこか疲れて見えた。
「困ってる人がいたら、
無視しないこと」
その瞬間、
胸が、きゅっと締め付けられた。
それは―
私が、一番できないことだったから。
「それだけ?」
確認するみたいに聞いた。
雷は、
少しだけ首をかしげる。
「それだけ」
でも、
否定しなかった。
「無視できなくなる」ことを。
「見える以上、
気づかないふりはできない」ことを。
私は、
甘いお菓子を誰かに分けるみたいに、
その約束を受け取ってしまった。
「…わかった」
言った瞬間、
魔導書が、
自分でページを閉じた。
ばたん、という音が、
やけに大きく響いた。
胸の奥で、
何かがカチッと噛み合った気がした。
それは、
鍵がかかる音に、少し似ていた。
「…えへへ。
これから仲良くしてくださいね!」
雷は、
一歩だけ後ろに下がって言った。
その距離が、
もう戻れない線みたいに感じた。
「…あ、ゆめです。
神谷ゆめ。
ゆめって呼んで」
声が、少し震えていたと思う。
「了解、ゆめ」
そう言った雷の影が、
一瞬だけ―
私の影と重なった。
その日から、
私の世界には、
影が増えた。
ただの暗さじゃない。
逃げ場のない影。
優しさを選び続けなければならない、
代償としての影。
この契約は、
簡単だった。
でも―
終わりが、見えなかった。
そして私はまだ、
それが「どれほど重い契約か」を、
本当の意味では知らなかった。