好きだからって愛は無い
彼女のことは、確かに「好き」だった。
笑い方が少し不器用で、沈黙が長くても気まずくならないところが心地よかった。コーヒーに砂糖を三つも入れる癖も、帰り道に同じ自販機で足を止める習慣も、全部覚えていた。
だから、これはきっと愛だと思っていた。
彼女も同じだと、疑わなかった。
ある夜、彼女は言った。
「ねえ、私たちって、何?」
軽い調子だった。冗談みたいに笑っていた。でも、その目はどこか遠くを見ていた。
「何って……付き合ってるだろ」
そう答えたとき、自分でも少し驚いた。言葉が妙に空っぽで、誰かの台詞を借りてきたみたいだったから。
彼女は少しだけ黙って、それから静かに頷いた。
「そっか」
それだけだった。
その日を境に、何かが少しずつずれていった。
会う頻度は変わらない。会話も途切れない。触れ合う距離も同じまま。けれど、どこか透明な膜が間に挟まったみたいに、彼女が遠くなった。
それでも、自分は彼女を「好き」だった。
一緒にいると楽で、離れると少し寂しい。その感覚は確かにあった。
だから、問題はないと思っていた。
ある日、彼女が泣いた。
理由は覚えていない。仕事のことかもしれないし、家族のことかもしれない。ただ、彼女が泣いていたという事実だけが、やけにはっきり残っている。
自分は彼女の隣に座って、肩に手を置いた。
「大丈夫?」
そう言った。
それ以上、何も出てこなかった。
慰めの言葉も、共感も、怒りも、何も。
彼女の涙を見て、「困ったな」と思っている自分に気づいた。
どうすればいいのか分からない。ただ、その場が早く終わってほしいと思っていた。
しばらくして、彼女は自分から離れた。
「ありがとう」
そう言って、笑った。
その笑顔は、初めて見る種類のものだった。
数日後、彼女は別れを切り出した。
「ごめんね」
理由は多く語らなかった。ただ一つだけ、ぽつりと落とした。
「好きだけじゃ、足りないみたい」
引き止めようとは思わなかった。
思えなかった。
彼女がいなくなる未来を想像しても、胸は痛まなかった。ただ、少しだけ生活が変わるな、と思っただけだった。
それでも口は動いた。
「まだ、好きだよ」
それが正しい台詞だと思ったから。
彼女は首を振った。
「うん、知ってる」
少しだけ、優しい声だった。
「でも、それって愛じゃないよね」
その言葉に、何も返せなかった。
否定も、肯定もできなかった。
彼女が部屋を出ていく音を聞きながら、ようやく理解した。
自分は彼女を好きだった。
けれど、彼女がどう感じているのか、何を望んでいるのか、ほとんど知らなかった。
知ろうともしていなかった。
ただ、自分が心地いい距離で、都合よく「好き」でいただけだった。
部屋は静かだった。
あの透明な膜が、今はもう必要ないほどはっきりと、自分と世界を隔てている気がした。
スマートフォンを手に取る。
連絡先はまだ消えていない。
少し迷って、画面を閉じた。
別に、今さら話すこともない。
彼女のいない部屋で、いつものようにコーヒーを淹れる。
砂糖は、入れなかった。
甘さが足りない気がしたが、理由は分からなかった。
たぶん、ずっと分からないままだ。
好きだった。
それだけは、本当だ。
けれど――
それだけだった。
笑い方が少し不器用で、沈黙が長くても気まずくならないところが心地よかった。コーヒーに砂糖を三つも入れる癖も、帰り道に同じ自販機で足を止める習慣も、全部覚えていた。
だから、これはきっと愛だと思っていた。
彼女も同じだと、疑わなかった。
ある夜、彼女は言った。
「ねえ、私たちって、何?」
軽い調子だった。冗談みたいに笑っていた。でも、その目はどこか遠くを見ていた。
「何って……付き合ってるだろ」
そう答えたとき、自分でも少し驚いた。言葉が妙に空っぽで、誰かの台詞を借りてきたみたいだったから。
彼女は少しだけ黙って、それから静かに頷いた。
「そっか」
それだけだった。
その日を境に、何かが少しずつずれていった。
会う頻度は変わらない。会話も途切れない。触れ合う距離も同じまま。けれど、どこか透明な膜が間に挟まったみたいに、彼女が遠くなった。
それでも、自分は彼女を「好き」だった。
一緒にいると楽で、離れると少し寂しい。その感覚は確かにあった。
だから、問題はないと思っていた。
ある日、彼女が泣いた。
理由は覚えていない。仕事のことかもしれないし、家族のことかもしれない。ただ、彼女が泣いていたという事実だけが、やけにはっきり残っている。
自分は彼女の隣に座って、肩に手を置いた。
「大丈夫?」
そう言った。
それ以上、何も出てこなかった。
慰めの言葉も、共感も、怒りも、何も。
彼女の涙を見て、「困ったな」と思っている自分に気づいた。
どうすればいいのか分からない。ただ、その場が早く終わってほしいと思っていた。
しばらくして、彼女は自分から離れた。
「ありがとう」
そう言って、笑った。
その笑顔は、初めて見る種類のものだった。
数日後、彼女は別れを切り出した。
「ごめんね」
理由は多く語らなかった。ただ一つだけ、ぽつりと落とした。
「好きだけじゃ、足りないみたい」
引き止めようとは思わなかった。
思えなかった。
彼女がいなくなる未来を想像しても、胸は痛まなかった。ただ、少しだけ生活が変わるな、と思っただけだった。
それでも口は動いた。
「まだ、好きだよ」
それが正しい台詞だと思ったから。
彼女は首を振った。
「うん、知ってる」
少しだけ、優しい声だった。
「でも、それって愛じゃないよね」
その言葉に、何も返せなかった。
否定も、肯定もできなかった。
彼女が部屋を出ていく音を聞きながら、ようやく理解した。
自分は彼女を好きだった。
けれど、彼女がどう感じているのか、何を望んでいるのか、ほとんど知らなかった。
知ろうともしていなかった。
ただ、自分が心地いい距離で、都合よく「好き」でいただけだった。
部屋は静かだった。
あの透明な膜が、今はもう必要ないほどはっきりと、自分と世界を隔てている気がした。
スマートフォンを手に取る。
連絡先はまだ消えていない。
少し迷って、画面を閉じた。
別に、今さら話すこともない。
彼女のいない部屋で、いつものようにコーヒーを淹れる。
砂糖は、入れなかった。
甘さが足りない気がしたが、理由は分からなかった。
たぶん、ずっと分からないままだ。
好きだった。
それだけは、本当だ。
けれど――
それだけだった。
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