夜の街が、完全に言葉を失う直前。
一本裏道に入った先で、
琴乃は足を止めた。
「…なに、ここ」
看板のない喫茶店。
星の欠片のようなランプが、
淡く瞬いている。
本来なら、
入る理由などなかった。
―悩みなんて、ない。
少なくとも、
そう思っていた。
カラン。
鈴の音は、
思ったよりも優しかった。
店内は、
外の闇を忘れさせるほど静かで、
あたたかい。
壁に描かれた星図を一目見て、
琴乃はわずかに眉をひそめた。
「…星が好きな人の趣味?」
カウンターの向こうで、
マスターが湯を沸かしている。
振り向いたその顔からは、
年齢も感情も読み取れない。
「こんにちは。いらっしゃいませ」
「……こんばんは」
一拍遅れて、琴乃は背筋を伸ばす。
「私、岩田琴乃。乙女座よ」
マスターは頷いただけで、
余計なことは聞かない。
差し出された紅茶は、
透明に近い色をしていた。
口に含んだ瞬間、
琴乃は目を伏せる。
―完璧に整えたはずの味。
なのに、少しだけ苦い。
「…失礼ね。この紅茶」
「ええ」
マスターは穏やかに答える。
[太字]「とても、丁寧な味です」
[/太字]
その言葉に、胸の奥がちくりとした。
「…丁寧にしてきたわよ。全部」
カップを見つめたまま、
琴乃は続ける。
「失敗しないように。
迷惑をかけないように。
ちゃんとしてる[太字]私[/太字]でいるために」
紅茶の表面に、ランプの光が揺れる。
「でもね」
声が、
少しだけ低くなる。
[太字][太字][明朝体]「誰かが泣いてても、
私は正しいことしか言えなかった。
優しくするより、
正解を選んだ」
[/明朝体][/太字][/太字]
マスターは何も言わない。
ただ、
湯気が静かに立ち上る。
「…それで嫌われた、なんて言わないわ」
琴乃は小さく鼻で笑う。
「嫌われる前に、距離を置かれただけ」
ふと、
壁の星図が目に入る。
まだ線で結ばれていない、
点のままの星たち。
「ねえ、マスター」
琴乃は顔を上げる。
「この店、
私みたいなのが来る場所じゃないんでしょ?」
「どうしてそう思われますか」
「だって、ここ―
[太字]弱い人[/太字]のための場所に見えるもの」
一瞬だけ、マスターの手が止まる。
「今夜の星は、こう言っています」
え?
[太字][明朝体]「強さの形は、一つではない―と」
[/明朝体][/太字]
琴乃は答えない。
けれど、
紅茶を飲み干した。
「…もし次に来る人がいるなら」
立ち上がりながら、
ぽつりと言う。
「きっと、私より不器用ね。
感情を隠せなくて、ぶつけちゃうタイプ」
扉に手をかけて、振り返る。
「そういう人の方が、
案外、
幸せになれるのかもしれないわ」
カラン。
扉が閉まると同時に、
壁の星図の一点が、
かすかに線で結ばれた。
マスターは静かにカップを片付ける。
扉が閉まり、
鈴の音が完全に夜に溶けるまで、
マスターはしばらくその場を動かなかった。
カウンターの上には、
空になったカップ。
だが、
まだ温度だけが残っている。
「…きれいにできなかった、か」
独り言のように呟き、
マスターは星図の壁へと視線を移す。
先ほどまで点だった星の一つが、
細い線を持ち始めていた。
それは、
整然とした線ではない。
むしろ、
少しだけ深く沈むような、
下向きの軌道。
湯を捨て、
ポットを洗い直す。
その動きは、
いつもより丁寧だった。
[太字][明朝体]「正しさを選んだ人は、
感情を選ぶ人を、
少し羨ましく思うものです」[/明朝体][/太字]
誰に向けた言葉でもない。
そのとき―
ランプの光が、わずかに揺れた。
風はない。
扉も閉まっている。
それでも、
店の奥。
客席ではなく、さらに奥の、
[太字]本来誰も座らない席[/太字]の空気が、重くなる。
マスターは、そちらを見ない。
代わりに、
新しい茶葉を取り出す。
黒に近い、
深い色。
触れただけで、指先に残るほど強い香り。
「…まだ、早いですね」
ポットに湯を注ぐと、
湯気が立ち上る前に、一瞬だけ、
赤黒い影のようなものが揺れた気がした。
それは、
熱を内側に閉じ込める香りだった。
甘くも、
苦くもない。
ただ、
覚悟を要求する匂い。
星図の壁に、
もう一つ、
ごく小さな点が灯る。
線ではない。
まだ、
誰とも結ばれていない。
しかし、
その点は、
琴乃が残した線のすぐ下に位置していた。
―まるで、
表に出なかった感情を、
底で受け止めるように。
「…強い人、ですか」
マスターは静かに微笑む。
「いいえ。
[太字]強く見せる必要がなかった人[/太字]でしょう」
そのとき、
店の外、
夜の街のさらに向こうで、
何かが、
確かに立ち止まった。
地図には載らない裏道。
人の記憶から抜け落ちたはずの角。
そこに、
引き返すことも、
進むこともできずにいる気配。
まだ、
扉は開かない。
だが、
ランプは消えなかった。
マスターはカウンターを拭き終え、
新しいカップを一つ、
あえて伏せたまま置く。
「……あなたは、自分の話をするまでが、長いでしょうから」
時計の針が、
ほんの少しだけ進む。
夜はまだ、
深い。
一本裏道に入った先で、
琴乃は足を止めた。
「…なに、ここ」
看板のない喫茶店。
星の欠片のようなランプが、
淡く瞬いている。
本来なら、
入る理由などなかった。
―悩みなんて、ない。
少なくとも、
そう思っていた。
カラン。
鈴の音は、
思ったよりも優しかった。
店内は、
外の闇を忘れさせるほど静かで、
あたたかい。
壁に描かれた星図を一目見て、
琴乃はわずかに眉をひそめた。
「…星が好きな人の趣味?」
カウンターの向こうで、
マスターが湯を沸かしている。
振り向いたその顔からは、
年齢も感情も読み取れない。
「こんにちは。いらっしゃいませ」
「……こんばんは」
一拍遅れて、琴乃は背筋を伸ばす。
「私、岩田琴乃。乙女座よ」
マスターは頷いただけで、
余計なことは聞かない。
差し出された紅茶は、
透明に近い色をしていた。
口に含んだ瞬間、
琴乃は目を伏せる。
―完璧に整えたはずの味。
なのに、少しだけ苦い。
「…失礼ね。この紅茶」
「ええ」
マスターは穏やかに答える。
[太字]「とても、丁寧な味です」
[/太字]
その言葉に、胸の奥がちくりとした。
「…丁寧にしてきたわよ。全部」
カップを見つめたまま、
琴乃は続ける。
「失敗しないように。
迷惑をかけないように。
ちゃんとしてる[太字]私[/太字]でいるために」
紅茶の表面に、ランプの光が揺れる。
「でもね」
声が、
少しだけ低くなる。
[太字][太字][明朝体]「誰かが泣いてても、
私は正しいことしか言えなかった。
優しくするより、
正解を選んだ」
[/明朝体][/太字][/太字]
マスターは何も言わない。
ただ、
湯気が静かに立ち上る。
「…それで嫌われた、なんて言わないわ」
琴乃は小さく鼻で笑う。
「嫌われる前に、距離を置かれただけ」
ふと、
壁の星図が目に入る。
まだ線で結ばれていない、
点のままの星たち。
「ねえ、マスター」
琴乃は顔を上げる。
「この店、
私みたいなのが来る場所じゃないんでしょ?」
「どうしてそう思われますか」
「だって、ここ―
[太字]弱い人[/太字]のための場所に見えるもの」
一瞬だけ、マスターの手が止まる。
「今夜の星は、こう言っています」
え?
[太字][明朝体]「強さの形は、一つではない―と」
[/明朝体][/太字]
琴乃は答えない。
けれど、
紅茶を飲み干した。
「…もし次に来る人がいるなら」
立ち上がりながら、
ぽつりと言う。
「きっと、私より不器用ね。
感情を隠せなくて、ぶつけちゃうタイプ」
扉に手をかけて、振り返る。
「そういう人の方が、
案外、
幸せになれるのかもしれないわ」
カラン。
扉が閉まると同時に、
壁の星図の一点が、
かすかに線で結ばれた。
マスターは静かにカップを片付ける。
扉が閉まり、
鈴の音が完全に夜に溶けるまで、
マスターはしばらくその場を動かなかった。
カウンターの上には、
空になったカップ。
だが、
まだ温度だけが残っている。
「…きれいにできなかった、か」
独り言のように呟き、
マスターは星図の壁へと視線を移す。
先ほどまで点だった星の一つが、
細い線を持ち始めていた。
それは、
整然とした線ではない。
むしろ、
少しだけ深く沈むような、
下向きの軌道。
湯を捨て、
ポットを洗い直す。
その動きは、
いつもより丁寧だった。
[太字][明朝体]「正しさを選んだ人は、
感情を選ぶ人を、
少し羨ましく思うものです」[/明朝体][/太字]
誰に向けた言葉でもない。
そのとき―
ランプの光が、わずかに揺れた。
風はない。
扉も閉まっている。
それでも、
店の奥。
客席ではなく、さらに奥の、
[太字]本来誰も座らない席[/太字]の空気が、重くなる。
マスターは、そちらを見ない。
代わりに、
新しい茶葉を取り出す。
黒に近い、
深い色。
触れただけで、指先に残るほど強い香り。
「…まだ、早いですね」
ポットに湯を注ぐと、
湯気が立ち上る前に、一瞬だけ、
赤黒い影のようなものが揺れた気がした。
それは、
熱を内側に閉じ込める香りだった。
甘くも、
苦くもない。
ただ、
覚悟を要求する匂い。
星図の壁に、
もう一つ、
ごく小さな点が灯る。
線ではない。
まだ、
誰とも結ばれていない。
しかし、
その点は、
琴乃が残した線のすぐ下に位置していた。
―まるで、
表に出なかった感情を、
底で受け止めるように。
「…強い人、ですか」
マスターは静かに微笑む。
「いいえ。
[太字]強く見せる必要がなかった人[/太字]でしょう」
そのとき、
店の外、
夜の街のさらに向こうで、
何かが、
確かに立ち止まった。
地図には載らない裏道。
人の記憶から抜け落ちたはずの角。
そこに、
引き返すことも、
進むこともできずにいる気配。
まだ、
扉は開かない。
だが、
ランプは消えなかった。
マスターはカウンターを拭き終え、
新しいカップを一つ、
あえて伏せたまま置く。
「……あなたは、自分の話をするまでが、長いでしょうから」
時計の針が、
ほんの少しだけ進む。
夜はまだ、
深い。
- 1.ティータイムの始まり。
- 2.乙女座 やさしく、つよくなれなくて。
- 3.蟹座 甘さの奥で、息を止めてきた
- 4.牡牛座 余裕の仮面と、足りない甘さ
- 5.山羊座 ゆっくりでいいと、知らなかった
- 6.双子座 言葉が二つに割れたまま
- 7.天秤座 言葉を量る、沈黙の重さは。
- 8.獅子座 微笑みの奥で、拳を握るひと
- 9.射手座 遠くを願い、声を置いてきた
- 10.水瓶座 笑っているあいだは、自由でいられた
- 11.牡羊座 引き受ける勇気と、静かな覚悟
- 12.魚座 仮の笑顔と振り返ってしまったこと
- 13.蟹座 信じられなかった手の、ぬくもりを思い出すまで
- 14.宇宙という名の空を結びに。
- 15.蛇遣い座 13番目になれなくて。
- 16.第二期 惑星たちの夜
- 17.金星 一行の本音は、金星に預けて
- 18.土星 抱え込めてしまった者は、零れ方を知らない
- 19.天王星 光を残す星